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[旧佐賀市][本庄校区]は185件登録されています。
旧佐賀市 本庄校区
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妙玉寺鍋島安芸守茂賢と追腹の墓
妙玉寺本堂の南東部に鍋島安芸守茂賢、同後室外22名の墓がある。これには『葉隠』に述べられている追腹の物語が残されている。 茂賢は正保2年(1645)2月11日行年75歳で没す。茂賢が病死した時、藩士18人と組下二人が追腹を申し出たので、家老衆から「殿様でなく大組頭のあとを追って、追腹を切るのは妥当でない」と重ねて翻意を促された。ところが、この者たちは「先年筑後の八ノ院の合戦のとき、主水殿(茂賢の兄茂里)の組の中から、安芸殿が特に我々を選び出してくださり、八ノ院で枕を並べて討死しようと言い交わしました。そのとき安芸殿も討死されなかったので、我々も今日まで生きながらえてきたのでございます。武士たる者が、枕を並べてと、約束しながら1日も後に残ることができましょうか」と言って、ついに追腹を切った。 18人および供の者4人の位牌と墓は妙玉寺にある。
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妙玉寺鍋島主水茂里の墓
鍋島主水は、石井安芸守信忠の嫡子である。鍋島直茂が40歳になっても男子がなかったので、茂里の器量を見込んで、実子伊勢龍姫の婿養子とした。後、勝茂が誕生したため、茂里には別に神埼郡西郷村の旧地3千石を与えて一家を立てさせた。 幼名を太郎五郎、次いで左衛門大夫平五郎と改め後に主水佑茂里と称した。安芸守茂賢(深堀)の兄である。 慶長15年(1610)8月9日没 行年42歳 法名 見性院殿法山白妙大神袛 伊勢龍姫 寛永20年(1643)7月23日没 法名 月窓院天林妙清大姉(墓は妙玉寺にある) なお妙玉寺には勝茂公より、鍋島主水墓所に供養米を賜わった古文書が保存されている。
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寺子屋の話
江戸時代に庶民の日常的な算用等の心得を授けるため、自然発生をした教育機関で普通寺子屋と呼んでいる。 寺子屋の師匠は僧侶や武士、神官、医者、庄屋等で主として師匠が自宅を開放している。寺子屋は藩学とは大きな違いがあって、一般に就学の年齢は自由で5・6歳から、約3〜7年間位学んだ。収容人員も大変少なく、一つの寺子屋で10人〜40人位までが普通であった。 教育内容は、読み、書き、算盤で教科書としては、実語教、童子教、庭訓往来等の実学が大部分を占めており、四書(大学、中庸、論語、孟子)の素読を受けている所もある。 女子には百人一首や女大学、女今川等を教え、年中行事の一つとして、七夕祭には、吉書を書き、書技を競ったりしていた。 明治5年(1872)学制施行前の寺子屋。 私塾の状況 1.高柳寺子屋 村岡 私平 2.西川内寺子屋 中溝 養朝 3.正里寺子屋 久米 栄吉 4.鹿子下区龍昌寺 服部 平左エ門 5.満穴西光寺 広木 仁海、増田喜太郎 6.中島寺子屋 淵井 兼介 7.末次寺子屋 林 敬人 8.袋柳郷塾 柳郷 虎一 9.袋手習所 角田 権一 10.西八田私塾 夏秋 作衛門 11.上飯盛寺子屋 高木 長庵
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普通教育
1.篤信小学校 明治19年(1886)5月初等中学科教育の目的を以て大字一本松に創立した。尋常校は、就学児童の増加にともない、後には民家や寺院等を使用し篤信小学校の分校として教育を施して来た。 (当時は5分校であった) ☆本荘の部−本荘村、厘外村(人口1.964人) 1.本荘小学校(本荘村の内溝口分) 2.東本荘小学校(本荘村の内東分) ☆鹿子の部−鹿子村、末次村(人口1.350人) 3.鹿子小学校(鹿子村の内鹿子上分) 4.末次分校(末次村の内西分) ☆八田の部−新郷村、袋村、末次村(人口1.435人) 5.八田小学校(新郷村の内字八田分) 2.與賀高等小学校 明治25年(1892)6月與賀三村連合組合会の議決をもって、篤信小学校となってから、境内の拡張校舎の増築を数度なして来た。同40年(1907)小学校令改正の結果、高等1、2年生のみを置くこととなり、同43年より農業校を附設することになった。
