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澳嶌大明神
有明海特有の神である。沖神、沖祗、御髪などという。佐賀平野、有明海沿岸では干ばつのとき、最後の雨乞い手段として沖の島参りを行う。
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布巻観音
長瀬天満宮境内には、布巻観音さんという観音さんを祀った観音堂がある。 観音堂は間口、奥行共に2間、高さ3間の正方形のお堂で立派な木材で建築され、屋根裏の垂木は二重の流れとなっている。屋根の材料は芦であるが、今はトタンで覆われている。静かな天満宮の裏手にどっしりと建っているお堂を眺めていると飛鳥、大和路の古寺を訪れた感じになる。昔はよほど遠い所からもお参りがあったものと見えて、堂内の壁には熊本県、福岡県の人の落書も見られる。 布巻観音については色々の伝説がある。長瀬天満宮由緒記にあるように、筑前の国布巻の原にあった観音様を大友の一族が北山まで持ち来り、後これを龍造寺の家中駿河守宗吉法名正伯という人がここに移した。布巻の原から移されたものであるから布巻観音という説と、もう一つは神埼郡脊振村鳥羽院に伝わる伝説である。それによると、神埼郡脊振村鳥羽院は元絹巻の里といった。この絹巻の里及びそこにあった絹巻観音についての伝説に関しては郷土史家栗原荒野氏が昭和5年10月22日以降毎日新聞婦人欄に肥前女人風土記 絹巻の里として稿を寄せられている。すなわち、神埼郡脊振村に鳥羽院という一地区がある。トバイと読みその昔後鳥羽天皇が隠岐の国から御潜幸になり、西川左衛門太輔源安房が供奉して来たという伝説の地で、今も後鳥羽天皇の御陵と稱する塚や後鳥羽神社などがあり、西川氏の嫡流が代々住職をしている教信寺という真宗のお寺もある。鳥羽院はもと絹巻の里といった。絹巻の里この女らしい地名のおこりは何か、いわれがあるにちがいない。そのいわれはこうである。 昔脊振の山里に父と娘と2人住いの貧しい家があった。父は間もなく後妻を迎えたが、それは娘にとってはつらい継母であった。しかし邪険な継母にしいたげられて泣かぬ日はない小娘の心にも一つの慰みはあった。それは観世音の名号を唱えることであった。継母は娘が朝廷に献上する織物が織れないといって娘を折かんし、絹織物の巻板を娘の背に結びつけてとうとう追い出してしまった。 とっぷりと暮れた荒野の原を泣く泣くさまよっているうちに、娘は松のしげみの間に一つの燈火を見つけてその家の中に入った。中には一人の美しい女がいて機を織っていた。娘はその美しい女の人から織物の織り方を教って父の元に帰って来た。後で父娘でその美しい女の人にお礼をいわねばと思って尋ねて行くと、その人の家は跡かたもなく消え失せていて、そこには織り上った白絹の布が積み重ねられ、上には背負って来た絹巻の板が置いてあった。さては観音様のお導きであったかと、又娘は山と積まれた白絹の前に観音の名号を唱え手を合せて拝んだ。家に帰ると、今度は継母が居たたまれなくなって家を出ようとしたが、娘は、お母様の邪険も、わたしたちのためには善智識でございました。これも皆観音様の御利益でございます。となだめて取りなしたので、継母もひどく感じ入って邪険の心が直り、親子三人が睦しく裕福に暮すようになった。それからこの里に観世音を祀り、継母が結びつけた絹巻を後光にしつらえて、絹巻観音と崇め、ここを絹巻の里ととなへた。 この物語は、今から260年ばかり前にできた。肥前古跡縁起にも書かれ、長瀬村の天神の本地となったとある。 又昔誰かが絹巻観世音の巻板を盗んで行ったが、川上川の官人橋を通る時、あまりに重いので川の中に捨てた。すると川下の長瀬に一躰の観世音像が流れついた。人々が拾いあげて見ると、像には布を巻いてあったので布巻観音ととなえて祀ったが、その時から鳥羽院の観世音は姿を消されてしまったという。 伝説としては以上の通りであるが、史実に近いものと思われるものに、龍造寺家系の記録及び鳥羽院にある教信寺というお寺の由緒記などから判断すると次の通りである。 昔鳥羽天皇の側近を守護するいわゆる、北面の武士に藤原季慶という者があった。武勇の誉れも高く、鳥羽帝の信望も厚かった。季慶は、高木城々主藤原季経の二男、季家を養子として、自らは入道隠遁して、宿阿法師と号し、従兄に当る西行法師(佐藤義清)と共に諸国を行脚し、後この鳥羽院に落ちつき一庵を結び、鳥羽上皇のために菩提を弔った。 これが、現在鳥羽院にある教信寺というお寺であり、山号も鳥羽院山という。 季慶程の天皇に仕える豪族の武士であるからには、布巻観音のような世にもまれな優れた十一面観音を都から招致し得たことと思われる。栗原氏の記事の載っている新聞にある写真の通り、頭上に十一面観世音を配し、手には蓮華の花を持ち給う姿である。特異な点は、光背の腰のあたりの背面に織物の巻板が真横に添えられていることであって、これが伝説の物語りと一致するのである。 季慶が仕えた鳥羽天皇と鳥羽院に潜行されたという後鳥羽天皇との間には7代約180年の年代の差があるが、隠岐に流された後鳥羽上皇がお名前にゆかりのある鳥羽院村をたどって潜行されたということもあながち考えられないことではなかろう。 ところが季慶の孫の季益というのが後に長瀬村に居を構えるに至ったために、教信寺にあった観音様もお移し申上げたと思われる。教信寺由緒記の末尾に、「彼の山は里遠くして、人の通いも稀なりとて、後にこの観音を守り奉り、長瀬村の本地ぞと崇め奉りけり」 とある。 鳥羽院に伝わる伝説、教信寺の由緒記毎日新聞の記録等は鳥羽院出身で、多布施町在住の永渕輔夫氏の所蔵物、助言によるものであることを附記しておく。 この観音様は、機織りの神様、又縁結びの神様として遠近の信仰を集めて有名であった。通称ノノマキさんといっていた。機織の神様であるので、御像の光背には腰のあたりに、真横に筬の形をした彫刻がある。観音様は大正3年(1914)に補修彩色された。 光背の裏に 大正3年10月2日 長瀬村本村中 世話人 中小路 女中 観世音様彩色 彿師 神埼町3丁目 村上広市 糸山清一郎 森永乙次郎 当時代元老 杉町七三郎 宮原彌一郎 田原 鈴蔵 横尾幸一郎 という記録がある。 しかし、数100年前、おそらくは名だたる都の仏師によって作られた尊像であり、お姿も高貴、優美であったがためにか、昭和37年に、心なき輩のために盗難の厄に遭い、今どこにおわしますか行方は判らない。故里の地を離れ給うた、御仏の心はいかばかりであろう。まことに惜しいことをしたものであって、当時の長瀬の御婦人達ははだし詣りの御願をかけて探されたそうであるが未だに行方が判らない。ただ、台座と光背だけが淋しく残っている。でも今は千住喜代治氏より御身代りの白磁の観音像が奉納されている。 西長瀬法常寺の古書には大和町玉林寺の末寺の中に、佐嘉郡長瀬村布巻寺と記載されてあるのもあるが、これは玉林寺の住職によって観音様の供養が行われていたためであろうと考えられる。