高傳寺湛然和尚の墓碑

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高傳寺湛然和尚の墓碑

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■所在地佐賀市本庄町大字本庄1112-1
■年代近世
■登録ID742

本堂南側に立ち並ぶ40基の墓は、開山・玲巌玄玻和尚を中心に両側に2代、3代、縦列両側に代々住職の墓である。ここに、『葉隠』の口述者・山本常朝が仏道の師と仰いだ11代湛然梁重和尚と常朝の刎頸の友と言われ『葉隠』の成立に大きな影響を及ぼした19代絶学了為和尚の墓がある。
[参考]
湛然梁重和尚:元々肥前の生まれで、三河国の寺にいた湛然和尚を武雄出身の名僧月舟和尚の推薦で高傳寺11代住職に就いた。楊柳寺(西与賀町高柳)の開山にもなった。禁酒など寺風刷新、反面慈悲心に富み、藩主鍋島光茂はじめ諸人の尊敬を集めた。寛文9年(1669)、圓蔵院の村了和尚が寺の昇格を藩主光茂に直訴したため斬首されたのを憤り、この寺を去った。湛然和尚は、松瀬(大和町)の通天庵に入った。藩主はもとに戻ることを説得したが受け入れなかった。そこで高傳寺の末寺として華蔵庵を建ててやり10石の扶持を与えた。延宝8年(1660)、ここで死去した。廃寺になった華蔵庵跡にも墓がある。

出典:ワークショップ中野和彦氏寄稿

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