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[旧佐賀市][本庄校区]は185件登録されています。
旧佐賀市 本庄校区
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梅林庵藩祖・鍋島直茂が修学と初陣
直茂は、天文7年(1538)本庄の館で鍋島清房の二男で生まれ、幼名を彦法師と称した。 天文10年(1541)4歳の時、小城の千葉胤連の養子となり10年を過ごす。同20年、14歳で養家を辞し佐賀へ帰り、梅林庵で2年余り手習、学問を修得した。天文22年、諸将の謀略で一時筑後に逃れていた龍造寺隆信が佐賀に帰り、諸将を退却させ村中城に入った。これに際し、直茂は龍造寺軍で参戦した。16歳の時で梅林庵から出陣した。これが直茂の初陣となった。
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梅林庵義祭同盟と梅林庵
文化、文政のころ、弘道館の教官に枝吉種彰(南濠)(1789〜1859)がいた。 文武両道に秀で国学、古典研究に励んだ。その長子が枝吉経種(神陽)であり、次子枝吉二郎は副島家の養子となり、これが後の副島種臣である。 南濠は古典研究、史学研究にもとづき「日本一君論」を主張し尊王論を唱えた。 長子神陽は、文政5年(1822)5月24日に生れ、文久3年(1863)8月14日に没した。 天保11年に弘道館に学び、父の「日本一君論」を継承し、同13年21歳のとき、江戸の昌平黌に遊学し、のち嘉永元年(1848)拡張になった弘道館に帰り、草場佩川、武富圮南(いなん)、大園梅屋、古賀素堂等とともに教官となった。 ここで父南濠から受け継いだ尊王論を唱道して多くの弟子を得た。 弘道館史学派と呼ばれた人々の中には江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣、島義勇、中野方蔵らがいた。 嘉永3年5月神陽のもとにこれら史学派の書生たちが集まり、義祭同盟を結んだのである。 嘉永3年5月25日佐賀郡西河内村の梅林庵に楠木正成父子の桜井の駅訣別像を安置し、これを祀る同盟であった。 この木像は寛文3年(1663)年深江平兵衛信渓(シンケイ)が京都の仏師法橋宗南に依頼して完成し、佐賀郡北原村(大和町)の永明寺に祀り、のち文化13年(1816)高傳寺の楼上に放置されていたものを発見、修復したと伝えられているもので、安政元年(1854)同木像は白山町八幡宮地内に安置された。
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直茂と梅林庵・寳持院
直茂は天文7年(1538)3月13日、佐賀郡本庄の館にて生れ、幼名を彦法師といい、一時小城の城主千葉胤連の養子となったが、天文20年(1551)14歳の時、千葉家を辞して本庄の館に帰り、梅林庵において修養研学に励んでいた。そのころ梅林庵の南にあった寳持院の和尚が髪の手入れ、衣裳の着付などすべてにわたって心からお世話を務めた。そこで彦法師が成長された後、寳持院に対して「何なりと望みのものがあれば、かなえてやろう」と言われたところ、寳持院は「私には、何もお願いすることはありません。ただ蒟蒻(コンニャク)を一生のあいだ食べたいと思っています。御親切におっしゃることでございますから、この望みをかなえてください」と申し上げた。それで一生涯2日に一度ずつ使いの者が、この寺へ蒟蒻を持参したということである。 彦法師は長じて龍造寺隆信に仕えた。初め左衛門太夫信安、また飛弾守信真あるいは信昌、信生などと称したが、晩年加賀守直茂と称した。
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寳持院跡西川内観音堂と観音像
