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城山中世山城址
川久保の山中、勝宿神社の東方で標高115メートルの尾根に、地元ではイモのガンギー(芋の雁木)と呼ばれている土塁を持つ山城址がある。現在その全体が雑木林に埋もれており、外観は普通の山林と大差ないが、一歩その中に踏込んで見ると、南北に細長い尾根に幅2メートル、深さ1.5メートル、長さ35メートル程度の溝が、幅約2メートルの土塁をはさんで東西に走っている。また、尾根の頂には径10メートル程度の平坦地があり、ここに何らかの施設があったのではという想像をかりたててくる。 この城址は何時、何人によって造営されたものかは不明であるが、神埼の城原地方にはこの種の、しかも大規模な中世山城址の存在が知られており、当地のそれも同時期のものと推定できる。 いずれにせよ、当地は、北は脊振東は神埼南は佐賀平野を望む交通の要衡であり、この地に何らかの「砦」的施設があってしかるべきものであろう。 東鹿路から妙楽寺へ出る道を「川久保道」と昔から云っていた。この道は、山内の三瀬・脊振はもとより、福岡・唐津への近道でもあり、川久保を通じ平野部へ通じる重要な交通路であった。 この開口部にあって、山内の様子も平野部の様子も手に取るようにわかり、三方を険しい崖で囲まれた要害は、山城として持って来いの場所である。従って古代から砦なしの城の機能があった。 この山頂の南から北へかけて、深い堀が二重にある。これを間道という。日の隈山から北の城原へかけても、この間道が遺っている。 兵を動かす為か、防禦用だったかわからない。 いつ、誰が、どの戦に使ったかも戦記には見当たらない。 或る人は、神代の砦があったとか館・曲輪があったと言うが、古代から中世までは使われても、神代が芦刈から戻ったときは、既に龍造寺・鍋島の配下となっていて、こんな要害を使わせる筈はない。神代の館は平地に設けられた筈である。 勝宿神社前の通りを「馬責馬場」というが、武家屋敷の近くの馬の調練場・合同馬管理場の外に駄馬待合所、牛馬売買所の場合も馬責馬場という。八ツ溝南の「下馬責馬場」も同様である。
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正一位稲荷大明神
弘道館記念碑横にある「正一位稲荷大明神」である。正一位とは律令制下、朝廷より諸臣に授けられた位階のことで、官人の地位を表す等級として一位から初位の位階がある。 奈良時代中期以降、この位階が人に対してでなく、神にも授位されるようになった。これは神階と称して、諸臣に与えられる位階制度に倣うものであった、両者に直接的な関係はない。 稲荷神社については、稲荷神に対して従五位下が授けられ、その後も進階を重ね、天慶5年(942年)に諸神に対しておこなわれた授位で正一位に叙せられた。