鍋島安芸守茂賢柳河陣戦闘の事

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鍋島安芸守茂賢柳河陣戦闘の事

■所在地佐賀市本庄町
■年代中世
■登録ID723

慶長5年(1600)10月20日の夜明け頃、深堀鍋島600名の兵が先鋒として八ノ院についた。先鋒隊のなかでもよりすぐりの精鋭が殉死した22名の組家中の武士たちであった。相浦三兵衛が斥候に出た。「敵がこの村の向こう側にいるので一戦は避けられない」と報告をしている間に、数千の敵に囲まれてしまい、またたくまに乱戦となった。
敵は、先鋒の切り崩しにかかった。黒い鎧の敵兵6人が、横一列に並んで槍を構えて突進してくる。味方の先鋒隊は敵の進路をさえぎるため、両膝を折って槍を低く構え、しゃにむに突撃をはかる敵の胴突きを狙っている。敵は1間近くまで迫った。味方は、膝をつき、槍を構えたまま身じろぎもしない。
味方の大将安芸守茂賢は、先頭に躍り出て3尋3尺(約4.5m)の長柄の槍で6人の敵を横に払った。馬上で槍を振り落とされた敵兵は、刀を抜いて突撃してきた。
茂賢が先駆けの一人を突き伏せ、田代幸右衛門が、すかさずそいつの首をはねた。
しかし、息もつかせず、残りの敵兵が茂賢に襲い掛かる。茂賢は3人を突き刺した。
深堀猪之助は組み討ちして一人の首をかき切り、残りの3人も猪之助が血祭にあげた。
八ノ院の闘いは、このようにして開始され、激しい戦が、午前8時から午後4時ごろまで、8時間にわたって展開された。泥田のなかでの乱戦である。その内に、武雄軍が、鉄砲で援護射撃をはじめた。さすがの敵も堀に多数の死者を残して敗走した。
その2日後、22日に立花宗茂は柳河城を明け渡した。
(中尾正美氏編 『深堀資料集成』より)

出典:かたりべの里鹿子P.16