末次の起源

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末次の起源

■所在地佐賀市本庄町
■登録ID713

近衛天皇(第76代)の久寿元年(1154)鎮西八郎爲朝が九州で猛威をふるっているとの知らせにより、鎮西の監視役に5名が派遣されてきた。その内の一人である藤原秀郷の孫季清左衛門尉は佐賀に来て龍造寺村に館を構えた。(一説には藤原季清は、仁平元年(1151)杵島郡黒髪山の大蛇退治で名高い、源爲朝に従って肥前に下向し、のちに小津郷龍造寺村に住んだとある。)
季清の第5子季慶(季喜)は父の職を継いで佐賀において、小津の東郷槇村(今の市内水ヶ江)を賜る。季慶には子が無かったので、高木(高木瀬の内)の城主藤原季綱(季慶の母の兄弟)の次男季家(南二郎)を養子とした。
文治2年(1186)9月27日源頼朝より龍造寺村の地頭職に任ぜられ、京都護衛の任を兼掌したが、この時季家は龍造寺とその氏を改めた。
季慶の弟季次は戦功によって、佐嘉郡小津郷(与賀上郷)の地頭職に補せられ、名を「末次」と改める。
末次から八田間に「杵ケ崎の薮」と呼ばれる所が藤原季次の旧城(館)跡である。

出典:かたりべの里本荘東分P.34本荘の歴史P.111