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八坂神社
【祭神】素盞嗚尊 後宇多天皇、弘安4年(1281)の勧請(かんじょう)である。その後、寛永19年(1642)、藩主鍋島勝茂が社殿を造営し、時々、与賀、川副両郷のため、五穀豊穣、悪役転除の祈願を行った。 明治6年1月、村社に列せられ、大正元年11月26日、神饌幣帛料供進の指定を受けた。 同じ境内に、粟島神社がある。女性の守護神、病気平癒、商売繁昌の神として、全国に聞えている。施薬の神「大黒天」及び諸病、諸難を救い給う「少彦名命」を祭神とし、俗に「粟島大明神」として、広く信仰を集めている。 約1,300年前、人皇20代孝徳天皇の世、大財村にいた役行者(えんのぎょうじゃ)が金剛山に参籠して、「大黒天」を感得し、霊像を刻んで、ここに祀った。また、霊夢によって、「少彦名命神住吉宮」を勧請し、これを合祀して、船乗りの守護神として、敬われた。 足利の戦いのとき、戦火で焼失したが、鍋島勝茂が、八田津の祇園宮(八坂神社)の側に造営されて今日に至った。最近では女性の参拝者が少なくなかったが、毎年母子連では、粟島社を招いて、針供養を行なっている。 なお、勝茂公夫人から奉納された雛人形が保存されている。 外に、鍋島町東新庄の埋立地にあった猿田彦の大神など30柱が、境内に合祀されている。すぐ近くの公民分館の横に、「イボ地蔵」が祀られており、イボ取りに、大豆を年の数だけ上げて、祈った後地中に埋めておくと、豆が腐ってなくなるときには、イボが治ると言うので、参詣する子ども達がある。
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八龍神社
社号 八龍宮 祭神 綿津見神・龍田大神 明治4年に提出された神社調差出帳には次のように記録されている。 「人皇38代天智天皇の御代大職冠藤原鎌足の末孫 藤原内匠は藤原山の領主であったが、建久2年(1191)に上京するとき、海上で暴風雨にあい、船が難航してあわや沈没しそうになった。内匠は一心に八龍宮を念じ、「私がもし遅滞なく岸に着くことができたら帰国の上は領地宗廟の神として崇め奉ります」。と祈誓したところ、不思議に風波が静まって無事に岸に着くことができた。そこで帰国ののちそのときの誓を守り、翌建久3年4月上旬に八龍宮を造建して綿津見神(海神)を祀り、藤原山村の宗廟として崇敬し、家来の山本左京太夫貞房を神主に命じた。この地は内匠の居住地であったので藤原村とよんだと伝えられている。これまで八龍宮と称して いたが、明治の御一新によって綿津見神社と改称した。」 原文には和多津見神とあったが綿津見神に改め、読みやすくするため訳文にした。 社名改称のことは一般には知られていない。土地の人は現在でも八龍宮または八龍神社とよんでいる。 山内に海神が祭られている不審は前記の由緒によって氷解するが、このほか、少彦名命・淀姫神など海に関係の深い神々が数多く祭られているところをみると、三瀬山内には海を渡ってきて定住するようになった人々が多かったことを示すものであろう。 祭神の綿津見神は、上津綿津見・中津綿津見・底津綿津見の三柱の神で安曇連の祖先といわれ、志賀島を本拠とした海人族が祖神として斎き奉った神である。 また、綿津見神のいるところを綿津見の国と言い、ここが龍宮城の所在地であるという説もある。 このように八龍宮は海上鎮護の神として祭られ、伊勢参りやカミマイリをするときには海上の安全を祈願する人々も多かった。 祭神の龍田大神については、明治14年に記録された長崎県庶務課誌の三瀬村誌の部に提出されているので近代になって合祀されたものであろう。 龍田大神は奈良県生駒郡にある龍田神社の祭神天御柱命・国御柱命と考えられ、古来農耕生活の守護神として尊信されている。龍田の風神祭は天武天皇4年(676)に始まり、広瀬神社の大忌祭とともに、風による災害をしずめて豊作を祈る祭で、古くから有名である。 八龍神社は海上鎮護の綿津見神だけでなく、この農耕生活の守護神を合祀することによってこの土地にふさわしい神社となり、郷民の尊崇はますます厚く、年々祭祀を行なって今日に至った。