西川内公民館児童遊園地に接して観音堂があり、千手観音像が安置されている。これは、廃寺となった寳持院の一部と考えられる。今まで地域の有志で維持・管理と祭祀が続けられてきている。平成7年(1995)、公民館と併せて観音堂も改築され、千手観音像の修復も行われた。観音像の詳細は、誰もが知らずにただ崇拝だけは途絶えることなく続けられてきた。これの修復の機に観音像の底部に墨書が判明、像の詳細を知ることが出来た。 像高40cm弱の小ぶりの千手観音坐像である。材質・造りなどの価値判断は出来なかったが、墨書から貴重な歴史資料、文化財として高く評価できるものである。 「観音像底部の墨書」(原文) 肥前小城郡西郷醫王山三岳寺 住持義完叟謹奉拝刻 為悉皆成佛者也 正徳二壬辰年十二月吉祥日 願主村田隠岐殿御内方 作者=小城市小城町池上の三岳寺、5世住職義完 [注]三岳寺:徳川家康に信任が厚かった学僧・閑室元佶が開山。 義完(寛):三岳寺5世、僧名・慶信、仏師名・栄信、三岳寺所蔵の県重要文化財の千手観音菩薩坐像、閑室元佶像は和尚の作。 願文=完全に佛になること、佛の世界に入ることを願い先祖の菩提を弔う。 時期=正徳2年(1712)12月、父・村田政辰が宝永8年(1711)2月20日に卒し、一周忌を済まし、三周忌前と考えられる。 [注]正徳2年の頃は、『葉隠』の口述者・山本常朝と筆録者・田代陣基が語り合った時期。2代藩主・鍋島光茂の側室・霊寿院が亡夫追善の法華経一千部を読誦、結経の碑「大乗妙典一千部」塔の建立と同時期。 願主=久保田村田家の政辰、同室の養子・村田隠岐守政盛{寛文11年(1671)〜享保18年(1732)}の室(夫人) [注]村田政辰:実は鍋島直弘(初代藩主・鍋島勝茂の四男、白石鍋島家)の二男、村田氏久の養子、氏久の娘婿。 村田政盛:実は鍋島光茂(2代藩主)の五男、村田政辰の養子、政辰の娘婿、母は霊寿院か。
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寳持院と鍋島直茂
「直茂公は、梅林庵にて御手習遊ばされ候。其の時分梅林庵近所の寳持院、御鬢御衣装諸事の御給仕心に入れ勤められ候。公御成長の後、寳持院へ、『何にても望みの事相叶へ遣はさるべき。』旨仰せられ候處、『私何も望みこれなく候。蒟蒻を一生たべ申し度く候。御懇に仰下さるゝ事に候間、此の望み御叶へ下され候へ。』と申し上げられ候。それより一生の内、二日に一度宛、御使にて蒟蒻を遣はされ候由。」(『葉隠』聞書三) これは『葉隠』に記されている1項である。直茂は、少年期に梅林庵で手習の間、寳持院の和尚に身の廻りなどの世話になっている。成長した直茂は、和尚に望みのもの贈ることを申し出、和尚は蒟蒻を所望した。直茂はこれに応え蒟蒻を贈り続け、いつまでも感謝の気持ちを忘れなかった。ほほえましい逸話である。
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高傳寺
高傳寺は慧日山と号し、曹洞宗で天文21年(1552)鍋島駿河守清房公の建立になるものである。これは清房公(直茂公の父)の父君平右衛門清久公が毎月朔日丑の刻に本荘の宮に参詣されていたが、ある日本荘明神が出現し給い「嫡子清房を以て本願主となし、高傳寺の勝地を禅宗と改め、薬師仏三尊(往代薬師如来の脇侍、観音菩薩、勢至菩薩であったが、普通薬師仏の脇侍は日光菩薩、月光菩薩でこれを三尊仏と言う)を崇めよ、しからば、我鎮護の神となって汝の子孫を守らん」と仰せられたのである。薬師三尊の外に金仏の釈迦如来も安置されている。奥には初代勝茂公の建立による釈迦堂がある。承応年中(1652頃)大明国より赤栴檀(印度に産する香気の強い木)の霊木が長崎の津に渡って来た事を聞かれ、これを手に入れ、釈迦三尊(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)を洛陽(京都の異称)の大仏師に作らせた。開帳供養導師は当時10代の住持鶚峯桂雲和尚が行った。有名な湛然和尚も都より下ってこの寺に住んだ。 山門及び本堂は明治34年(1901)に改築されたものである。 山門に掲げられた扁額「慧日山」の彫刻の書は即非禅師の筆で特に目につく。また、本堂入口直上の彫刻の扁額「高傳寺」は、黄檗の僧、独立禅師の筆で古書を愛する人の目にとまるものである。
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高傳寺織部燈籠
八太郎槇の近く、庫裏南側塀前にある燈籠で、竿石も少し偏平で上方に円く張り出しがあって、その上に正面四角の笠をのせてある。これは桃山時代の茶人古田織部が考案したものだそうで、それから織部型の名が出たのである。 織部型の竿を変型十字架と見て竿下方に彫ってある立像を宣教師像と見てこれは潜伏切利支丹の信仰物として考案されたものだとも言われている。
