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[旧佐賀市][本庄校区]は185件登録されています。
旧佐賀市 本庄校区
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本庄の地名の起源
平安時代になると土地所有の仕組みがゆるみ、有力貴族や寺社が土地を所有するようになり、荘園制度が発達した。平安時代後期になると佐賀地方でも与賀荘を含む多くの荘園が設定された。 与賀荘は、建長2年(1250)には与賀町からその南部に存在していたことが史料(『東福寺文書(京都)』)などで確認されている。正応5年(1292)の史料(『河上神社文書(大和町)』)には、与賀本荘120丁、与賀新荘600丁との記載がある。 建長2年以降与賀荘に近接してできた荘園を与賀新荘(鍋島町新庄一帯)と呼び、もともとの与賀荘を与賀本荘としたことが分かる。この与賀本荘から「本荘」を地名にしたことが考えられる。荘園の名残りの地名と言える。 明治22年(1889)の市制・町村制施行に伴い、村名を「本荘」から「本庄村」と公示したことから「本庄」が用いられるようになった。
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本庄町の変遷
本庄町の藩政時代は、本庄東西を本荘郷とし、末次東西、鹿子、上飯盛を与賀上郷と称し、六庄屋を配し、六郷蔵一社倉を置いていたが、明治維新の際に、川副郷の一部であった袋村を編入し四十大区三小区と称した。また本庄村外三ケ村戸長区域としていたが、明治22年市制・町村制実施の際、厘外村の一部であった正里村を編入し、上飯盛の一部を西与賀村に割き、また、鬼丸、田端、大崎等の転在地を佐賀市に譲り、面積は約6.8k㎡となった。 藩政時代は藩の直轄で、庄屋、村役、咾、吟味人、散使(さじ)等をもって一つの村の行政を形作り、筆者をもって、名寄帳の整理をさせていた。 また人、馬の数により年貢を納めさせ、郷蔵を置き腐敗苗に備え、御囲苗(オカコイナエ)を播き、斃馬のためには、馬拝借(金員)を下賜し、雇人取締のためには小頭を置き、農家のため保護をした。 維新後は大区、小区となり、区長の下に副区長を置き、また小区ごとに戸長を置く制度となり、その後村長となる。 また納税は金納となり、戸長においてすべての収支を司どる。
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鍋島家の由来
戦国時代、九州の三大勢力にまで成長した龍造寺氏のもとで活躍した鍋島氏は、龍造寺氏の勢力が衰えると、かつての実力が認められ、同氏の跡を受け継いで領国を治めることになった。それから、江戸時代を通して幕末まで鍋島氏の藩政が行われている。 その鍋島家は、誰が、どこから、いつごろ、どうして、肥前の鍋島の地を選び居館を構えたか、同氏の活動が始まる前のことについて、裏付けとなる確かな史料は乏しいようであるが、考えられるものがいくらかある。 鍋島家の略系(源氏系)を記すと「宇多天皇-敦実親王-(10代略)-清綱-清定-清経-経定-経秀-経直-清直-清久-清房-直茂-勝茂-」となっている。 『鍋島家系図』によると、かつては山城の国長岡に住み長岡を家名としていたこの家は、経秀の代に京の北野に転居したようである。それから、経秀が初めて子経直と共に肥前に来て鍋島の地に住むようになってから、家名を「鍋島」としている。経秀は、初めは長岡伊勢守と号していたが、鍋島に来て鍋島伊勢守としている。法名は崇元である。また、子の経直は、初め佐々木長岡三郎から、父経秀と同様に鍋島三郎兵衛尉と言い、法名は道寿である。それで鍋島家の始祖は経秀であり、2代目が経直となっている。 経秀父子が肥前に西下し、鍋島に住むことになった年代を知る確かな史料は無いようである。しかし、大方その時期を推定できる一つの史料がある。それは『雲海山岩蔵寺浄土無縁如法経過去帳』でこの中の一部に「鍋嶋 崇元 永徳三四十六」と記載がある。これは、始祖の経秀(崇元)が永徳3年4月16日に死去した時を記したものである。これから、崇元の死去が永徳3年(1383)であれば、その子経直(道寿)の死亡年と併せて考えれば、この父子が西下して肥前に来たのは、南北朝中期以降、後期(1370~)の頃とされている。 それから、どんな事情か、ゆかりなどがあって肥前に西下し、鍋島に住み着いたのか、このことについても何一つ書き残されたものはないようであるが、その可能性は考えられるようである。経秀の前の住地北野は、天満宮が鎮座(北野天満宮・祭神菅原道真)するところであり、蠣久荘は、祭神を同じくする太宰府天満宮の安楽寺領荘園であって、鍋島の地は、その頃この蠣久荘に属していたと推定されるから、北野に居住し、何らかのかたちで天満宮に縁故のあった経秀が、安楽寺領荘園であった蠣久荘に来て住み、あるいはその住地に天満宮の祠を建てたということはあり得ないことではないと言われている。 今、鍋島家発祥の地「御館の森」は、地域の人たちで管理されている。