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周防殿橋
周防殿とは、鍋島周防守清虎のことで、藩祖・鍋島直茂の従兄弟である。本庄町溝口に屋敷(館)を構え、ここに居住していた。後に子・道虎(生三)が、父の屋敷に建立した寺が静元寺である。屋敷に通じる橋を鍋島周防守清虎の周防守をとって「周防殿橋」と呼んだ。地元の人は「すっとんとんばし」と呼んでいる。
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法無乱橋
昭和34年(1962)3月、佐賀球場が完成した。この機に小野哲一市長が「法無乱」と揮毫、石板に刻み、球場正面に掲げた。市長は、「法、無くんば乱れる」と読み、野球のホームランにあやかり、野球人、スポーツマンら多くの人々に教訓として示した。昭和37年(1962)、球場西に都市計画道路新設に伴い、萵苣木川に橋が架けられた。この橋の名称を、教訓として示された「法無乱」に因んで、時の宮田虎雄市長が「法無乱橋」と命名した。
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萵苣木橋
大正12年(1923)、県道工事に伴い萵苣木川に架けられた橋。川の土手に萵苣木が植わっていたことから萵苣木川と呼び、これに架けられた橋を萵苣木橋とされた。地元では「ちやの木ばし」と言い、橋の親柱にもこのとおり刻まれている。
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十五縄手橋
本庄町から西与賀町に通じる県道西与賀・本庄線の佐賀大学西側水路に架かる橋が「十五縄手橋」。大正12年(1923)架橋。本庄神社あたりの小字名で若村を「じゅうご(十五)」村と呼んでいた。ここに通じる長い真直ぐの道を十五畷、縄手(方言でノーテと言った)と呼んだ。これから「十五縄手橋」と名付けられた。
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国立大学法人佐賀大学
佐賀大学は、昭和24年(1949)5月に国立学校設置法の公布により文理学部、教育学部の2学部として発足する。昭和30年(1955)に農学部設置、昭和41年(1966)に文理学部を改組し、経済学部、理工学部及び教養部を設置、以後、組織の改組・拡充を重ね、平成15年(2003)10月に旧佐賀大学と旧佐賀医科大学が統合、平成16年(2004)の法人化に伴い、国立大学法人佐賀大学となる。海洋エネルギーの研究を始め、シンクロトロン光による応用研究、リチウム電池の研究など数多くの研究成果を発表している。
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菊楠(きくなん)シュライバー館
大正15年(1926)に木造2階建として建てられた旧制佐賀高等学校の外国人教師公舎を学内に移築・復元し、公募により「菊楠(きくなん)シュライバー館」と命名した。現在、佐賀の歴史文化研究教育の拠点として平成18年(2006)4月に発足した佐賀大学地域学歴史文化研究センターとして活用している。
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本庄小学校忠魂碑
本庄小学校校庭の南に2基の石碑が建っている。昔は東に建っていたが、戦後現在地に移転された。 表面「忠魂碑」と東郷平八郎元帥の書によるものが刻まれている。 本碑建設発起人は 本庄村長 三好 勝一 本庄小学校長 香月 清次 ほか当時の各区の代表が名を連ねている。 「本庄村関係戦没者」 戊辰之役戦没者 野口 孫太夫 霊 西南戦争戦没者 川谷 次吉 霊 ほか210余柱の英霊顕彰の碑である。 本庄町では、毎年5月の第2日曜に、本庄町民による、慰霊祭が現在も執行されている。 忠魂碑の裏面の碑文は下記の通りである。 「上ニ費スベキコトハ、節義ナリ、以テ國ニ殉ジ以テ公ニ奉ズ 我ガ國燦然トシテ八紘ニ輝ク良ニ故アルナリ、惟ツテ皇國幾タビカ、大兵ヲ動カシテ、膺懲ノ義戦ヲ行ルヤ本村ノ勇士命ヲ鴻毛ノ軽キニ比シ躍シテ邦家ノ難ニ赴キ奮戦激闘克ク其面目ヲ発揮セリ、士人ノ榮譽何物カ之ニ如カン、茲ニ同志挙テ忠魂碑ヲ建テ英霊ヲ不窮ニ慰メ、勲績ヲ永勃(永劫か)ニ伝へントス洵ニ近代ノ美挙卜謂フベシ。庶義ノ後進子弟アル者ハ克ク先進ノ偉績ヲ追懐シ以テ益國家擁護ノ赤誠ヲ致サムコト」 大正十一年三月 従六位勲六等 千住 武次郎 謹撰
