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[旧佐賀市][本庄校区]は185件登録されています。
旧佐賀市 本庄校区
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龍造寺家ゆかりの瑞應寺
龍造寺家は、文治2年(1186)龍造寺村(今の城内から本庄町北部一帯)を本領に、地頭となった季家が始めです。その320年後の永正2年(1505)子孫の康家が本家を二男家員に授けて、水ヶ江に別館を造り隠居しました。これを六子の家兼が譲り受け、水ヶ江城として拡張整備しています。これが水ヶ江龍造寺家、水ヶ江城の始まりです。康家の父で、家兼の祖父が龍造寺家氏です。家氏は、瑞應寺の開基で家氏の法名瑞応が寺名となっています。龍造寺家と縁深く、歴史のある寺です。 境内の東に王子権現を祀る社殿があります。景行天皇の皇子日本武尊(オウスノミコト)が北部九州地方をおびやかしていた熊襲征伐の伝説は有名です。この伝説で、皇子は川上に逃げた熊襲征討を企て、有明海から龍造船で大井樋付近の島に着船しています。ここを龍造島と呼んでいます。後に皇子に因縁深いこの地に皇子を祀る祀堂王子宮を設けました。今は、王子権現として瑞應寺にあります。
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寒若寺と薬師如来
【宗派】曹洞宗 【山号】酒袋山 【本尊】薬師如来 寺伝では、奈良時代の高僧・行基が開山で聖武天皇の命による国家安穏の勅願所であった。奈良時代、九州各地に流行病や災害が絶えなかったので、行基は、楠1本から7躯の薬師如来像を刻み、川副七か寺に安置し、祈念した。川副庄一木七佛薬師如来である。 この内の一佛が寒若寺の本尊となっている。薬師如来を中心に、左右に日光、月光の脇侍菩薩と十二神将が配してあり、今も病苦を治すためになる薬師として川副七仏薬師参りが続いている。 参詣は、元木から初め、木の末で詣で納めとなる。参詣順番堂場は、1番:徳富・東光寺、2番:寺井・長福寺(※)、3番:崎ヶ江・法源寺、4番:米納津・東光寺、5番:南里・正定寺、6番:新郷・本願寺、7番:袋・寒若寺(本庄町袋)となっていた。 ※安龍寺のこと。『佐賀県近世史料第十編第一巻』「真言宗由緒」p254に、「当寺之儀ハ、以前ハ長福寺と相唱」とあり。
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寒若寺半鐘(はんしょう)
【品質】銅 【形状】鋳造 【法量】全高51.2cm 鐘高37.2cm 口径外31.0cm 口径内15.2cm 深39.4cm 【銘文等】 {鐘座(つきざ)} 九州肥前國 佐賀郡 本願 神崎 利左衛門 諸行無情 川副庄 上江袋村 同 五兵衛 是生滅法 酒袋山 寒若寺 奉掛 増田 藤次 生滅人爲 半鐘 一口者也伏 同 清右衛門 寂滅爲楽 天長地久 四海太平 同妹 ちか 國土安穏 後生善所 早田 八右衛門 七世父母 爲則生菩提 ○○源五右衛門 享保十九 甲寅 歳 神崎 ○左衛門 (寛文三 癸卯) 心窓観月信士 十二月吉日 爲 菩提 葉林妙紅信女 [註] は後の刻名 はすり消痕跡
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寒若寺鰐口
【品質】銅 【形状】鋳造 【法量】径26.0cm 【銘文等】 (前面陰刻銘) 「謹奉施入鰐口一掛 肥前 佐賀 河副 酒袋村 薬師御宝殿」 「奉○佛力致恭(か)敬(か)誠借(か)近里遠村之衆力鋳銅鰐口」 (後面陰刻銘) 「○○代卒○○座(か)却(か)眼十方檀那太膳(?)」 「 千布左衛門 ○慶長十九甲○(寅か)十一月吉日 願主 津山四兵衛」 江戸時代 慶長十九年(1614)
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袋天満宮
