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[旧佐賀市][ 物語・四方山話]は108件登録されています。
旧佐賀市 物語・四方山話
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旧勧興公民館(昭和39年頃)
旧勧興公民館は、風の日にはガタガタと揺れたものだった。 隣接して、消防の「火の見櫓」もあった。
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肥前三名物
武富廉斎は、たいへんな親孝行であった。 当時、「肥前の三名物」として「川上の大楠」「長崎の南蛮船」そして「武富廉斎の親孝行」とほめ称えられた。
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義祭同盟
嘉永3年(1850)、本庄町西川内の梅林庵(寺)で佐賀藩学者・枝吉神陽に薫陶を受けた志士が楠公父子像の御前において祭典を執行した。 これが佐賀勤王論の先駆けとなった「義祭同盟」である。 安政3年(1856)、執政鍋島安房が楠公像を遷し、楠公社を建立した。その後、明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭が挙行された。 「楠公義祭同盟連名帖」には、副島種臣、江藤新平ら佐賀の多くの志士達の名前が記されている。
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赤子堀
江頭地区には『赤子堀』という名の堀がある。今は、柳の木が1本生えていて草が生い茂っている。 それは、中島信さんのおとうさんのお話しによれば、昔、食糧ききんのとき、その堀の中に赤ちゃんを捨てていたそうだ。そのために「赤子堀」といわれるようになったそうで、たいへんかわいそうなおはなしである。
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金立に生きる徐福の伝説
徐福が始皇帝の命を受けて海上の神仙島に不老不死の霊草を捜しに出かけた話は中国最初の正史「史記」に明記するところで紀元前3世紀(200)頃の出来事である。 孝霊天皇の72年秦の始皇帝方士徐福をして東海に入り不老不死の薬を求めさせた。徐福は男女数千人を率いて日本にきて止った。徐福の一行は海路有明海に入り一度は竹崎に上陸したがその後沖の島を通って三重津に渡りつき金立山に向かったといわれている。 金立山に入ってからは、弁財天の加護と里人の援助によって、不老不死の霊草をさがし出すことが出来た。しかし、徐福は何故か故国に帰る望みを捨てて永くこの地にとどまって里人に親しまれ、一生を終わった。生前の善事が里人の追慕するところとなって、今日まで金立大権現と尊崇されているといわれている。
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神代家と金立のかかわり
①神代対馬守宗元公の肥前落ち 豊後の大友親治は、度々筑後に進入し筑後の国を平定し支配していた。久留米城主に一族の高橋宗山をおき、文明12年蒲池宗雪、安武鑑政等も大友の支配下に入っていた。 筑前の大内義隆は、大友が豊後国に帰陣するすきをついて筑後に兵を進めたが、筑後の兵の結束がかたく、野望は果せなかった。 その後筑後は平穏であったが、文亀3年(1504年)ごろより蒲池氏・西牟田氏等は八女郡の福島氏を滅し、吾が配下にしようと企てていた。 永正6年7月(1509年)神代対馬守勝元公は、嫡子宗元と共に、自領神代村で平穏な生活を送っていたが、縁籍の福島兵部大夫から、急援を要請され一族郎党500余騎をひきいて、かけつけたが、福島城はすでに敵に囲まれ、城外にて蒲池・西牟田軍と戦った。 しかし、戦い利あらずして、勝元公は討死、一族の大半を失い、神代甚五衛門は勝元公の弟にあたるが、生きのびて宗元公を守り、神代家再興のため筑後の国をおちのびようと、筑後川を渡り、主従身を変へ肥前の国へおちのびた。 神代宗元公は、50代にわたり筑後三井郡を領地としていたが、この戦いで領地をすてねばならなくなった。 自害をしようとする宗元公をいさめ、肥前国松浦の岸岳城主波多三河守に援助を受けるため旅をつづけた。 