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法常寺
明治初めの廃仏毀釈で寺は壊され、その後再興されたが現存する資料はほとんどない。 しかし、昭和63年の本尊修復工事の際に仏像の体内を詳しく調査したところ、「聖寿比丘が法常寺の住持であった大永7年(1527)4月8日に、伊勢の国(三重県)の六十六部宋須が寄附を募って資金を調達し、筑後国江上庄佐々渕に住む春香という法眼位を冠する仏師に依頼し、この薬師瑠璃光如来を供養した。」と言う記録があった。 修繕の供養や彩色の供養をしたということから、製作年代はもっと前に遡ることになる。 仏像は182.8cmの立像で頭体部を通して前後2材矢引の構造で、楠の木を材料に作られ、極めて地方的な色彩を残す室町時代の作例として貴重であるとの博物館職員の見解であった。 寺の住所は「岸川」となっているが、小字の通称は「西長瀬」いう。檀家の皆様さんは「西長瀬のお寺」と呼ばれている。人工河川の多布施川を造る際に長瀬地区(現在の高木瀬地区)が分断されたため、西地区にあったお寺は鍋島地区になっている。
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相應津
本庄江に面しており、近世に入って発達した津で慶長絵図(1596〜1615)には村名の記入がなく土地の造成された様子もない。また、正保絵図(1644〜1648)にも村名がない。安政4年(1857)の川副、与賀、嘉瀬津諸目安によると、相應津は上町と下町に分れ、津なので村の庄屋に相当する別当の支配を受けていた。上町は船23艘で人別は448人であり、その内訳は男239人女209人で戸数87軒で、侍2、手明鑓3、足軽6、諸家来31、御船手4、寺1、山伏1、被官2、百姓37となっている。上町は、商業か日雇いなどの職または漁業に従事していたと考えられる。下町は船数39艘で人別は512人で、その内訳は男264人女248人で戸数95軒で、足軽7、諸家来41、御船手2、被官5、百姓40となっている。 上町同様に足軽や諸家来が多いが、上流の今津に比べて御船手(水軍の船頭)が少ないのは、今津が佐賀藩水軍の基地であったのに対して、漁港または商港の性格が強かったからであろう。