本庄神社楼門の猿

  1. 旧佐賀市
  2. 本庄校区
  3. 本庄神社楼門の猿

本庄神社楼門の猿

  • 本庄神社楼門の猿
  • 本庄神社楼門の猿
  • 本庄神社楼門の猿

■所在地佐賀市本庄町大字本庄1156
■年代中世
■登録ID759

慶長17年(1612)8月鍋島直茂が本荘の宮の社殿を新に造営すべく脊振山や北山から桧材を出させ、国内の名匠を集めて、造営させた。特に楼門は当時名匠の聞えある多久田の番匠(詫田の万乗)の作だと伝えられている。
この楼門の上に置かれた2匹の木彫の猿はさながら生けるがごとく、見る者がほめぬ者はなかった。しかるにこの宮が新に造営されて以来、不思議な事が続いて起った。それは付近の田畑が荒される事と、店先の菓子や果物が無くなる事であった。
村の人々は毎日不安の夜を送っていた。しかるにある月夜の事、黒い物が二つ畑を荒らしているのを見つけた。さてはてっきり此奴の仕業であったかと、彼をとっつかまえようと追い廻したが、なかなかすばしこくてどうしても捕える事が出来ない。遂に黒い二つのものは、本荘の宮の方に逃げて行くので、なおも勇気を出して追って行くと、楼門の柱をスルスルとよじ登った。
そこで側によってよくよく見れば何とそれは彫刻した2匹の猿公であった。そこで氏子連中が集って話合いの上、直茂に伝えて眼をつぶして猿公を後手に縛り上げた。それからは猿公も仕方なく梁の上におとなしく居るようになったという。これが楼門の上に居る2匹の後手の猿の話である。また、この楼門は桃山末期の作であると伝えられ趣きがある。
この宮の太鼓橋その他は、与賀神社、牛島天満宮など同一の形式を備えており同時代の神社構築の様式を知る上に良い資料である。
惜しいことに与賀神社で見るような太鼓橋両側の河中の燈籠が明治時代まではあった筈なのに今は無くなっていることである。

出典:かたりべの里本荘西分P.33本荘の歴史P.20

地図