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斎藤茂吉
歌人 日本歌壇の重鎮でアララギ派の総帥一歌人斎藤茂吉(当時長崎医学専門学校教授)が、古湯温泉に滞在していたのは、大正9年(1920)9月11日から10月3日までの約3週間であった。茂吉の日記に 「8月30日に友と二人で、佐賀県唐津市の海岸に転地療養していた。9月11日の朝、唐津を去り、1人になって、南山村古湯温泉に来た。ここへ来てから痰がだんだん減って、血の色がつかなくなった。2、3日してからはじめて「あらたま」の草稿の入っている風呂敷を広げて心しづかに少しづつ歌を整理して行った。9月30日には編輯を終えた。山中のこの浴場も僅かの間にひっそりとして行き、流れる如き月光が峽間を照らしたら、細く冷たい雨が終日降ったりした。むらがり立っていた曼珠沙華も凋んで、赭く金づいた栗が僕のいる部屋の前にも落ちたりした。山の祠の公孫樹の下には、いつしか黄色に熟した銀杏が落ちはじめて、毎朝それを拾うのを楽みにしていると、ある朝「ギナンヒロフコトナラヌ持主稲口熊蔵」という木の札が公孫樹にぶらさがっていたりした。10月3日に、すべてに感謝したき心持ちで古湯を立った」と記してある。 うつせみの病やしなふ寂しさは 川上川のみなもとどころ 茂吉 この短歌は、昭和37年10月3日、川上川河畔に建立した歌碑である。当時、茂吉は、長崎医専(現長崎大学医学部)の精神病学の教授で、当時流行していたスペイン風邪が悪化して静養中の折、長崎市から唐津市へそして古湯に転地療養していた頃のことである。 茂吉は大正9年9月11日から10月3日まで約3週間古湯に滞在し、古湯での作歌38首を残している。歌碑に刻んだ作品はその中の一首である。 原文は原稿用紙に筆で書いてあり、それを写真に撮り引き伸ばして自然石に彫刻したもので、10月3日の除幕式には東京から輝子夫人も古賀残星も出席してくださった。 茂吉は山形県に生まれ、東京大学医学部を卒業、歌誌「アララギ」を主宰し、多くの歌集を出版している同派の最高峰であった。 ※写真3枚目は平成5年建立の歌碑。
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色絵{流水文碗(台付)、瑠璃地桜花散らし文碗(台付)} 二組
重要文化財
安政2年(1855)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載される「古南京染付御天目 二」「右御臺 二」に該当する作品である。 碗は二口ともに高台内を断面がアーチ状になるように削り込んでいて17世紀の茶道具の碗の高台削りに共通し、同様のものが有田の谷窯床下層から出土している。 色絵流水文碗(台付)の碗は、内面に透明釉(ゆう)を掛け、口唇部に呉須(ごす)を一周塗る。外面に染付のダミで水面をあらわし、染付の線書と金により流水文を描く。外面の地と高台内を緑に塗るが塗りむらが著しい。台は、上部に碗外面と同様の染付と色絵を施す。台の高台外側は二重圏線と波文様を染付で描く。羽の裏は透明釉を掛け、一重圏線と花唐草を染付で描き、ハリ支えの熔着痕を緑で唐草文を描いて隠している。 色絵瑠璃地花桜散らし文碗(台付)の碗は、内面と高台内に透明釉を掛け、外面は桜花を除いて濃淡二種の瑠璃(るり)釉を掛けわけている。桜花は呉須で線書して透明釉を掛け、赤と金で花弁をあらわし、花芯に緑又は黄をさす。金彩は良好な仕上がりとはいえず、色絵の技術が未完成の状態を示している。台は、上部に碗外面と同様の染付と色絵を施す。羽の裏は透明釉を掛け、ハリ支えの熔着痕に黄をさして隠し、二ないし三おきに赤の花弁を描き加えて花とし、緑で唐草文を描く。 色絵流水文碗 口径13.0センチメートル、高さ 7.6センチメートル、底径 4.7センチメートル。 色絵瑠璃地桜花散らし文碗 口径13.1センチメートル、高さ7.0センチメートル、底径 4.9センチメートル。 この2組の碗は、器形と形成の特徴が同じであり、同時期に同工房でつくられた一対のものと考えてよく、双方ともに列状のハリ支えなど、のちの鍋島焼に通じる特徴があり、とくに、瑠璃地桜花散らし文碗には、鍋島焼に多くみられる濃淡二種の瑠璃釉の掛けわけがなされている。しかし、流水文碗には、有田の初期色絵、とくに青手様式と通じる濃密な緑の地塗りがみられる。 以上のことから、この2組一対の碗は、有田御道具山から大川内鍋島焼への過渡期に位置し、大川内(おおかわち)鍋島焼の前身的な窯である有田岩谷川内の御道具山で制作されたものと推定される。双方とも色絵に金彩を使用しているが、この技法は柿右衛門文書により1650年代後半に始まったと推定されており、本作品はその開発期の作例としてきわめて貴重である。 (写真:鍋島報效会提供)