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本村籠遺跡310号土壙墓出土遺物 一括(青磁椀二個、土師器小皿四個、刀子一口)
重要文化財
本村籠遺跡は嘉瀬川から西へ200メートルほど離れた佐賀市大和町池上に位置する。多鈕細文鏡を出土した地点の約400メートル南西に位置し、この地点からも弥生~中世の墓地、集落が調査されている。屋敷地を示すと考えられる鎌倉時代の区画溝内には、屋敷墓と考えられる310号土壙墓が発見されている。内部からは龍泉窯系青磁椀2個、土師器小皿4枚、小刀1振が埋納されていた。青磁椀はグリーンの釉色の発色がすばらしい優品である。小刀を有することから地域の豪族に関連する人の墓と考えられる。 鎌倉時代この一帯は於保氏が地頭職を相伝しており、関連が考えられる。
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松田茂久の墓と神変社
江熊野の氏神である神変社の祭神は「役の行者」といわれ、社名も変わっているが、土地の人はここを「行者さん」と呼んでいる。慶長5年(1600)松田茂久が鍋島直茂に従い柳川に従軍して功績を挙げ凱旋してから、当時九州一の修験道場であった英彦山の分霊を祀ったといわれている。始めはここに行者堂が建てられ、山伏の修験を重ねていた所といわれ、今山の仏乗寺や於保の山法師原などはここと密接な関係があるらしい。大正時代までは正月の初めごろ、各戸ごとに表の道端にバケツや手桶に水を汲んでおくと、修験者が白衣を着たりはだかになって回って来て、読経しながら頭から水をかぶっていった。この修験者達はここを拠点として各地区を回っていたという。行者堂が神変社になったのは不明だが、神変社の神殿は文化14年(1817)拝殿が天保5年(1834)に再建されている。神殿の「唐獅子に牡丹」の彫刻は美事な作である。 松田氏はこの地方の豪族で、龍造寺氏に仕え江熊野に住んでいた。神変社の東方にある「松田籠」という池付近がその跡といわれている。 茂久の父は久行といって元亀元年(1570)隆信に従い多久の役で戦死し、弟の久国は天正12年(1584)島原の役で戦死した。茂久は初め権助といい、龍造寺隆信並びに鍋島直茂の二公に仕えていたが、特に直茂の信任が厚く、直茂の「茂」の1字をもらって茂久と改名した。 茂久は直茂の軍に従って十数度の功績を挙げ、中でも柳川の戦では敵の勇将荒巻和泉守を打ちとるなど数々の軍功を挙げ、凱旋後50石を加禄され、その時の分捕品であった刀、鎧は永く松田家に伝えられていたと言われている。茂久は慶長13年(1608)11月25日死亡しているが、その子孫は代々小城藩に仕えていた。茂久の墓である五輪塔の傍に「追遠之碑」が建っている。これは茂久の没後360年目に当たる大正3年(1914)4月、盛大な祭典が行われた時に建てられたもので、題字は旧小城藩主第11代正三位子爵鍋島直虎の書になり、碑の裏面の刻文は茂久の子孫第11世松田茂致の竹馬の友であった江頭幾三郎の文選で、建塔の趣旨や茂久の事蹟が綴られている。