この近くには、鍋島家の初めの菩提寺の観音寺がある。 南北朝時代後期頃(1370~)、鍋島経秀(法号・崇元)、経直(法号・道寿)父子が肥前の国鍋島の地を選び、そこに居館を構え本拠にしていた。これから時代は過ぎ、応永年間(1394~1427)の末頃、経直は、住居を鍋島から本庄(本庄町寺小路)に移し、ここを拠点にして活動を始めている。移住の理由は、それを裏付ける史料は見当たらないが、龍造寺村(佐賀市城内一円)を本拠地として、勢力を持つ龍造寺氏に何かの事情で近付くためであっただろうと考えられている。 本庄を本拠にした鍋島経直の後は、清直-清久-清房と受け継がれ、鍋島氏は次第に力を蓄えていった。鍋島氏が龍造寺氏の旗下に属して興隆への第一歩を踏み出したのは、享禄3年(1530)の田手畷の戦いと言われている。同年8月、肥前に侵攻してきた周防の大内勢は、東肥前に勢力を持つ少弐氏の援軍龍造寺氏と激突となりました。龍造寺氏の主将龍造寺家兼は、神埼まで出かけ大内勢の第一陣を破り、第二陣とは田手畷(神埼郡三田川町)での迎え撃ちとなった。戦いは、家兼の率いる軍勢に不利となり苦戦となった。この時、急場を突いて横合いから赤熊(しゃぐま・白熊の尾を赤に染めたもの)を被った異様な一隊が突進して、大内勢の意表を突いてかき乱し、大混乱に陥れた。強い意気込みの大内勢は、主力のものが討ち取られ筑前に逃れた。 戦功を挙げた赤熊武者の一隊は、鍋島清久・清房父子や野田清孝ら鍋島の軍勢であった。龍造寺家兼は、清久・清房父子らの働きを喜び、清房に自分の孫娘(長子家純の娘)を嫁がせた。この縁組で龍造寺と鍋島は親戚となり、二人の間に生まれたのが後の鍋島直茂(藩祖)である。それに、佐賀郡本庄(現本庄町)80町の地を恩賞として与え、これが鍋島氏隆盛の糸口と言われている。 鍋島清房は、天文20年(1552)、高傳寺を建立して鍋島家の菩提寺としました。清久、清房や、近親者の墓所は、同寺の歴代藩主の墓とは別に本堂の北側にある。
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西川内地名の由来
西川路(地)と書かれていたが、神戸の湊川神社より30年も早く梅林庵に楠公を祀ったので、その生地、河内国にちなんで西河内と改められ、その後西川内になる。
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盲目堀(めくら堀※)物語 ※歴史的固有名詞であるためそのまま使用しています
溝口と正里との畷の中央で、佐大職員宿舎の北にある東西の水路を盲目堀と言う。 その昔直茂公が幼少の時、千本松の館より飯盛の石井常延兵部大輔の館に通って夜学に励んでいた。ある夜帰り路に荒神盲僧さんが路傍の堀に落ちて溺死せんとしているのを直茂公は助け上げた。背負って館に帰り火を起こして暖め、食事など与えて介抱し元気になった盲僧を小城まで送って行った。 盲僧は直茂公の好意を非常に喜び、行脚のとき使っていた大事な筑前琵琶を割って米3升を炊き、直茂公にすすめた。そして盲僧が言うに「この米3升の飯を食べてしまうことが出来るならば、あなたは天下を治めるでしょう」と。直茂公は3升の飯を食いつくさんと努めたが、やっと1升の飯を食べることができた。盲僧はこれを見て「あなたは一州の主となるであろう」と予言した。 その後、果たして盲僧の言葉のごとく鍋島直茂公は肥前の太守になったので、その盲僧を肥前一帯の荒神盲僧の最高位の「発頭」となし、禄石を賜った。 鍋島清久公(直茂の祖父)が生前、ある大雪の夜、一盲僧が溝に落ちてまさに凍死せんとする処に通りかかって、清久公は、これを救いあげ館に連れて帰り、火を起し湯茶を汲み、衣類を与え食物を饗して慰めたので、盲目僧は泣声を発してその仁慈に感じ厚く礼を述べて去った。数年後、清久公が伊勢参宮の帰途京都に行った時、ふとある僧に会ったが、これが偶然にも先の年助けた盲目僧であった。彼は清久公に会って大変喜び、家に招待し饗応に努めたが、やがて一面の琵琶を携えて来て「この品は異国渡来の名品である。諺に唐朝の琵琶を焼いて其烱(ホノオガノボル)に当れば、子孫が必ず国を守ると、故にこれを焼いて、大君の恩に謝せん」と言って、自らこれを焼いた。
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詫田(多久田)の番匠物語
昔は大工や石工には階級があった。朝廷の仕事の出来るものを匠(タクミ)といった。次は番匠(バンショウ)次は棟梁(トウリョウ)次は石工、大工、弟子といった。 多久聖廟や八幡社の彫刻は、詫田番匠がこの仕事をする時には身を清め、聖徳太子の像を拝み、立派な仕事をしたと言われている。 多久田の番匠作の動物は、本物のように動き回るのでキリシタンの魔法使いと疑われ、度々役人が逮捕したが、それがまた人形ばかり。そこで役人どもが考えた末、番匠の妻の言葉に従って、寒い朝、吐く息の白いのを目印に、やっと本物の番匠を縛り上げることができたという。
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鍋島家と千本松