波多三河守は、足利尊氏が太宰府在住の折、神代道元公と共に尊氏守護を命ぜられた間柄であった。 ところで一行は神代宗元公 嫡子利之公 親代甚五衛門 同審元同兵庫頭 同新太郎 同蔵之助 国分和泉守 山口周防守 古川入道真清 恒松 溝田 城島 八坂 真島 溝岡 その他郎党27名であったといわれる。 官道を田手にとり城原をすぎるまでは、隊列をつくらずバラバラに歩き、百姓・町人の姿で川久保和泉町まできた。 とき早くも西山に没しようとするところ、一天にわかにかきくもり雷雨となったので、村里をさがして走りに走り、千布の里の地蔵堂に雨やどりをした。 そのとき、馬上の武将らしき者が、2~30人の供をつれて地蔵堂の前を通りかかった。 大将らしき者は風体いかにも野人か百姓風に見えたが、眼光するどく伴をつれての雨やどりであやしい者どもと思い姓名を問いただした。 神代宗元を中にして雨やどりをしていた一行の中から、甚五衛門が、静かに馬のそばに進み出て、「元筑後の住人神代対馬守勝元公ゆかりの者で、この度筑後国柳川城・西牟田城主に打負され、松浦岸岳城主波多三河守をたより浪々している」とかくさず申し出た。 馬上の武士は、馬よりおりて宗元公のそばまで進み、それがしは、この地の地頭陣内大和守と申す者です。ここでは身体に悪い、吾が館にきて休まれるとよい、お茶等進ぜましょうと、やさしく申された。宗元公は喜び一行は安どし、陣内氏の後に従った。 陣内氏はこの日住吉神社において、的の会を催していたが、雨に会い帰館する途中であり、地蔵堂はこの道筋だった。 陣内氏は、元は摂津国の住人で、住吉神宮の神官で、住吉祭神を供奉し、千布氏とともにこの地に移住してきた人である。 神代の一行は、すすめられるままに館にとどまり、夜を徹して世状を語り合い、意気投合したといわれる。 ところで、陣内氏にはひとりの娘があり、かねてから良き武士を見つけて千布の館を相続させうと考えていた。そこへはからずもふさわしい若武者を見出だし、天の授けと喜び、奥方と共に娘のむこにしたいと心にきめ、翌日宗元公がいとまごいにきてもいろいろ策をろうして引きとめた。 その間神代の家臣たちと弓矢や剣の修業にはげみ、住吉神社境内に宿を設け、住まわせた。 陣内氏は娘を宗元公に近づかせ、この娘も宗元公を愛するようになり、陣内氏は、ころを見て甚五衛門兵庫頭を呼ばれ、娘のむことしたい旨を話された。 甚五衛門は、利之殿があることを考えたが、まだ幼く宗元公とも相談され陣内氏の恩に報いるのも武士として当然かと思い、陣内氏の娘との間に、男子が生れた場合は、その一子は神代氏の嫡男とするという約定を入れて、陣内家養子となった。 利之公は、宗元公が筑後在住の折福島兵部大夫の娘と婚姻し、その間に生れたが、幼くして目を病み片目が不自由となり、神代家総領としては不適当でもあり宗元公もそれが気がかりだった。 ここで神代対馬守宗元公は陣内氏の養子となり、千布因幡守宗元として、千布の館に留ることになり、神代一族は当分の間金立に館を築き、相続人定まるまで、千布家の属臣となる。 永正8年(1511年)宗元公千布家において第一子誕生。この男の子が、後の勝利公である。 名を新次郎という。 養育係を神代審元に命じた。 永正10年第二子誕生。この子が千布家相続後千布頃幡守宗利公となる。 大永5年(1525年)新次郎15才になり、神代審元は宗元公と今後の養育について協議され、小城晴気城千葉家の家臣で、武術指南役奥常之という人が、この地方で優秀な武士であることを聞き、弟子入りを進言した。宗元公に異存なく、直に審元を小城に走らせ、新次郎の弟子入りを懇願した。奥氏はこれを承知し、その年の3月に、新次郎初めての他国への修業旅立ちとなった。 修業をはじめて2ヶ月奥氏は新次郎の優れた力量と天性の武術に驚き、末おそろしい若者と折紙をつけたといわれる。 一緒に修業をしていた江原某という若者も、遠く及ばなかったといわれている。 ある夜、江原は新次郎を起し、吾 不思議な夢を見た。とすなはち吾身みるみるうちに大きくなり、天山の山頂に腰をかけ、玄海の白波にて足を洗う、実に心清く愉快であった……と話したところ、新次郎はこれ正に吉夢なり! しかし貴公には不適当な夢であり、自分に適した夢である。