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高傳寺湛然和尚の墓碑
本堂南側に立ち並ぶ40基の墓は、開山・玲巌玄玻和尚を中心に両側に2代、3代、縦列両側に代々住職の墓である。ここに、『葉隠』の口述者・山本常朝が仏道の師と仰いだ11代湛然梁重和尚と常朝の刎頸の友と言われ『葉隠』の成立に大きな影響を及ぼした19代絶学了為和尚の墓がある。 [参考] 湛然梁重和尚:元々肥前の生まれで、三河国の寺にいた湛然和尚を武雄出身の名僧月舟和尚の推薦で高傳寺11代住職に就いた。楊柳寺(西与賀町高柳)の開山にもなった。禁酒など寺風刷新、反面慈悲心に富み、藩主鍋島光茂はじめ諸人の尊敬を集めた。寛文9年(1669)、圓蔵院の村了和尚が寺の昇格を藩主光茂に直訴したため斬首されたのを憤り、この寺を去った。湛然和尚は、松瀬(大和町)の通天庵に入った。藩主はもとに戻ることを説得したが受け入れなかった。そこで高傳寺の末寺として華蔵庵を建ててやり10石の扶持を与えた。延宝8年(1660)、ここで死去した。廃寺になった華蔵庵跡にも墓がある。
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高傳寺近親者の墓
御位牌所北側に藩主達の主な近親者の墓を集めた墓所がある。藩祖・鍋島直茂の祖父・鍋島清久、同父・清房、龍造寺隆信の母で、直茂の父清房に再嫁し、直茂の継母となった慶誾尼ほかの墓がある。
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高傳寺龍造寺一門と秀の前(波多三河守親の妻)の墓
墓所北部一画に龍造寺一門の墓が並んでいる。これは天文14年(1545)、少貳勢に謀られ、川上與止日女社で、龍造寺家純、家門、純家、祇園原(神埼町)で周家、頼純、家泰の6人が戦死し、龍造寺家壊滅の危機となった出来事があった。この6人の墓が建っている。 同じ区画に静室妙安大姉と刻まれた秀の前の墓がある。秀の前は、龍造寺隆信の養女(実は龍造寺胤栄の女)で、初め蓮池の小田鎮光に嫁し、後、松浦岸岳城主波多三河守親の妻となった。豊臣秀吉が名護屋在陣の時、名護屋に招かれたおり、秀吉の前で懐剣をとり落としたことからその怒りをかい、夫・三河守親は領地没収、常陸国に流された。その後、秀の前は佐賀に帰り、妙安尼と名乗り仏道三昧、妙安寺(川原町)の開基となった。寛永元年(1624)7月晦日、79歳で死去。
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高傳寺枝吉神陽の墓
枝吉神陽は枝吉南濠の長子で、副島種臣の兄である。通称は杢之助、字は世徳、神陽と号され、文久2年(1862)8月41歳で死去された。神陽は容貌魁異、眼光けいけいとして人を射て、音吐鐘の如く、加うるに健脚比なく1日に能く20里を踏破されたそうである。 神陽は始め、父南濠と夏秋富雅に学び、後江戸昌平黌に入り、帰国後藩学教諭となられた。神陽は早くから勤王の大義を唱え「普天の下率士の濱天臣に非ざる者なし。君臣の様は独り朝廷に対して用うべきものにして決して藩公に対して、用うべきものにあらず」と、常に力説しておられた程で、勤王の為奔走し、楠公父子像を祀って、子弟を教養された。 明治維新に際し佐賀から幾多の志士を輩出したのは、実に神陽の薫陶感化による事が大である。 明治44年11月従四位を追贈せられた。 重野安釋は神陽の事を激賞して「之を古今の史中にもとめて恐らくその比を見ず」と言われたそうである。 神陽は大変な親孝行で、母が日頃病身なので幼少から母を労わり、何事もやっておられた。ある時は弟や妹を背負って門外に出て遊び、堀畔に踞して書物を読んで勉強しておられたそうである。両親が死去されてからは必ず忌日には怠らず墓参されていた。 文久2年(1862)12月佐賀に虎列刺病が流行したが、その時神陽の夫人が虎列刺病に罹って死去された。神陽は亡き妻の死屍を自ら指図して処理し葬儀を営まれた。しかし不幸にして、神陽もこれに感染し虎列刺病に罹られ14日まさに死なんとする時、家人を呼んで礼服を持って来させ枕の上にそれを置いて、起蹲伏し、遙に皇居を拝し「草莽の臣それがし事畢る」と言って死なれたという事であり、実に神陽の心中を察して涙をさそうものがある。
