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[旧佐賀市][本庄校区]は185件登録されています。
旧佐賀市 本庄校区
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英彦山詣り
正里の北の鬱蒼たる樹木のなかに社がある。三隅権現と呼ばれて、彦山権現が祀られています。 正里区では昔から住民代表が3月頃の農閑期に福岡県の英彦山詣りをしていました。また毎年12月15日には赤飯を蒸し、住民総出で村祭りをしていました。 昔の代参の者は、徒歩で田代、甘木、小石原をへて、英彦山に登る。3泊4日の日程も農民にとっては楽しい旅で、御札の他、飯杓子、英彦山ガラガラ、藁草履などの土産を持って各戸に配りました。
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伊勢祭
佐賀藩は昔から伊勢(三重県)の皇大神宮を信仰する伊勢講が盛んでありました。講仲間でお伊勢参りの路銀納金を積みたて、代表者が輪番で代参していました。
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疱瘡神祭り
正里区東入口に祀られている二十三夜さんは、昔、天照皇大神宮塔と共に、英彦山権現(三隅田)の境内にあり、疱瘡神として有名であった。
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三夜待
(23日) 廿三夜講は毎月二十三夜に行っていました。三夜とは二十三夜の略称で、本尊は勢至菩薩であります。
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六夜待
(26日) 本尊は愛染明王で二十三夜待ほど盛んではありませんでした。
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本庄町地域の平野の成り立ち
弥生時代中期(約2,000年前頃)の有明海の海岸線は、佐賀市街を東・西に貫通している国道264号(通称・貫通道路)の線とされている。この付近は、海抜4m(当時の暴潮位)で、この頃の人々の居住圏の南限といわれている。それ以降、河川などの営力によって自然陸化の平野が南部に進展し、開墾が始められた。鎌倉時代(1200~1338)には、川副町南里~本庄町上飯盛~嘉瀬町中原を結ぶ線(海抜3m・大潮平均高潮位)が海岸線で、ここまで自然陸化が促進された。この線が、開墾から干拓に移る漸位線に位置付けられ、これから以南(東与賀町)は、人工的干拓によってさらに平野が進展している。 このような平野の進展から見ると、本庄町地域は、弥生時代中期から鎌倉時代にかけて自然陸化により立地した平野と言える。『慶長年中肥前国絵図』(1596~1614)には、本庄、鹿子、末次、袋、里(厘)外、(上)飯盛が表示され、石高が記してある。これから集落の成立を知ることができる。
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梅林庵凱旋柿
梅林庵の墓所内に1本の柿の木がある。これを凱旋柿と呼んでいる。藩祖・鍋島直茂が朝鮮出征から凱旋の時持ち帰った柿の木をここに植えたものと伝えられている。直茂が少年期に梅林庵で修学、成長した縁で凱旋を機に贈ったものと推察されている。現在の木は原木に接ぎ木されたものと言われ実の太い澁柿の種類である。
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高傳寺八太郎槇
本堂の前庭には槇の大木が左右に根を張って威容を誇っています。この槇の愛称である八太郎は、郷土の生んだ大政治家大隈重信侯の幼名にちなんだもので、侯が少年の頃、両親に伴われて来れば、必ずこの槇の木に登って遊んだことから付けられた名前です。
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萵苣の木