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中野實翁頌徳碑
忠魂碑の右に同形の石碑が建っていた。これが中野實翁の頌徳碑である。 同碑文下記の通りである。 「起身於乏○作○富非発憤努力者則不能也。富抛資於公共非趨義竭誠者、則不能也。有能成之者、中野實君之也。君安政元年生于本荘村上飯盛、明治十年熊本鎮台徴丁壮、君応徴入営、能府軍紀勉其職、以養志氣矣。任満而帰也。志商業到琉球視糖○○○○購砂粕○和船数隻鬻之于大阪。又自往為菓商得巨利。君殖貨漸多營業愈盛、而其名亦顕于阪地代全國周業者多有所、而果策特抱濟故園志用力於此亦大矣。大正五六年産業振興于佐賀著六七君(殆か)無于投資以助之各會社創立速成者、君之力與居多也。而明治三十年以後身爲各地株式会社十餘所重役、蓋由致力於産業乎。平欧洲戦後都鄙到處教育費増加、而経常費動輙不給。况於臨時費乎。如我本荘村小學校舎朽廃○○改造。君○欲独力新築之通其意。於当路村長大喜不遷時之營之問數月、而于竣矣。其賞金五萬圓皆出於君之十可知君盡心。于公共事業用力于故園也。村民徳之建碑以使君功績照永遠云爾」 大正十一年三月 本荘村長 三好 勝一 誌之 (校庭の一隅なるこの石碑、その遺徳を語りつぐことこそ私達の務めである) 碑は平成16年9月の台風により倒壊し、台座のみ残っている。
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星共小学校
明治21年(1888)9月鹿子及び袋両所にあった旧藩の焔硝蔵を解体し、本荘村字灰塚に改築し、分校の名称を脱し、初めて独立の尋常小学校を星共小学校と改める。(現在の本庄小学校の前身となる。) 敷地面積1反6畝歩、建築は48.5坪の2階建であった。(明治22年(1889)4月1日市制・町村制施行時に鹿子村、袋村、末次村、厘外村の内正里を合併し、本荘村へ編入する)
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本荘尋常小学校
明治21年(1888)9月鹿子及び袋両所にあった佐賀藩の焰硝蔵を解体し、本荘村字灰塚に改築し、分校の名称を脱し、初めて独立の尋常小学校を星共小学校に改める。 明治25年(1892)4月小学校令改正に際し、本荘尋常小学校と改める。 以下現在までの沿革を記しておく。 明治41年(1908)4月−義務教育の延長により、第5、第6学年を置く。 大正5年(1916)4月−高等科を併置し本庄尋常高等小学校と改める。 大正11年(1922)3月−上飯盛出身の中野實翁より、校舎新築資金5萬圓の寄付により講堂、校舎が落成する。(各区より総参加の仁○加でお祝いをなす。) 昭和7年(1932)4月−佐賀県女子師範学校代用附属として開校する。 昭和12年(1936)8月−児童の宿泊訓練所として農道館建設。 昭和16年(1941)4月−本庄村国民学校と改名。 昭和22年(1947)4月−新学制実施により、本庄小学校と改名。
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観音寺松丸天神
観音寺の南、観音籠の北角に小さな石祠が鎮座している。銘文に天満宮施主は松丸徳衛門とある。文政7年(1824)建立である。別名「松丸天神」という。 観音籠はもともと正里村であり、年2回の正里区の天神さん祭りには当番が松丸天神に祈願し、その後に村祭りが始まる風習が今も続いている。
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観音籠御霊神
文政四年(1821) (銘文)天満宮 (施工)松丸徳ヱ門之建 現在は小学校の南観音籠の一角に祀ってあります。この観音籠は正里村であったためか、年2回の正里区の天神さん祭りのときは、正里区代表が生花とお供物をして祈願する風習が残っています。別名「松丸天神」と言います。
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寒若寺耳の地蔵さん
寒若寺の地蔵菩薩は「なまくび地蔵さん」といわれて首から上の病気、特に耳の病気を治すお地蔵さんとして遠方からもたくさんの人がお参りに来ます。 お参りをする時は、必ず二人以上で来ないと効き目がありません。なぜかというと、一人が地蔵さんの膝の上の竹筒で耳の病気のある人に「フゥーッ」と軽く耳に息を吹きかけてあげなければならないからです。 年中行事として、毎年7月24日地蔵祭りが行われ、子ども達が、タワシを持って集まり、お地蔵さんを磨いてきれいにしています。