鍋島家の先祖は佐々木源氏で長岡伊勢守経秀と言い、京都長岡に住まって居たが、その子三郎兵衛尉経直と共に肥前に下り、今の鍋島町に住んだ。鍋島町の東北一本松に約4畝程(約4アール)の土地があり、これを「御館の森」と称し、今なお碑石もある。経直の時代に「鍋島」と名乗り、今の本庄町東寺小路千本松に移住した。 直茂は天文7年(1538)3月13日佐賀郡本荘の千本松賢誉様(直茂公の姉で鍋島伊豆守信定の室)の館で生まれ、幼名を彦法師と言った。一時小城の城主千葉胤連の養子となったが、天文20年(1551)14歳の時、千葉家を辞して本庄に帰り、西川内の梅林庵において修養研学し、長じて太守龍造寺隆信に侍していた。初め左衛門太夫信安、また飛弾守信真あるいは信昌、信生など称したが、後に加賀守直茂と称した。 誕生地には胞衣塚があり、また日子神社を祀る。清久公(直茂公の祖父)の代より、千本松で彦山祭をなされた。お祭料として田地2反6畝5歩をお付けになり、鍋島内記が世話人で、3年に1度2月10日前後の吉日にお祭りがあった。 祭りの時は、お供物がただちにお城へ届けられ未明、徳善院(嘉瀬)が登城し、三汁十菜のお料理を召し上がり終えて、ただちに彦山へ参詣に出発された。その次に高傳寺の僧侶衆にもれなくふるまい、さらに本荘郷の僧俗、男女におふるまいになった。 その後祭事を10月15日に改め直茂公の胞衣塚の畔において、鍋島家より4間の仮家を拵え村中の老若男女を集め、赤飯の馳走をなすのが恒例になっていた。明治維新後廃止になり、大字本庄の主催にて祭事を引継ぎ、青年の奉納相撲等で賑わっていたが、昭和の戦争に突入とともに中止になった。
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灰塚の起源
永享3年(1431)将軍足利義教の時、防州の大内徳雄(盛見)が筑後に進出し、立花城(柳川)を攻める。城主はこれを幕府に訴えた。徳雄は追われ、肥前に逃れて来たのを少貳資嗣が佐賀城に迎え戦った。徳雄は飯盛城(上飯盛常照院付近)に籠る。少貳資嗣は龍造寺家氏の部下、鹿江遠江守と謀り、西の飯盛城を夜討ちした。その結果、大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て、筑前へ逃れた。その時西与賀高太郎の高太郎丸、小太郎丸の両名が戦って、功名をたてた(西与賀高太郎に両者の屋形跡あり)。この戦いで大内軍は唐菱錦旗を捨てて逃げたので、その旗を観音寺に納め、大内籏山と称えるようになった。 また激戦のあとの死骸、槍、鎧等は集め焼き灰は盛り塚を築き葬ったので、地名を灰塚と称するようになる。 「西肥古蹟詠曰」 十萬精兵待指麾 六州茅土入封時 英雄の末路何堪説 蕭寺空餘大内簱 あわれをば 塚にとどめて 野里なる 寺にも 旗の 名を残しけり
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王子権現と日本武尊
景行天皇(第12代)の時代。火前国(肥前国)小津の川上(佐賀市川上付近)に取石鹿文(川上梟帥)と言う熊襲の首領がいた。 当時九州の熊襲は、朝廷にしばしば叛乱をおこし、景行天皇の26年に天皇は討伐の軍議を開かれた。 皇子小碓尊(後の日本武尊)御年15歳であったが「彼を討つために、大兵を動かし戦争をすると民業をさまたげ、民心をみだす恐れがあるから、私が行って、これを退治しましょう」と天皇に申し上げ許しを得る。 箕野国(美濃国)の弟彦公(乙彦公)が石占横立田子稲置、乳近稲置などを率いて参加したので、弟彦公を副将として、武内宿彌を補佐として、尊は西征の途に就く事となった。 尊の船は長門国より海路を取り、五島、平戸を経て有明海に入り、火の前の御崎(諌早)に一応上陸、ここよりその地の者の水先案内で、現在の西与賀あたりへ来航。それより小津江(今の多布施川の河線のあたり)を溯江し「中の龍造島」に着船になったと伝えられる。(龍造船−往昔天子の船を龍造船という。舳に龍の頭を彫刻されていたのでこの名がある。) 当時の龍造島とは、現在の佐賀城内附近より鬼丸の宝琳院附近に亘る島を上の龍造島といい、本庄の大井手(樋)附近に在ったものを下の龍造島と称え、両島の中間(約50m)の地点に碇島と呼ぶ二つの島があって相対している土地が王子権現を祭っていた島を中の龍造島と呼んでいた。 碇島は今では住宅団地の一角に祀ってある2基の碇観音により、その所在を知ることが出来る。 この上、中、下の三つの島は今こそ地続きとなってその区別も判然とせぬ位であるが、初めは、小津江中の島にして、日本武尊の龍造船がここに碇泊したので、初めて、龍造島の名が起ったのである。 かくて、仮殿を小津江の西に造り(寺小路妙見社附近)これを「本所」と称えた。 これが今日の「本庄」の名称の始まりであると伝えられる。 それから尊は龍造船を遡江して、掘江(今の市内神野町掘江神社付近)に到着、ここに諸将を集めて熊襲討伐の軍議を定めさせたのち、小舟によって上流に進み、蛎踏去(鍋島蛎久)に上陸、進んで保保川(佐保川か、春日村石井樋の西北地方)に到着された。 