鍋島家の由来

  1. 旧佐賀市
  2. 本庄校区
  3. 鍋島家の由来

鍋島家の由来

■所在地佐賀市本庄町
■登録ID702

戦国時代、九州の三大勢力にまで成長した龍造寺氏のもとで活躍した鍋島氏は、龍造寺氏の勢力が衰えると、かつての実力が認められ、同氏の跡を受け継いで領国を治めることになった。それから、江戸時代を通して幕末まで鍋島氏の藩政が行われている。
その鍋島家は、誰が、どこから、いつごろ、どうして、肥前の鍋島の地を選び居館を構えたか、同氏の活動が始まる前のことについて、裏付けとなる確かな史料は乏しいようであるが、考えられるものがいくらかある。
鍋島家の略系(源氏系)を記すと「宇多天皇-敦実親王-(10代略)-清綱-清定-清経-経定-経秀-経直-清直-清久-清房-直茂-勝茂-」となっている。
『鍋島家系図』によると、かつては山城の国長岡に住み長岡を家名としていたこの家は、経秀の代に京の北野に転居したようである。それから、経秀が初めて子経直と共に肥前に来て鍋島の地に住むようになってから、家名を「鍋島」としている。経秀は、初めは長岡伊勢守と号していたが、鍋島に来て鍋島伊勢守としている。法名は崇元である。また、子の経直は、初め佐々木長岡三郎から、父経秀と同様に鍋島三郎兵衛尉と言い、法名は道寿である。それで鍋島家の始祖は経秀であり、2代目が経直となっている。
経秀父子が肥前に西下し、鍋島に住むことになった年代を知る確かな史料は無いようである。しかし、大方その時期を推定できる一つの史料がある。それは『雲海山岩蔵寺浄土無縁如法経過去帳』でこの中の一部に「鍋嶋 崇元 永徳三四十六」と記載がある。これは、始祖の経秀(崇元)が永徳3年4月16日に死去した時を記したものである。これから、崇元の死去が永徳3年(1383)であれば、その子経直(道寿)の死亡年と併せて考えれば、この父子が西下して肥前に来たのは、南北朝中期以降、後期(1370~)の頃とされている。
それから、どんな事情か、ゆかりなどがあって肥前に西下し、鍋島に住み着いたのか、このことについても何一つ書き残されたものはないようであるが、その可能性は考えられるようである。経秀の前の住地北野は、天満宮が鎮座(北野天満宮・祭神菅原道真)するところであり、蠣久荘は、祭神を同じくする太宰府天満宮の安楽寺領荘園であって、鍋島の地は、その頃この蠣久荘に属していたと推定されるから、北野に居住し、何らかのかたちで天満宮に縁故のあった経秀が、安楽寺領荘園であった蠣久荘に来て住み、あるいはその住地に天満宮の祠を建てたということはあり得ないことではないと言われている。
今、鍋島家発祥の地「御館の森」は、地域の人たちで管理されている。この近くには、鍋島家の初めの菩提寺の観音寺がある。
南北朝時代後期頃(1370~)、鍋島経秀(法号・崇元)、経直(法号・道寿)父子が肥前の国鍋島の地を選び、そこに居館を構え本拠にしていた。これから時代は過ぎ、応永年間(1394~1427)の末頃、経直は、住居を鍋島から本庄(本庄町寺小路)に移し、ここを拠点にして活動を始めている。移住の理由は、それを裏付ける史料は見当たらないが、龍造寺村(佐賀市城内一円)を本拠地として、勢力を持つ龍造寺氏に何かの事情で近付くためであっただろうと考えられている。
本庄を本拠にした鍋島経直の後は、清直-清久-清房と受け継がれ、鍋島氏は次第に力を蓄えていった。鍋島氏が龍造寺氏の旗下に属して興隆への第一歩を踏み出したのは、享禄3年(1530)の田手畷の戦いと言われている。同年8月、肥前に侵攻してきた周防の大内勢は、東肥前に勢力を持つ少弐氏の援軍龍造寺氏と激突となりました。龍造寺氏の主将龍造寺家兼は、神埼まで出かけ大内勢の第一陣を破り、第二陣とは田手畷(神埼郡三田川町)での迎え撃ちとなった。戦いは、家兼の率いる軍勢に不利となり苦戦となった。この時、急場を突いて横合いから赤熊(しゃぐま・白熊の尾を赤に染めたもの)を被った異様な一隊が突進して、大内勢の意表を突いてかき乱し、大混乱に陥れた。強い意気込みの大内勢は、主力のものが討ち取られ筑前に逃れた。
戦功を挙げた赤熊武者の一隊は、鍋島清久・清房父子や野田清孝ら鍋島の軍勢であった。龍造寺家兼は、清久・清房父子らの働きを喜び、清房に自分の孫娘(長子家純の娘)を嫁がせた。この縁組で龍造寺と鍋島は親戚となり、二人の間に生まれたのが後の鍋島直茂(藩祖)である。それに、佐賀郡本庄(現本庄町)80町の地を恩賞として与え、これが鍋島氏隆盛の糸口と言われている。
鍋島清房は、天文20年(1552)、高傳寺を建立して鍋島家の菩提寺としました。清久、清房や、近親者の墓所は、同寺の歴代藩主の墓とは別に本堂の北側にある。

出典:ワークショップ中野和彦氏寄稿