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[旧佐賀市][ 物語・四方山話]は108件登録されています。
旧佐賀市 物語・四方山話
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「八龍さんを訪ねて」
八龍さんは、鍋島の岸川部落にあって創始は、1500〜1600年前に建立されている。現在の八龍さんは、何回目かの建て替えされたもの。有明海の干潟が陸地化に進んでいる時、嘉瀬川の増水した乱流は、堤防もなかったので、住家・家畜・田畑・家族までも流失し、住人は恐怖の的だった。 八龍さんの龍の字は、川の流れのことで、乱流は、水の神が怒っているとした。怒りを鎮めるため社を造り、お供物をした。この八龍さんは、自然造成の佐賀平野にとっては、一番始めに建てられた神社である。社の入り口には、山門や継目なしの石の鳥居、本殿前の左側だけに彫刻なしの岩石だけの狛犬さん。裏手には、昔の建物に使われた大きな紋入りの鬼瓦が三個あった。 境内には、歩道や駐車場また花畑と、ふれあい公園化の工事中だった。側の川で、オタマジャクシの群を見つけ心を洗われた。
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「鬼門と樹門」
住んでる屋敷や家屋に、住んでる人を中心に、北東の隅を表鬼門、南西の隅を裏鬼門と名付けて特別扱いしていた時もあった。昔の家では、冬の北東の季節風は、寒さを家の中に吹き込み、北東にある部屋は、他の部屋よりも寒い。もし、便所でもあれば、お尻まで冷えきっていた。少しでも寒さ防ぎに屋敷の北東の隅に「樹」を植えた。夏の西日は、特に気温が上るので、壁で暑さをしのいだ。もし家の南西に便所でもあれば、ウジ虫は異状繁殖し処置に困る状態だったろう。少しの日陰でもと、「樹」を植えた。北東の隅と、南西の隅に植えた「樹」がいつしか「鬼」となっている。ローソクやランプの世代は去って、家の中は冷暖房に浄化槽の時代になった。エレベーター付きのビルやマンション住いの人は勿論、「鬼門」の言葉は、昔物語りになりかけ一部の人のものになって来た。
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「畑の隅の中央さん」
畑の隅や、屋敷の隅に「中央さん」を祭ってあるのを時々見かける。時には「中王さん」とも書いてある。 「中央さん」……年古の大工さんの話 昔、家を建てる時、土台柱の場所に、石を置いて目印をつけた。それが「中央さん」。土台柱は、家屋全体の要でもある。この中心となる地に建った柱は、梁の中心にもなり一段と基礎固めが必要であった。近所の人達が「石ぼっ突き」に加勢に来て、簡易やぐらの綱を引っ張り、歌に合わせて「石ぼっ突き」をしたもんだ。その基礎がための上に建った柱に、「荒神さん」を祭ったもんだ。「荒神さん柱」の近くに竃(かまど)を造り、藁を燃した煙は、白蟻駆除になっていた。 家も建ってしまった後の「中央さん」は、屋敷の隅の畑などに置き、お花など供え、建てた家の安全を、その後も、「中央さん」に願っている人もいる。
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部落は一家族
野田地区は、お寺を入れて九軒の集まりである。親たちの年齢、子供たちの年齢、世情も同じ位で、特別に目立った家はない。 部落内に店がなく、荻野の蒲原店や徳万町まで買い物に行かねばならぬ。醤油のなか、ソースのなか、あーら米の撫でたのがなか、塩のたらん、お金のなかと、日常生活で不自由なことがあっても、走って隣の家に走り込めば、十分たりた。子供は、遊び先で食事の時間になれば、「おふん舞い、うけんね」。遠慮なくお世話になった。お彼岸が近づくと、おはぎ、ぼたもち、皆んなの家に配り、日を変えて、家にも配って貰った。配るのは楽しみだった。「あんたがきたね」と、小遣賃を貰った。「ただいま」 と学校から帰ったら、一番先に見るのは、仏さん棚である。何んか配ってきていないかな。あるある仏さん棚に。すぐ何だろうと見に行く、早う食べたいと、うきうきしていた。野田は、よかとこ。
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野田の戦時中の一風景