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寒若寺石造地蔵菩薩
寒若寺山門を潜ると西側に石造地蔵菩薩が祀られている。人の首から上の病、特に耳の病を治す地蔵菩薩として崇められている。耳の通りを良くし聞こえ易くなるようにと、息を吹き込む吹き竹が添えてある。これは宝林寺(廃寺)の地蔵を移設したものである。
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満穴天満宮庚申塔
天満宮の社殿前南側に元禄2年(1686)建立の庚申塔は13名の講仲間にて建てたものである。 講中の江口、鬼崎、今泉等は末次村の住人である。 「庚申待」とは、庚申の夜、仏家では帝釈天(タイシャクテン)および青面金剛(ショウメンコンゴウ)を、神道では、猿田彦を祭って寝ないで徹夜する習俗で、もしその夜眠ると人身にいる、三尸(サンシ)が人の睡りに乗じて、その罪を上帝に告げると、また三尸が人の命を短くするということを、庚申縁記に述べられ、平安時代に伝わり、江戸時代に盛んになった。 境内には寛文13年(1673)8月市武久左衛門延近寄進の手洗石がある。
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堀のなかの地蔵さん(雨ごい地蔵さん)
鹿の子上の南西、米蔵古賀へ通る道路沿いに地蔵角の堀がある。橋の北10m程の堀のなかに地蔵さんが沈潜していた。その由来は定かでない。台座までいれると、人丈近くあるそうで、堀を干上げ地蔵さんが出ると、大雨が降ると語りつがれている。 今は、圃場整備による水路つけかえで、北方に移されている。
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中野實翁誕生地
上飯盛の南端を東西に県道相応津から諸富線の道路沿いの松の木立ちの中に、中野實翁の誕生地の記念碑が建っている。 この記念碑は大正11年(1922)3月に建立された。当時老朽化した本荘尋常高等小学校の改築問題で、財政的に貧困の極みにあった当時の本荘村に、中野實翁が、その時の金で大枚5萬円也の寄付を申し出られ、それにより講堂、校舎を新築することが出来た。本庄村民は翁の功徳を称えて、本庄小学校校庭の一隅に、中野實翁頌徳碑を建立し、また生誕地にも記念碑が建てられた。 實翁の父中野龍渕は飯盛八幡社の座主であり、明治7年(1874)に東与賀町下飯盛に八幡社を御遷座するにあたり、翁は私財をもってこれにあてる。下飯盛区民は浮立を打ってお迎えする。神社前参道には、中野實翁表彰碑が建てられている。(昭和10年(1935)5月建設東与賀村)
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正里寺子屋の跡
福山晴大氏宅地東北隅には麦藁葺き平屋の正里寺子屋跡の建物が残っていましたが、平成3年(1991)秋の台風で倒壊しました。当時の所管は久米栄吉師匠で、約十数名の少年達が学んでいたそうで、明治維新の英傑大隈重信(八太郎)も見かけたと言います。
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観世音菩薩
正里では「ヒハラシの観音」と言っています。不幸ごとの帰りには、この観音さんに参り、「忌はらし」をしてもらい、それぞれの自宅に向かうという風習が昔からありました。 幼児を抱いて胸をはだけ乳を含ませている見事なお観音さまを人々は子安観音とよんで安産や育児を祈願し、信仰を深めた石仏であります。
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屋敷神
春分と秋分に最も近い戊(ツチノエ)の日を社日といって、この日に地神を祀ります。 この祀りは一般に講組織によって催されるため地神講または、社日講などと呼ばれています。 中央塔は佐賀を中心に分布していますが、玄清流盲僧の地神陀羅尼王子経に基づくものといわれ、本来は屋敷神として、鬼門に祀られていました。屋敷神(地神塔)の大部分は、江戸時代の中期以降に建立されたものが多くまた塔も他の塔に比べて小型であります。
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中央尊