その夢を吾に譲ってほしいといったとか…… 江原笑ってこの夢はわたしの見た夢で、新次郎殿がこの夢をもらっても意味のないことととりあわなかった。新次郎それでもこりずに、その夢の話は、将来大物となる兆のある夢であるから是非売ってくれとたのみ、その代価として脇差をさし出した。この熱心さに江原も折れて新次郎の気がすむように、脇差一振と交換した。 この江原という武士は、父の名を江原丹後守利重といい、武蔵国の住人で、平家一門で、千葉常胤に従い姓も平から江原に改め、小城にきて、千葉氏に奉公していたもので、その子の名を利家という 後に千葉家が龍造寺に討れ、神代勝利公を頼り、家臣となって筑前国長野(糸島郡)に館を築き、200石を知行とした。 太永9年奥 常之は、最早や新次郎に教えることもないとして、免許を与え師弟の契をといた。 ②新次郎神代家総領となる 神代家は古く応仁天皇220余年ごろ、武内宿禰是則、筑後国高良山に居住しいろいろな功績により、神功皇后より筑後国を賜り、且つ神にかわって反徒を亡したことで、「神代」の2字を賜った。 その後子孫の姓を神代として受けつぎ今日に至ると伝えられている。 他国(中国の国)に神代の姓があるが、これはコウシロと読みクマシロとは読み方を異にする。 神代家は、代々高良山一帯を所領とし、文治元年ごろ神代良元公が、熊代邑に館を築き、この地を神代村とよぶようになった。(現在の久留米市神代町) 神代家の記録はとぼしいが、1~2をあげれば ◎文永11年(1274)蒙古襲来のとき、鎌倉幕府の執権北条時宗公は、直ちに全国の武将に教書をおくり、軍兵博多に参集した。 当時神代家は35代良忠公で、直ちに参戦に応じたが、昨夜来の豪雨で、筑後川が増水し渡河不能となった。良元公は附近の住人を集め、浮橋をつくり、九州各地より参戦する将兵の渡河を容易にした。 後に北条時宗公がこのことを聞きおよび、建治元年良忠公に恩賞を賜ったという。 ◎正慶2年(1333)38代神代良基公が少弐貞経公の要請により、太宰府探題北条英時を攻め、これを追放する軍功があったとされている。 その後南朝方の菊池武俊を良基公・少弐貞経等と戦い、菊池一族を敗り、大勝をえて、康永2年足利将軍より三井郡櫛原村80町を賜り、この地一帯の地頭となった。 神代勝元公までは、櫛原村 神代村 高良山一帯の地頭職をつとめた。 新次郎は一人前の剣術者として、各地の道場を巡歴し、武芸百般に通じるようになり、弟子入りするものもでてくることで、養育係の審元は、このことを千布の館で宗元公に報告し、千布家の武芸指南をさせるべきだとして、金立村(町)に道場を開いた。 新次郎が18才となったとき、宗元公は神代総領を定めようと、子の利之公や神代甚五衛門・兵庫頭・神太郎等をよび協議された。 利之公は宗元公の意を拝して、自分は不具の身であるから神代家総領は、新次郎が適任であると、自ら身を引いた。宗元公はじめ一族に異議をとなえる者はなく、佳き日を選び住吉神社において相続の儀式がとりおこなわれた。 儀式当日は、千布家並びに神代一族が住吉神社に集まり、神楽を奏じ、献幣し、利之公は新次郎の次に座り儀式をすまされた。 とき享禄2年(1529)5月51代神代家総領の誕生である。 名を刑部少輔勝利と改めた。
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西の原さん伝説(西原観世音菩薩)
昔、多久藩主の娘『おりん姫』というのがおられたが、家来と許されない恋仲となり妊娠したため、藩主は面目上これを見かねて家来に言いつけて処分することにした。その際父の藩主は娘の命を縮めることは心苦しいので、無言の内に意を含めたつもりで刀の鞘に「より」を結びつけて(ある説では高麗人参を結びつけ)家来に渡した(こっそり助けてやれとの意を含めて)。ところが家来は藩主の謎が解けず、ひたすらに主命大事と主君の娘を打ち首にしてしまい、後になって初めて主君の意中が分かり、その責を負って瑞光寺に隠棲し、『おりん姫』を祀ったといわれている。今でも瑞光寺では毎月19日に檀徒や集落方で観音講などがおこなわれ、またお産の神・安産の神として信仰する人も多く、お参りに来る方が絶えない。
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蜷打の戦