桑の木を移植し、野田にある畠は、どこでも桑畑になった。嘉瀬川の川中や川外の畑も桑の木だらけ。命令でもきたんだろうか。桑の葉を蚕さんに食べさせ、繭になし、それを紡いで生糸になし、供出していた。各家の庭中にも、家で寝る部屋以外は天井まで棚造りし、竹の大きなザルに入れ蚕飼いに追われていた。野田のお寺はじめ、どこの家に行っても、ガスガス桑の葉を食べる蚕さんの音、用事が話されん位厭な音だった。蚕さんが繭になったら、熱湯につけて、糸をつむぎ、より入れが始まる。手車回しはバアチャンの仕事だった。生糸ができ上がる様子は、不思議で珍しくもあった。桑の葉の毛虫は、大嫌いで加勢にならず、桑の実の赤いのは、学校に持って行った。熟した桑の実は、衣類や口の中の舌まで紫色に染めてとれんやった。バアチャンが生糸で反物つくり、一着和服を作ってくれた。
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昭和二十八年の大水害
戦後の立ち直りに、皆が努力し始めた昭和二十八年の夏、台風による大被害、家も家具も農具も流され濁流となる。『二十八水』と呼ぶ。大体、嘉瀬川は、川底が田んぼより高く、それに堤防の東と西に強さに加減があった。二十八水の折は、両方の堤防から水濡れが始まり、危険状態になる。突然、西の堤防から『バンザイ、バンザイ』。東の堤防が崩壊したのだ。鍋島の桜の堤防。濁流は、一瞬にして家々を呑み込んでしまった。畳の上に慎重に三俵重ねたが、増水のためひっくり返った。隣ではタンスがバタバタ倒れる。家具は家の外にどんどん流れて行く。屋根まで濁水に浸され、屋根裏に家族は寝るのに精いっぱいだった。42日間の水びたしは家を壊してしまい、その冬寒い年だった。嫁にきた家内は、大水にびっくりしていた。新町の堤防は閉ざされたままだったので水は減らず、食事は船でおにぎり、漬物を運んで貰い命は保った。
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野田の河童
野田あたりの河童は、夕暮れ時に堀の側の道端に、ニョキョッと立っている。手足は水かき、背中は甲羅、頭の上に皿がある。この皿が濡れている時は、神道力を出して、歩いている馬でも堀の中に引っ張り込んでしまう。河童は、人間の子供が好きで、お尻から手を入れてお腹の中を食べてしまう。堀の岸に、子供は一人で行かんこと。河童をはっきり見たもんは、まあだ誰もおらん。雨が降って、堀岸の滑る時、河童の皿もいっぱい濡れている。堀の岸の方に河童はちゃんと来て、水の中に隠れている。『助けてー』と大声出したら、河童はびっくりして逃げて行く。一人で堀の所に、近寄らんことが一番よか。野田の河童は、よう、あっちこっち遊びに行くけん、どこの堀でん、注意せんば。
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副島種臣ゆかりの地
副島種臣は、文政11年(1828)9月9日佐賀藩士枝吉忠左衛門種彰(号南濠)の二男として佐賀市南堀端に生まれ、国文学者枝吉神陽の実弟で、幼名を枝吉二郎といった。 種臣31歳の時、親類の副島和忠の長女律子の入婿となる。副島家は、代々西与賀町今津江湖端に住み、種臣も青年時代の一時期当地で過ごしたと伝えられ、その後は現在漁業田中氏の乾燥工場等が建てられている。副島種臣は、明治維新の元勲として明治新政府で参議、外務卿、内務大臣を歴任し、その外交手腕は、外国高官からも高く評価された。また、書家としても優れ蒼海と号した。
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西与賀町の伝説
全国各地に日本武尊の伝説が存在するが、熊襲征伐のくだりでこの西与賀町関連部分がある。それによると武尊は長門国より乗船し、五島、平戸を経て有明海に入り、火前(ひのまえ)の御崎(みさき・諫早の肥の御崎の説有り)に一応上陸、ここより現地の者による水先案内で、佐賀郡西与賀村の元相応あたりに上陸、そこから小津江(多布施川流域か)を遡行し「中の龍造島」に至ったという。真偽のほどはともかくとして、古代、この西与賀町の大半が海または湿地であったとするのが一般的な考えであるが、この説話は少なくとも一部には人々が生活していたことを示唆しているのではないだろうか。
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中世〜近世の与賀
