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[旧佐賀市][本庄校区]は185件登録されています。
旧佐賀市 本庄校区
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焔硝蔵(御薬蔵)
鹿の子上区西北の方角に、佐賀藩の焔硝蔵があった。明治7年(1874)までは袋区と共に本庄に2か所あった。当時は巨額の火薬が貯蔵されていたが明治7年の佐賀戦争後一般士民所有の銃砲刀剣類と共に、没収され、跡は寺子屋流の学校となったが、明治21年(1888)7月旧火薬庫を取崩し、両所の建材にて、灰塚に星共小学校を建てる。のちの本荘尋常小学校講堂がそれである。 また石倉の扉は村社鹿の子天満宮の石垣となり、火薬製造用の薬研は手洗鉢として、使用されるところもある。
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鷹取城の跡
鹿子下区の西に堀に囲まれた一角がある。昔は薮が繁茂していたそうで、今でも一部が残っている。ここが鷹取(高取)城の跡である。 天文22年(1523)龍造寺隆信の佐賀城奪還の際、神代勝利、高木鑑房、八戸宗暘の家臣が海岸警備のため駐屯していた要塞を急襲し、潰走させた古戦場の跡である。 面積4.5ヘクタールに黄金の稲穂が波うって今は昔日の面影もなし。
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鍋島藩の猟場鴨良
鷹取城跡の堀南に鍋島藩の猟場があった。その地を鴨良(カモラ)と呼んでいる。 その昔慶誾寺の本堂の屋根に登り南を眺むれば、天草の山を洋上に浮かべた有明の海が、眼下に迫っていたという。 当時の「タカトリ」付近は南へ葦が茂り小津江の流れが海に流れる狩場であった。佐賀城からよく殿さんが猟に来たそうで、農作業中の百姓が驚き平伏せんとすると「そのまま作業を続けるように」と言って猟をされたという話が残っている。
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本庄むかしむかしの年中行事
正月松の内には懸け薦を釣り、門松に似せる(これは使用後に巻き俵として使用した)。 2日には屋敷田に鍬入れと称し、譲葉(杠:交譲木…トウダイグサ科の常緑喬木。秋に旧葉は暗緑色となり新葉が生長して旧葉が落ち譲るのでこの名がある)を立てる。 6日の朝には寺子屋の子弟は、始筆に吉書と称し「嘉辰令月歓無極万歳、千秋楽末央長生殿裏春秋富不老門前日月遅」等の筆を試み歳徳神(その年の徳神でこの神のある方を明の方または恵方といい万事吉とする)へ供えた。 7日の朝は、数日前より建てた2間4面位の藁小屋を暁天に焼き、歳徳神へ供えた。吉書を青笹付の竿頭に結んで炎上させ子ども達の楽しみであった。この日は「叩き菜」と称し、7種の蔬菜を叩いて汁となし、また歳徳神へ供えた餅を7か所(ホンゲンギョウ)焼き、同夜は、七福神の装いで豆をまいた(今は節分で行っている)。 11日には、天照大神宮へ参詣し、大福帳を求め、十一日祝と称して、祝宴をなした。 14日の晩には、子ども等が集り「土龍打」といって小竹の先に藁を束ねたもの(焼鮒挿の如きもの)を持ち、各家を廻り「なーれなーれ梅の木、ならずの梅をばなれとぞ祝うて、千なれ、万なれ、朝なれ、人のチギッ時キャー堀の上ナーレ。おいがチギットキャ畑の岸ナーレ。十四日の土龍打ち」と唱えて餅をもらって歩いた。 20日には、二十日正月と称し、忌明のものや歳なみの悪い者は本日をもって更に越年の式を挙げる風習があった。 2月の初午の日には少女等糸柳の枝に大麦やカンナ草及び髪を少しばかり紙に包み、水引にて結び「この川や、この川や、広さ深さは知らねども、流るる先まで延べや黒髪、黒髪」と歌い、流れ川の橋頭より流した。 3月3日は桃節句として雛飾りをなし蓬の餅を供え、白桃の枝を挿して生け、少女の将来を祝ってやった。 4月8日には、各寺院にて華堂をこしらえ、下には盥(たらい)の中に釈迦の像を置き、甘茶を注ぎ、各家においてはその甘茶を受けて頂き、また蚊帳に注ぎ、家の周囲にまいて悪霊を防ぐ祈りをなした。 4月19日・20日は、高傳寺の釈迦堂祭で代官所より多くの役人が出張して、華美な風習を矯正する目的をもって、絹の着物はもちろん、日傘や絹物交りの羽織まで取上げて節倹法を実行させた。