尊は、賊魁川上梟帥が、その親族などを集めて酒宴していることを探知し、女装して剣を懐にし、密にその宴席に入り、他の婦女子と共に働いたが、夜陰になり、梟帥も酔い臥したので、彼を刺さんとされた時、梟帥はガバと跳ね起き「待て」と叫んで「そのもとは何者だ」と尋ねた。尊は声に応じて「吾はこれ大足彦天皇(景行天皇の御名)の子、日本童男なるぞ」とおっしゃった。梟帥はこの時を嘆称して「吾れ強力国中に比すべき者無し、しかるに、その武勇皇子の如きものに出会いし事なし、よって願わくば、尊号を奉り、日本武尊と称え申すべし」と言い、尊に御名を献じた。 尊は、彼を刺殺し悪い仲間を悉く討伐され熊襲を平定した。 この時、尊に随従して来た弟彦公は神埼、小城方面の賊徒を平げ、武内宿禰は武雄地方の賊徒を討伐して、何れも征服したので、尊は翌28年2月無事都に凱旋された。 その後、景行天皇の40年10月、尊は東夷征討の途に就かれ、途中駿河国での遭難を切抜けて後、相模より上総に渡海の際には、妃弟橘媛が海に投じて、尊の為に海神の犠牲となるなど数々の辛惨を舐めさせられたる後、東夷討伐より凱旋の途中伊勢の能褒野(伊勢国鈴鹿郡)において病の為め薨去された。 尊並びに同妃の悲報を当時の我が郷土の人々が伝え聞き、追慕の念一方ならず、尊の因縁深い小津の東郷の龍造島に一宇の祠堂を建立してこれを「小碓宮」または「王子宮」と称えて祀った。 その後、元明天皇の和銅4年(711)肥前国造朝廷に奉聞するに「当国はその昔、日本武尊の熊襲討伐により、住民はその恩恵を受け、尊の600年遠忌に当り敬慕なおやまず、一寺を建立して供養せんと欲するに、一夜雷雨ありて龍神その基を開く。これ尊が来着の土地なれば、願わくば勅許を蒙りて、宮寺と致したし」と奏請して、これを龍造寺と称えた。その維持費は土地の正税をもってこれに充てた。そしてこの村を龍造寺村と称するようになった。 その開山は行基菩薩だと言われているが、一説には尊の薨去後615年行基菩薩勅命により、全国行脚の途中、龍造島に泊った時、一夜風雨激しく洪水辺りを浸したが、その満々たる濁水の中に土地浮出でて、水に浸らぬ場所があるのを見て行基はその土地の由緒などを調べたところ尊の御事趾が判明し、しかも600年遠忌に当っているので自ら開山となって、此処に龍造寺を建立し尊の霊を供養し祀ったとも言う。 龍造寺の所在は初め、今の佐賀西高等学校付近に当る所であったが、後に移転され、現在の白山一丁目の高寺がそれである。 また、小碓宮は王子権現の尊号を祀り、祠を中の龍造島に移した。(今の宝琳院南に王子権現の祠があったが、現在は大井樋の瑞應寺の境内に移す。) その後また、星霜90余年を経て、桓武天皇の延暦23年(804)伝教大師入唐の途中に当地に立寄り、龍造寺に宿泊し、堂宇の破損腐朽せるを見て、これが再興を誓願し、また王子宮の再興を誓願すると言って出立し、入唐修業1年の後帰朝して龍造寺を修築し瑞石山の山号を付称し、以来天台宗の学徒をして、住持せしむる事とした。 (『高寺縁起』より)
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袋地名考
大字袋は、水ヶ江町慶雲院より流れる水を四囲に井堰を築き袋の如く溜めて、灌漑用水となしたので、その様をみて「袋」といった説と、袋区がもと川副上郷の内八田江が蛇行して袋状をなしていた地形から付けられたとも言う。 袋村は、もともと川副上郷の内であったが、明治22年に本庄村に編入された。 袋に曹洞宗の古刹寒若寺がある。「酒袋山」を山号としている。寺の隣り合わせに、袋天満宮が遷座している。この宮の由緒によると「酒袋」を氏とした、惣兵衛、晋太郎、新七郎が宮住まいで居たことが記してある。酒袋山、酒袋氏いずれも「袋」の文字があり、地名に関することが感じられる。 また、寒若寺に地名起源の物証となる史料が所蔵されている。次に掲げる。 ○開基の位牌 當寺開基 前遠州太守詣阿大禅定門 尊霊 應長元 辛亥 年(1311) 五月三日 北条遠江守 平朝臣 時政公現住 徳雲叟營建立 ○鰐口(刻銘の一部) 慶長十九年 甲○(1614) 十一月吉日 肥前 佐賀 河副 酒袋村 薬師御寶殿 ○半鐘(刻銘の一部) 九州肥前國 佐賀郡河副庄 上江袋村 酒袋山 寒若寺奉掛 享保十九 甲寅 歳(1734) 十二月吉日 [註]享保十九年に「酒袋山 寒若」と後刻。また、「寛文三 癸卯(1663)」を「享保十九 甲寅」と後刻。 半鐘は肥前の鋳物師・植木の鋳造。現在は小城市牛津町の寺院に保存されている。(『肥前の鋳工』中村 勲から) 以上の史料から、「酒袋山」、「酒袋村」、「上江袋村」など刻名が確認され、これから後世になって「袋」だけをとって地名に用いられたことが考察できる。
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酒楽橋物語
