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長尾山年譜
重要文化財
『長尾山年譜』は、第1巻、第2巻、第3巻の上、第3巻の下、第4巻と区分され、全5冊からなっている。本年譜は「肥前之州、佐嘉県、河副江上、護国長尾山福満寺年譜序」より書きはじめてあり、当寺の開基の由来、各世代住持における出来事、皇室や武将との関係とその信仰状況、伽藍再建の模様、寺領及び寺有地の内容、各種の年間行事仏事法要などについて詳細に年代順にしたためてある。 本年譜には、各巻の巻末奥附に記録年号が奥書してあり、第1巻は「貞享三年九月初七夜染毫」とあるので貞享3年(1686)9月から、したためたものである。したがって、それ以前の開基より鎌倉、室町、桃山の各時代の年譜は、その当時、当寺に所蔵されていた各種旧記や文書、伝承によって記されていた各種旧記や文書、伝承によって記されたものであろう。 第2巻は、貞享3年9月に書かれたものを汚損甚だしかったために「享和元年夏五月住諦観識」として再写してある。したがって、最初に記録されてから150年後享和元年(1801)に再録されたものである。 第3巻の上は「貞享三丙寅十月二十一日書了」とあり、第3巻の下と第4巻は「貞享四年正月十三日書了」とあるので、2年にわたって記録された年譜である。
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江藤新平
天保5年(1834)〜明治7年(1874) 佐賀藩士江藤助右衛門の第1子として佐賀城下八戸町に生まれる。名は胤雄、号は南白。11歳で弘道館に入学、19歳で枝吉神陽に学び、義祭同盟に参加、22歳で開国論をとなえた。28歳の6月脱藩して京都へ上り、尊皇運動の中心となっていた公卿の姉小路公知と会う。8月佐賀に連れ戻され、永久閉門となる。慶応3年(1867)閉門を許され(※)、京都で倒幕運動に専念する。明治元年(1868)官軍の軍監となり彰義隊を討つ。大木喬任と連名で江戸遷都を建議、7月鎮将府会計局判事となり、東京の民生に尽くした。明治政府内では立法・制度において偉大な功績があり、明治5年(1872)司法卿として司法制度の基礎を作った。明治6年(1873)参議となる。征韓論を主張したが敗れて参議を辞任、板垣退助等と民撰議院の建白をしていれられず、佐賀に帰り、佐賀県士族におされて、島義勇の憂国党と組み佐賀の役を戦ったが敗北、佐賀城内で処刑された。 墓は佐賀市西田代町本行寺にある。維新佐賀の七腎人の一人である。 ※『鍋島夏雲日記』p313(上峰町、2019年)によれば、元治元年(1864)。