(銘文) 中央 自然石割石塔 「チュウオウサン」と呼ばれています。 この供養塔は、本来屋敷神として屋敷地の乾(イヌイ)の方つまり北西から艮(ウシトラ)の方つまり北東の角に祀られていたもので、その取り扱いは丁重でも粗末でも良くないとされています。 中央尊の信仰は肥前盲僧と呼ばれる玄清流の盲法師が広めたものと言われ、地神陀羅尼王子経による経典とされ、この経で説くところの荒神が大地の中央にあって四季の土用をつかさどると言われています。 建築等のため移転する時は、盲僧を呼んでご祈祷をします。また建築をする時は〆縄を張り、神域を設けて地鎮祭を行うことが、今も行われています。これは地神とか中央神に対する信仰の現れであります。 ※写真は本庄神社に安置されているもの
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石神(力石)
石には神秘的な霊力がひそみ、神霊がこもると信じ、次の三つの信仰がありました。 1.外部からやってくる疫病神、神霊などを防いで村境から一歩も入れぬ信仰。 2.生産の神として農業生産や出産に村人の崇敬を受けていました。 3.治病の神として、人々は石に病気が治るよう祈願しました。
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地蔵菩薩
このお地蔵さんは、天明7年(1787)の古地図に、現在地付近に描かれています。 正里の守護神として永い歴史があります。 お地蔵さんは観音さまと並んで、その信仰は盛んであります。 「地蔵菩薩」は釈尊入滅後に、次の仏様となる「弥勒菩薩」がこの世に現われるまでの間、人々の悩みや苦しみを救済する菩薩であります。 よく村はずれの道端や、墓の入口に6体の地蔵尊を見受けますが、これは一般に六地蔵と呼ばれています。
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正里英彦山権現二十三夜刻像塔
文政三年(1820)十一月廿日 (刻像) 尊像 月、瑞雲 (造立者)久米、成富外 割石塔 二十三夜に講仲間が集まり、勤行(仏前で読経などお勤めをすること)や食事を共にし、月の出を待つ行事を、二十三夜の月待または三夜待と言い、毎月の二十三夜に行ないました。刻像は勢至菩薩が多く、像は両手を合掌したものが普通であります。 この二十三夜さんは、昔は天照皇大神塔と共に正里英彦山権現の境内にあり、疱瘡神として有名でした。 縁日には八戸町、道祖元町等の市内から参詣人が多く、藁つとにゴックウサン(にぎり飯)と豆腐、蒟蒻を入れて、境内の竹にさげて願いをこめ供養しました。その縁日には屋台店まで出て、賑わったそうです。 この祭りも天然痘の予防によりいつしかなくなり、今では正里区の東の入口に移転して、もろもろの悪疫を防ぐ守護神の役目を果しています。
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大神宮塔
享保十四年巳酉(1729)二月吉祥日 (銘文)天照太神宮 (施主) 宮田嘉助、塚原勘六、山田助之亮、南里弥兵衛、石井市良左衛、久米伊兵衛、古賀森右衛門、中薗政右衛門、副島良右衛門、古賀茂平次 天照大神宮は、三重県伊勢にある伊勢神宮のことであります。 江戸時代に、伊勢信仰は全国的に広まりましたが、この伊勢参りにはたくさんの旅費が必要ですから、伊勢講をつくり、講金という形で金を積立てて交替で伊勢参宮を行ないました。「大神宮」「天照大神宮」などと刻まれた石碑は、こうした伊勢参宮の記念碑として建立されたものであります。 伊勢参りは、約100日ほどの日時を必要としました。いただいた護符は、講仲間で分け合い家内安全を祈りました。 佐賀市の伊勢神社は伊勢皇大神宮の分霊を祀ったもので毎年2月11日の祭礼に参拝するようになってから、伊勢参りが下火になりました。
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胞衣塚と久納屋敷
直茂公の誕生地に胞衣塚がある。その横に日子神社が祀ってある。 胞衣塚より東南に北古賀邸があり、その屋敷の南東に久納屋敷といって2本の巨松が茂る(今は枯れて無し)付近が、直茂公誕生の際不浄物を洗った場所でその後耕作を禁止した。 なお胞衣塚畔の堤家は、先祖の堤与一左衛門貞清の室が鍋島清久の末女(円照妙圓大姉)で、この縁故によって代々御番役をつとめた。