寒若寺の前から東へ通る道路に酒楽橋が架かっている。藪陰の小さな橋で目立たないが、この橋にも物語がある。昔、大の酒好きな村人がいて、今夜もどこかで酒をひっかけ鼻歌まじりの千鳥足で帰って来たところが、暗夜道に足を踏みはずして堀に落ちこんで溺死してしまった。村人は酒を楽しみ愛した好人物へのせめてもの供養にと、橋を架けかえて「酒楽橋」と名を留め、酒は楽しむべし溺れるなとの戒めともした。 また寒若寺側の「こうじ屋」の屋号をもった御厨家は、現在13代目と言われる。御厨家は現在は純農業で、8代目頃までは「麹屋」をしていたと言う。付近の「酒楽橋」はその昔「麹屋」の11代目が、橋を補強したと言う。今はコンクリートの橋になっている。
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元船津
大字末次字八田は文化14年(1817)の郷村帳に末次東分村(中島、西八田、末次本村)と記されている。 八田江は佐賀藩当時の重要水路で船舶の出入が頻繁で八田井樋尻(現在の八田橋附近)にはいつも帆柱が林立していたので、「元船津」(船の碇泊する所)と名付ける。 八田江畔の堤塘には、御船屋跡が八田江改良工事前まで残っていたが現存せず。 八田区南が当時の船着場で、ここを中心に西川副南里の正定寺と鹿子の慶誾寺を結ぶ東西の道路は歴代藩主が両寺の参詣に利用されたので「お殿さんみち」という。
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八田の社寺
船着場附近に昔は祠堂が多かった。住吉神社、観音堂、薬師堂、若宮、阿弥陀堂等が一本釘付近にあった。今は野墓が残るのみである。 「住吉神社」は大阪住吉に鎮座する、津国一の宮の三神と神功皇后が祭神であり、古来航海守護神として広く崇敬され諸所の漁港等にその分神が奉祀された。八田区では御神体(神鏡)を廻り持ちで、住吉祭りが現在も続いている。
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末次の起源
近衛天皇(第76代)の久寿元年(1154)鎮西八郎爲朝が九州で猛威をふるっているとの知らせにより、鎮西の監視役に5名が派遣されてきた。その内の一人である藤原秀郷の孫季清左衛門尉は佐賀に来て龍造寺村に館を構えた。(一説には藤原季清は、仁平元年(1151)杵島郡黒髪山の大蛇退治で名高い、源爲朝に従って肥前に下向し、のちに小津郷龍造寺村に住んだとある。) 季清の第5子季慶(季喜)は父の職を継いで佐賀において、小津の東郷槇村(今の市内水ヶ江)を賜る。季慶には子が無かったので、高木(高木瀬の内)の城主藤原季綱(季慶の母の兄弟)の次男季家(南二郎)を養子とした。 文治2年(1186)9月27日源頼朝より龍造寺村の地頭職に任ぜられ、京都護衛の任を兼掌したが、この時季家は龍造寺とその氏を改めた。 季慶の弟季次は戦功によって、佐嘉郡小津郷(与賀上郷)の地頭職に補せられ、名を「末次」と改める。 末次から八田間に「杵ケ崎の薮」と呼ばれる所が藤原季次の旧城(館)跡である。
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寺家の起源
第54代仁明天皇(834〜)の御孫常康親王の御子空也上人は九品念佛宗の宗祖である。村上天皇の天暦5年(951)京都平安城内は熱病に襲われて多数の死者が出た。これを見て、空也上人は十一面観音を自作して、茶を煎じてこれを観音さんに供え、患者に与えたら病気は悉く癒えた。これに感激していた平貞盛は、空也上人の弟子となり修行した。貞盛の子孫中尾甚左衛門は一族9名を伴い龍造寺2代の祖藤原季喜公が九州下向の際随行し、佐賀に来て、末次村に居住す。また季喜公は中尾一門の為にここに光明寺を建立し、空也上人自作の十一面観音を本尊として、六波羅蜜寺の末寺と定められる。(光明寺跡は緑ヶ丘の東側。)これが佐賀における同宗の始りという。(寺号を畳山光明寺と言う。) これより寺家と地名を言う。寺家一門は和讃念仏を怠らず、ことに由緒ある茶筅の製作分配をなした。また龍造寺家、鍋島家に仕えて功績があった。
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鹿子の寺院今昔
昔から鹿の子の7か寺、七天神と言い伝えられて来たが、天明年間の絵図によると、鹿子上区に慶誾寺、福林寺、明徳院、高林寺、鹿子下区に松林庵、清龍庵、高岳院、龍昌寺、善長寺の9か寺が記されている。 昭和17年の各寺院規則認可申請によると現在と同じ、慶誾寺、福林寺の2か寺となり、「廃止佛堂跡届」が慶誾寺住職関久銀峰師より、当時の本庄村村長西原操氏に提出されたのを参考のため記す。 「字鹿子上下区佛堂跡御届」 佐賀県佐賀郡本庄村慶誾寺末寺 鹿子上区 高林寺 上記は福岡県下幸袋町に正式移転後墓地丈存在す。 鹿子下区 善長寺 上記は再建不能に依り内容は慶誾寺に併合するも表面は寺号存在す。 鹿子下区 幸岳院 上記の檀徒は慶誾寺に合し墓地丈存在す。 鹿子下区 周椿菴 上記は名のみにして家敷丈存在す。 鹿子下区 隆生寺 上記の檀徒は慶誾寺に合し墓地丈存在す。 鹿子下区 清流菴 上記の壇徒は慶誾寺に合し墓地と家屋敷とを存在す。 同御届申候也 佐賀郡本庄村大字鹿子27番地 昭和17年12月29日 慶誾寺 住職 関久 銀峰 本庄村長 西原 操 殿
