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海童神社
丸目中程で信号機四角の左側にある。祭神は龍神であり丸目氏子の建立といわれている。祭典は旧11月1日と旧15日に行う。 竜王神社と海童神社も漁村に多いが、漁業との関係は直接でなく、漁村が一般に海岸近くにあって、海の被害を受けやすいために祀られているので、海の被害を受けて、海波の静穏と堤防の安全を願う沿岸住民の職種をこえた信仰である。有明海沿岸は沖積平野が広く存在しているため海面との高低の差がほとんどなく大暴風雨に見舞われ堤防が決壊すると沿岸住民は大被害をこうむるのであって、古来いくたびとなくその辛酸をなめ、海波の静穏と堤防の安全を祈念したとされている。
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五龍神社
往古当地方の豪族(一族36家)田中という長者が、広く商業を営み巨万の財を蓄え、常に大船を浮かべて各地と通商、大陸とも交易しまわったために、海上の平安を祈り龍神を信仰していた。 ある夜、霊夢によって村の西方の西河水中から危難除去の守護神の黄金色の霊石を得たから、村の西隅に一祠をたてて五龍社と称して一族の繁栄福祉を祈った。これすなわち、欽明天皇26年、西暦564年(※1)のことである。 これを聞き伝えた里人も大いに感じ、鎮守の神として崇敬するようになった。のちに與賀神社の摂社となり二の宮と称せられた。元和年間(1615~1624)藩主鍋島直茂が(※2)親しく参拝し、社殿を造営し、祭祀料並びに修復料として八戸村の田地、四町八反を奉献し、境内に松、杉、楠一千本を植栽し、続いて勝茂の代には家臣多久長門に命じて七社明神を配祀して、藩政時代には神事祭典の儀は八戸宿及び八戸村にてすこぶる盛大にとり行われた。明治6年村社に列せられた。当神社付近の水田には古代土器(素焼き)の破片が広く、また数多く散逸しており、繁栄していたであろう古代社会の様子がしのばれる。 また当社南側に小さな土祠あり、ご神体引き上げに使用した縄等を納めた所と伝えられている。(祠名に南無阿弥陀仏とある。) ※1欽明天皇26年は西暦565年 ※2『佐賀県近世史料第10編第4巻』(佐賀県立図書館、平成28年)掲載の「八戸村五竜大明神縁起記」の解題によれば、「当宮を崇敬していた鍋島直茂室(陽泰院)が元和年中に信州太守(勝茂)建立を願った。社殿修復のため八戸村で四町八段の点役米が免除された。」とあり。