当月は川神祭と称えて藁にて円座及び食器を拵え、御供をあげ鯰(なまず)・鮒などを画いた幟を立て流していた。 なお当月は挿秧(水田に早苗を植えること)の始めに田の神祭りといって握り飯に、芦の葉及び蔦葛の葉を覆い農神に捧げた。 5月5日には紙幟(木綿織りは贅沢であると禁止されている)を立て、男子の成人を祝った。 当月の末から6月の初め頃、晩稲の挿秧を終え「早苗堀」といって手造の餅、饂飩(うどん)等で夏毛取り上げより晩苗植付までの慰労の宴を開いた。6月は各神社において、祇園会を子ども達は千燈籠といって些少の銭を貰い、菓子果物等を買い食う風習があった。 7月の盆祭りは別に変りはないが、新喪の家では7月中数間の竿頭に紅の燈籠を掲げた。 8月15日夜は芋明月と称し、男子13歳の者の運試しをなした。当夜の晴曇雨に一生の吉凶を占った。 9月15日夜は、豆明月と称し、女子15歳の者に晴曇雨により一生の運試をなし、また明月に対し薬袋を縫う恒例があった。 10月15日には千本松の直茂公御胞衣塚畔において鍋島家より、4間に10間の仮家をこしらえ村中の男女老若を集め、赤飯の馳走をなす恒例があったが、維新後に廃止となり、地元主催となり祭事を営み鍋島家を賓客に招いた。 11月は子ども等が集まり、産土神社へ〆飾りをなし、薪を焚き通夜をなし、〆飾の材料にて正月の「ホンゲンギョウ」を作った。また11月は与賀神社、本庄神社へ締元といって大名行列を真似て盛大な神事をなしていたが明治4年(1871)12月本庄神社は郷社になり、末次等は与賀神社より分離して、本庄神社となり、11月28日をもって祭日と定め、氏子が各区順番に浮立、角力、手踊等を奉納し盛んになった。 12月には御本丸三の丸その他の松飾用として大〆縄勝り藁等を本庄本村より納付した。
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本庄のわらべうた
誰もが子どものとき歌った童謡の数々も今は時代とともに忘れられてしまった。正月を迎えるわらべうたを記しておく。 「正月さんの来んさっ時や、何ん持って来んさっしょ、つんのはにもろもき、橙ところや俵箸、蜜柑に栗々、吊柿や」 蛍籠を提げ、笹竹を持って、宵闇の川岸の辺を走りまわった「蛍取りの唄」がありました。 「ホ、ホ蛍来い、あっちの水ァにがいぞ。こっちの水ァ甘いぞ。ホホ蛍来い」 「ホ、ホ蛍にゃ水くりゅう、堀の水くりゅうか。川の水くりゅうか。堀の水くりゅうよりか、川の水くりゅうよ」 7月の七夕さんの唄もよく歌った。 「七夕さん、七夕さんたなから落ちて腰打って痛さこらえて西瓜半分」 昔は堀に鷭(ばん)やカイツブリが水藻のなかに泳いでいるのをわらべ同士でからかった。 「きゃァつぐろの頭に火がついた。ブルッとすんでチィ消えた」 鞠つきの唄も色々文句がある。 「からたち、から梅、からすが一羽止まった。この手鞠ぁ、誰にあげましょか。花の○○さんにあげましょか。ヨウ受取んさいの」 名を呼ばれた娘は鞠を受取ったら直に「ヨウ受取りました」と続けまた前の唄を歌う。 正月14日の土龍打ちの唄。 「長どん、長どん山へ行くけんこんかん、鉈(なた)も包丁も持たんこんな貸そだん、貸鉈イヤ、イヤ十四日の土龍打ち」(※以下、繰り返し。)
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民謡菱やんよう
「菱やんよう」 佐賀の新民謡。作詞者・豆田光夫、作曲者・原岡研一。 菱やんよう 菱やんよう 菱を売る娘の呼び声に 呼び声に 菱も食べたや 顔見たや 顔見たや 菱やんよう 菱やんよう 菱売り娘は村娘 村娘 年は二十歳か 品のよさ 品のよさ 菱やんよう 菱やんよう 菱の秤は山秤り 山秤り 可愛い上目で ちょいと見る ちょいと見る 菱やんよう 菱やんよう 菱を売り売り帰り道 帰り道 十五畷で 待つというた 待つというた 原岡研一は、本庄町寺小路出身で音楽教師。昭和23年(1948)に成章中学勤務。この頃から作詞者・豆田光夫とのコンビで「菱やんよう」をはじめ10曲の作品を生み出した。この「菱やんよう」は、当時の風情を感じられる佐賀地方の代表的な民謡。
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民謡ひし取りのうた