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下馬の地蔵さんの話
鹿子下区の西旧与賀里道の路傍に下馬の地蔵と呼ばれる板碑が、小さな祠堂のなかに祀られている。 鍋島家の祖先清房公の後室慶誾尼の埋骨が慶誾寺にあり、歴代藩主が、盆正月に参拝した。下馬の制札が建っていた地蔵さん付近より歩いて松並木の参道を行かれたので、下馬の地蔵さんと呼ばれるようになった。 この地蔵さんの霊験は不思議なもので子どもの夜泣きや、疣(いぼ)取りに効果がある。夜泣きには、地蔵さんのかけた胸掛けを子どもの寝た上にかけてやると、二、三夜でピタリと止まると言い、お礼に胸掛けを新調してお借りしたのと一緒にお返しする風習がある。また、疣取りには大豆を歳の数程地蔵さんに供え祈願すると言われている。
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米蔵古賀村
正保(1644〜1647)・元禄(1688〜1703)年間の絵図には、米蔵古賀村の村名が記されている。 文化14年(1817)の郷村帳によれば上飯盛村に属している。天保年間の絵図によれば、二本柳八角に「三蔵天神」が祀られていた。この地に藩政時代には三つの米蔵が建っていたそうで、現在は田圃になりその面影もないが、時々瓦等が出土するそうである。 「米蔵古賀」という地名はこれより言われたものであろう。
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木起こし地蔵の物語
上飯盛の常照院の東に正里から中野實翁生誕地へ通ずる道路寄りに、大きな楠が空をついている。その根本に「木起こし地蔵さん」が小屋に鎮座されている。 この物語は天保年間(1830〜1843)頃のある日のこと。恐しく強い台風が吹いて、地蔵さんの傍らの大楠が、東の道路に倒れそうで、南は有明海の海岸で、北は本庄村正里へ通じる重要道路で上飯盛住民一同集まり、長老を中心に話し合ったが、あまりに楠が大きすぎて、処置に困って、夜を迎え住民は寝入ってしまった。 ところがその晩、夜どおし「ヨイサー、ヨイサー」と東の方向より掛声が聞こえ、朝を迎えた。住民は集まって、「昨夜の掛声はナンジャッタローカ」と話しながら東を見ると、アーラ不思議ヤー、あの大きな楠が立派にたち上り、空をついていた。住民は、チョコンと坐した根本の地蔵さんを見て、これはこの地蔵さんが一晩中かかって起してくれたと感謝して、本堂を造り「木起し地蔵さん」と言って今日まで祭りを続けてきている。
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上飯盛地名の由来
江戸期の村名は「かみいさかえ」「かみいさかり」とも言う。佐賀本藩領。与賀上郷に属す。村高は『天明村々目録』によれば、1.175石余とある。 『天明郷村帳』では、小村に米蔵古賀・夜尺・田中がある。上飯盛一帯は鎌倉期頃の海岸線で、飯盛の字は、飯を盛るという意義で、現在の東与賀の大野・住吉・新村等の干拓の際に、新地方の役所を置き、飯の炊出方をなし、これを盛って公役の人夫に配ったので「飯盛」と呼ぶようになった。 現在の与賀高等小学校跡がその地である。
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上飯盛の寺院
「飯盛七か寺」と言って石井家後代の石井七兄弟が1か寺ずつ開基したので寺が多い。天明年間の絵図によると法陽寺、法伝寺、本能寺、地福寺、光日寺、正福寺、善重寺、光明庵、明王院と、現在残っている常照院、淨円寺、妙玉寺が記載されている。 以上の12か寺の宗派は、日蓮宗である。日蓮宗は、肥前の地においては、小城を中心に、源頼朝の宿臣千葉常胤の裔千葉氏及びその一族宿臣等によって、地盤をつくった。上飯盛の寺院もその関係である。 ※写真は淨円寺。
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陽泰院様物語
鍋島直茂がまだ龍造寺隆信に仕えていた頃の事である。ある日出陣のお供をして、上飯盛の石井館に昼食のため多勢立ち寄られた。不意の来訪に石井常延を始め家臣一同、おかずの調達に当惑していた。すると常延公の姫君彦鶴(陽泰院)は、慌てた気色もなく、赤だすきもかいがいしく、庭一杯に藁を敷き、その上に塩鰯を打ち撒き、藁で覆い火をつけた。 打ち上がる火勢を一同何事かと見ているうちに、姫君は火の消えるのを待って、程よく焼けた鰯を集め箕で選り分け、熱湯をかけて即席の肴として供応された。 これを見て、隆信始め居並ぶ家臣一同は、姫の機転のきいた接待振りに驚嘆の眼を見張った。とりわけ直茂は「あのように頭の働く人を女房に持ちたいものだ」と彼の心をとらえた。 当時直茂は31歳を過ぎ、既に前妻と離別していたと思われる。間もなくその彦鶴(29歳)と縁談が整い正妻として迎えた。 石井氏は藤原鎌足の末裔で、下総猿島郡石井郷に住んでいたが、千葉氏の縁故で肥前に来たという家系である。当主は兵部大輔常延で、その娘彦鶴が鍋島直茂の正妻になってからは、ますます石井一門は栄えた。 直茂が執心した相手だけに、むつまじく、数多い直茂の逸話には、いつも夫人が陰のように添っている。 太閤秀吉が名護屋に在陣の時、九州の大名の妻女を招かれ、遊興された時、陽泰院にも「出るように」と言って来たので、幸蔵主(太閤の侍女)に頼み断ったが、あとで幸蔵主から「身勝手を許すと例になるので、一度は出かけるように」と言って来たので、額の髪を剃って角が生えたようにつくり、みにくい面相で出かけ、お目見えになり、それ以後は出かけなかったという。