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高傳寺副島種臣の墓
副島種臣は文政11年(1814)9月9日佐賀市赤松町にて生れる。枝吉南濠の二男で、神陽の弟である。幼名を二郎といっていた。 種臣が32歳の時副島利忠の養子となられ、副島姓を名乗られた。 種臣が後世に名をなしたのは、実に勤王家石井松堂の薫陶のしからしめたものである。種臣は蒼海・一々学人の号があり、学問該博、識見高邁、詩文に巧みで、明治天皇の侍講となられた。書は六朝を研究して妙を得、書聖中林梧竹翁と親交があり、梧竹翁が再三中国に渡り書道を研究したのは、偏に先生の書かれた書を見て発奮されたのである。「私は今度こそ、貴方に負けまいと支那(中国)に渡って研究して帰ってみると、先生の書は私より上手になって居られる。どうして支那にも行かれずに上手になられますか」と問われたのに対し種臣はただ笑っておられたそうである。 梧竹翁は書道においては種臣に一歩譲っておられた。しかし種臣はまた翁の書は実に見事だと賞讃して、明治天皇に梧竹翁の書を献上された程である。 種臣は維新の際国事に奔走され、明治元年初めて参与職制度事務局判事に任ぜられ、次いで参与職に補され、明治2年7月参議同3年5月外務省御用専務を経て、11月外務卿に任ぜられた。明治6年征韓の論が起った際議あわず辞職された。 明治17年伯爵を授けられ、明治25年松方内閣成立の時内大臣となられ、また枢密顧問官に任ぜられ、明治38年1月78歳で死去された。 墓地は東京青山及び高傳寺にある。
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高傳寺家永恭種の墓
家永は弘化元年(1844)佐賀に生る。通称を範之助、嘯倣と号す。早くから文武両道に達せられて維新の際参謀となって、奥羽戦争に従軍され功労があった。 佐賀県参事、水戸裁判所長などを歴任、明治7年佐賀戦争後大いに地方の衰退を慨嘆し、官を辞して帰国され、松風社、戊寅義学を起して佐賀の民風を振興する事に努力された。殊に佐賀取引所の創立等に力を尽くし、その他色々世の為に貢献された人である。 また、明治22年(1889)佐賀市制施行に伴い、佐賀市会(議会)初代議長に選出される。
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高傳寺殉死者共同の碑
墓所東側に龍造寺家、西側に鍋島家の墓が並んでいる。鍋島家の墓列中央に、鍋島直茂(藩祖)、勝茂(初代藩主)、忠直(勝茂の嫡子)の墓碑がある。それぞれの墓碑の背後に、仕えた主人の死去に際し、殉死(追腹)した者の氏名が刻まれた碑が建っている。 直茂{元和4年(1618)死去}の時は12人が殉死している。忠直{寛永12年(1635)死去}の時は、江副金兵衛始め5人が出た。勝茂{明暦3年(1657)死去}には26人と一番多く、「泰盛院殿御追腹」と横に刻んだ題字の下に、殉死者名が、各々、法名とともに列記されている。佐賀藩は、他藩に比べて殉死者を多く出している。また、寛文元年(1661)に勝茂の四男・鍋島直弘(白石邑主)が死去した時、家来36人が殉死を申し出た。2代藩主鍋島光茂はこれを許さず、翌2年殉死禁止令を出した。寛文3年に出た幕府の殉死禁止令より1年早い。 [参考] 元和4年(1618)6月4日鍋島直茂死去(81歳)殉死者12人 寛永12年(1635)1月28日鍋島忠直死去(23歳)殉死者5人 正保2年(1645)2月11日鍋島茂賢死去(75歳)殉死者22人 明暦3年(1657)3月24日鍋島勝茂死去(78歳)殉死者26人 寛文1年(1661)7月7日鍋島直弘死去(44歳)殉死申出36人 寛文2年(1662)鍋島光茂、殉死禁止令 寛文3年(1663)幕府、殉死禁止令
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高傳寺開山堂