永和3年(天授3年)(1377)南朝方の忠臣菊池武朝は鋭意肥後の統治に努め、筑後をも従えて肥前に来たり、北朝方の探題、今川了俊を攻めた。了俊はこれを聞いて2月金立山の南麓千布、蜷打に陣して待機した。 九州治乱記巻之四には、「永和3年(1377)丁己二月了俊入道蜷打千布に陣を取り、云々」とある。 蜷打の古戦場については、金立地区の大野泰司氏が昭和31年に金立町の郷土史資料を編纂されているが、その中に、九州治乱記、大日本史、事蹟通幸、菊池武朝申状、葉室親善の申状等を引用しておられる。 それによると菊池武朝は一挙に今川氏を討滅ぼさんものと将士を励まして戦ったけれども、了俊には大内氏の応援もあり、遂に菊池氏の敗戦となった。今川了俊はこの戦勝を契機として勢力をばん回したという。さて蜷打の地名は、金立・春日・久保泉の小字名、田字名には発見されない。ところで高木瀬・兵庫両町にまたがり上渕、下渕、東渕、西渕という地区がある。あるいは蜷打の打が渕と転化したものでないかと思われる。又逆に渕が打と転化したとも考えられる。金立町の千布と、これらの渕地区は、江湖続きであったとも推定できる。平尾川・福島川・市の江川・巨勢川など錯そうし、この附近は昔から遊水地帯で水棲動物、たにしやふなが沢山いたので蜷渕といっていたのがぶちがうちとなり、遂には蜷打と表現されるようになったとも推定される。 千布、念彿橋、徳永川の両側友貞、二又、上渕等に板碑の供養塔が多く見られ、二又には念佛寺という寺もあったという。蜷打の戦で南朝方の植田宮、菊池武義、武安等戦死したとの記録もあり、上渕の彿地蔵にはアラヒトさんとして祀られている神像は衣冠束帯をつけているので、或はこの植田宮を祀ったとも思われる。何れにしても蜷打の戦として、千布、渕一帯に多数の戦死者があったことは想像に難くない。
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土一揆合戦
応仁3年(1469)の夏国府(小城)の地頭職千葉教胤は大村日向守家親を攻めようとして、藤津郡に至り、暴風雨の為軍船が沈没し、不慮の死をとげた。千葉家の嫡流が断絶しようとしたので、同じ氏の右京大夫胤紹の次男胤朝を後継と定めたが、その時の千葉家の執権に岩部播磨守常楽と中村弾正少弼胤明の2人があったが、2人は遂に勢力争いをするようになり、主胤朝は中村のざん言を容れ、岩部を追放することになった。岩部は太宰府の少貳政資にこうて援軍を頼んだ。政資のあっ旋で一時小康を保っていたが、岩部は府中(春日尼寺)に居て、佐賀北郷の土民をぶ育するのに力を注いでいた。 文明元年(1469)9月9日千葉介胤朝は岩部を討つために、仁戸田近江守を大将として府中に差向けた。 然し岩部の恩顧をこうむっていた土民共は、かねての恩に報いるはこの時とばかり郷民、山伏、百姓共、10000余人集り来って、2、3回鬨の声をあげるや、山川そのために震動する程であったという。この勢いに警き仁戸田は思いがけない敵の大勢と思い込んで國府に逃げ帰った。 然しながら、中村は様々のかん計をめぐらして、岩部に加担した土民共をなづけて岩部を府中から追出すことに成功した。岩部は手下の者を連れて一時高木村に居を構えた。岩部は胤朝の舎弟で出家の身となっている妙法院というのをにわかに還俗させて、千葉次郎胤将と名のらせて再び太宰少貳の加勢をこい主家に仇を執しようとした。政資は家人の朝日丹後守、窪甲斐守、武藤左近、江上肥前守等の将兵を差向けて岩部に加勢した。中村はこれを聞いて、一死を覚悟し、11月14日軍兵を引き連れて岩部の陣する高木村に押寄せた。土地の百姓などは正法寺の鐘を打ち鳴らし、雲霞の如くに集り来たり、遂に中村を真ん中に押し囲み所々に火を放って散々に戦った。中村は戦利あらずと見て、水上山に退いたが岩部は勝に乗じて追いかけ、山田、大願寺のあたりで中村を討果した。 岩部はなおも大将胤将を擁して国府に押寄せ城下の町、村里を焼払ったが、主に弓を引いた報いか、最後は岩部一族30人太宰府よりの加勢の者400余人ことごとく討たれて、大将胤将は遂に金立の方へ主従僅かの人数となって落ちて行った。国府軍は勝に乗じ、府中を取りかこみ、火をかけたので由緒ある国分寺の大伽藍、大昌寺(聖武天皇の御願、行基菩薩の建立)善光寺、宝積寺、北禅寺など皆兵火にかかって炎上したという。この乱を土一揆合戦という。