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厄払い神の物語
上飯盛区の南西に鬱蒼たる樹木のなかに、銘名が手水権現宮という祠がある。別名を「厄払い神」と言い伝えられている。 嘉永〜安政年間(1848〜1859)の物語である。 当時佐賀一帯を流行病が襲った。人々はバタバタと倒れ死んでいった。医療技術の発達していない時代のことで、苦しむ村人に有効な手当ては出来ず、死んでいくのを見ているだけであった。 村の長者も、いい知恵が浮かばず「もう神に頼るだけ」と祈祷師を頼んで、村人全員で神に祈ったが、なんの効果もなく、流行病はいっそう猛威をふるい、村人の大半が病に倒れていった。残った村人たちは、生活の支えとなっていた有明海の神に必死に祈った。もう村の全滅も必至と思われた時、有明海の方から、高さ7寸(21cm)、長さ1尺3寸(39cm)の屋根形の石が飛んできて、祈りの輪のなかに「ドスン」と落ちた。村人は驚き「神のさずけものだ」と社を建て、この石を神体に祀った。途端に猛威をふるっていた流行病が、うそのように鎮まった。以来村人は、その社を厄払神の「手水権現」として祀っている。 空をつく木立ちを仰ぎ「こがん茂っとんない暗かけん、スカッと切ったこんにゃあ」と言ったら、その人は見上げていた首が動かんようになったという話が残っている。 高さ2.5m、幅1.5mの粗末なつくりの社だが、上飯盛の地区民たちは、今も柴や花を供えつづけ、ゴックウサン(にぎり飯)も絶えることがない。
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鍋島安芸守茂賢柳河陣戦闘の事
慶長5年(1600)10月20日の夜明け頃、深堀鍋島600名の兵が先鋒として八ノ院についた。先鋒隊のなかでもよりすぐりの精鋭が殉死した22名の組家中の武士たちであった。相浦三兵衛が斥候に出た。「敵がこの村の向こう側にいるので一戦は避けられない」と報告をしている間に、数千の敵に囲まれてしまい、またたくまに乱戦となった。 敵は、先鋒の切り崩しにかかった。黒い鎧の敵兵6人が、横一列に並んで槍を構えて突進してくる。味方の先鋒隊は敵の進路をさえぎるため、両膝を折って槍を低く構え、しゃにむに突撃をはかる敵の胴突きを狙っている。敵は1間近くまで迫った。味方は、膝をつき、槍を構えたまま身じろぎもしない。 味方の大将安芸守茂賢は、先頭に躍り出て3尋3尺(約4.5m)の長柄の槍で6人の敵を横に払った。馬上で槍を振り落とされた敵兵は、刀を抜いて突撃してきた。 茂賢が先駆けの一人を突き伏せ、田代幸右衛門が、すかさずそいつの首をはねた。 しかし、息もつかせず、残りの敵兵が茂賢に襲い掛かる。茂賢は3人を突き刺した。 深堀猪之助は組み討ちして一人の首をかき切り、残りの3人も猪之助が血祭にあげた。 八ノ院の闘いは、このようにして開始され、激しい戦が、午前8時から午後4時ごろまで、8時間にわたって展開された。泥田のなかでの乱戦である。その内に、武雄軍が、鉄砲で援護射撃をはじめた。さすがの敵も堀に多数の死者を残して敗走した。 その2日後、22日に立花宗茂は柳河城を明け渡した。 (中尾正美氏編 『深堀資料集成』より)
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正里の地名考
正里は始め新村と呼んでいた。元亀元年(1570)8月19日鍋島直茂が川上村(現大和町)今山における大友八郎軍本陣へ夜襲の際、新村から農民が鍋島勢に加担し大勝利をおさめたので地名を「勝利」と称していたが、何時の頃からか、年貢取立帳等に「正里」と書き損じたのを踏襲したといわれている。現在も正里と称している。 明治22年市制・町村制実施の際に厘外村の一部であった正里を本庄村に編入した。 永享3年(1431)6月24日大内盛見(徳雄)が大軍を率いて佐賀の鹿子の塁を攻めてきたが、少貳満貞、資嗣等力を併せてこれを防ぎ、盛見は鹿子において敗れ、松浦へ敗走し、遂に糸島郡深江において敗死した。 正里(勝利)、灰塚等の地名は、この戦いにおいて起ったと言う。
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寺家の獅子頭