祭神は菅原道真公で、天正4年(1576)龍造寺山城守藤原隆信が天地長久領土安全祈願のため、創設せられた神社である。 当時の代官は志波藤介で、宮住は、酒袋新太郎、酒袋新七郎と由緒書に記載されている。 慶長年間(1600頃)に、鍋島直茂公が社殿を再建し、以来歴代藩主が崇敬した。 明治12年に村社に無格社より昇格する。 当時の氏子戸数70余戸であった。
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光明院
西八田の光明院は「玄清法流」の流れをくむもので、天台宗に属し、大きな組織があって、さらにその上は福岡市の成就院に統轄されている。玄清法流には、「仏説地神陀羅尼経読誦盲僧為天台宗因縁」なる1巻を伝えている。 現在荒神琵琶の弾ける人は数少ないという。
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大應寺比翼塚
佐賀市北川副町大應寺境内には軍国比翼塚と江副次郎、江副美子さんの二つの墓が建っている。 今は語る人々もなくひっそりと八田江の流れを背に寄り添っている。 次郎さんは元本庄村長の江副九郎氏の二男で、早稲田大学高等学院卒業後昭和11年4月入隊、その後中支江南の流洞橋の激戦に参加し惜しくも戦死をとげた。 美子さんは井上作次郎氏の三女で、次郎さんとはいとこにあたり婚約者であった。 昭和13年4月13日に次郎さんの戦死を知った美子さんは、5通の遺書を残して4月15日に数珠を片手に後追い自殺をなした。その顔は微笑さえ浮かべ美しかったという。 昭和13年6月11日次郎さんの遺骨が門司港に無言の凱旋をした。美子さんの遺骨も江副家に入り、14日本庄村葬に続いて、魂の結婚式が行われた。 美子さんは「長崎女人」に属する歌人で遺書とともに8首の辞世の歌を残していたので全国から多くの同情が寄せられた。美子さんの遺作は栗原荒野先生の紹介で佐々木信綱博士の推敲のもとに遺稿集『散りにし魂』が出版された。美子さんの死は当時戯曲化され、東京の常盤座で上演されたという。 春深む 江南の野に 魂散りて 君は護国の 神となります 春の夜は 真深く更けて せきあぐる 己がなげきの 泣く音聞ゆる 〟美子〟 (豊増幸子著 『肥前おんな風土記』より)
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持光寺
持光寺は天台宗で、本尊は千手観世音菩薩で滋賀県の延暦寺の末寺で、竹林山金乗院持光寺と言う。開山は辨空上人により正平7年(1352)の建立開基である。 太閤秀吉が朝鮮侵攻のため名護屋に在陣の際戦勝祈願をなしたこともあり、龍造寺氏、鍋島氏代々の祈祷寺である。 天明年間の絵図によれば末次区内の抱宮も多く、現在は境内に寄宮され神仏習合の昔を偲ばれる。 抱宮下記の通り 養父社(矢房社)二か所 農地壱畝地米壱斗七合 若宮八幡 一か所 農地五歩 地米壱升二合 阿弥陀堂 破壊地 農地五歩 地米壱升二合 薬師堂 一か所 天満宮 二か所 農地三畝二歩 地米壱斗七升 農地貳畝 地米壱斗四升 祇園社 一か所 農地五歩 地米壱升貳合 以上の通り 六地蔵六観音 天正13年(1585) 銘文:(梵字)不空成就 (梵字)勢至 (梵字)地蔵 (梵字)観音 奉造立地蔵 三界廿五有々、緑光緑春道会 道円 干時天正十三酉乙十一月八日
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安養寺
安養寺は曹洞宗で、本尊は聖観音菩薩であり慶誾寺の末寺で山号は淨地山という。 寛永年間に慶誾寺の4世、禅室栄林和尚が「隠居寺」としてここ本庄町中島に開基した。開基が江戸中期に入ってからだけに住職の世代も現住職富沢正信氏で第4世と浅い。 天明年間(1781〜1788)にはほかに高蓮寺(高林寺)、圓税寺(圓照寺)、大名庵の3か寺があった。
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中島神社