古代律令制崩壊の過程で荘園が成立していく訳であるが、与賀庄として記録にあらわれるのが建長2年(1250)の『沙弥行恵家領処分状案(東福寺文書)』である。これによると、肥前国与賀庄は関白九条道家の家領であった。また、『与賀大明神御鎮座記』によれば、同年8月8日に与賀神社の鐘を鋳造し、その鋳銘に、「肥前国与賀郷庄守守洪鐘壱口 右奉為天長地久祈願円満也 殊為本家領家預所沙弥 成阿地頭豊前前司藤原朝臣資能安穏泰平」の文字が刻まれている。 時代が降って、明応4年(1495)の『大蔵某の証文(河上神社文書)』に「肥前国佐嘉郡与賀庄上古御寄附の地 字号辻ノ堂」とあり、現在の辻ノ堂付近を中心として与賀庄と呼ばれていたらしい。 藩政期になると与賀庄は上与賀郷と下与賀郷に分かれ、佐賀本藩の蔵入地となっていた。現在でいう西与賀町、本庄町を中心とした地域である。
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野狐と白毛婆(しらがうんぼ)・白毛爺その1
16、7からですね、私ゃかまぼこ屋でございましたが、20歳頃までかまぼこ屋しとりました。 そいで、かまぼこをいのうてなた、午前3時頃、もう、一日(ひして)過しなって。多久まで80斤(きん)から100斤いのうて、1日でかけて来て、そいぎ、ちくわとかまぼこもんのまい。そがんしていのうて卸(おろし)行きよるわけですよ。 そいけん、野狐でんなんでん出て来にゃならんばってん、ほら、朝、3時から行たてばんたぁ、そいで、帰ぇさみゃあは、もう4時頃にならんば家にゃ帰って来よりませんでした。 そして、行きよったところが、三日月の先の方からなた、西さい分れりゃ高柳ヶ里ちゅうてございました。そして、高柳ヶ里ちゅう所を行きよっちゃった向こうに、明かいが一つ見えましたですもんなた。おお、今のう誰じゃい行燈つけて行きよるね。今からちょっと、60年前のことですもんね。行燈つけて行きよんね、こう思った。そして、出っかしたなた。こっちは風で右から吹きよんもんじゃい、ちょうど出っかしました。そうしてみたところ、こうして見たぎ、白髪姿の、あたいよい太かとの立っとんもんのまい。びっくいしましたのまい、これにゃあ、本当に。そいぎ、そいが言うことにゃあ、 「かまぼこ屋さん」「ないかい」「あの、家の娘がお前、丹坂越えて来い」「うん、越えて行く」「あっけぇ、おとうにん人さんのおっちゃて、家の娘が縁じいとんもんのう。その娘に、『きゅうは稲刈りじゃけん、来てくいろ』て、言うてくれんかい」 て言うて、あたし言づけさすばん。そいばってんがこっちは、つっくるびいて、あなた、白髪姿じゃんもんじゃあけん。そして、 「うぅん、ううん」 ちゅうて、もう返事ばかいして、かけて走ったわけ。あたし、えすかじゃもんじゃっけん。 そうしてみたところが、向こう見たぎ、ほうかぶいして、またこっちゃい向いて来んもんのまい。なんの、娘方(がや)ぁじゃ行きよっとたんたぁのまい。使ぇ、親父がこいがこうして見たぎにゃあと、こんど白髪爺の立っとんもんのまい。ほんに、びっくいしてあたしゃ足ゃあくりゃあぐうして駆けて来た。
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野狐と白毛婆(しらがうんぼ)・白毛爺その2
そうして、向こうの丹坂(にざか)越ゆっ時は、まあーだ暗かですよ。7時までは夜は暗かった。そして、おいかぶっもんじゃいのまい。あの境に。そいぎ、暗かけんもう、午前の方におってんばい、あたしゃ越さんじゃった。よそん悪わかもんじゃっけんが、もう、 そいぎ、そいが言うことに、 「あの、お前、丹坂越えて来い」 て、また言うもんのまい。 「いんにゃあ、丹坂もう越えん。山ん先さい回っ」 て、こう言うたぎんと、そいぎ、 「あつこ、石馬のおんもんのう。石馬のおっとこれぇ、『きゅうは稲刈いやっけん、かせぇに来ぇ』ち、言うてくれんかい。また、そうっと言うもんのまい。そいぎ、足ゃつくごとつかんごと駆けて行たて、ほんに黒うどったもん」 そいぎ、そこの丹坂の家からのまい、 「そりゃ、ほんなもん」て。 「決して、白髪婆も白毛爺も、そりゃほんなもんぼ。そいけんが、おそう時間、ゆっくいあっ」 て言われて、ここに来たごとがありますなぁ。
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野狐の世間話その1
あるところに、仕出屋ばしないよったて、魚屋でのまい。 そして、この射的道ができる前は、神埼線ができっ前は、この前ばずっといたて、久富の裏さい東向って、仕出して、車引いて帰えないよったぎぃ、若か娘のさい、二人さい、「おじさん、加勢すんのう」て言うてさい、一所懸命、ええて、加勢すってっちゃん。そいぎ、わがいっぱいつけとって、車が軽うなっけん、ホイホイホイで娘が加勢すんもんじゃい一所懸命になって昔の古道ば暗に、一所懸命。 あの人は次作さんやったきゃん。 そがんごとの何度でんあったてっじゃん。野狐も化しよか人間と、化しにっか人間とあっちゃろうちて。 人の見っぎにゃあとは、「何んしょいなっちゃろか。畑ん中ば、なし、あがん一所懸命、車引いて行きなっちゃいきゃん」ちて。