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天満宮御神力
大永年中(1521~1527)のことであるが、社内左の老松の脇に樗(おうち)の大木があり、根元は三丈程で末の方は三本の股がある。此の股の下の中程に洞があって、この内に龍の様なものが住んでいて、時々外に出るので、村人も恐れてお詣りする人もなくなった。 そこで惣之市(神主ヵ)の役目をしているのが宮に参詣し、悪龍退散の祈念をしたところ、神の御受納があり、三日の内に不思議にも天地一度に震動し、雷が三本の股の中に落ちかかった。 この三本の枝が三方に飛んで、一本は高木村大路に、一本は当村の東天神ノ木という所に、又一本は西長瀬村に落ちた。この枝で太鼓の胴を作ったのがあるが、おおかた一抱之半程もあるのである。これで右の悪龍も影も形もなくなったが、雷が落ちかかった跡は老松の木の片側をかきほがしているし、又五重の塔の宝珠をつかみ割って、今もその跡がある。 又、神力の広大なることについては、 永禄8年(1565)、豊後の大友宗麟はデウィス宗を広めるため、大友吉広を当国に指しつかわし、北山より侵入して、東・西・南・佐嘉郡の寺社・民家を悉く焼払ったけれども、当社と新庄村の勝楽寺だけは残され、河上大明神の神殿も焼き払われた。河上で佐嘉軍と一戦を交え、佐嘉勢300余名戦死、その後も方々の寺社、家屋を焼打にした。 さてそのとき当所北長瀬の内の南道曲(ぐるり)にて合戦があり、佐嘉勢は城内大手門に退却した。この時城中においても、和戦の論議二つに分れ、宗麟へ降参すべしという者もあったけれども、鍋島直茂公断固これに反対し、城中心を一つにし、賊徒いかに大勢なりといえども、これを踏みつぶせ、深謀勇戦したならば、勝利は期して待たれようと御命令あり。この命令を堺駿河守並びに橋本右京助両人が城中に近侍していて、ともに承りたりという。 その合戦のとき、当社を大友吉広の本陣と定め、佐嘉城を攻めとらんと、その兵勢雲霞の如くであった。ある時先陣を多布施口に派遣した。一方鍋島方では大手口の固めには飛騨守直茂公、白山口の固めには納富常陸守が当った。両陣が未だ一戦を交えないとき、吉広、当社の御神体を紅梅の木の下に取出し、自分自身が神殿に入ろうとして一足踏み入れんとするとき、忽(たちま)ちアット仰天打ち倒れたのを、拝殿に居た近侍の者抱き起したるところ、吉広が云ふには、 神殿に入るのはけがらわし、神のすみかを汚したる故これを誅罰する、 と自ら神移りして御神託と云いながら、そのまま又打臥してしまった。 それで一同拝殿に退いたけれども、吉広は尚人事不省となったがために、近侍の者もこれはてっきり御神罰である。速に社頭から立去ろう。さりながら、陣払とて軍をまとめて立去るときは、何物も焼払うのが軍の掟である。但し、この度は吉広の命を相助け下さるならば、陣払は致しますまいと、誓ったところ、吉広俄に眼をあけ、陣払するならせよ、好きなようにせい、と御神答のままに答えて、又もとのように人事不省におちいった。その外近侍外様の数人も、身ぶるい、立ちすくみするような天罰を被ったので、近辺の藤之太輔の森に引き退いたが、後吉広は終に神埼において死んで終った。 大将吉広はこのように神罰によって相果てたので、多布施口、白山口まで進んでいた敵勢も神埼をさして退却した。 吉広が未だ死なない以前に、寿命安穏のため神埼から当社へ鎧一両、鑓一本寄進しようとして佐賀まで使者を遣したるところ、この使者が古き鎧、鑓に取替え奉納したという。ところがこの使者も佐賀にて死んだという。吉広が社内をあらしたる神罰不思議なる次第を第一に見届たのは神代家家来、古川佐渡、堺新左(※右)衛門である。右両人の者は偶然の事情によって、よくよくこれを見届けた事である。 大友八郎晴英(※親貞)それより3年目に、伯父のかたき取りとて、今山に来襲したが、却って首を成松遠江守(信勝)に取られた。右吉広はこの八郎の為には母方の伯父であったが、その哀れなる最後も天神の御神罰の末であると伝えられている。 右の様ないわれを勝茂公聞し召され、元和5年(1619)社殿御修造の棟割書がある。又再造奉祝文には「大檀那鍋島信濃守藤原朝臣勝茂 惣奉行鍋島主馬焏藤原茂照 小森角右衛門 大工岡本三右衛門」此の外社役が書き記してある。 ※写真は長瀬天満宮