寺で最古の建物。堂内中央に2代藩主鍋島光茂の持仏であった七体観世音菩薩を祀り、その右に道元禪師、左に開山の玲巌和尚の彩色木像が祀られている。また、歴代住職の位牌のほか戦国時代からの戦ごとの戦死者の合同位牌、殉死者の位牌も祀られている。 江副金兵衛が刻んだ自像も安置されている。
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高傳寺盛姫のこより地蔵
高傳寺庫裏2階の床の間に紙(こより)の地蔵さんが安置されている。この作者は11代将軍徳川家斉の28番の子盛姫で、佐賀10代藩主鍋島直正公(閑叟)に嫁して、文蕭夫人と呼ばれた。 「こより」は文蕭夫人が、つれづれに写経した何十万本の「こより」でこしらえたのである。像高は台座を含めて、約70cm程である。 一説には、父将軍家斉が天保12年(1841)に没した後、父の追善供養のため「こより地蔵」がつくられたものと言われている。
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善應庵
曹洞宗で本尊は観世音菩薩で高傳寺の末寺である。 善應庵は光茂公が、左内様(光茂公の子6歳で早世)のお部屋をそっくり移され、お子様の菩提を弔うために、寺として建立され、寺号を移されたものと言われる。 延宝7年(1679)12月10日寺号の移しを仰せつけられ、円通院様(左内様)のお部屋を客殿に建てられた。元禄2年(1689)9月16日円通院様ご開基に仰せつけられ、寺領給米12石をご寄進のご印を差し出された。 元禄2年(1689)9月26日に本丸の持仏堂(仏間)を善應庵に移し、早世のお子様方の位牌を祀った。ご持仏堂は円明院様(お金、光茂公の娘8歳)のお部屋であった。天和2年(1682)7月23日よりそのお子様方の追善のために、法華経1万部を17か年後成就いたすようにと仰せつけられ、元禄11年(1698)結願、法会が終わって善應庵に万部塔が建てられた。
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本庄神社
本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音で第29代欽明天皇の勅願で欽明天皇25年(564)9月28日の夜、末次村の正直者丹次郎と言う農夫が薪取作業中、突然大地が震動して、2本の霊木が生じて、五色の雲、金色の光がさして何処からともなく妙なる音楽が聞こえて、雲の中より気高い垂髫(スイチョウ)の一人の童子が出現して「我は是淀姫の神霊也」と申されて、色々不可思議な霊験を示された。領主の小寺左衛門大夫安利は丹次郎より霊験奇談を聞き、この丹次郎を連れ、上洛して欽明天皇に奏聞した。天皇は叡感ななめならず(天皇が感嘆すること)畏くも綸旨を下し賜い、なお霊場を建立された。その後小寺は神託に乗じ自ら神主となり、女房を命婦(官位ある女房)とし、同じく座主場を慶正寺と号し、毎年9月27日より28日まで、神事祭礼を掌ることとなったとある。 その後永正9年(1512)2月に鍋島清久(直茂公の祖父)が再興し、天文2年(1533)にその子清房が建立した。その後慶長17年(1612)8月直茂が神殿を新たに造営した。承応2年(1653)に至り、光茂(2代藩主)が更に造営した。 社殿宏壮にして、境内は甚だ広く、本殿より下の宮間の馬場の如きも5間幅(約9m)にして、幾多の大樹鬱蒼としていたが、今はその面影を残していない。 明治4年(1871)12月郷社に列せられる。祭神は豊玉姫命であり、仁徳天皇、日本武尊、天照皇大神、日子神、伊奘諾那岐神、龍王神、猿田彦神の七柱の神は、無格社合祀により追加をなした。また、明治40年(1907)近郊の雑社二十八社を集め合祀し、多くの石造物が本殿裏に移されている。 與賀郷の産土神社として、末次その他は與賀神社より分離し(明治4年/1871)本庄神社となり、毎年11月28日をもって祭日と定め(現在は10月)氏子区順番にて浮立、相撲、手踊等で賑わいをなしていた。 明治40年2月15日神饌幣帛料供進定 当時の氏子戸数 817戸
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本庄神社刻像弁財天