萵苣の木川のチヤノ木(正しくはチシャノ木)とは、別名カキノキダマシという植物で、柿の木に姿形が非常に似ている。現在道祖神社南を流れる川端の東の屋敷に1本あり、本庄町内には溝口南と中島の古川氏宅に大木が繁茂していたが、溝口の木は数年前に切り倒されている。
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本庄町地域の主要な河川
本庄町地域が、陸化し平野地として成立すると、干潟の時の澪(みお)筋が江湖または江と呼ばれる平野に源流をもつ(上流を海抜4m)感潮河川が生成された。これが町中央部を南流していた小津江であり、東部を流れる八田江(古江湖川)であった。今は、僅かに旧江湖筋の名残りを留めるのみとなっているが、これら旧河道が主要水系となっている。 また、山地に源流をもつ河川(嘉瀬川〜多布施〜天祐寺川)の末流・萵苣木川が、町西部を南流している。この3河川が、本庄町地域の往時の主要河川で地域の生業、農業に大きな役割を果たし続けてきた。今では水系の改編・改良で整備が図られているが、本庄町地域の主要河川に変わりはない。
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本庄町地域のクリーク網
堀は、クリークとか溝渠ともよばれ、灌漑排水、生活用水、たんぱく源供給など農・漁業、日常生活に重要な役割を果たしてきた。本庄町地域内も縦横無尽、網の目のように張り巡らされていた。域内のクリークには自然的成因である、干潟時代の澪(江湖)及びその支流や旧河道が堀、いわゆる自然堀(江湖堀)として遺存するもの。また、灌漑排水用として設けられたもの、集落形成や宅地造成用の土取りとして掘削されたもの、人為的成因のものがあった。南北方向の堀が導水的機能をもち、東西方向の堀が貯水的機能をもっていた。およそ海抜4m線あたりが多布施川末流と江上流との結接点となっている。これによって多布施川水系からの淡水がひかれ、灌漑・生活用水が維持されてきた。 本庄町地域の水田面積に対する用水堀の占める面積の割合は、水田面積479町に対し用水堀面積は49.8町で10.4%となっていた。(『佐賀平野における農業水利事業の沿革』による。)その様相は、本庄村当時の『本庄村水路要図』(古野尚司元本庄公民館長作成)で窺うことができる。今日では、往時の河川・水路の状態が圃場整備事業や宅地造成等の開発で大きく変化している。
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大井手幹線下流部〜萵苣木川
多布施川の分流・天祐寺川が南流、天祐、中折、長瀬町を経て、ここから(六長橋)厘外、西与賀方面の天祐寺線と本庄、東与賀方面への大井手幹線水路(下流)とに分かれる。大井手幹線は、道祖元町を過ぎ本庄町東・西寺小路の間を南流。溝口に入り、ここで高傳寺川に分水、また、溝口集落東、水田地帯の堀に分水する。さらに正里、上飯盛を経て東与賀町に流下し、南部水田地帯の農業用幹線三面水路となっている。 以前は、本庄区間の、川の土手には萵苣木が植えられ、並木をなしていたので、萵苣木川、萵苣木堤(デー)と呼ばれていた。この川に由緒のある橋名の「法無乱橋」、「萵苣木橋」、「周防殿橋」などが架けられている。
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大覚寺井樋水路(小津江旧河道)
伊勢町の大覚寺井樋(大覚寺東南角)から導水、伊勢町、西田代、与賀町から本庄町中央部を貫流し、西与賀町丸目の本庄江河口に至る用・排水路である。佐賀市は、昭和55年(1980)大覚寺井樋水路(排水路)として指定した。町の西・南部域の灌漑用水供給と排水機能を持たせる幹線水路としての機能を果たしている。 市街地から町内に入り十五川(堀)に流れ、十五縄手橋~佐賀大学構内貫流~西頭橋南で二つに分かれ東は、蔵橋を経て本庄小学校西の浜橋に至り、灰塚方面の用水堀となっている。本流は、西に折れ、慈姑田堀から慈姑田橋(橋親柱は貝田橋となっている。)、岩崎橋、ここから南流、西川内集落内を流れ、梅林寺橋、官人橋が架かる。