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長瀬天満宮の苗琳坊
当社座主は苗琳坊、開山は堺主斗頭二男康一法師の孫である。初の天台宗の僧となり、苗琳坊を建立しその座主となり数代は清僧で相勤めていたが、後になって妻帯僧となって三代程続いていたが、神前の勤めを、疎そかにした故に、神罰を被り、寺地の在家となったが慶長元年(1596)に苗琳坊も絶えて終った。元は天台宗であったが近代は真言宗となっていた。 この由緒記のことについては、専門家でないとよく判らないと思うが、往時神仏混淆の時代があり、神社は多く寺院の支配を受けていてこれを抱え宮といっていた。冒頭の祭神の如きも、天照皇太神が大日不動、天満天神が地蔵文殊、福午大明神は弁財天毘沙門となっている。従ってこの天満宮も苗琳坊の下に所属し、坊の住職が神主を兼ねていたと思われる。苗琳坊廃絶の後は、西長瀬の法常寺が長瀬天満宮と若宮神社を抱え宮としていたという記録もある。 最末尾の宮司坊以下の記述は何とも判断し難い。宮司坊というのは苗琳坊と同じように末社関係の坊であったかも知れない。今は社役を離れているが筋目正しい続き柄であるから何れ時節到来の節は、社役に就かぬばならないということであろうかと想像される。 尚右の永禄年中の戦については鎮西要略及肥陽軍記に次の様な記述がある。 鎮西要略云。 永禄年中豊後軍放火神埼郡押寄龍造寺戸次鑑連吉弘鑑種会於神代長良而龍府之北陣塚原與水上臼杵鑑速龍府之東陣干姉村神代長良先駆到三溝鑑連陣高木社鑑理屯長瀬社継之 肥陽軍記云。 永禄12年大友勢佐嘉城を囲み攻め城北は長瀬三溝まで取詰めたり。4月6日城中より百武志摩守の手の者三溝長瀬へ突出で一戦に及びけれども利あらず帰城す。
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歩兵第55連隊跡地と昭和天皇のご巡幸
歩兵第五十五連隊跡地については次のとおりである。 第五十五連隊の兵舎には終戦の年の10月6日から進駐軍が駐屯していたが、撤収後、佐賀県では戦後外地よりの引揚者、戦災者で住宅に困った人の住宅対策として旧兵舎を改造して充てられた。協楽園と命名し、昭和22年5月7日から人々を収容した。 協楽園に関しては、時勢が安定してくるにつれ、他へ転出したり、村営住宅や市営住宅が建設されてきて、入居者は徐々に減少し、廃止された。協楽園小学校は、昭和38年に高木瀬小学校に統合され、高木瀬中学校は城北中学校として高木瀬西3丁目の現在地に移転した。協楽園の跡地には佐賀県総合体育館や佐賀市文化会館が建設され現在に至っている。 なお、協楽園があった頃、全国をご巡幸中の昭和天皇が昭和24年5月22日・23日にご来県され、協楽園と市立若葉保育所をご訪問されている。その折、昭和天皇がお手植えされた赤松の記念樹は、残念なことに平成20年枯死したそうである。
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龍堀の話
浄蔭寺は元鍋島家の館であった。徳川初期には城を新しく造ることは禁止されていたので、館を寺とし、周囲に堀を巡らし、実は城郭としての役目を果たした。南北に大きな堀があり、また、東西にも堀を造ってあたかも龍が横にはっている形をしていたので、龍堀と言われていた。また、龍堀の伝説として次のようなことが伝えられていた。 昔この地に大きな龍巻が起こった。堀の水が空に吸い上げられて堀の水はからからになったが、その後には龍神の落と子の可愛らしい蛇が1匹残っていた。寺では龍神を慰むるため弁財天を祀った。この弁才天は宗像弁才天といい貞享2年(1685)の銘がある。この伝説は、羽立政雄氏が祖母から伝え聞かれた話という。 このような龍堀も、今や全て埋め立てられて、浄蔭寺南一帯はおおむね住宅地となり、龍堀の跡を想像することが出来ない。
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消防団