中島区には天満宮、辨財天、宝満宮がそれぞれ氏神として祀られていた。 天満宮は野々天神さんと言い亀川氏宅東北にあったが、大水害により、大正12年に千々岩惣次郎氏宅東に移転した。 辨財天社は溝内六次氏宅裏に祀られていたのである。 宝満神社は筑前の竃門(ソウモン)山宝満宮の分霊を奉じ、社殿を享和元年(1801)11月18日建立した。祭神は、息長足姫命、玉依姫命、与田別命の三神である。 昭和5年7月に三社を合祀し、中島神社と改める。 境内には多くの寄せ石仏があるが、「疫神齋」は本庄町内に唯一で珍らしい。当時特に恐れられた「疱瘡」の流行に対する厄病神送りが、この石祠を中心に笛や太鼓で、にぎやかに行なわれたことであろう。 住民と厄病神信仰の風習は疫神祭を御霊会(ゴリョウエ)と呼んで古くからあった。 小祠に疱瘡神を祀りこめ、供物をそなえ拝み、瘡(カサ)をとってくれるよう盛大な神祭りを行った。 この祭りは、あくまで厄神を慰撫することに主要な目的があった。疱瘡は高熱を発し、病人は熱のため、奇妙な言葉を口走る。熱が去ると今度は醜怪な瘡が噴き出てくる。流行すると乳幼児ほどかかりやすいこともあり、医学が発達していない段階では、麻疹(ハシカ)とともに幼児は必ずかかる病気の一つと思われ、とくにその病状から、特別の霊がのり移り、不思議な現象を示すと信じられていた。 一般に厄病神送りの風習は村に伝染病が入ってくると、御幣を入れた藁の神輿を作り、病人の家をまわる。家の中に入り、家の厄病神をこの神輿にのり移らせようと、身ぶり手ぶりで病人の体内から厄病神を引き抜くふりをする。その御輿を笛や太鼓で、にぎやかに村境まで送り返し焼き払った。また御札や御幣はすべて赤色を使った。 農耕儀礼のなかの虫送りと厄病神送りの風習も同じようなものであった。
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西光寺
開山は相蓮増慶上人と伝えられる。上人は永享7年(1435)3月20日に没し、これ以前の開基と考えられ、600年位前の開基と推測する。本尊は、阿弥陀如来で両脇に観音菩薩、勢至菩薩及び高祖・善導大師、宗祖・圓光大師の像が安置されている。 過去帳に文久元年(1861)、火災で全て焼失と記されている。その後藁葺きで本堂が再建された。これが老朽化したので昭和57年(1982)9月新築の本堂が完工した。 前本堂棟木に墨書があった。 第二十一世 仁海上人代 世話人 鬼崎 弥助 内田 浅右衛門 牟田口 利八 古賀 卯右衛門 高柳 伊兵衛 石橋 文助 大 工 末崎 伊平次 造之 本堂の鐘に、 寛保4年(1744)正月 下院肥前国佐嘉郡愛敬島村 安性山国相寺 の刻銘がある。
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西光寺重松基吉の墓
西光寺に重松基吉が葬られ、その墓があります。基吉は、佐賀の七賢人の一人島義勇の弟です。藩校弘道館で学び、藩主閑叟公に重用されて上佐賀代官、横辺田代官から、江戸藩邸の公用人となりましたが、明治維新後は無役となり、明治7年(1874)に起きた佐賀戦争では、兄義勇、弟副島義高と共に憂国党の幹部として活動しました。佐賀戦争では政府軍に敗れて、2月13日、中川義純と佐賀を脱出し鹿児島に潜行したが捕縛。佐賀で臨時裁判が開かれ、義勇、基吉、義高三兄弟ほか10人、合わせて13人が最も重い罪に処せられました。佐賀ではこの処刑された人を、十三烈士と呼んで称えています。 齢52歳。 辞世の詩歌 死なば死なん 生くとき生きん 二つなき 其の負ふことの 道に尽さん
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満穴天満宮
寛文10年(1670)3月8日建立の肥前鳥居が社前にある。奈良時代に始まる「神仏習合」(神の信仰と仏教信仰とを融合調和すること)のため、西光寺の僧が、宮司の務めを果していた。
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慶誾寺