さらに南下、正里を過ぎ、鹿子に至るが、圃場整備で、昔の一町六反橋、石井殿橋、夫婦橋などがなくなった。鹿子から西に折れ上飯盛に入ると妙院橋、上飯盛橋、宝伝寺橋が架かる。宝伝寺橋傍に常十井樋(上飯盛制水門)が設置され、これで流域水田地帯の用排水の調節が図られている。ここまでが大覚寺井樋水路である。 これから南、東与賀を経て西与賀町元相応、丸目に達し、自然排水のドンポ(呑接尾)井樋から、本庄江河口に流している。また、ドンポ井樋傍に湛水防除の強制排水施設丸目排水機場がある。 この大覚寺井樋水路の本庄町地域以南は、小津江の旧河道と言われている。「文明14年(1428)頃、少弐政資の居館与賀館(城)付近に小津江の入江があり、商家軒を並べて喧騒なりしをとがめ、入江を西郷に移し、両岸の在家を分けて東岸の移るところを今宿、西岸の移るところを今津とした。」(『佐賀市史』第1巻)との記述からして、室町時代までは、小津江は舟運の往来に重要な役割を果たしたことが想像できる。
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善左衛門井樋水路〜古江湖川
多布施川に架かる善左衛門橋傍の井樋が善左衛門井樋(伊勢町・川原町境)である。これからの導水が、川原町、伊勢町、与賀町精を貫流し、本庄町に流入する。県道東与賀・佐賀線(佐賀大学東)に沿い南下、鬼丸町に達し境橋が架かり、これから大井樋辺で古江湖川に繋がっている。ここまでが善左衛門井樋水路で、昭和56年(1981)に市はモデル水系に指定している。この下流が古江湖川となり、準用河川となっている。大井樋あたりを古江湖川上流部に、大井樋・末次・満穴・中島を西に、袋・八田を東に流路をとり、八田最南端の樋門を通して八田江に合流している。この古江湖川から流域内の堀(クリーク)へ分水が図られ、灌漑用排水の制水機能を果たしている。元々の八田江の上流部であったが、今の八田江の上流部が新しく開削されたので、旧河道となり、古江湖川となっている。
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鍋島直正夫人盛姫
盛姫は11代将軍家斉の最も愛する姫で15歳のとき、12歳の花婿直正に文政8年(1825)12月27日輿入をなす。直正は天保元年(1830)17歳になり家督を相続し、10代藩主となった。当時の藩の財政は度々の風水火災にて窮迫していたので藩政改革を決意した。 天保6年(1835)困窮の佐賀藩に追い打ちをかけるように佐賀城二の丸が焼失した。この時盛姫の斡旋によって幕府から築城費を2万両貸与された。これが基となって天保9年(1838)に新城は完成した。直正が右近衛少将に昇任したのも盛姫の働きによるものであった。 また盛姫は進んで藩の改革節減に協力し費用を節約した。当時の騒然たる社会情勢の中にあって、英明な直正は西洋知識を導入し、長崎警固に励み、維新の人材を生み、数々の業績を残した。盛姫は夫君を助け貢献したが、37歳の若さで、弘化4年(1847)に逝去した。高傳寺墓地内に「文粛夫人」と標された墓がある。
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朝倉弾蔵尚武
明治7年(1874)4月13日早朝佐賀城内の刑場の露と消えた朝倉尚武は、通称を弾蔵という。天保13年(1842)佐賀藩士の家(東寺小路、久納屋敷の南)に生まれ、弘道館に学んだ。特に兵学に優れていたという。 維新戦争では、佐賀藩隊の軍監付きや小隊長として奥羽に転戦凱旋後、東京遊学を命ぜられて昌平黌に入り、明治4年(1871)に帰郷した。 この年、佐賀藩の兵制改革で二個大隊が編制され、一番大隊長に任命された。 廃藩置県の際には、政府の命令で、一大隊を率いて上京。陸軍少佐として東京鎮台に入った。間もなく帰郷して養蚕を始めた。明治6年(1873)に佐賀県権大属となったが、8月辞職して上京。10月征韓論が決裂して副島、江藤の辞職に遭い、江藤と協議の上、11月佐賀に帰った。 