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東西の「蔵福坊」
田原伊勢守尚明は大友宗麟の家臣であったが、今山の戦いの際、宗麟に諫言したが用いられず怒りにふれ浪人となった。そこで、龍造寺に降り、佐賀東西に領地を受け住むことになった。その長男は感ずるところがあって、修験者となり蔵福坊と称した。以後、天正7年には熊野権現社を同地に勧請し、氏名を代々世襲にし、明治20年ごろまで祈祷を続けていた。 蔵福坊の祈祷所は東西にあったが、勧請した熊野権現は現在、権現堂の修理田神社となり、境内には巨楠、老松あり、いかにも往時を物語っている。東分下を権現堂と呼ぶのはこの堂に由来する。また、この辺りを千本山というがそれは田原家調練所跡と伝えられている。 現在長江寺横、東西稲荷神社前(※)に建っている鳥居は、明治時代まで蔵福坊御坊397番地に建っていたものと言われ、「東西村高平山、保食社蔵福坊良政貞亨四年」と刻まれている。徳川綱吉の生類憐みの令が、出された年に作ったもので、歳福坊が専心郷土の五穀豊穣を祈願したものと思われる。この一大勢力を保持した蔵福坊も時代の流れには抗することができず、いつしか彦山権現に移ってしまった。 ※東西稲荷神社とは保食神社のこと。長江寺は保食神社そばにあった寺で、すでに廃寺である。 ※写真は保食神社鳥居。蔵福坊の名前が刻されている。
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にこにこ福笑い恵比須
(所在)佐賀玉屋「ふるさと館」 南西 (愛称)にこにこ福笑い恵比須 一般的な半跏えびす像である。比較的新しい。 与賀神社には土地開発などでもとの場所に置いておくことのできなくなったえびす像をあつめてあるが、そこから勧請した。勧請以前のことは不明。 えびす像による町おこしや商売繁盛といった願いもあるが、このえびす像が祀られている交差点は交通事故が多いため、交通安全の意味もあるということである。 2007年8月27日は、塩と榊(枯れていた)があがっていた。10月6日の再調査時も同様だった(なお、榊は枯れてはいなかった)。ちょうど取材の時(朝10時ごろ)、ふるさと館の方が榊の水を替えていた。 このえびすは、神道の形式で祀っているように思う。