高傳寺龍造寺一門と秀の前(波多三河守親の妻)の墓

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高傳寺龍造寺一門と秀の前(波多三河守親の妻)の墓

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■所在地佐賀市本庄町大字本庄1112-1
■年代中世
■登録ID744

墓所北部一画に龍造寺一門の墓が並んでいる。これは天文14年(1545)、少貳勢に謀られ、川上與止日女社で、龍造寺家純、家門、純家、祇園原(神埼町)で周家、頼純、家泰の6人が戦死し、龍造寺家壊滅の危機となった出来事があった。この6人の墓が建っている。
同じ区画に静室妙安大姉と刻まれた秀の前の墓がある。秀の前は、龍造寺隆信の養女(実は龍造寺胤栄の女)で、初め蓮池の小田鎮光に嫁し、後、松浦岸岳城主波多三河守親の妻となった。豊臣秀吉が名護屋在陣の時、名護屋に招かれたおり、秀吉の前で懐剣をとり落としたことからその怒りをかい、夫・三河守親は領地没収、常陸国に流された。その後、秀の前は佐賀に帰り、妙安尼と名乗り仏道三昧、妙安寺(川原町)の開基となった。寛永元年(1624)7月晦日、79歳で死去。

出典:ワークショップ中野和彦氏寄稿

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