そして、同志の中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八、櫛山叙臣らと協議して征韓党を組織し、朝倉、中島、山田と隊伍の編制を担当した。 佐賀戦争では、征討軍に対する陽動作戦として三瀬峠に陣し、福岡県早良郡内にも出没した。六角耕雲、勝谷親康、今泉千枝らが幹部として戦ったが、戦い利あらず、朝倉は後事を六角耕雲に託し鹿児島へ走った。3月10日市来駅で官憲に自首、佐賀に護送されて斬罪となった。34歳。 三瀬峠(佐賀市三瀬村大字三瀬字境峠、福岡市早良区大字曲渕との境界の峠)における朝倉勢はわずか10挺の小銃しか持たなかったが、征討軍と福岡県貫属隊を大いに悩ませた。これを見た征討軍の山田顕義少将が「ここの佐賀兵を指揮しているのは、多分、朝倉弾蔵に違いない」と言ったという。 明治16年(1883)ごろ、司法卿時代の山田顕義が佐賀を訪れた際に、乾亨院(佐賀市中の館町)にある朝倉弾蔵の墓に参った後、山中一郎の墓参もして両家に香典を届けたという。山田は朝倉とは陸軍少佐時代の旧友であり、山中には、山田が外遊したとき世話になったからということらしい。 また東京で朝倉が江藤に会った時、江藤が「もし佐賀で挙兵したら何人ぐらい集まるか」と問うと、朝倉は「二個大隊ぐらい集まる」と答えた。後で朝倉は「実力では二個大隊どころか、二個小隊もない」と語ったという。 朝倉は豪快な武人であった。友人の徳久恒範が朝倉に「鹿児島の桐野利秋に会ったらどうか」と勧めたところ、朝倉は「桐野は単なる人殺し男である」と答えながら、続いて「それでも桐野が自分と事をともにするというなら自分は辞せない」と桐野を褒めた。そこで徳久が桐野をなじると、朝倉は「もし桐野と自分が同数の兵力を持って戦ったら、自分が桐野の首を頂戴できる。」と言って大笑いしたそうである。 幹部12名と共に賊徒の汚名を受け処刑されたが、その後明治22年(1889)2月11日に大赦令により青天白日の身となる。 墓は中の館の乾亨院にある。(乾亨院は水ヶ江城の本館のあった所で、永正年間(1504〜1521)に龍造寺家兼が建立したと言われ、水ヶ江龍造寺家の一門、特に諫早家の祖を祀る。四徳山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は聖観世音菩薩、明治7年の佐賀戦争で戦死した熊本鎮台兵の合葬碑がある。)
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百武志摩守と圓久尼
九州五国二島(肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、壱岐、対馬)の太守龍造寺隆信公の重臣百武志摩守夫人は俗名を藤子(斐子)と呼び、後、仏門に入り剃髪して圓久尼と称した。 女子はかねて大刀無双の誉高く武道の達人であったばかりでなく、博く和漢の学に通じ、婦人としての修養研鑽に努め、その人格は当時衆人の敬慕する所であった。百武家に嫁して以来、志摩守出陣の場合は、その身もかいがいしく武装を整えて後に続き、槍の柄に兵糧、草鞋等を着けて、家人に持参させていた。戦国争乱の時代とは言え、婦人としての心掛誠に感心の外はない。 天正12年(1584)3月、龍造寺隆信公は大軍を挙げて島原に出陣されたので、当時筑後、蒲船津の城を預っていた志摩守も留守を夫人藤子に委せてこれに従って行った。 ところが不幸にも3月24日隆信公戦死の悲報が伝わったので、藤子の方は夫志摩守の戦死も疑いないものと思い、居城を出て郷里八田に帰り、直ちに百武家の菩提寺である与賀町の浄土寺に入り、惜し気もなく剃髪しその名も圓久尼と改めた。やがて夫志摩守戦死の悲報が伝わった。勿論かねて覚悟の事ではあったが今更のように悲しみ、念仏に日を過しながら専ら夫の冥福を祈ったのであった。 圓久尼は、その後鍋島直茂公の懇望によって止むなく再び郷を離れて蒲船津城に入り、島原陣に生き残った家人を集め、僅かの兵力をもってこれを守ることになった。女子の身として先には一城の留守居を務め、今また引続き守城の任に当るとは、その剛毅武勇の程敢て男子に劣る所が無かった証拠ともいうべく、隆信、直茂両太守の信頼の程もまた知るべきである。 