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野狐のなまず
私はのまい、あの、太かことばっかい言うばってんが、なまずのさい、人間の頭ぐりゃあいのなまずの、私が流れうけつけとったとにはいったことのある。そいも鍋島おっときくさんたぁ。 長雨(ながせ)のうち、まぁ、よぼいしぎゃ行たわけ。田ん中、あがっことしとんもんじゃのまい。そして、うけばつけとったさい、流れうけば。そいぎ、帰ぇがけ、あの、めかけぞうけば、あの、てぼに持って行たとったもん。そして、うなぎてぇろん、鮒てぇろん、でぼに入れとったもん。そして、帰ぇがけ、もう流れうけ鮒の入っとろにゃあと思うて、こう、開けでみたたんたぁ。 そうしてみたところが、もう、ゴトゴトゴトで、もうえすかごと音さすんもん。こりゃあ、なんじゃい太かとの入っとっばいねぇ。もう楽しゅうであげてみたわけ。そうしたところが、こうして見たぎにゃあとは、その、なまずの入っとんもん。太かもんのまい。がん太かもん。そいぎ、こりゃどういうなまずかと思うてさい、そうして、野菜かごたんたぁのまい、あいばでぼに持って行たとったもんじゃい、尾ば取ってみて、そうして野菜かごの中ゃあ、尾ば入れて、こう、うけばかけたわけ。ガタガタっとして、ありゃあ、俺が取ったとまでちん逃げたとは太かったとこれぇにゃあて、思うた。両わきの田ん中も水のはいっとんもんのまい。あぜのこうしとっところの、溝につけとんもんじゃん。こうして受けたぎ、バタバタバタってして、こいまで転ばぁきゃあて、そして、やっとったとまで全部やられた。そいぎ、全部出てしもうた。 そうして、残っとったとは、こいくりゃばっかいのなまずがさい、1匹残っとんもんの。そがんとは残らんたっちゃよかったとこれぇ、ほんに惜しかったにゃあ。また、そいがのぼってくっくさと思うて、またつけてぇていたわけ。あんまい先さぁいかんけんがぁと思うて。あぁ、もうどうしゅうかぁ。待っとっ筈じゃこんもんじゃあと思うて。そうして、帰ったんたぁ。 そうして、帰って、なんもかんも、なまずの1匹じゃんもんじゃい、こうまかこいくりゃあんとの1匹しか残っとらんもん。そいぎ、「太かなまずの入っとったばん。こいくさ俺が頭のごたっとの入っとったぁ」ちゅうて、「そがん太かなまずのおんもんかぁ」ちゅうて、親父がやかまし言うて、「わが今のまでそがんしとんない、わが、やられとっじゃあ。つけられとっじゃあ。そいけん、早よう帰って来んばぁ」ちゅうて、あっちゃごし小言いわれた。なんて小言いいよっかにゃあと思うて、なんのその、野狐から騙されとっちいう意味たんたぁのまい。なまずになって、あとから話聞いたぎ、野狐が。そいぎ、目の真暗うなって、川の中にはい込んだいすっらしか。
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野狐の世間話その2
谷口鉄工所が本当に盛んな時、私がまだ若い頃、あの、私の所は建築資材のごたっとを売いよったたんたぁ。そいぎ、あつこがレンガのいっけんちて、レンガの注文があったわけたんたぁ。 そいぎ、なんの電話はそん頃なかもんじゃい、そいぎあの、急ぐちゅうもんじゃい、そいぎ、「今のから行たて来っか」ちゅうて、私が行こうでしたぎ、そいぎ、父が、「今からもう、暗うなっけん行くな」ち。そいばってんが、気になんもんじゃい、「俺が行たて来っ」ちゅうて、そのまま、ところが、えぇ、城島ちゅうて、大川の筑後川の所に工場があっわけですたいなぁ。そいぎ、そこさい、もう、午後から行たわけ、自転車で。 そして、ずうっと行きよったところが、もう、大抵、日暮れ頃になって、ちょうどそんときゃあ、あの、なたねの咲しとっ頃でござんした。そして、ずうっと行たて、もう、だいぶん行たて、そしてあの、煙突が、工場あるからなたぁ、煙突がずうっと先の方まで見えよっ。とにかく、ずうっと行きよったところが、あの、その、なの花の畑ん所を、何か、ぷすっと、あの、道ば行ったわけ。そいから、少し行きよったところが、ずうっと行きよったところが、道がだんだん狭もうなってくっ。