慶誾寺は曹洞宗で本尊は釈迦如来である。当寺はもと鍛冶屋村(東与賀町)にあって広厳山流長院と称していたのを、慶長3年(1598)慶誾尼によって現在地に移し、同5年3月慶誾尼が没したので、ここに葬り、般若山慶誾寺と改めた。 本寺には折本装の白地金字金剛般若波羅密多経が伝えられている。本経には見返し絵はないが、高麗時代至正27年(1367)の奥書があり、また李氏朝鮮と交渉のあった大内傘下の山口県長門市深川湯本にある曹洞宗瑞雲山大寧護国禅寺から、現在の慶誾寺に寄進されたとの銘文を有し、大変貴重な資料である。 慶誾尼は龍造寺隆信の母で、のち鍋島直茂の父清房に再嫁し、龍造寺、鍋島両家の間にあって強い発言力をもっていた。 当寺には維新前までは寺領80石の慶誾寺領があった。 天明年間の絵図によると、参道は南西の与賀里道より、両側に松並木が広麗な山門まで続いている。門前には下馬の制札が建っていた。(鹿子下の下馬の地蔵は、今も与賀里道の路傍にある。) 明治初年頃の排仏毀釈の折に、慶誾寺の表門は龍泰寺に移し、表門に安置されていた十六羅漢(木造)は東与賀町上古賀の栄蔵寺へ、また裏門は東与賀町飯盛の悟真寺へ、五百羅漢は北川副町の岩松軒へ移動した。 なお、慶誾尼の生前墓である逆修墓は高傳寺にあり、埋葬されている墓は慶誾寺にある。
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慶誾寺銅造地蔵菩薩立像
本体は一鋳造り、台座に差し込んで鉄釘2か所で留める。台座は前後合せ型。本体右袖の下方に型持の銅釘を2か所確認できる。体内に薄く中型土(なかごつち)が残り、像表側は灰色、芯側は肌色を呈す。頭部内の中型土(なかごつち)は一部除去されている。錫杖柱は右手を通し、台座の穴に差し込む。錫杖頭は銅板切抜、錫杖柱は鉄製。頭光は肩に鋲3点で留める。頭光は界線を二重に陰刻し、左右と頂に計三つの宝珠を毛彫で陰刻する。台座敷き茄子部には亀甲文を、正面には鼎文を陽鋳で表現する。 像高49.0cm 頭頂〜顎11.2cm 面幅8.2cm 面奥15.5cm 肩張15.5cm 肘張16.5cm 裾張17.0cm 胸厚8.0cm 腹厚8.5cm 頭光径24.5cm 台座高11.7cm 陰刻銘(像背面部) 「鹿子村慶誾寺廿三代大翁良朝 一棹證源庵主 為 両親菩提 瑞琳浄光信女 享和元年(1801)九月吉日」 陰刻銘(台座背面部) 「谷口弥右ヱ門作」
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慶誾寺多久安順と一族の墓
多久家は龍造寺隆信の弟長信が多久梶峰城に入り、後を継いだその子安順が鍋島直茂の長女をめとって多久姓を名乗り、2万1千石を与えられ幕末まで多久邑を支配した。 系譜は次の通り 龍造寺長信→多久安順(以後多久姓)茂辰→茂矩→茂文→茂村→茂明→茂堯→茂孝→茂鄰→茂澄→茂族→茂穀→龍三郎 慶誾寺に6代(茂明)迄の墓がある。7代以降は多久町円通寺にある。
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慶誾寺戦利品の手水鉢
慶誾寺本堂前にある手水鉢は龍造寺隆信が天正8年(1580)2月13日柳川城攻略(隆信が筑後柳川城主蒲池鎮竝叛くにより、子鎮賢に攻めさせる。)の時戦利品として持ち帰ったもので、後日、母君(当寺の開基慶誾妙意大姉)追善菩提のため当寺に寄進したものである。
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慶誾寺にて村了和尚直訴の件
円蔵院(中の館町)の村了和尚が自分の寺の由緒が龍造寺家の菩提寺であることを申し述べ、たびたび「このように由緒ある寺でありますので、当地の12か寺の一つに加えて下さいますように」と願い出ていたが、その許しがおりなかった。 村了和尚は光茂公が、慶誾寺へ御参詣のとき、仏壇の下に隠れていて直訴を行ったが、お取り調べの結果、斬罪を命ぜられることになった。 これを聞いた高傳寺の湛然和尚は「出家をお殺しになるものではございません。拙僧が身がらをお預かりしますから、どうかお助け下さいますよう」と申し上げたが、お聞きとどけにならず、村了は首を斬られてしまった。このことを知るや、湛然和尚は、ただちに寺を出て、新庄の東善寺を経て三反田の通天庵へ入ってしまった。光茂公は使者をさしむけて、高傳寺へ帰るよう、たびたび懇請されたが、湛然和尚は承知しなかった。 光茂公は、華蔵庵を開き、開山とし扶持料10石をつけた。その湛然和尚は13年間謹慎同様の日を送って亡くなられた。