隆信公戦死の後、筑前立花の城主戸次道雪、岩屋の城主高橋紹運はこの機に乗じ、大友氏の兵を加えて天正12年(1584)9月15日龍造寺に反旗を翻した。そして龍造寺の諸城を攻略するため、まず筑後の西牟田、酒見、榎津等の民家に火を放ち続いて蒲船津の城に攻め寄せたのである。圓久尼はかねて覚悟の事とてちっとも騒がず、自ら武装を整え大長刀を小脇にかいこみ、城戸口に出で必死となって防戦したので、寄せ手も大いに驚き容易に近づく事が出来なかった。そのうちに、榎津から馳せつけた中野神右衛門清明の援助を得て幸に危急を脱することが出来た。 かくて勝利を得た圓久尼は思い出深い蒲船津の城を出て八田の旧宅に帰った。その後「尼の身として城番は不似合である」と直茂公に申し上げたので、直茂公も深く考えられてその願いを聞き届けられた。 その後、郷里にあって靜かに念仏しつつ亡夫の冥福を祈り続けて、元和元年(1615)8月16日波瀾多き一生を終ったのであった。法名を圓久妙月大姉という。 市内多布施三丁目天祐寺に、安らかに眠る御墓の前にぬかづく時、戦雲の巷に咲いた一輪の大和撫子散って星霜ここに400年、日本婦徳の亀鑑としてりりしい女子の生涯が、髣髴として我等の心に甦り、言い知れぬ感に打たれるのである。
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石井如自
石井如自の墓が常照院にある。本名は又右衛門忠俊といい、別名を嘲鴎子ともいった。元禄14年(1701)12月24日没す。法名を養法院安節日時居士行年67歳。 石井如自は佐賀藩の名門家である石井久左衛門(正純)の二男である。父は如自が6歳の時死し、祖父茂忠(九郎右衛門)に育てられた。20歳の頃にはすでに歌道や俳諧を深く研究していたらしく、鍋島光茂時代の御歌書役であった。 明暦2年(1656)安原貞室が師匠松永定徳没後、師の遺撰集を補訂して『玉海集』を上梓したが、貞室が補った部に如自の句を入れてあるほどだから、当時佐賀藩の如自の句がいかに高く評価されていたかがわかる。当時の俳諧は主として、滑稽、洒落を題材としたものが多く、言葉の組合せなどに苦心していた。 如自はこれらの内容に満足することが出来ず、心の俳諧を作りたいと松江重頼を仲介して、談林風へ近付いていった。この重頼は貞徳の高弟であって、かつて『毛吹草』という大著書を出した事もあるが、この貞門の作風にあきたらず、一派を立てた人である。 重頼は別号を惟舟ともいっていたが、長崎への旅行の途次、佐賀に立ち寄った事もある。寛文12年(1672)刊の重頼の『時世粧』には如自の撰句をその集の巻頭に載せている。 大日本人名辞書には、談林派伝系の西山宗因の下に井原西鶴等と並んで石井如自の名が連ねられている。 「如自の句」 盗人と いはまに手出す わらびかな 月夜よしと 巻は夜よし 簾かな 雪の中に 夏は来にけり 卯木垣 月見るや 額のなみの 末の松 花ちらす 童部は風の 子どもかな 試筆にも 齢はゆずれず すずり石 朝日影 にほへる山や 早松茸 懐や 道のゆくての 冬こもり 石井如自は『葉隠』で「大器量の者にて候」と評されるほどの人物で、佐賀近世文壇の先駆的作家である。また光茂は歴代、佐賀藩主のなかで最もよく和歌を嗜んだ。蛎久天満宮に連歌を奉納し、以来佐賀の例となった。
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日軌上人と華道
佐賀の去風流の生花は上飯盛の常照院第17世日軌上人が、まだ嘉瀬町妙福寺にいたころ、京都にて去風流家元第2世、蘭皐舎子來師について奥義を極め、家元の第3世を受け継いで帰佐し、去風の生花を佐賀に広めた。 この日軌上人が去風流家元第3世、花兮庵寒崖(カケイアンカンガイ)で、佐賀における去風流の祖である。 寒崖は佐賀に帰ってから、各所で花会など開いて大いに流布に努めたが、その花風は上下の称賛を得て、8代藩主治茂の傾倒するところとなる。従って、去風流は、たちまちお国流となって明治時代まで伝承されたのである。