そして、ずうっと行きよったところが、先ゃあもう、道が狭もうなって、もう、あぜ道のごとなって自転車行かれんごとなってしもうた。ありゃ道ばまちごうとっばいと思うて、そしてちょっと立ち止って、こう、あたりを見回したら、そうすっと、少し離れたところは、うぅん、人のまだ通いよっし、あの、車も通いよった。そいぎ、あぁ、そんときゃ道ば自分がまちごうとったと思うて、こう行きよるばってん、先ゃあ田ん中ゃ行かんばらんていうて、そうして、また戻って、戻ったところが、あがんと太か道に出たわけ。そして、ずうっとまた、その工場に行たて、「実は、こういうふうなことが途中であったぁ」ちゅうたぎ、「あぁ、そんときゃ、あがんと、ここんたりゃ狐の騙すけん、そぎゃんいうぎ、そいぎ早よう帰らんばもう」ち、言うもんじゃいね。そいぎもう、早よう、用事ば済まして、あの、帰ったとたんたぁ。 そして、帰って来よったぎにゃあ、もう、あぎゃんこともあって。そうして、提灯のいっごとなったわけ。そいけんが、狐の騙すちゅうことは、こういう風なことじゃなかろうかぁと思うなたぁ。
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野狐の世間話その3
火の玉の、ほんなこて縦の1尺ぐりゃあの火の玉に私が二十歳(はたち)頃会うたことのあっですなぁ。 町遊べ、二人(ふたい)連れ、その人もまだ生きとって。二人連れ町から12時過ぎ、あすけぇ森のあっ。森から、こう、出たところが、ここが堤防で、もう今は川の中って。こいから50mばかい行ったとこれぇ、最近まではぜの木のあったたんたぁ。その楠のほんな家の所にね、北の所に山王さんのおいなっさい。その当時。 そいぎ、二人連れ、久保ちゅうて、まだ現在におらすて。ちょうど三叉路から、森の方から出て来て、三叉路になった所のにき、ホォーと、こう、よなよしさんのごたっとのくさんたぁ、まあ、頭の高さぐらいのとこれぇ、ほんにびっくいすっごたっとの、赤でんちぃたたんたぁ。 そいぎ、こっちもびっくいしてもう、かくっぎにゃあ、相手もかくぅごたんもんじゃさい、こっちもじいっと我慢したごとして、そして、その、そこのはぜの木の、こう立っとった時、下ば通らんば、まあ、ちょっと行かれんもんじゃい。ちょっと川じゃあもんじゃいなぁ。 そして、その下んにきに行たぎにゃあとは、そいが自然と、そおっと消えて、のうなったわけ。のうなったけんよかったもんの、そいから気持ちの悪さ悪さのまい、のうなってからがさい、「もう、かきゅうじゃっこうさい」て、かけじゃあたぁ。ちょっと、気持ちの悪かもんじゃいけんさい。そいぎ、城井樋まで出かけて行た。 そいぎ、そいが何じゃったかちゅうて、えぇ、何こっちゃいわからんたんたぁ。そいぎ他の者に、「こがんことのあったばい」ちて。そいぎ、「そりゃあ、あの、練兵所の野狐ちゅう。お前たちは騙されとったぁ」ち。あすこは、せっせと騙されたちゅう者の多かとよ。もう、火の消えたけんよかったばってんもう、あの川ん所はさい、ガオガオガオでもう、ないじゃいこう、馬の駆けてくっごとひょうつかすて。そいぎ、ないじゃいわからんて。
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副島種臣二郎さんの風呂入り
古老の話に今津周辺で子どもが風呂に入りいい加減にして遊び上りよく拭きもせず着物を着ると、これを許して「二郎さんの風呂入り」といったそうである。これは副島種臣が今津に来てからの風呂入りをかく評したもので、日常生活にいかほど無頓着であったかを知ることができる。
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副島種臣浸水にも平気
二郎(副島種臣)が今津に来てから幾度か大潮にて本庄江湖の水がふとり、遂に今津の土手をこして副島家に侵入した。 養父吾左エ門は、手桶をもって家の中の水を汲み出しに一生懸命になっていたが、一方二郎はひとつも気にせず2階から、淡々として潮の満ちて来る江湖を眺めて平然たるものであった。 それを対岸の有重の人達は「吾左エ門さんは、あんな馬鹿者を養子してどうするつもりか」と、ののしったその声は今津方面に聞こえる程であった。けれども相変わらず平気で考えこんでいた。
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副島種臣犬神堀の投網
