妙玉寺鍋島安芸守茂賢と追腹の墓

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妙玉寺鍋島安芸守茂賢と追腹の墓

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■所在地佐賀市本庄町大字鹿子104
■年代近世
■登録ID801

妙玉寺本堂の南東部に鍋島安芸守茂賢、同後室外22名の墓がある。これには『葉隠』に述べられている追腹の物語が残されている。
茂賢は正保2年(1645)2月11日行年75歳で没す。茂賢が病死した時、藩士18人と組下二人が追腹を申し出たので、家老衆から「殿様でなく大組頭のあとを追って、追腹を切るのは妥当でない」と重ねて翻意を促された。ところが、この者たちは「先年筑後の八ノ院の合戦のとき、主水殿(茂賢の兄茂里)の組の中から、安芸殿が特に我々を選び出してくださり、八ノ院で枕を並べて討死しようと言い交わしました。そのとき安芸殿も討死されなかったので、我々も今日まで生きながらえてきたのでございます。武士たる者が、枕を並べてと、約束しながら1日も後に残ることができましょうか」と言って、ついに追腹を切った。
18人および供の者4人の位牌と墓は妙玉寺にある。

出典:かたりべの里鹿子P.14本荘の歴史P.62

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