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中野實翁
上飯盛集落南東部の一角に中野實翁生誕記念碑がある。翁は安政元年(1854)この地に生まれた。九州電燈鉄道始め多くの企業の経営に参画し、取締役や社長を務めた実業家である。一方では子弟教育や社会福祉事業にも大きく貢献された。大正11年(1922)の本庄尋常高等小学校の新校舎建築に際し、その費用5萬円を当時寄附されている。大正13年(1924)には、衆議院議員になった。 また、翁を称える中野實翁頌徳碑が本庄小学校校庭に建てられていた。
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岡崎藤吉氏表彰碑
神戸を拠点とした明治・大正期の関西財界を代表する岡崎財閥の岡崎藤吉氏は、育英・社会福祉への念篤く、これらの事業に多額の私財を投じている。特に郷里佐賀への思いが篤く、旧制佐賀高等学校(佐賀大学の前身)の建設、佐賀市社会福祉施設の拡充、佐賀育英会の創設などに寄与し、巨額の資金を寄付された。 この「表彰碑」はこれらの厚恩に対し、時の佐賀市長野口能毅が大正9年(1920年)10月、佐賀市松原(現佐賀中央郵便局辺り)に建立したものであり、昭和32年(1957年)に神野公園へ移設された。その後、年月を経て、現地保存が困難な状況となったため、氏ゆかりの佐賀大学に移設建立の運びとなった。 本碑の移設に伴い、氏の志が学生をはじめ市民の皆様に受け継がれることを願うものである。 令和3年1月 佐賀市長 秀島敏行
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紺紙金字法華経 七巻
重要文化財
高伝寺の紺紙金字法華経は12世紀半ばに定型化する釈迦説法図の構図を受け継いでおり、謹直な描線でモティフの形態を精密に描く画風は、12世紀第3四半世紀ごろの制作と考えられる。 表紙には、宝相華唐草文を、見返し絵は釈迦説法図(しゃかせっぽうず)や経典内容を金銀泥(きんぎんでい)で描いている。経文は、金銀界を引き、1行17字詰めの金字で書く。軸木は檜材割軸。軸首は8個が残り、内2個が当初のもので、金銀製撥型で魚々子地に花文を線刻し、金銀の鍍金を施している。 また、大鎧を身につけた武者など時代性を反映した新しい図像もみられる。 当初の軸首が一部にのこっていることも貴重である。 平安時代後期の優れた紺紙金字経と認められ、菩提寺である高伝寺に伝えられることは鍋島家の文化受容の一端をうかがわせ興味深い。
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高伝寺釈迦堂 一具 木造釈迦堂 一基 厨子入木造釈迦如来及両脇侍像 三躯
重要文化財
高伝寺本堂に安置されている釈迦堂は、正面1間、側面1間の総欅(けやき)造りで生漆を塗って仕上げている。構造は正面入母屋造り、軒唐破風で妻入り、背面は切妻造りで柿葺(こけらぶき)となっている。柱は上端・下端が中央部に比して細くなっている。建具は桟唐戸で上下を藁座で受けている。 この釈迦堂は、本堂左の三間の室内中央に据え置かれているが、室内の柱間は中央を広く、左右を狭くとっていて、明治建築である本堂が釈迦堂に合わせた設計であることがうかがえる。 厨子は、外側を黒漆、内側を金泥塗りとし、釈迦如来像の頭上に天蓋(てんがい)を吊るしている。 釈迦如未像は、像高42.7センチメートル。脇侍像は、文殊(もんじゅ)菩薩と普賢(ふげん)菩薩で、像高は51センチメートルと50センチメートルを測る。3体とも木造の一木造り、玉眼、素地仕上げ。本体と台座、光背までを赤栴檀(しゃくせんだん)と伝える硬質の広葉樹で作っている。各像の光背には承応(じょうおう)4年(1655)に京の仏師宗仁(林長右衣紋衛門尉国次)陰刻銘がある。 赤栴檀御仏像之書物や鍋島勝茂判物類は、高伝寺釈迦堂が承応4年に制作されたことやそれに至る経緯などが記されている。 釈迦堂は、その制作年代や経緯が明らかで保存状態も極めて良く、近世初期の基準作品としてその価値は高い。 厨子入木造釈迦如来及び脇侍(きょうじ)像は、漆箔や彩色を施さない檀像で、正当な作風と的確な彫技が認められるもので、近世初期の作品として優れている。