副島家の隣に、須古弥エ門の住宅があった。種臣が弘道館教授の当時、高太郎犬神屋敷(旧西与賀小学校の北東)の堀干しがあって獲物が多かったので弥エ門氏は種臣に、しきりに漁をすすめた。 その時種臣は机に向かい、読書三昧に入っていたため、何の返事もない。弥エ門は、更に大声を発して勧めてもやまなかったが、種臣は迷惑そうに、「先に行かれよ、あとで自分は参るから」と言い読書を続け読書一段落を告ぐるや、網を肩にのこのこと家を出た。 テボも持たねば別に支度もせず、しかも犬神堀にいたるや数回網をうったが、場所も動かねば、魚の取れよう筈がない、村人はあまりの事に呆然として見物していたが、種臣は、左様のことに頓着なく数回にして投網を肩に平気で帰宅し、再び机に向って、先の読書を続けたということである。
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副島種臣弘道館教授となる
実兄、枝吉神陽の心配で弘道館、目達原分校の教授に就任し、毎日徒歩にて今津より目達原まで、24kmの道のりを通勤した。 のち弘道館教授枝吉神陽の病没に際し、本館に転勤となった。当時、弘道館生徒であった清水熊之助氏(10代西与賀村長清水宇吉の父)の談によれば、朝食を済ましてすぐ種臣先生宅をたずね先生に伴われて通学していたが、出発前には必ず天をあおいで天候を見定め笠を横にしばり途中雨が降り出そうと、雷鳴にあっても一向平気で、何時も変わらない歩調を続けたという事である。 また、平素が無言無愛想で独り思索に耽り、時に直立して思案に沈むこともたえずあったと、もってその一斑を知る事が出来る。
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副島種臣親孝行
副島種臣は孝行心の深い人であった。 種臣が弘道館に通学中のことである。朝の空模様が悪いので、義父は今日は雨になるかわからないから高下駄をふんでゆけと言う。やがて義母は雨が降るまい下駄でよいと言う。種臣は一方高下駄、一方に低下駄を踏んで例の通り笠を頭にし、平気で弘道館に通学したという事である。
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副島種臣御庫番のこと
二郎が副島家へ入ってから無職で閉居し、読書三昧に耽るのみで、しかも家は左程財政も豊かでなかったから、親戚の一人が大いに心配して、ついに二郎を鍋島家のある御庫番に就職するようにした。 あたかもその当時、副島家に法事があって、親類会合する機会があったので、その席で吾左エ門と二郎に御庫番に定めてきた一件を誇り顔に報告した。二郎は柱にもたれたまま、全く耳にせずに何等の返事もしなかった。 よって、その人は、自分の好意を無視するものと大いに憤慨したので義父は、閉口の態であった。ここに親類の他の一人が先程から二郎の様子を窺うに、とても御庫番には見向きもしまじと思われる。 これは「大馬鹿か大傑物か二つに一つ、まあ怒るものではない。」と慰めて御庫番は、ものにならなかった。大賢愚に似たりとか、大馬鹿ではあるまいかと疑われた二郎が後年大傑物として天下に名をあげたのである。
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副島種臣長崎遊学につき平山翁の学資援助
長崎にオランダ人が初めて日本人に文物を伝来して以来、天下の士は奮って長崎に遊学する様になり種臣も、また志望に燃ゆること甚だしかったが、それを満たすだけの学資がなかったので養父吾左エ門は思い悩みの末、庄屋、平山栄十翁に相談された所、翁はただちに快諾されたので種臣は教授を辞し憧れの地、長崎に遊学することができた。 種臣が天下に識見を求むる基であって、明治維新後、一族東京移転後も吾左エ門氏は墓参りに帰郷する毎に平山家に立寄り、翁の1子を引受けて、学問をさしてやるからとの事なりしも、翁は遂にそれを受けなかったということである。
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花見