神殿裏側に、文政13年(1830)刻銘があり、琵琶を抱いた像を彫った弁財天の石祠がある。 弁財天は、河沼の水辺に祀られ水の神として信仰された。しかし、土地を沃する五穀豊穣の神格は、わが国古来の食物の神である宇賀神と同神となり、また、市杵島姫命と習合して崇敬されていた。福徳神として江戸時代には七福神の一員となって信仰され、音楽や弁財を司る神として妙音天とも称され、琵琶を抱いた尊像も造られて花街の女性の信仰も集めていた。さらに、神体を蛇神につくり、巳待ちの本尊として崇められ各分野の人々によって信仰されているのが弁財天である。 古代から信仰の対象になっている脊振山、金立山、天山などの神山には、弁財天が奉祀されているが、おそらく農業用水の供給源としての水神信仰がこれらの神山には古くから存在していて、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったものであろうと考えられている。
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本庄神社楼門の猿
慶長17年(1612)8月鍋島直茂が本荘の宮の社殿を新に造営すべく脊振山や北山から桧材を出させ、国内の名匠を集めて、造営させた。特に楼門は当時名匠の聞えある多久田の番匠(詫田の万乗)の作だと伝えられている。 この楼門の上に置かれた2匹の木彫の猿はさながら生けるがごとく、見る者がほめぬ者はなかった。しかるにこの宮が新に造営されて以来、不思議な事が続いて起った。それは付近の田畑が荒される事と、店先の菓子や果物が無くなる事であった。 村の人々は毎日不安の夜を送っていた。しかるにある月夜の事、黒い物が二つ畑を荒らしているのを見つけた。さてはてっきり此奴の仕業であったかと、彼をとっつかまえようと追い廻したが、なかなかすばしこくてどうしても捕える事が出来ない。遂に黒い二つのものは、本荘の宮の方に逃げて行くので、なおも勇気を出して追って行くと、楼門の柱をスルスルとよじ登った。 そこで側によってよくよく見れば何とそれは彫刻した2匹の猿公であった。そこで氏子連中が集って話合いの上、直茂に伝えて眼をつぶして猿公を後手に縛り上げた。それからは猿公も仕方なく梁の上におとなしく居るようになったという。これが楼門の上に居る2匹の後手の猿の話である。また、この楼門は桃山末期の作であると伝えられ趣きがある。 この宮の太鼓橋その他は、与賀神社、牛島天満宮など同一の形式を備えており同時代の神社構築の様式を知る上に良い資料である。 惜しいことに与賀神社で見るような太鼓橋両側の河中の燈籠が明治時代まではあった筈なのに今は無くなっていることである。
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本庄神社閑叟公の地蔵さん
社殿の西側に舟形光背を負い、蓮華座上の半肉彫像の地蔵菩薩が方柱石上に安置されている。 この地蔵さんに昔話がある。 10代藩主鍋島直正公が、幼少の頃、父君について本荘の宮へ祈願に来ていた時に境内の池の側の地蔵さんの頭にのり、飛込んで水遊びをしたそうで、晩年この地蔵さんにお詫びに祭田4反歩を寄進して丁重に祀られたという。以来閑叟公の地蔵さんと呼ばれている。
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本荘院
天台宗で、本尊は慈恵大師で、境内仏堂観音堂に、十一面観世音菩薩を安置す。 本寺は、京都市東山区粟田口の青蓮院である。宝物として、慈恵大師画像掛軸一幅で慈恵大師鏡影自筆で日本三幅の内の一幅である。鍋島家の祈願寺院として、鍋島勝茂(初代)が再建し、昭和初年までは本堂は瓦葺平屋63坪の広大な建物であった。 4代吉茂の代に方除で有名な、元三大師御自筆の尊像を勧請して祈願されたところ、その霊験あらたかなるをもって、佐賀藩内の方除祈願所(方除のお守、移転旅行、造作土木工事等)として、お守授与の特権を与えられたのである。
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本荘院住持と直茂公