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石造肥前鳥居 慶長八年の銘あり 一基
重要文化財
本庄神社の二の鳥居とされる肥前鳥居は、神社の門に通じる石橋の前に建てられており、慶長8年に鍋島直茂によって建立されたものである。 高さ3.8メートル、笠木(かさぎ)の長さ5.15メートルで、笠木と島木および柱・貫(ぬき)はいずれも三本継となっている。島木は形式化して笠木と一体となり、木鼻(きばな)はゆるやかに反っている。柱の上端に台輪があり、下部になるにつれて次第に太くなり基部は埋め込まれており、肥前鳥居の形式をよく備えている。 県内に広く分布している石造肥前鳥居は、地方色のある鳥居として注目されているが、本庄神社の烏居は、古い造立銘を有する鳥居のひとつとして価値が高い。 両柱には、次のような銘が陰刻されている。 大日本國鎮西肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神奉建立石烏居二柱 大徳本主鍋鳴加賀守豊臣朝臣直茂 慶長八年癸卯九月廿八日 (願文略)
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釈迦・迦葉・阿難図 狩野探幽筆 三幅
重要文化財
本図は、江戸時代初期の代表的な画家で、幕府の御用絵師をつとめた狩野探幽(かのうたんゆう)(1602~1674)が佐賀藩初代藩主鍋島勝茂(1580~1657)の注文により、鍋島家の菩提寺である曹洞宗の恵日山高伝寺のために描いたものである。 中幅に合掌する立像の釈迦(しゃか)、左右幅は坐像で、向かって右に釈迦十大弟子の迦葉(かよう)、左に同じく十大弟子の阿難(あなん)を配す。迦葉は両手で経巻を持つ老人の姿で、阿難は鉢を持つ青年の姿である。阿難の若々しい表情が印象的である。 絵画で釈迦・迦葉・阿難を組み合わせて三幅とする作例は珍しい。描法にも創意が見られ、中幅と左右幅とは描きわけられており、中幅の釈迦図は肉見部に金泥を用い、衣文線には淡墨と淡朱が併用されているのに対し、左右幅は墨画である。 さらに、探幽としては長文の款記に「肥前の太守の命によって」高伝寺のために描いたことが記されている。「御寄付物帳」(1855年、鍋島文庫蔵本ほか)により、勝茂が高伝寺に納めたことが知られるため、本図の注文主が勝茂であることがわかる。 なお、制作時期は、画風、落款(らっかん)などから明暦年間(1655~57)ごろに想定できる。探幽50歳代半ばころの創意、描写力ともに充実した時期の優れた作品であり、保存状態も良好である。また、探幽と勝茂の関係を示す貴重な作品である。
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高伝寺の梅 一株
天然記念物
高伝寺境内の墓所のほぼ中央にある梅は、高さ2.04メートル、根回り5.7メートル、目通り幹回り1.5メートルで根本から3枝幹に分かれ外方にひろがり出ている。樹齢300有余年といわれ、老梅としての風格を保ち、市内に存在する代表的な巨木である。この梅は、佐賀藩祖鍋島直茂が隠棲した際、佐賀郡春日村(現在の佐賀市大和町南東部)玉林寺の金峰和尚が贈った梅で、明治初年に高伝寺に移されたと伝えられている。
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高伝寺墓所
史跡
高伝寺は、天文21年(1552)に開山され、その後、鍋島家の菩提寺となった。 山門及び本堂は明治34年(1901)に改築された。山門に掲げられた扁額「恵日山」の彫刻の書は即非禅師の筆、また、本堂入口直上の彫刻の扁額「高傳禅寺」は、黄檗の僧、独立禅師の筆である。 高伝寺の境内の西側に位置する約45アールの墓地は龍造寺家及び佐賀藩主鍋島家の歴代の墓で塔や多くの石灯籠などが整然と並んでいる。墓域は明るくて広く、独特の雰囲気と調和の美を現わしていて、一種の墓地公園の観を呈している。 墓所は明治4年(1871)に、鍋島直大(なおひろ)が各地に散在していた前領主龍造寺家の墓及び鍋島家の墓をこの墓地に改葬した。東側一帯に龍造寺家の墓塔10基、西側一帯に鍋島家の墓塔16基が並んでいる。 近世の墓塔の変遷や佐賀の近世史を研究する上からも資料的価値が高い。
