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鍛冶屋敷
野中草原の南端に鍛冶屋敷という1軒の藁葺の家があった。ここに250年前、藤原巨勢弾正一刀太と称する刀鍛冶がいた。 一刀太は越前の国の者であったが、ある事情でこの地に下り隠とんの生活を送っていたらしい。付近にその墓がある。 肥前日々新聞の主筆が調べた刀工の記録に、肥前国巨勢字草原の郷に肥前草原市太源という名工が住し、刀工として寛永の頃栄え、弟子を養い、神埼、島原、平戸、諫早など各地に一派をなして市太源の流派を残したとあるが、その流れを汲む者に、次の者がいる。 家栄:島原、長崎に住し、名工の名を残し享保に至った。 家永:寛文の頃、佐賀城下町に住した。 家正、家重、家弘:寛永の頃、平戸、神埼に。 盛秀、守秀、守安:寛永の頃、肥前草原に。 『西肥遺芳』にも、これらのことが書かれている。戦前の記録に、神野町在住の小渕喜市氏は肥前の国草原住市太源守安の銘のある太刀を所有されているとあるが現在は不明である。 現在真崎宅が鍛冶屋敷跡というが、付近の田畑から鉄屑など種々発見されるという。
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無量寿山 西淨寺
宗派 浄土真宗本願寺派 由緒 播磨守護赤松則村以来播州白旗城に拠って中国一円に威を振っていた赤松氏の一族の上月氏から出た吉浦越後守は、深く世の無常を達観して出家発心、法名を信海と改め、天文11年(1542) 3月、上無津呂に一宇を建立した。時あたかも戦国争乱で、神代勝利、長良父子は、筑前高祖城主原田種直、同了栄と、筑後の草野太郎が遣わした助勢の筑前、筑後の連合軍の来攻をうけ、退却して、上無津呂でおびただしい戦死者を出し、策略をもって神代父子は辛うじて命拾いをしたが、その弔いについて、当時同地に慶蔵庵という寺があって、住職は雷山千如寺を兼務して多忙の故に、葬儀叶わず、信海は右戦没者を一所に集めて合同葬を営んだ。それで神代氏の認むるところとなり、戦没者菩提のため、毎年13石給付、7月13日を定例に怠りなく法要を営み、血脈相承して13世寂黙代、山崩れのため寺堂つぶれ、久しく無住であった淨覚寺(古場)へ移住。現住代、昭和19年両寺門従合議の上、本堂建立、昭和28年貢1月23日、淨覚寺と三王山西光寺とを合寺して、無量寿山西淨寺と号した。初代は西光寺正倫現住職である。廃寺(合併)となった三王山西光寺(上無津呂)は神代勝利が僧信海に命じて一宇をつくらせた寺。 開基 信海 第2世 教信 第3世 龍法 第4世 智秀 第5世 祐岸 第6世 廓道 第7世 廓芳 第8世 廓長 同廃寺(合併)となった無量山淨覚寺(古場)は寛文年中(1661〜73)法縁のため当地移住、 歴代住職は第1世浄圓 第2世敬了 第3世数信 第4世 智海 第5世 俊応 第6世 俊嶺 第7世 紹隆