蓮池公園の桜は見事であった。桜の馬場は、まさに花のトンネルで、オートバイサーカス、見世物小屋、射的、土産物屋が、馬場の両側にずらりと並んだ。園内には茶屋が出来、三味線の音や、人々のざわめきが夜遅くまで続いた。当時は夜になると蒲田津方面までも、その音が聞えたという。江下伍長銅像の前に、1.000燭、男山に500燭の特設電燈が明るくかがやき、踊り舞台では仁輪加や、浪花節(さいもん)が演じられ、老いも若きも心から春の1日を楽しんだものである。 現在蓮池公園は市営となり、神野公園と共に佐賀市民の憩いの場として、計画的に整備されている。戦中、戦後に荒廃した桜も、若木が植えられ、公衆便所も整備され、護岸工事も立派に出来た。交通の便もよくなり、桜の頃の人出も漸次増えて来ており、青年団の桜花の下の茶会は恒例の行事となった。つつじも、藤も再び美しい花を咲かせてくれる様になり戦後の荒廃は語り草になってしまった。しかし、宗像宮、先得亭、尚武会等、その姿を永久に消したものも多い。かって成章館に、講肄場に、文武の道に励んだ先人の姿も、今は偲ぶすべもないが、市営公園として生れ変った蓮池公園は、新しく育ちゆく桜の若木のそれの如く、新しい市民の憩いの場として、また、古い伝統の中に、何時までも蓮池人の心の故郷として、その立派な環境を保ち続けていってもらいたいものである。(昭和49年資料作成された時の状況)
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蓮池と平氏1
下って平安朝の末期、平氏最盛期の頃、土肥左衛門尉宗綱という人が蓮池の押領使として任命されている。土肥はもと山辺氏で武蔵にいたが、のち相模国土肥に移り地名をもって姓とした。平重盛に仕えその家人となっている。 宗綱が蓮池に居た期間は判明しないが、その子家綱は四国土佐国高岡に押領使として派遣され、平治の乱後平氏の命を受けて土佐冠者源希義(義朝四男)を殺し、功に因って土佐国を賜わり蓮池城を築き定住した。『吾妻鏡』に「寿永元年(1182)小松内府の家人蓮池権頭家綱等、土佐冠者源希義を殺す。」との記事がある。家綱の後裔はさらに大平と改姓したようで『土佐遺語』に「蓮池城は大平氏13代伝領せり。大平氏は吾妻鏡にいう権頭家綱の後なり。」とあるのをみても知られる。土肥氏が蓮池押領使として来任したことを考えると、当時蓮池は相当知名の地であったものと想像される。
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小田氏の統治2
今を距る約580年前、小田直光がこの地に来り、肥前国佐嘉、神埼、筑後国三潴の三郡に亘り6.000町歩を領し、城廓を構え勢力を張った。この時の城名を小曲城(蓮池城ともいう)と称し、城域は今の諸富町加与丁、小曲地区より蓮池公園所在地付近にまたがり、本丸のほか3か所の出城があった。しかも城の外濠は筑後川に連なり干満の差甚しき急流の江湖であったため平城としてはなかなかの堅城であった。かつて中国の太守大内義隆が来攻したときも小曲城の攻め難きを知って攻城を断念して兵を還したこともあり、また龍造寺氏も幾度か攻略を企てたが非常に苦心したとの伝えもある。 小田氏の祖先は鎌倉幕府源氏3代に仕え、武人としても文人としても有名であった八田知家である。その後裔が、何時の頃からか関東より鎮西に下り、その後、筑後方面で栄えたものが小田氏を姓としたと伝えられている。直光以後鎮光に至るまで8代、約160年間この地方の領主として勢力を保った。第6代資光(覚派入道)、第7代政光、第8代鎮光の3代の頃は龍造寺氏の覇業成らんとする時期に当り互に角逐を繰返していたが、鎮光の代に至って龍造寺隆信の詐謀によって祖先伝来の居城を去り多久城に移り、ここに蓮池の地は龍造寺氏の領するところとなった。 なお、蓮池城を去って多久城に移った鎮光は、元亀元年(1570)大友軍が大挙入肥せる際、大友軍に組し手兵を率いて多久城を出で、水上山に陣を敷いた。しかし、大友軍は今山、その他の地で敗戦したため、鎮光も筑後に逃れ流浪するに至った。隆信は、鎮光が女婿の身でありながら反逆したことを憤り、鎮光の妻室阿安を説いて鎮光を誘引し、客舎に腹臣を忍ばせ暗殺せしめた。ここにおいて小田氏は直光から8代、鎮光に至って滅亡したのである。
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小田氏の統治
小田一族の墓碑は今は巨勢町東巨勢龍津寺にあり弔う人も稀のようである。 さらに小田氏にかかる悲話は鎮光の妻室阿安(おやす)である。阿安は龍造寺家の嫡流たる胤栄の女であったが、父が死んで母が隆信に再嫁したため阿安も隨って隆信の女となった。隆信の政略的犠牲となって鎮光に嫁せられたのである。鎮光の惨死に悲しんで自殺を図ったが果さず、さらにまた唐津城主波多三河守親に再縁を強いられた。しかるに波多氏は征韓役で戦陣中卑怯の振舞があったとして改易遠流となり、第2次征韓役で戦死を遂げた。そこで阿安は佐賀に帰り尼となった。静室妙安尼と呼ぶ。現在妙安寺小路に所在する妙安庵は同尼の庵室があったことに因んだものである。 阿安に関してはその容姿が頗る美しく、豊太閤が名護屋に滞陣中、阿安の世評を耳にし召見を強いたところ阿安は自らその面を焼いて謁し太閤の意に逆った。このことが夫三河守親改易の因となったとも伝えられている。
