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武富 廉斎
武富廉斎は、「明人十三官」曾孫にあたりその名は咸亮(かんりょう)と呼び、寛永14年(1637)、白山町に生まれる。幼い頃に漢学を学び、若くして京都に赴き中村愓斎(てきさい)の門に入り、帰国後「鬼丸聖堂」の創始者・実松致斎を育てた。後に、藩主鍋島綱茂公より儒学者として召し出され、大財村「大財聖堂」を建立し藩内の文教に大いに貢献した。又、諫早の慶岩寺住僧より筑紫琴を学び、京都の公家よりは琵琶を学んだ。その琵琶の由緒が後水尾天皇の上聞に達し、御前にて弾奏の運びとなり譽れ相まって「孝鳥弦」の名を賜ったほどである。墓は、佐賀市呉服元町の「称念寺」にある。
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蝗(いなご)神
石祠の表面に「司蝗神(つかさどるいなごかみ)」右面に「寛政四年(1792)壬子仲冬吉日、村中敬立」と印刻されている。記録によると江戸時代中期の享保17年(1732)6月中旬の頃、筑前で蝗虫が発生し、田園を食い荒しているといううわさが領内に伝わった。7月上旬になると砂をまくように発生し、それを防除するのに、田の水上に油をふって虫を水下に追い流し、そこに大きな布の袋をあてて流れ落ちる虫を受け入れた。しかし、それでも袋一杯になるほど集めても、すぐ虫は次々にわくように発生し、とうとう百姓は精魂がつきて田を見捨ててしまい、ただ食物を求めて東西を走りさ迷う様相を呈したといわれている。虫の防除のために、鯨油をはじめ油の類は高値になり他方では米穀、藁麦、粟など1日ごとに高値を呼び、量も減る一方であった。この時佐賀領内だけでも死者5万人、牛馬9千頭が死んだとされている。死者は寺院に送って葬ったが、行き倒れの死骸が田や道ばたに積み重ねるほどであったといわれている。 この供養塔は享保の飢饉以後60有余年、虫の霊を鎮めるため農民の素朴な祈りのなかで建立されたものではないかと思われる。 市内大財町の仏心寺には佐賀藩主6代鍋島宗教がかつての惨状を偲び不幸な餓死者の冥福を祈るため建立した供養塔がある。その銘文は次の通りである。 「本州 餓死者累葬の墓 庶民」 側面には「享保十七年壬子年」と刻んである。 享保18年5月20日には佐賀藩主5代鍋島宗茂が施主となって餓死者を弔う大施餓鬼を行ったと記録されている。 この蝗害について『泰国院様御年譜』には次のように記している。 「当秋大損毛の儀、享保子年以来無類の年柄にて、諸郷村甚だ困窮に及び、其の内、至って極難の者共は、忍々、袖乞にも罷出候者、日を追って相増候様相聞候、尤も、御蔵入郷村の儀は、追々飢者御介抱願出に付、御手仰付らる儀に候、大小配分の儀は、その領主偖又地頭々々より右射の手当これ有る儀は勿論の事に候。時分柄飢寒差し迫り、自然非命し死亡等出来候ては御趣意に相叶はず、それ容易ならざる儀に候条、領主地頭として、右躰これ無き様筋々相達に成る……(略)」とあるように、藩直轄地のみならず家臣の知行地における困窮者の救済について配慮がなされている。