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中副の龍宮社(ひやーらんさん)
久保田町徳万の交差点から南へ1.5km、中副下りバス停から東へ20m、中塚被服kkの西側に石造の龍宮社(ひゃーらんさん)がある石祠の右の扉には、小路、福島、中新江、下新江、村中三興と、左には「享保十六年辛亥(1731)三月如意再建」と刻まれている。このことから、それ以前に創建されたものと推察される。 境内の左にある水盤には、「施主当村中、安政三年(1856)丙辰六月吉日、石工平七」と刻まれている。左右の常夜燈には「安政五年(1858)戊午霜月吉祥」と刻まれている。 常夜燈の上には小さな狛犬が乗っている。龍宮さんのお水入れには「奉献古賀喜平次」と刻まれたのがあるが年代は不明である。往時、嘉瀬川は嘉瀬橋から草木田、中副の龍宮社前、土井の古賀の東側を八の坪、大立野へと流れていた。その土井(居)は道路でもあり、嘉瀬橋から大立野に通ずる重要な幹線道路であった。(圃場整備の際、この土井はなくなった。) この龍宮社は水神様で、旧暦の3月中は水難をのがれるために近隣各地からの参詣者で賑わった。特に奇数日はご利益あらたかと言い伝えられていた。 その時期になると、中副では、集落総出で藁ぶきの小屋を建て、お守札を頒布したり、駄菓子、ラムネ、トコロ天などの店を出した。掛小屋の舞台で、芝居やにわかなど上演されたこともある。 また境内一ぱいに筵を敷き、持ち寄ったご馳走をひろげ、酒を汲みかわしながら歌や踊りに興じた集落団欒の行事でもあった。 ひゃーらんさんは水難よけの神様として、また集落の氏神様として、250余年前から今日まで静かに鎮座されている。
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朝倉弾蔵尚武
明治7年(1874)4月13日早朝佐賀城内の刑場の露と消えた朝倉尚武は、通称を弾蔵という。天保13年(1842)佐賀藩士の家(東寺小路、久納屋敷の南)に生まれ、弘道館に学んだ。特に兵学に優れていたという。 維新戦争では、佐賀藩隊の軍監付きや小隊長として奥羽に転戦凱旋後、東京遊学を命ぜられて昌平黌に入り、明治4年(1871)に帰郷した。 この年、佐賀藩の兵制改革で二個大隊が編制され、一番大隊長に任命された。 廃藩置県の際には、政府の命令で、一大隊を率いて上京。陸軍少佐として東京鎮台に入った。間もなく帰郷して養蚕を始めた。明治6年(1873)に佐賀県権大属となったが、8月辞職して上京。10月征韓論が決裂して副島、江藤の辞職に遭い、江藤と協議の上、11月佐賀に帰った。 そして、同志の中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八、櫛山叙臣らと協議して征韓党を組織し、朝倉、中島、山田と隊伍の編制を担当した。 佐賀戦争では、征討軍に対する陽動作戦として三瀬峠に陣し、福岡県早良郡内にも出没した。六角耕雲、勝谷親康、今泉千枝らが幹部として戦ったが、戦い利あらず、朝倉は後事を六角耕雲に託し鹿児島へ走った。3月10日市来駅で官憲に自首、佐賀に護送されて斬罪となった。34歳。 三瀬峠(佐賀市三瀬村大字三瀬字境峠、福岡市早良区大字曲渕との境界の峠)における朝倉勢はわずか10挺の小銃しか持たなかったが、征討軍と福岡県貫属隊を大いに悩ませた。これを見た征討軍の山田顕義少将が「ここの佐賀兵を指揮しているのは、多分、朝倉弾蔵に違いない」と言ったという。 明治16年(1883)ごろ、司法卿時代の山田顕義が佐賀を訪れた際に、乾亨院(佐賀市中の館町)にある朝倉弾蔵の墓に参った後、山中一郎の墓参もして両家に香典を届けたという。山田は朝倉とは陸軍少佐時代の旧友であり、山中には、山田が外遊したとき世話になったからということらしい。 また東京で朝倉が江藤に会った時、江藤が「もし佐賀で挙兵したら何人ぐらい集まるか」と問うと、朝倉は「二個大隊ぐらい集まる」と答えた。後で朝倉は「実力では二個大隊どころか、二個小隊もない」と語ったという。 朝倉は豪快な武人であった。友人の徳久恒範が朝倉に「鹿児島の桐野利秋に会ったらどうか」と勧めたところ、朝倉は「桐野は単なる人殺し男である」と答えながら、続いて「それでも桐野が自分と事をともにするというなら自分は辞せない」と桐野を褒めた。そこで徳久が桐野をなじると、朝倉は「もし桐野と自分が同数の兵力を持って戦ったら、自分が桐野の首を頂戴できる。」と言って大笑いしたそうである。 幹部12名と共に賊徒の汚名を受け処刑されたが、その後明治22年(1889)2月11日に大赦令により青天白日の身となる。 墓は中の館の乾亨院にある。(乾亨院は水ヶ江城の本館のあった所で、永正年間(1504〜1521)に龍造寺家兼が建立したと言われ、水ヶ江龍造寺家の一門、特に諫早家の祖を祀る。四徳山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は聖観世音菩薩、明治7年の佐賀戦争で戦死した熊本鎮台兵の合葬碑がある。)