早朝、藤嶋生益の所へ鍋島家祈願所の本荘院住職が来て「今朝、ご本尊の御身体を拭こうと思い、宝殿を開いたら、御首が落ちておりました。早々に申上げるため、御首を持参いたしました」と袈裟の包みを差し出した。生益は「御首はご覧なされるものでないから持ち帰って下さい。お話のこときっと申し上げます」と言って出仕し、直茂公に申し上げた。 すると直茂公は「さてさてなんと憎い坊主が予を騙そうとすることか、ただちに捕手を召しつれ拷問にかけて本当のことを白状させよ」と大変なご立腹であった。生益は訳がわからず「お家のおんためを思い申し上げに参りましたのを拷問にかけるなどとは、どんなものでしょうか」と申し上げたが、「その方は出来ぬようだ。他の者に申しつける」とことのほかお叱りになった。 「出来ないわけではございません。そのようにお考えならば、住持に会って手をとり、直茂公が、ご立腹で拷問にかけようと仰せられた」と伝えたところ「それは迷惑なこと、お怒りは理解できない」と言う。さらに生益が「出家の身で不浄役人の拷問を受けてからの白状は見苦しいことだろう」と言ったので、住持も「しからば正直に申しましょう。ご本尊を拭いたところ、ご身体が動いたため、お首が落ちましたので、ふと思いつき先のように申し上げたら、ご造営もなされ、寺も栄えるだろうと思って申し上げました」と白状した。生益は急いで帰り白状したとおり申し上げると、直茂公は前と違ってお笑いなされた。生益は大いに怒って、「私を騙した遺恨晴しに磔にかけたいと思いますので、私にくださいませ」と申し上げた。 直茂公はますます笑い出されて、「その方は最初本当だと思ったため今腹を立てておる。予は、やつの企みを見破ったのでその時は腹立ったが、今はそうでもない。かの坊主め、この間予の神詣でのたびに寺に寄ってくれと申していたので一度立ち寄ったところ、吸物を出しおったが椀の底に土がついていた。そうしておいて頭を地面にこすりつけた。ありがたいことだなどと申しおった。心からありがたいと思うならば、予に出す膳は入念にする心遣いがなくてはなるまい。売僧(バイス)め許しておけないやつと日頃から思っていたが、とうとうこのようなこと謀りおったのだ。しかし祈願所ではあるし、ただ住持を代えるだけにせよ」と仰せられた。生益はすっかり恐れ入ったという。(葉隠聞書より)
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妙見社
西寺小路南の国道208号沿いに、妙見社がある。 妙見菩薩を奉祀する祭神は国土を擁護し災を消し敵を退け、福寿を増す仏とされ、日蓮宗では特にこの妙見菩薩を信仰する。また妙見菩薩は北斗七星の本地で、北辰尊星妙見大菩薩とも称され、北極星を仏格化した諸星の王であって、一切の事物の善悪を記録する国土の守護神であるといわれている。中世においては、武将の中にも、千葉氏、山名氏、大内氏など深く妙見菩薩を崇敬した。 県内では妙見菩薩の石像は未発見といわれ、文字塔のみが知られている。 社殿内の妙見菩薩像は、信者の増田栄次郎氏が大正初期に製作したものである。 氏子の寺小路、溝口区住民の信仰厚く、昔から旅立ちには奥殿の小石をお守に持参し、旅行の安全を祈願して、また帰郷すれば小石を倍にして返し、無事に帰ったお礼をなす風習があった。 妙見社では年2回の祭りが続けられている。 1月(現在は第2日曜日)に大般若供養をなす。8月の豆祗園は子ども達の主催である。前日子ども達が区内の家々に1斗ショウケ(竹かご)を持って廻り、農家からは蚕豆(トーマメ)を、非農家からは金銭を奉加してもらい、蚕豆を煮て日暮れと共に子ども達の手から煮豆を参詣人に分けてやった。また青年団主催の浪曲等で、当日は賑わいをみせたが、今は子ども達の豆祗園のみが残っている。 ※「祗」の右側の表記は、「氏」が正しい。
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東光寺
曹洞宗、瑠璃山東光寺は鍋島清房(直茂の父)が、本庄村の千本松の館に在住の際、薬師如来及び、日月両天子の十二神を安置した観音堂を建立して、高傳寺の亀雲厖鑑和尚を招いて開山とし、毎年年始に参詣、祈祷祭を執行した。以来直茂、勝茂、忠直、光茂、綱茂の各藩主の崇敬が厚く、直茂の時代に新たに、薬師堂及び厨子1基を建造した。 元和3年(1617)に至り、天林院(直茂の息女)、福壽院(多久長門守室)、長壽院(諫早石見守室)によって堂宇の改築をなし、前に直茂が造営した薬師の棟札は厨子の中に納め、以来秘仏として、今日まで伝わり、これを開帳したことがないと言う。 しかし改築された堂宇も、その後年を経て敗頽するに至り、宝永4年(1707)初めて仏殿に改修される(この時より東光寺と改称される)。当時の住職は第11世玄栄和尚を中興の開山とした。かくして文久年中(1861~1863)寺務の隆昌に伴い、堂宇が狭小になり、境内の拡張と本堂庫裏の改築をした。 東光寺には鍋島平左衛門(清久、利叟、直茂の祖父)が歳暮、年始には御祈祷を頼まれていたと『葉隠』に述べられている。