この獅子面は龍造寺家兼公から本庄村寺家一門に賜わったもので、代々末次の中尾家に保存されていた。家兼(剛忠)公が獅子は百獣の王と称せられ、その威は比類無く悪魔もこれを恐れる。誠に幸喜ある獣であると仰せられ、京都紫宸殿の棟木の余材で、雌雄各1個の獅子面を作り、かねて恩顧深い末次村の寺家に下賜せられた。よって寺家一同は感激し獅子舞を考案して、目出度い言葉を揃え国家安全子孫繁昌を祈り謹んで舞い寿ぐ事にした。 毎年正月3日及び5日の両夜、西の丸元茂公(小城鍋島支藩の祖)の邸を始め寶琳院、与賀神社、本庄神社、本庄の御館屋敷、龍泰寺、御隠居所(多布施直茂公の屋敷)等に出演し、同4日7日は本丸に出演する事に定められていた。後年には家中の主なる所にも出演するようになり、寺家の獅子舞と言って有名になる。 後日談「後年に至り此獅子舞の組合の者が、与賀龍造寺の一門龍造寺信門公より米数十俵を借用しその上不都合な行為があったので、この獅子面を取上げ置かれていた所、その夜深更に家内震動し獅子があばれ出したので、信門公は非常に怒りこれを弓矢にかけられた。矢は雄獅子の左眼下に命中したので、この疵が残っている」と言い伝えられているが、この獅子頭は現在所在不明である。
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梅林寺(庵)
梅林寺は曹洞宗で不動明王を本尊とし、高傳寺の末寺で第5世泰応和尚の建立である。 梅林寺は天正年中(1573〜1591)鍋島直茂公が御開基建立す。御本尊は不動明王で秘仏(開帳のときしか拝ませない仏像)である。寺領4石8斗6升9合御寄附になり、正徳2年(1712)9月14日為理性院様(俗名、伊勢峯様)菩提寺とす。 吉茂公より寺領米5石1斗3合1勺御寄附になり、寺領米は合わせて10石御印がある。
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梅林寺(庵)観世音菩薩立像
梅林庵山門外の堂宇に観世音菩薩の立像が安置されていた。これが文政11年(1828)の大風で堂宇と共に吹き倒され損壊し、50年以上過ぎてもそのままであった。明治14年(1881)に信徒の2人が発起・協力して立像を修復し、本堂の一隅に仮安置していた。このことを知らずにいた信徒衆が、昭和の中頃に立像を見つけ出した。ところがこれに仮安置までの経緯が記されており、終わりに後世へ堂宇の再建を促してあった。発起した先祖の意を汲んだ末裔らが、昭和47年に境内に堂宇を再建して立像を安置し、先祖の遺志に応えることができた。 木札の墨書(原文) 原ルニ斯、観世音菩薩ハ昔時山門外ニ美々タル堂宇アリテ安置スト、然ルニ過グル文政年度風災ノタメ尊躰堂宇、倶ニ吹キ倒シ、再興スルモノナシ、尊躰四支(肢)共ニ脱落シ僅、面胴ノミ胴傍ニ棄存シテ五十四星霜ヲ経過ス茲ニ信者清藏ト外壱名協力シ重(修)ヲ加ヱ仮ニ安置ス、堂宇再建ハ後ノ信徒ヲ待 明治十四年辛巳三月 安座日 現世安穏 発起人 坂井清藏 現住鶴瑞誌 貞富伊兵衛 後世善処 村中信男女中
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梅林寺(庵)直茂伯母夫妻の墓
直茂(彦法師丸)の伯母夫妻の2基の墓が梅林寺墓所の東部にある。伯母於喜久(清房の姉)が久米良家に嫁ぎ、西川内に居住、梅林庵に帰依していた。彦法師丸が同寺で2年余り手習、学問に励んだことも、伯母夫妻の気遣いなどの影響からと考えられる。 「墓碑刻銘」 玉峯常金居士(正面) 久米主税助良家 天正十三年乙酉九月十八日(側面) 花屋妙春大姉(正面) 鍋嶋平右衛門尉清久公(直茂の祖父)御長女於喜久殿 天正七年巳卯 廿日(側面)
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梅林庵楠公父子の像と義祭同盟の発起
寛文2年(1662)、佐賀藩士だった深江信渓は、楠木正成・正行父子の忠孝を鑑として広く顕彰すべきと発起し、父子が桜井の駅での別れの時の鎧姿の像を京都の仏師に刻ませた。 翌3年、完成した父子像を北原・永明寺(大和町・廃寺)に安置し祭祀した。父子を祀ったのはわが国で初めてであった。 天明(1781〜88)の頃高傳寺に置かれ、文化13年(1816)、梅林庵に移された。これを知った「日本一君論」を主唱する国学者枝吉神陽が、嘉永3年(1850)、楠公父子の祭祀を同志に呼びかけ、尊王派の同盟である義祭同盟が結成された。呼応した同志38名が楠公が戦死した忌日の5月25日に梅林庵に集まり、深江信渓の子孫・俊助が祭主で初回(第1回)の楠公祭が行われた。これが佐賀藩勤皇運動の中心となった義祭同盟である。枝吉神陽はじめ、枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、木原義四郎(隆忠)らが参加している。その後、毎年5月25日に行われ、江藤又藏(新平)、中野眞七郎(方藏)、大隈八太郎(重信)、久米丈太郎(邦武)、鍋島茂眞、鍋島直嵩らも加わっている。 安政(1854〜59)になり、梅林庵の父子像は、城下の龍造寺八幡宮境内に設けられた社殿に移され、楠社として、ここで楠公祭が行われるようになった。