行政区は、昭和54年に高木瀬校区から分かれ若楠校区が誕生したが、消防団組織は、若楠校区として独立せず、従来の「高木瀬分団」の第2部と第4部で活躍中である。 消防団は戦時中結成されていた警防団が戦後改編されたもので、昭和39年の町村合併によって、佐賀市消防団「高木瀬分団」となっている。 若楠校区では、下高木・城井樋が第2部に、新村・八丁畷が第4部となっている。 佐賀市内の大きな火災は、昭和24年県庁の大火や中の小路の大火などに当時配備されていた手押しの小型動力ポンプを引いて駆けつけたと聞いている。 地元の火災では、昭和35年の下高木の大火、小川商店隣の火災などに出動している。 また、水防では、「28水」(昭和28年の大水害)で決壊した鍋島の堤防補修に出動、有明干拓堤防の決壊にも要請を受け出動している。
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田中長者
今から1400年ぐらい前、八戸村に貴族田中という長者がいた。この長者は、広く商業を営んでおり、大船にのって各地方と通商していたので、いつも海上安全を祈るため海の神様を祀り信仰していた。 ある夜、夢の中で海神が西方の河中に、海難除去のお守護神である石があるとお告げされたので、探してみると黄金色の霊石がでてきたので、村の西のすみに祠を建て祀ったという。それを村人が聞き、鎮守として崇敬するようになったという。今も田中道とか田中長者の屋敷の名が字一本杉に残っているが、現在では、八戸に住んでいる者でも知らない人もいるくらい会社や病院がたっている。
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神野今昔物語
足利時代の古文書には、掘江神社は、高木村と出ている。高木村の潟崎の洲にあった芦の生えた野を掘江神社の神領に寄付し、この緑由で神野という地名が生まれたという説もある。 降って徳川時代の元禄の頃には、神野村は「中佐嘉郷」と「与賀上郷」とに分かれ、次のように区分されていた。 中佐嘉郷 神野村、大財村、三溝村、愛敬島村、草場村 与賀上郷 高岸村、多布施村 更に降って文化14年(1817)の記録によれば、 中佐嘉郷 大財、愛敬島、三溝村、草場村、神野村、東渕村、下渕、東中野、西中野、土井村、藤木 与賀上郷 多布施東分、多布施下村、中折村、天祐寺町、本庄東分村、本庄西分村、厘外東分村、厘外西分村、上飯盛、鹿子上村、鹿子下村、新村、末次東分村、末次西分村 明治維新となり、神野、多布施、牛島、大財の各村を区域として戸町役場を設け、明治22年(1889年)4月1日市町村制実施とともに、中佐嘉郷、与賀上郷の傍線の村が神野村となり、神野村役場を置いて、神野、多布施、大財の三大字に分けられた。そして、大正11年(1922年)10月1日に佐賀市に合併された。 合併と同時に、大字神野は神野町に、大字多布施は上多布施町に、大字大財は大財町となった。この3つの町にふくまれた区は次の通りである。 神野町…西神野、東神野、三溝、草場、西通り、新家、平島、愛敬島 上多布施町…大島、高岸、中折 大財町…大財、六反田 この三個町の戸数は、1,026戸、人口は、7,971人であった。合併の祝賀会は、11月18、9の両日盛大に行われ、(昭和48年版佐賀市史上巻)神野小学校の児童も旗行列に参加した。 今は、大財、愛敬島(愛敬町)、平島(天神)、大島(多布施1、2丁目)、高岸(多布施3丁目)、中折(中折町、天祐)は、他校区になっているが、この地区をふくめた旧神野校区の去にし日をふりかえってみよう。 神野村が、なぜ佐賀市に合併されるようになったか、今考えてみると見当もつかないだろうが、合併の頃は、農家が多く、町の形をしていたのは、紡績通り、西通り、堀江通り、三溝の今の263号線沿いくらいのものであった。 明治維新以後の神野村をみると、幕末には高岸に精錬方が置かれ、明治24年には長崎線が佐賀まで開通して、愛敬島に佐賀駅ができ、草場には農事試験場、緑小路には県立佐賀農学校が開校されて、その後、佐賀紡績会社、九州麻糸会社、日本電気分工場、谷口鉄工分場、佐賀瓦斯会社製造場、川上軌道会社などがつくられ、ことに明治の末高木瀬村に歩兵第55連隊が設立されるや同兵営と佐賀市をつなぐ道路(今の263号線)が神野村を貫通し、村発展の可能性が大いに出て来た。また、上水道敷設、道路の改修などが必要になって来、佐賀市には学童の増加による小学校の新築敷地などの問題があり、大正8年頃から神野村と佐賀市の有志の間に合併のことが話題になり、大正11年10月1日の合併となった。(昭和48年版佐賀市史上巻による)