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王子神社(若王子権現)
昔は鬼丸の宝琳院南、古江湖川の中の島に祠堂はあったが、現在は瑞応寺境内の東に移し祀ってある。 祠堂の前の明神鳥居の柱銘には、「佐嘉郡大井樋村医王山瑞応寺敬白。奉寄進御宝前氏子中天明三癸卯年(1783)二月吉祥日。」額束に「王子神社」と刻んである。 王子権現の由緒に関しては、色々話が残っている。その内の一つ『若王子権現縁起』による徐福祭神説を原文により紹介する。 「列山伝ニ曰く徐福字若房秦ノ始皇ノ時ノ道士ニシテ篤学ノ誉高キ、神仙ナリ。常ニ島嶋海辺ニ遊行跋渉養神ヲタヅネ、施薬施療万人ヲ利生シ、枯黒ノ難病ヲ治ス、尚風向帰航ヲ扶ク、神仙生涯ノ偉業実ニ大ナリ、而モ自五百年ノ長寿ヲ保ツト曰フ、本邦ニ來朝セラレルヤ有明海ニ入リ、筑後川嘉瀬川ノ河口付近ニ上陸、現在浮盃本庄間位侍数百人ト供ニ金立山ニ登ル。若王子権現社モ亦上陸乘船居住等垂迹地ニシテ、碇島左右ニ在り、其江頭ヲ望ム。社名村名ニ若ノ一字ヲ冠スル深ク旨アリ。爾來久シク、後人ノ指標追慕敬仰スル所、遂ニ文明中大宰少貳教頼、地頭龍造寺康家ヲシテ之ヲ修造セシム。同時ニ若村ヲ大井樋村卜改称ス。代々国主又之ヲナラフ。特ニ隆信公願書ヲ当社ニ納メ、翌日合戦大ニ利運ヲ得、袋、末次二村ヲ報賽シ社殿ヲ造営ス。是公ノ勝始ナリ 以下略 末尾〜蓮華寺旧跡、瑞應寺、若王子権現社ハ三位一体ナリ」
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観音寺
本庄小学校の南に大内旗山観音寺が建っている。本尊は行基の作と伝えられる如意輪観世音菩薩であり、宗龍寺(水ヶ江)の末寺である。 本尊は子安観音とも言い、遠くから多くの人が願かけに参り、そのとき魚や鳥獣を買い取って、命を助けて逃がしてやると、願いが成就すると言われている。 「観音寺物語」 観音寺は昔正里村にあったと伝えられる説もある。時に大宰少貳と中国の大内氏と戦を交える。(應永年間(1394〜)に始まる)龍造寺家氏公は少貳氏に従い、大内氏を討った。大内盛見(徳雄)はその頃上飯盛の飯盛城に住んでいた。 その時代に正里の西端に観音堂があり、その霊験著しく徳雄はこれを深く信仰し、仏前に旗を奉納した。よって村人はこれを大内旗観音と称した。 その後争乱は止まず無住となったが、元和年中(1615〜)に開運和尚が現在の場所に移した。 なお当寺には大内氏に関する遺物が多く、戦国争乱の状況が偲ばれたと伝えられる。
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観音寺鰐口
本堂入口に掲げてある鰐口の銘文は次の通りである。 左側〜天保九年(1838)三月吉日 右側〜肥前國佐嘉郡本庄村灰塚村 施主人 大内籏 観音寺 江戸詰 男女 杉野 嘉兵衛 江口 丈右衛門 下村 又四良
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瑞應寺
瑞應寺は臨済宗で、本尊は薬師如来である。本寺は、大本山が南禅寺(京都左京区)で、小本寺は萬壽寺(佐賀市川上)である。 開山は悦翁喜禅師{文明2年(1470)10月5日示寂} 開基は龍造寺家氏公 法号 瑞應寺殿譽幸公大禅定門 延譽妙幸大禅定尼
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瑞應寺福地吉左衛門の墓
名は貞長、六郎右衛門家定の嫡子で、有馬の陣に従軍し、戦功があった。墓が瑞應寺にある。 寛文3年(1663)12月21日没。法名功翁道績。妻は鍋島孫左衛門の娘で、寛文12年(1672)7月24日没。 法名 善慶妙霊