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龍造寺隆信の母親と慶誾尼
慶誾寺は、戦国大名龍造寺隆信の母慶誾尼が開基の寺です。慶長3年(1598)、慶誾尼の願いで東与賀の流長院をこの地に移しました。慶誾尼が、2年後の慶長5年に亡くなると、法名を慶誾妙意大姉とし、ここに葬りました。同時に寺名が般若山慶誾寺となりました。 慶誾尼は、戦国時代九州三大勢力(肥前・龍造寺、薩摩・島津、豊後・大友)に数えられ、肥前、筑前、筑後、肥後、豊前の一部と壱岐、対馬まで傘下にし、五国二島の太守とうたわれた龍造寺隆信の母であります。また、藩祖鍋島直茂の父清房に再婚し、直茂の義母でもあります。豊臣秀吉にも通じ、子隆信や直茂への指南役、相談相手として、戦国時代の女の実力者でした。生前墓である逆修墓は、高傳寺にありますが埋葬されている墓は慶誾寺にあります。墓所の中程に龍造寺隆信の弟で多久家の祖長信と2代多久安順から6代茂明までの墓塔が並んでいます。鍋島藩政では、親類同格の格付けで、領地を治めていました。
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福林寺
山号は「心月山」。福林寺2世監翁菊公和尚{天文元年(1532)没}からの記録しかないため創建の時期は不詳。もともと天台宗で村岡一族の祈祷寺だったと推測される。 村岡家(村岡イソノ・東与賀町実久)所蔵の『村岡略系図』、『村岡家縁起絵巻』によると寺の側に村岡天満宮の存在と、この宮の座主を福林寺の和尚が務めていることが確認できる。もと相州鎌倉村岡郷の住人村岡氏が今川了俊に属し、鹿子村に住し与賀郷5人の郷長(むらおさ)の頭であった。龍造寺隆信らが一時期佐賀城を明け渡し、筑後に身を寄せていたが、天文22年(1553)、佐賀城奪還に際し、村岡はじめ郷長(むらおさ)たちが隆信らの無事帰還策の相談を村岡天満宮で行っている。これに福林寺3世・舊白壽光和尚{天正7年(1579)没}も参画、また、安全祈願を施すなど大きく寄与している。龍造寺隆信は、無事奪還に成功、これに対し村岡氏に恩賞を与えている。 龍造寺の家臣となった村岡十郎左衛門(小城・村岡の祖)は、島原沖田畷の戦い(1584)で隆信と共に戦死している。 天正末から慶長初め頃に慶誾寺3世文応全藝{慶長7年(1602)没}が当寺に入り開山となって曹洞宗慶誾寺の末寺とした。 平成9年に本堂を改修し、昔の面影は薄れた。唯一、須弥壇丸柱に取りつけてある獅子鼻の彫刻一対と、本堂上り口に吊るされた天明3年(1842)刻銘の鰐口が昔のまま残っている。 境内に享保2年(1717)の造立銘の単独地蔵(石工・富永正左衛門)と享保7年(1722)造立の六地蔵が祀られている。今も祈祷寺としてのイメージは消えず、近郷の妊婦が安産祈願に訪れている。
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鹿子天満宮石燈籠
鹿子天満宮の社前には、鍛冶屋村のお宮から移した石燈籠と唐獅子系狛犬がある。 天保十二年(1841)二月 石工筒井長右衛門 寄進(46名)
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藩祖がひれ伏した鹿子天満宮
鹿子天満宮は、龍造寺隆信の祖父家純が太宰府天満宮の分霊を請い受けて祀りました。祭神は、菅原道真です。龍造寺隆信、鍋島直茂はじめ歴代藩主が崇め敬った神社でした。 『葉隠』に山本常朝は「佐賀藩の家老の安芸守(鍋島茂賢)が若い頃、天神の森で鳩を撃ち、それが外れたので腹を立て、当たらなかったのは天神の仕業である。憎き天神である。と二つの弾を込め宝殿を裏表に射抜いて帰り、このことを直茂に伝えた。これを聞いた直茂は「おそれおおいことを」と、即、水で身を浄め裃を着け参詣され、「ただ今、そそっかしさから過ちをおかした者、もってのほかであり、お怒りのこと、迷惑かけたと存じます。彼は、かねてからそそっかしい者で、何とぞお許しください。お詫びに参りました。」と地に平伏して、高い声でことわられた。」と鹿子天満宮での出来事を述べています。このことからも藩祖はじめ歴代藩主が崇敬したことがわかります。共に直茂の部下への思いやりと責任感が感じられます。
