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佐賀藩家老の菩提寺妙玉寺
妙玉寺は、佐賀藩の家老格で仕えた鍋島茂里の鍋島主水家と鍋島茂賢の深堀鍋島家の菩提寺です。茂里は、一時期藩祖鍋島直茂の養子となりましたが、後、神埼に土地を与えられ一家を起こしています。慶長15年(1610)42歳で亡くなりました。茂賢は、茂里の弟で長崎の深堀鍋島家の養子となり同家を継ぎ正保2年(1645)亡くなりました。両人共龍造寺、鍋島に従い武功を重ねた重臣でした。境内に墓塔があります。 また、殉死者が葬られていることでも有名です。佐賀藩では、仕えた主人が亡くなると、それに殉じて追い腹(殉死)を切る家来が多かったと言われています。境内東に茂賢夫妻を中央に両側に茂賢に殉死した藩士達22人の墓塔が並んでいます。この22人は、茂賢指揮下で戦った柳川合戦の時共に討ち死にを約した間柄でした。その45年後に茂賢が病死すると共に追い腹を切り殉死しています。家老身分でそして病死で、家来が殉死することは大変希な出来事と言われています。
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願正寺
関ケ原の戦いに鍋島勝茂は西軍の豊臣方に加わり、伏見城を攻め下し伊勢の阿濃津城を攻めている間に、東軍の徳川方が勝利し西軍は敗北した。このため鍋島勝茂はたちまち進退に窮してしまった。このとき、小城出身の金持院元佶長老と、西本願寺の准如上人が、中にたち斡旋につとめたので、鍋島家も危機を脱することができた。これによって鍋島家では元佶長老のため小城に三岳寺を、西本願寺のためには、佐賀に願正寺を建立して報うることにした。願正寺には鍋島家から四百石の寺領を与え、また三岳寺にはその門前を寺領となしたので、今でも寺の一帯を門前と云っている。後に南禅寺の住職にもなった。佐賀藩領にはドミニコ会やイエズス会のキリスト教会があったが、その導入の際には、仏僧との対立で大変険悪な状態であったが、多くの反対のなかで元佶長老はこれを快諾したので、これを聞いた人は驚嘆し、なかなか信じることができなかったと云われている。願正寺は、鍋島家のためによく勤めた。寛永2年洪水のため千栗堤防が2ヶ所決壊したときは、国内の門徒を集め、その一手だけで天建寺前の660米を修復した。費用も門徒で負担したのでこれを御馳走土井と云うようになった。また、天明年間には、杵島干拓の潮止め工事に人夫を延べ3万6千人を出し完成を助けた。愛宕神社前の川を『新堀川』又は『真宗堀』と呼んでいるが、これは願正寺建立後、鍋島家が領内の真宗僧侶門徒はすべて西本願寺派の願正寺に所属するようお触れを出した折り、それに従わなかった他派の人々がいて、首謀者が捕らわれ鎮静し、首謀者は許されたがその罪を償うために掘らされた堀である。明治16年初の佐賀県臨時県会が願正寺で開かれ、明治19年まで同寺で県会が開かれたこともあった。願正寺の鐘が佐賀城本丸の時太鼓とならんで、佐賀城下の時鐘として用いられたのは、元禄9年(1696)からで佐賀城本丸の時太鼓は、藩役人の出勤時刻を知らせていたが、願正寺の時鐘は佐賀城下の市民一般に時刻を報じていた。この願正寺の鐘にヒビが生じたので、造り替える金もなかったので、春日村の『玉林寺』の梵鐘を譲り受け高寺付近から時の鐘を鳴らし、昭和3年4月に廃止した。願正寺鐘楼は全体的に屋根造りは重厚で美しい線形をしており、鐘楼としては伊勢町の真覚寺が佐賀市の文化財に指定されているが、これに勝るとも劣らないものである。