「ひし取りのうた」 ひしの稔りは あたりの年か 堀にひしの葉 たったげな ひしは大菱 久保田の菱か 味は本庄の中島か 菱の実をとろ はんぎでとろか 堀にやんまが すいと飛ぶ ひしも待つのか その手を待つか 村のむすめの白い 手を 菱はにょっきり なぜつのたてた 若い二人に やいたのか 若い二人は 佐八とお米 半かげお月の 出たよいに 半かげお月も きき耳立てた ひそひそ話は 堀の岸 菱の稔りは あたりの年か ひそひそ話に あてられて
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本庄村史蹟めぐりの歌
十五畷の戦跡 天文二十二年春 十五畷の朝ぼらけ 星影淡き陣営や 空しくあせし旗幟(はた)の色 うつらう花と諸共に 益荒男(ますらお)逝きて四百年。 戦塵の跡偲びつつ 行けば程なく産土(うぶすな)の 神おはします宮ところ いつきまつれる淀姫の 深き恵はとこしへに 郷(さと)の栄や守るらん。 群立つ杉に風すみて 霊香そぞろ身に迫り 苔むす石碑往く年の 歴史(ふみ)語るかな高伝寺 御霊廟(おたまや)まもる芝草に 遠き者をたづねてん。 勇将鍋島直茂公 剛勇果敢今山に 勝鬨(かちどき)あげし勇将の 産声あげし円塚よ 樹々の緑も香はしく正義の烈士育みし 名もなつかしき西河内。 都を遠く西海の 不知火もゆる火の国に 掩(おお)へる雲を払はんと 龍造着きて二千歳。 雄々しき御名を得給ひし 尊の雄姿偲ばずや。 旗幟大内幟 肥前三十三ヶ所の 十八番の札どころ 旗幟の名残る観音寺 星霜茲に幾年か。 名に負ふ松の深緑 昔の夢や結ぶらん。 遠き昔を想ふ時 血潮は胸に躍るなり。 父祖の教を身にしめて 希望に生きん若人(わこうど)よ 誉と共に伝へなん 千本松の館跡。 柳河攻 慶長五年 鍋島直茂・勝茂父子 立花宗茂を討つ 妙玉寺 石井茂賢其他の墓のある所 柳河攻の激戦に 誓ひし誠一筋を 貫き通す五十年 君に殉ぜし十八士。 花と散りにしもののふの その名伝ふる妙玉寺。 野辺の千草に秋更けて よせ来る嵐すさまじく 飯盛城の炬は消えぬ。 物具堆みて焼きすてし 名も灰塚の跡なれや つはもの共が夢いかに。 争奪やまぬ戦国に 我が家龍氏守らんと 九十二年の生涯を 捧げ尽くししその苦節 女の身には重かりき 尼公偲ばん慶誾寺。
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釈迦堂祭
(4月19日・20日) 鍋島家菩提寺高傳寺には、鍋島勝茂が父直茂公の菩提のために京都の仏師に刻ませた釈迦三尊像が祀られています。年1回4月に御開扉となるこの折に大涅槃像が掲げられ、参拝者に拝観させています。
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天神祭
オオマツリなどと呼ばれる場合が多い。特に祭礼を繰り出すということはほとんどなく、村の家々が輪番で祭りの世話役にあたり、氏神の拝殿や、当番宅で村中寄り合い、飲食を共にするという様な例が多い。 天神田などの祭田を耕作し、その収入によって運営される場合もあり、料理の中心は赤飯とされている。
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豆祗園
村々に祀る石祠や地蔵などを清めて大人達へ参拝を勧め、煮豆と引替えに賽銭を貰い、菓子や金を分配しあう子ども達の催しである。
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正里の構成と行事
正里区は500年以前に干拓新地に入植し、住みついて出来た集落である。 西は本庄江湖のほとり八龍神社、東は八田江湖のほとりに粟島神社(共に海神)を祀っている。この両地を結ぶ八田、袋、末次、正里、八龍、今津の線が当時の海岸線であったと推察される。 南に流れる呑郷の堀底から、泥土揚げの時には有明海の貝殻が砂中に広がっているのがわかる。 天明年間の地図によれば、正法寺外一庵があったが、現在は墓だけが残っている。 正里区の出入り口には、皇大神宮、お地蔵さん、庚申さん、観音さんを祀って、疫病、災害の侵入より守っている。
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正里の行事