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龍造寺隆信と鹿子天満宮
天文20年(1551)豊後の大友義鎮(宗麟)並びに佐賀隣郷の豪族等と少貳家再興を企図して、佐賀城を襲撃しようとするのを知り、隆信は大勢の不利なことを悟り、一時筑後柳川の一木村に避けた。鍋島清房等もこれに従って行った。 天文21年隆信は旧領回復をはかったが、失敗した。 天文22年隆信は早田次郎左衛門等を使者として与賀郷鹿子天満宮に参って、鹿子の古賀民部の尽力によって、久米、徳久、村岡、末次、飯盛の5人の郷長と隆信帰国の事を密談し協力を得、隆信は鹿江兼明の船で7月25日に一ツ木を出発した。千歳川(筑後川)を渡り、漁夫園田次郎兵衛の水先案内で、川副郷南端の鹿江崎に上陸し、肥前侍の鹿ノ江、石井、南里、古賀等の出迎えを受け、乾堂(犬井道)へ。27日に鹿江の威徳寺に入り旗揚げをなした。 福地長門守は、与賀郷(本庄八田)船津に上陸し村岡藤七兵衛宅に、副島以下の郷長を始め数千人が集まった。 高木、八戸氏等の家臣が、海岸警護のために駐屯する。与賀郷の飯盛館(高取の内鹿子の塁とも言う)を攻めることにして鹿子龍昌院に陣し、急襲して勝利を収めた。 隆信は南里、八田口から押し進み、高木鑑房、八戸宗暘等が立籠っていた十五堀の要塞を一蹴して佐賀城に入り、更に同天文22年10月16日小田政光を蓮池城に攻めた。 時に鍋島直茂16歳の初陣であった。
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菅原天満宮(龍昌寺の天神)
祭神は菅原道真、倉稲魂神で創始年代は詳かでない。 龍造寺、鍋島歴代藩主の崇敬が厚かった。 明治40年(1907)の宮寄せの法令により東与賀村実久村にあった鍛冶屋天満宮を寄せ宮した。そのとき石燈籠(慶応元年施主鍛冶屋村、北御門治平外13名)唐獅子系狛犬(天保12年寄進、潮音寺伊勢次外45名)等を境内に移転している。
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上飯盛天満宮
本庄千本松(東寺小路鍋島直茂誕生地)と相対し、飯盛千本松と呼ばれる場所に、飯盛天満宮がある。祭神は菅原道真公である。この飯盛千本松は、鍋島直茂の室、陽泰院の誕生地で、寛文9年(1669)9月18日鍋島光茂(2代藩主)が、飯盛天満宮に御供料として高米3石4斗7升5合の寄進をなし、本庄千本松と同様に年々祭事を催してきたが、維新以来廃絶した。
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常照院
当山は妙光山本善寺と称し、永享元年(1429)9月九州探題(幕府から地方に派遣された、政務、訴訟、軍事をつかさどる地方長官)の千葉胤継の副将である兵部大輔石井越後守忠国(藤原鎌足より23代目)が開山に京都大本山本國寺門流本立院日字上人を迎え創立した。 元亀元年(1570)忠国より5代の孫、兵部少輔石井常延(鍋島藩祖直茂の妻陽泰院殿の父)は、石井家の城邸を移転してその跡に、大伽藍を建立した。天正8年(1580)12月5日常延が没した。法号は、常照院殿常祝日教大神祗と称し、元和7年(1621)法号を取り、常照院と改称した。 以来明治維新廃藩置県に至るまで、鍋島家の祈願所並びに准菩提寺として寺録62石5斗を給わり、永世修復造営の恩恵を受けた。 現在の堂は、明治44年の春に竣工した。また大正4年(1915)に御大典記念として、一切経蔵並びに附属品図書館を建立した。 当院には、紺紙金泥(紺色に染めた紙に金泥で仏画を書いたもの)の光明皇后御筆玄梁院殿の出山釈迦絵像・人丸・須磨明石の、三幅一対の軸物その他宝物、什器等非常に多かったが、数度の火災にあい、焼失したものもあり、陽泰院殿の色紙短冊その他の宝物が、今なお多く残っている。
