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福地ノナの最期
戦国時代の北九州は、龍造寺隆信が支配をしていた。ところが天正10年(1582)島原の有馬氏は隆信に従わず島津氏と通じたため、天正12年3月24日、隆信は2万5000余りの大軍を率いて、有馬・島津の連合軍を島原に攻めた。 島原沖田畷の戦いは兵力で圧倒的に優位に立っていたが、運命の神は隆信には味方せず、龍造寺軍は散々に打ち破られていた。覚悟を決めた隆信は、自害をしようと腰をおろしたが、側近の家来たちも散り散りになり、側には小姓の鴨打新九郎、田中善九郎、福地千などが従っていた。3人とも16才の若武者であった。福地千は、千の字を上下に分けるとカナのノとナになることから、ノナと呼ばれていた。隆信は3人を呼び、手ずから己れの髪を切り、それを分け与えながら、 「お前たちは、まだ歳も若いので、今この戦場を逃れて国へ帰っても誰も卑怯者と罵りもしないであろうから、早くこの場を去れ」と、云いきかせた。しかし、3人は隆信のいうことを聞かなかった。 まず、鴨打新九郎は、 「殿のお言葉はたいへん嬉しく存じます。しかし弓矢とる武士が主君を見捨てて逃れることがどうしてできましょう。私は殿の前で立派に討ち死にをしますので、お許しください」と、一礼して家来と一緒に、島津勢の中へ斬りこみ、壮絶な死をとげた。それを見た田中善九郎と福地千は、涙を流して、 「私たちも鴨打に遅れをとってはなりませぬ。私ら2人、殿の死出の御先をいたします」と、鴨打同様、島津勢に斬りこみ、最期をとげた。これを見た隆信は、もうこれまでと、 「龍造寺隆信これにあり、首打って手柄にせよ」と声高に呼ばわって、腹に短刀を突き刺した。その首は島津の侍大将河上左京亮が討ち取った。 悲壮な最期をとげた3人の若武者のうち、福地千の縁故者により、明治17年に龍顔寺に記念碑が建立されている。
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保喰神社
保喰神社は赤い鳥居が示すように稲荷社と同じである。明治の記録には稲荷社となっている。記録では境内は42坪氏子224人と記されている。 神社入り口の鳥居には「肥前州佐嘉郡東西村高平山 蔵福坊良政貞亮四年」と刻まれている。これは明治初めまで蔵福坊隣りの権現社のものだそうである。 明治初めまで蔵福坊に田原盤門氏が住んでいて田原氏の祖先田原伊勢守尚明は、大友宗麟の家臣であったが、宗麟に諫言して怒りにふれ浪人になり龍造寺に仕え東西に領地をもらい住んだそうである。長男は修験者となり蔵福坊と称したそうである。