月祭:三夜待(23日)、六夜待(26日) 年祭:大般若経会(正月11日)、伊勢祭(12月26日)、権現祭(12月15日)、天神祭(12月25日)、村勘定(1月)、釈迦堂祭(4月19日)、川神さん祭(春耕前)、田の神祭(田植え直前)、節句(3月3日ひな祭)、鯉幟(5月5日)、七夕祭(7月7日)、祇園祭(夏祭)、お盆祭(8月13日〜15日)、供日(春秋の氏神祭)、日峰さん参り(春秋)、金立山参り(正月)、文殊参り(正月)、お経参り(川干の頃)、お不動さん参り(正月縁日)、清水観音さん参り(正月と夏の縁日) 西分の権現祭は福山晴大家に祀ってある熊野三所大権現が祭神である。 寛政11年(1799)勧請したもので、正里西分の鎮守神として夏の祇園祭には、提灯をともし供物をし参詣人に煮豆をくばり、無事息災を祈る行事が今も続いている。 石祠の後の楠は樹齢400年以上と推定されたが、明治25年頃切り倒されて今の楠は2代目である。 西分観音堂に祀られた石仏7体のうち「目の地蔵さん」の謂われは、昔は疾目等の流行目が多かった。 眼病になると「め」という字を半紙に8字書いたものを奉納し、「“八ん目”山さんいけ、しっきゃあ、ほーいやれ。」と3度言って、供物をなし、全快を祈ったものである。 「日晴し(産の忌みがあけること。男子30日目、女子は33日目に宮参りをする)観音さん」は、葬式等の不幸ごとの帰りには、この観音さんに立ち寄り、「日晴し」を祈願し自宅へ帰るという風習があった。また「子安観音さん」としてお母さん達の信仰が厚い。 その他、「北向きの地蔵さん」や「千手観世音菩薩」、「不動明王」、「弘法大師」等が堂内に祀られて崇敬されている。
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文殊さん参り
(正月) 文殊宮は、大和町上都渡城官人橋付近にあります。真言宗御室派文殊院と言います。「もいっさん」と呼ばれ、祭神文殊菩薩は知恵の神様として知られ、受験期には合格祈願の参詣人で賑わいます。
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お不動さん参り
(正月縁日) 臨済宗南禅寺派萬壽寺は、「水上のお不動さん」と呼ばれ信仰されています。(実相院と同じに大和町川上にあります。)
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金立山参り
(正月) 金立神社の祭神は保食神(うけもちのかみ)、罔象売女命(みずはめのみこと)、徐福であります。創建は孝霊天皇の時代(290)と伝えられています。 徐福は秦(中国)の始皇帝から不老不死の薬草を求めて派遣され文化をもたらしたので、神として合祀したと言われます。 金立神社は豊作を祈る神として、藩主鍋島家の雨ごい祈願が行われました。 例祭は11月20日。春祭は3月15日。50年ごとに「お下り」という神幸祭があり、有明海の沖の島参りが行われ、祭りには鉦浮立が奉納されます。
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清水(小城市)観音さん参り
(正月と夏の縁日参り) 清水(小城市)には天台宗清水山見滝寺宝地院があります。由緒書によりますと延暦22年(803)に桓武天皇の勅命で聖命上人が開基しました。国家鎮護の道場であります。寛永4年(1627)に佐賀藩主鍋島勝茂が観世音菩薩を勧請して再興しました。東方に清水の滝があり、滝の傍らにある碑は、藩主鍋島宗教の病気平癒の祈願のため滝に打たれ、凍死した藩士倉永清雄をたたえたものであります。この碑は天明7年(1787)に建立されたものであります。
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大般若経会
(正月11日) 僧侶が大般若経600巻を読誦(どくじゅ)し、世話役が神酒や供物を用意する。転読が終われば村境に護札を立てて回り、村中の安全を祈願しました。
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土龍打ち