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常照院と藩祖の妻・陽泰院
常照院は、もとは本善院と言い、永享元年(1429)に、戦国時代小城、佐賀地方に勢力を有した千葉一族の石井忠国が開いた寺です。天正8年(1580)に忠国の子孫で藩祖鍋島直茂の妻陽泰院の実父石井常延の死去に際して、一時移されていた寺を元の石井家の屋敷(現在地)に戻しました。 元和元年(1615)に藩祖鍋島直茂が再興して鍋島家の祈願所としています。元和7年(1621)に、常延の法名常照院常祝日教から寺名が常照院となりました。常延の娘は、夫が戦死したので実家に戻り、父の屋敷に住んでいました。ある時鍋島直茂ら龍造寺軍が出陣の折、昼食に常延の屋敷に立ち寄りました。この時直茂は、常延の娘の働きぶりに感心し、好意を抱き続けていました。それから二人は結ばれることになりました。陽泰院と呼び、温順な人柄で直茂の妻として頼りになる協力者でした。 また、境内に2代藩主鍋島光茂の時の御歌書役を務めた石井如自の墓塔があります。若くして歌道、俳諧をたしなんだ文化人でした。
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妙玉寺
妙玉寺は日蓮宗である。石井忠繁の孫忠次の嫡子忠修が永禄6年(1563)6月22日、22歳で三根郡中野で戦死したが、妻子がなかったので、直茂公は子孫の絶えることを惜しんで、嫡男石井常忠(陽泰院の兄)の三男新五右衛門常永を後嗣とし、かつ淨円寺の祖徒として祭祀をなさせた。そして、その墓地に一寺を建立して「妙玉寺」と名づけ、当時高木瀬町本通寺の住職であった大教坊日連を迎え開山した。門坊は蓮池の城門を移した堂々たるものであったらしい。 後、姻戚深堀家の菩提寺となった。
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佐賀藩家老の菩提寺妙玉寺
妙玉寺は、佐賀藩の家老格で仕えた鍋島茂里の鍋島主水家と鍋島茂賢の深堀鍋島家の菩提寺です。茂里は、一時期藩祖鍋島直茂の養子となりましたが、後、神埼に土地を与えられ一家を起こしています。慶長15年(1610)42歳で亡くなりました。茂賢は、茂里の弟で長崎の深堀鍋島家の養子となり同家を継ぎ正保2年(1645)亡くなりました。両人共龍造寺、鍋島に従い武功を重ねた重臣でした。境内に墓塔があります。 また、殉死者が葬られていることでも有名です。佐賀藩では、仕えた主人が亡くなると、それに殉じて追い腹(殉死)を切る家来が多かったと言われています。境内東に茂賢夫妻を中央に両側に茂賢に殉死した藩士達22人の墓塔が並んでいます。この22人は、茂賢指揮下で戦った柳川合戦の時共に討ち死にを約した間柄でした。その45年後に茂賢が病死すると共に追い腹を切り殉死しています。家老身分でそして病死で、家来が殉死することは大変希な出来事と言われています。
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妙玉寺深堀領主の墓
深堀氏の先祖は三浦氏という。上総国深堀の住人で三浦深堀太郎左衛門尉仲光が、鎌倉時代の建長7年、肥前國戸八浦を賜ったので、来住して、地名を戸八浦より深堀と改める。(長崎市深堀町) 18代の孫深堀左馬助純賢茂宅入道は天正の初め、龍造寺隆信が西肥前彼杵・高来地方を攻略した時、純賢は真先に味方して、天正15年(1587)に豊太閤(豊臣秀吉)より「朱印」(領地を確認した朱印状)を賜り、直参になった。 文禄元年(1592)朝鮮侵攻の際に、増田長盛に頼み、龍造寺の家臣になることを願い出て許され、次いで鍋島氏に従い、鍋島直茂、勝茂から重用された。 (中尾正美氏編 『深堀資料集成』より) 深堀代々領主の墓が妙玉寺にある。