寳持院跡西川内観音堂と観音像

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寳持院跡西川内観音堂と観音像

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■所在地佐賀市本庄町
■年代近世
■登録ID733

西川内公民館児童遊園地に接して観音堂があり、千手観音像が安置されている。これは、廃寺となった寳持院の一部と考えられる。今まで地域の有志で維持・管理と祭祀が続けられてきている。平成7年(1995)、公民館と併せて観音堂も改築され、千手観音像の修復も行われた。観音像の詳細は、誰もが知らずにただ崇拝だけは途絶えることなく続けられてきた。これの修復の機に観音像の底部に墨書が判明、像の詳細を知ることが出来た。
像高40cm弱の小ぶりの千手観音坐像である。材質・造りなどの価値判断は出来なかったが、墨書から貴重な歴史資料、文化財として高く評価できるものである。
「観音像底部の墨書」(原文)
肥前小城郡西郷醫王山三岳寺
 住持義完叟謹奉拝刻
為悉皆成佛者也
 正徳二壬辰年十二月吉祥日
 願主村田隠岐殿御内方
作者=小城市小城町池上の三岳寺、5世住職義完
[注]三岳寺:徳川家康に信任が厚かった学僧・閑室元佶が開山。
義完(寛):三岳寺5世、僧名・慶信、仏師名・栄信、三岳寺所蔵の県重要文化財の千手観音菩薩坐像、閑室元佶像は和尚の作。
願文=完全に佛になること、佛の世界に入ることを願い先祖の菩提を弔う。
時期=正徳2年(1712)12月、父・村田政辰が宝永8年(1711)2月20日に卒し、一周忌を済まし、三周忌前と考えられる。
[注]正徳2年の頃は、『葉隠』の口述者・山本常朝と筆録者・田代陣基が語り合った時期。2代藩主・鍋島光茂の側室・霊寿院が亡夫追善の法華経一千部を読誦、結経の碑「大乗妙典一千部」塔の建立と同時期。
願主=久保田村田家の政辰、同室の養子・村田隠岐守政盛{寛文11年(1671)〜享保18年(1732)}の室(夫人)
[注]村田政辰:実は鍋島直弘(初代藩主・鍋島勝茂の四男、白石鍋島家)の二男、村田氏久の養子、氏久の娘婿。
村田政盛:実は鍋島光茂(2代藩主)の五男、村田政辰の養子、政辰の娘婿、母は霊寿院か。

出典:葉隠ワークショップ中野和彦氏寄稿

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