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龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 1
永禄元年(1558)11月中旬頃、龍造寺隆信は江上武種(神埼、勢福寺城主)が少弐冬尚を援けて佐賀城を攻める計画があるとし、先手を打って江上武種を攻めた。この時、先陣を命ぜられたのは蓮池の小田政光、直鳥、崎村、蒲田津の三犬塚氏で、隆信は本陣を姉川城に置いた。 小田政光は龍造寺に降った証拠をみせるのはこの時とばかり、現神埼町莞牟田縄手で江上の軍と会戦した。この時味方が苦戦に落ち入ったため政光は再三にわたり姉川に陣する隆信に援軍を請うたが、胸に一物あった隆信は遂に援軍を出さず、憤慨した政光は大奮戦のあと戦場に散った。このようにして隆信は小田政光を見殺しにしたあと、兵を分けて政光の居城蓮池城を急襲し、ここに蓮池城は龍造寺に帰した。この時、小田の老臣深町入道理忠は蓮池城の木戸を守ってよく防戦し、そのすきに政光の子、鎮光、朝光、増光ら家人一同を三潴郡に落し壮絶な死をとげた。 蓮池城が龍造寺に帰してからは、その一族である龍造寺長信、および家晴等の居城となっていたが、天正12年(1584)隆信が島津家久の軍と島原で戦って戦死するや鍋島直茂が替って蓮池城を守り筑後に備えた。その後間もなく神埼城原城主江上家種に蓮池城を与えた。現在の神埼町、城原町は、その時家種に従って蓮池に移り住んだ人達が付けた名称である。また、佐賀藩初代藩主勝茂公は幼時江上家種の養子となっており蓮池城小曲の館にあって西小路の徳恩寺で学んだ。 文禄2年(1593)家種は朝鮮の役に出征したが釜山浦で客死したので蓮池城は再び鍋島直茂の有に帰した。さらに、鍋島直茂、勝茂の両公は慶長5年(1600)から同16年(1611)まで蓮池城に住み、この間に勝茂の庶長子で後の小城藩主となった元茂が出生している。
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龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 2
慶長16年、鍋島一族は新築なった佐賀城へ移り、蓮池城は城代に管理させているが、『佐賀年譜』によれば「石井党の頭々へ城代、城番を仰せ付けられたり云々」とあり、その役割は次のようになっている。 御本丸城代 石井孫右衛門 駕輿丁出城番 石井五郎衛門 小曲出城番 石井壱岐守 蒲田江出城番 石井又左衛門 この石井一党による蓮池城の管理は元和元年(1615)大坂夏の陣によって豊臣家が滅び、徳川政権が確立するとともに出された「一国一城令」の公布によって蓮池城がとり壊されるまで約4年間続いた。 この時とり壊された蓮池城の天守、櫓、塀等の材木や瓦をもって佐賀城の本丸や二の丸が構築されたのである。
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蓮池藩の成立
寛永14年(1637)10月中旬、島原、天草のキリスト教徒が蜂起し、島原城を攻めた。このことは11月9日になって江戸に急報され、九州の各大名は急遽領国に下ったが、鍋島家では勝茂の子元茂と直澄が14、15日相次いで江戸を起って下国した。12月5日、元茂、直澄は佐賀に着き、元茂は搦手、直澄は大手の指揮をとることになり、佐賀勢の総指揮官には直澄がなった。佐賀勢は立花、有馬、松倉の諸勢と共に上使板倉重昌の指揮下に入り、19日から原城の攻撃にかかった。戦闘は激烈で久しきにわたったが直澄はよく戦い戦功が少くなかった。直澄ときに23歳であった。 鍋島甲斐守直澄は佐賀藩初代藩主勝茂の三男である。勝茂はかねて2代藩主に予定されていた忠直が若くして病死し、その子光茂(4歳)が幼いことから三男の直澄に家督を譲ろうとした。しかし幼少とはいえ嫡男の子が現存しているところから当時小城藩主であった元茂等の強い反対があり、勝茂も強いて押し切ることが出来なかった。 このような事情があったところへ直澄の島原の乱における優れた戦功もあり、寛永16年(1639)藩主勝茂は直澄に対し藩領のうち佐賀、神埼、藤津、杵島、松浦5郡の地から79か村52.625石を分ち、蓮池に封じ、諸侯に列せしめた。ここに鍋島直澄を初代とする蓮池支藩は成立した。