高傳寺枝吉神陽の墓

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高傳寺枝吉神陽の墓

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■所在地佐賀市本庄町大字本庄1112-1
■年代近世
■登録ID745

枝吉神陽は枝吉南濠の長子で、副島種臣の兄である。通称は杢之助、字は世徳、神陽と号され、文久2年(1862)8月41歳で死去された。神陽は容貌魁異、眼光けいけいとして人を射て、音吐鐘の如く、加うるに健脚比なく1日に能く20里を踏破されたそうである。
神陽は始め、父南濠と夏秋富雅に学び、後江戸昌平黌に入り、帰国後藩学教諭となられた。神陽は早くから勤王の大義を唱え「普天の下率士の濱天臣に非ざる者なし。君臣の様は独り朝廷に対して用うべきものにして決して藩公に対して、用うべきものにあらず」と、常に力説しておられた程で、勤王の為奔走し、楠公父子像を祀って、子弟を教養された。
明治維新に際し佐賀から幾多の志士を輩出したのは、実に神陽の薫陶感化による事が大である。
明治44年11月従四位を追贈せられた。
重野安釋は神陽の事を激賞して「之を古今の史中にもとめて恐らくその比を見ず」と言われたそうである。
神陽は大変な親孝行で、母が日頃病身なので幼少から母を労わり、何事もやっておられた。ある時は弟や妹を背負って門外に出て遊び、堀畔に踞して書物を読んで勉強しておられたそうである。両親が死去されてからは必ず忌日には怠らず墓参されていた。
文久2年(1862)12月佐賀に虎列刺病が流行したが、その時神陽の夫人が虎列刺病に罹って死去された。神陽は亡き妻の死屍を自ら指図して処理し葬儀を営まれた。しかし不幸にして、神陽もこれに感染し虎列刺病に罹られ14日まさに死なんとする時、家人を呼んで礼服を持って来させ枕の上にそれを置いて、起蹲伏し、遙に皇居を拝し「草莽の臣それがし事畢る」と言って死なれたという事であり、実に神陽の心中を察して涙をさそうものがある。

出典:かたりべの里本荘西分P.130本荘の歴史P.42

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