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灌漑記念碑
東分下の耕地は、巨勢地区でも土地の高い所で、踏み車で水田に水を汲み上げており、当時、毎日水田に灌水して維持していくのは並大抵の苦労ではなかったのです。踏み車を2段、3段と連ねての水入れ、朝は3時、4時から蚊に刺されながら、小学生までも動員しての車踏みが毎日、毎年繰り返されました。そのため多くの人手と労苦は大変なものでした。そこで大正10年に東分耕地整理組合を作り機械灌漑施設を取り入れる事業を始めました。しかし日本で初めての事業で困難がつきまといました。最初は5馬力のディーゼルエンジンを据えて実施しましたが、この発動機が不調で失敗しました。次に小型発動機を船に積んで行う舟形揚水機を真崎鉄工所が開発して実施しましたが、船の運行が不自由の上、機械に不慣れで失敗しました。そして翌年真崎鉄工所が2馬力の電力モーターによる揚水機を開発し、電力の導入など問題は山積みしましたが、モーターと揚水機は真崎鉄工所が受け持ち大正12年に完成しました。この機械灌漑は佐賀平野に急速に広がり、東分下のこの事業は日本の先駆者となり、その記念碑が建っています。碑文は当時の県知事の作です。
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城井樋大師堂
ご本尊は、昭和45年3月本堂を改築された際に、むさ苦しい屋内に置いておくのは忍びないと、地区住人で熱心な信者であった、古賀五郎夫妻が自己資金で屋外の台座に安置(移)された。 本堂には、お大師さんの掛け軸が掛けてあり、普段は入り口の引き戸は施錠が掛けてある。 本堂前の西方に、幅2m位の見事な巨大な1枚の自然石の上に、外の3体の石像物と共に東向き(道路側を向いて)に整然と並んで安置されている。 大師像は、向かって左(南方)から2番目に安置してあり、台座の自然石の裏面(西側)には、「昭和45年3月建立 玉石垣寄附者 古賀五郎 妻 フサエ」と記されている。 また、ご本尊の前に、身の丈1.3m位ある見事な1対の石燈籠が設置されていて、この石燈籠には、「献灯 昭和63年6月20日 古賀五郎・フサエ」と記されている。 お堂近くにお住まいの古賀氏は、この大師堂に纏わる話を、母から聞かれていて、自分が嫁入りした戦後間もない頃までは、大師堂に春秋の彼岸頃には大勢のお参り、巡礼者があり、地区民あげてお接待に当たっていた。また、年間を通じて、花を手向け、月に1回は、本堂と周辺の清掃を行い、それは大切にしていたが、今はそうした風習も廃れてしまった。 母からは「このお大師さんは、おじいさんが新村からいのうて持ってこられた」「お大師さんには、大抵守ってもらったから大切にせんといかん」と言われていたとのこと。