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鍋島直茂誕生地
史跡
佐賀藩藩祖鍋島直茂(なおしげ)は、天文7年(1538)に清房(きよふさ)の二男として、本庄館で生まれた。母は、龍造寺家純(隆信の祖父)の娘。現在、胞衣塚(えなつか)だけが残っている。初名は彦法師丸、信安、信昌又は信生、天正17年(1589)従五位下に叙し、加賀守となり、直茂と改めた。 戦国武将・龍造寺隆信のもとで武功を重ねた。元亀元年(1570)、豊後の大友義鎮(宗麟)の佐賀攻略に際し、今山(佐賀市大和町)に陣した大友勢を直茂の果敢な働きで、敗退させた。天正12年(1584)、龍造寺隆信が島原の戦いで戦死すると、龍造寺氏の領国の取締りに当たった。慶長12年(1607)、龍造寺政家・高房の死後、多布施に隠居し、家督を嫡子勝茂(佐賀藩初代藩主)に譲った。元和4年(1618)に81歳で没す。法名高伝寺殿日峯宗智大居士。 (写真:鍋島報效会提供)
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木造了意和尚像
重要文化財
絶学了意和尚(了爲ともいう)は、小城郡古湯村(現佐賀市富士町)で山伏の子として出生。出家して川久保松陰寺に入り、元禄9年(1696)藩主鍋島綱茂の命で高伝寺19世住持となる。 2代藩主鍋島光茂が没し、2か月後の法要が済むと、黒土原の山本常朝の山屋敷朝陽軒に入り、常朝と同居した。朝陽軒はのちに高伝寺末寺として宗寿庵となり了意和尚が開山者となる。 宝永6年(1709)加賀国大乗寺住持となり、6年後に帰国した。享保11年(1726)に没す。山本常朝は元禄9年(1696)5月19日高伝寺の了意和尚より受戒。この了意和尚の木造の像が静元寺(開基、鍋島生三)に安置されている。 了意和尚は、葉隠の口述者山本常朝との交流が深く、湛然和尚とあわせて葉隠の成立に大きな影響を与えたことが考えられ歴史上重要な位置を占める人物である。そしてこの像は、了意和尚が死去した翌年享保12年(1727)に造られており、製作の時代、作者が確認できる資料として貴重で、造像技法も本格的であり歴史資料として、彫像として高く評価できる。
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木造鍋島忠直坐像 一躯
重要文化財
鍋島家の菩提寺である高伝寺の本堂に安置されている鍋島忠直像は、冠まで含めての像高50センチメートルの衣冠姿の坐像で、玉眼嵌入、首及び両手首差込み、彩色が施された木像である。腰に刀を差し、左手は膝の上に軽くのばし、右手はわずかばかり指を屈して笏を操る態をなすが、笏は現存していない。 両眼を開き、口を結んだ顔容は静的で、左右へ大きくひるがえる両袖口は、沓をはいた両足を軽く組んだ安坐姿と相まって、安定感を与えている。この像は、袖の部分にいくつかの襞を表わしたのみの極めて簡潔に表現された肖像彫刻である。 鍋島忠直は、佐賀2代藩主光茂の父で、寛永12年(1635)わずか23才で早世した。側近に仕えていた江副金兵衛は、忠直の死後姿をくらまし、高野山にこもって一心に主君忠直の像を彫った。忠直の一周忌が催されているときこの像を持ち帰って、光茂に奉り、追腹を切った。 この江副金兵衛の殉死に直面した藩主光茂は、深く考えるところがあり、ついに寛文元年(1661)に追腹禁止令を領内に発布した。佐賀藩における追腹禁止令は、寛文3年(1663)に幕府が発布した殉死禁止令の先駆をなすものとして注目される。 江副金兵衛作の鍋島忠直像は、単なる肖像としてよりも、わが国における殉死禁止の要因をなすものとして、その歴史的価値が極めて高く評価されるものである。