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紺紙金字法華経 七帖
重要文化財
表紙には宝相華唐草文を金銀泥(きんぎんでい)で、見返し絵は釈迦説法や経典内容を金泥で描いている。経文は、金界線を引き、1行17字詰めの金字で書く。経帙は近世の後補であるが、題箋(だいせん)は当初のものである。金剛杵をかたどる象牙の帙(ちつ)留具も当初からのものである可能性が高い。 見返し絵は、極めて謹厳な筆致により細密に描かれていて、経文も力強い。高麗の宮廷工房である金字院の制作の可能性も考えられる。 第7巻の奥書により、至元6年(1340)に沙門淵鑑を発願者とし、柏厳と聡古により筆写されたことがわかり、施主と幹事の名も記される。また,それに続く別筆の施入銘からは、対馬を通じて高麗と交修していた少弐頼尚(しょうによりひさ)が正平12年(1357)に太宰府天満宮に寄進したことが知られ、さらに後に続く再施入銘により尼僧妙安により佐賀龍泰寺におさめられ、寛文3年(1663)に枝吉利左衛門により修理再納されたことがわかる。高麗装飾経の代表作として、美術的価値はもとより、制作から日本に請来された後の伝来事情までを明確に記す歴史資料としても重要である。 (写真:鍋島報效会提供)
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小隈山古墳
史跡
嘉瀬川の西約2.5キロメートル、脊振山系南麓の独立丘陵上に立地する。丘陵は四方が比較的急峻な斜面をなしており、古墳は丘陵頂部の西側尾根上、標高約60~65メートルの位置に、ほぼ東西方向を主軸として築かれる。ほぼ真西に前方部を向ける前方後円墳で、全体が蜜柑園造成により改変を受けているものの、墳形自体は旧状をよく保っている。 墳丘は、全長約63メートル・後円部径約25~27メートル・前方部幅30メートルと推定される。周濠は持たない。 現況では葺石等は認められない。確認調査では円筒埴輪・形象埴輪が出土した。内部主体は明らかでないが、円筒埴輪の示す時期から後円部に横穴式石室が存在する可能性がある。出土遺物より6世紀中頃の築造と考えられる。 古墳は前方後円墳である点に加えて、佐賀平野西部における6世紀代の前方後円墳の中で最も規模の大きなものであり、墳丘もかなり良好に遺存している。また県下最大規模の船塚古墳(5世紀中頃)の系譜上にあるものと思われ、当地域の首長墓の系列を知るうえで重要な遺跡である。