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今泉蟹守先生歌碑
昭和55年(1980)9月に、健福寺境内に今泉蟹守先生歌碑建設委員会で歌碑が建立された。 歌碑には、「渋柿のうまくなる世とまつほとに 身は老にけり木のもとにして」と刻まれている。 碑文は次のとおりである。 先生(本名隼太、屋号鞆屋、雅号御蒼生地)は、文政元年佐賀城下に生まれ、永年、大和町大願寺に在住、藩主直正公(閑叟)に任える一方、県下北部各地に学塾を開き、和歌、国文学の深き造詣を以て、郷土の青年子女を薫陶した。その顕著な業績は佐賀藩中、右に出るものがない。 先生は性情温厚にして廉直、交際を好まず、国学の真髄を伝え、二条家の和歌を振興した。筆蹟もまた逸品と称せられる。就中、業績の最大なものは「類題白縫集」とされ、時代を貫く藩歌人作品の集大成として、全国的に評価される。 碑面の歌は金立在の貧困時代に遺したもので、質実素朴の中に国民の指向すべき歩みを翹望している。 以上、教育、文学両面にわたる偉業を顕彰せんとして、その菩提寺健福寺に歌碑一基を建設した。幸いに県内外各位のご協賛を得て竣工を見たことを多謝する次第である。 昭和55年9月吉日 今泉蟹守先生歌碑建設委員会 中原勇夫識
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鍋島直正夫人盛姫
盛姫は11代将軍家斉の最も愛する姫で15歳のとき、12歳の花婿直正に文政8年(1825)12月27日輿入をなす。直正は天保元年(1830)17歳になり家督を相続し、10代藩主となった。当時の藩の財政は度々の風水火災にて窮迫していたので藩政改革を決意した。 天保6年(1835)困窮の佐賀藩に追い打ちをかけるように佐賀城二の丸が焼失した。この時盛姫の斡旋によって幕府から築城費を2万両貸与された。これが基となって天保9年(1838)に新城は完成した。直正が右近衛少将に昇任したのも盛姫の働きによるものであった。 また盛姫は進んで藩の改革節減に協力し費用を節約した。当時の騒然たる社会情勢の中にあって、英明な直正は西洋知識を導入し、長崎警固に励み、維新の人材を生み、数々の業績を残した。盛姫は夫君を助け貢献したが、37歳の若さで、弘化4年(1847)に逝去した。高傳寺墓地内に「文粛夫人」と標された墓がある。