子ども等が集まり1月14日の晩には小竹の先に藁を束ねたものを持ち、各家を廻り、「なーれなーれ梅の木、ならずの梅をば、なれぞと祝うて千なれ、万なれ、朝なれ、人のチギッ時キャー堀の上ナーレ、おいがチギットキャー畑の岸ナーレ、十四日のモグラウチ」と唱えて、餅を貰って歩きました。
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ホンゲンギョー{左義長(サギッチョ)、ドンドヤキ}
1月7日の早朝に青竹と藁で作った小屋を焼く行事。この時正月の松飾り、〆飾り、古いお札など前年のものをこの火で燃やしました。また、この火で餅を焼いて食べて、無病息災を祈願しました。
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節供(せっく)
(3月3日ひな祭) この日はフツ餅をつき、女児の無事な発育を願いました。また親類を招いて「節供ブンミャア(振舞)」が盛んでした。
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川神さん祭
(春耕前) 藁で直径50cmほどの舟(巣籠り)を作り、白紙にナマズ、ナスビ等の絵を描いて握り飯等のお供えをして、川に子どもが ヒャーラン(落ち込まぬ)ように川に流して祈念しました。
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お経参り
(川干の頃) 真言宗御室派実相院は寛治年間(1087〜1093)に創建したものであります。4月10日から20日まで催される如法経会は、「お経まいり」と言われ、宗派を越えて参詣人があります。
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田の神祭
(田植え直前) 神社で祈祷のあとは、村への疫病や害虫の侵入を防ぐため、護札を村の出入り口に突き立てておき、村中安全、五穀豊穣を祈念しました。
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端午の節供(句)
(5月5日) 男の節供(句)で、初めて男児が生まれると、嫁の里や親類から贈られた幟や鯉の吹流しを立てます。幟の下方に三角形の綿入れや猿の綿人形を吊り下げました。
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供日
(春・秋) オクンチは氏神様秋の大祭が特に盛大に催されます。氏神への収穫の感謝をこめ氏子たちは各家でクンチ料理には赤飯(オコワ)、フナのコブ巻き、煮しめ等で親類、友人を接待しました。
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日峯さん参り
(春・秋) 日峯社(松原神社)は鍋島直茂公が祭神であります。直茂公はかつて龍造寺氏の一部将でしたが隆信の戦死後、肥前の領主となり、領主の地位を嫡子勝茂にゆずり、多布施館に隠居しましたが元和4年(1618)81歳で逝去しました。(法名は日峯宗智大居士) 春秋の日峯さん祭には、住民達が老若こぞってお参りをしていました。
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七夕祭
(7月7日) 子ども達は早朝に起床し、朝露を集めて墨をすり、それで字を書くと上達すると言い伝えられています。家々では七夕饅頭や団子を作り、仕事を休みました。この日、田に入ると目を突くと言われています。
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お盆祭
(8月13〜15日) 13日は精霊迎えの「迎え提灯」を縁先に下げます。精霊棚を設けショウロウゴモを敷きます。先祖の位牌を上段に置き、下段には、盆花、野菜、果物、菓子などを並べます。盆の期間は精進料理が普通であります。
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天神祭
(12月25日) 天神信仰は今では合格の神、学問の神として有名でありますが、もともとは御霊信仰から出発したもので、菅原道真公の御霊を慰める信仰となり、また農業推進の役を担っています。 正里区では、家々が輪番で祭りの世話役が当番で、天神田などの祭田の収益などで運営され、料理の中心は赤飯とされています。