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銅像園の想い出
昭和年代の初め、現在の多布施4丁目、宗智寺及びその周辺一帯は「銅像園」の名称で呼ばれていた。 銅像園の中央に石垣の高台が築かれていた。十数段の石垣を登ると、佐賀藩の藩祖、鍋島直茂公(1538〜1618)の鎧、甲冑姿の騎馬像があった。大正13年(1924)、直茂公が晩年暮らした寓居跡に建立されたものである。 また、銅像の南側に水泳プールが設けられていた。古い写真を見ると、南北に幅25m、東西に50m以上、コンクリート製の当時としては立派なものであった。水は多布施川水路から南側取水口に取り入れ、北側の排水溝に流した。県内外の中学校、青年団の選手が参加し水泳競技会が開催された。しかし、昭和初期になると、多布施川は生活、衛生面から取水が制限されるようになり、昭和10年代には荒れたままになっていた。 昭和12年、日中戦争が始まると銅像園で出征兵士を見送る光景が見られた。元亀元年(1570) 佐賀城の浮沈を賭け、今山(現在の大和町付近)の戦いで勝利して凱旋する直茂公の勇姿像にあやかり、戦勝を鼓舞するものであった。 戦時中、銅像は軍に供出、プールも埋められ当時の面影はない。しかし、「銅像園」は幼き日の郷愁として記憶に残っている。
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神野、堀江通り商店街の今昔
昭和6年(1931)、都市計画の一環として与賀町〜川上線の拡幅街道が整備されることが決定され、永年にわたる拡幅工事が進められた。特に、招魂社(現護国神社)から高木瀬第55連隊までは軍用道路として、急いで整備された側面もあるようだ。現神野変電所付近から川上まで、馬鉄が設置されていた。一説では、諸富から川上まで鉄路が敷設されていたという。 その街道沿いに個人商店が出店し、自然発生的に商店街を形成した。 昭和16年(1941)頃、大和紡績佐賀工場ができ、昭和25年(1950)を中心に1,000名以上の女工さんが寮生活をし、工場内に女子高校ができていたという。 国鉄線路は、佐賀駅の移転までは、現多布施川鉄橋から九電変電所の南側を経てエスペランサマンションの南駐車場、アーサーマンションの建物の敷地を経由していた。佐賀新聞社の北側には、今でも、線路敷地、鉄橋の橋脚護岸が残っている。旧佐賀駅は駅前交番の西で大きい交差点のところ、「一粒300メートル」のグリコの看板塔があって目立っていた。 また、国鉄線路の踏切の南を紡績通り、北を堀江通りと称した。現国道の西の河川を堀江川といい、昔は今の倍以上の広さがあり、じゅぶ台で魚をとり、たなじで鍋、釜を洗い、洗濯がされていた。 国鉄踏切の北側には、青果市場が3か所あり、早朝3時〜4時から大勢、近郊の農家の人々が農作物をリヤカー、車力などに積み持ち込んできた。それを「といやだし」と称していた。市場からその出荷代金を受け取り、帰りに商店街で買い物をした。そのため、堀江通り商店街の開店時間は早かった。 大正時代、昭和初期、堀江通り沿いには各地から出店が相次ぎ、古川活版所、徳島呉服店、竹下陶器店、七田自転車店、松尾たたみ屋、篠原傘屋、江口お菓子屋、小寺薬屋、神野郵便局、数軒の衣料品店、青果店、鮮魚店、桶屋、鍛冶屋、銭湯、酒屋など続々と商店が軒をなし、昭和の終戦後は、紡績通りを入れてその数200軒をゆうに超える大商店街を形成し繁栄していた。また、紡績通りには、西田醤油、高取薬局、スーパーのハシリもりながや、田中かまぼこ店、いろは肉屋、旅館などもあった。 また、国鉄踏切が国道を横切り、長崎本線、唐津線、貨物車の入れ替え、大和紡績への物資出し入れの引き込み線などに貨車が出入りして、踏切の遮断機の上げ下げが頻繁で、トラック、バス、自動車、荷馬車、人とも、南北行き来できる時間が少なく、「開かずの踏切」と称された。 終戦後、進駐軍のジープ等も多く、シガレットサービスと声を掛けると、ガムなどをくれることもあった。 夏の夕涼み時には、国道沿いに各家からばんこを持ち出し、近所集いうちわ片手に囲碁、将棋、世話話など一時の涼を楽しんだ思い出がある(昭和30年頃まで)。 商売人20名前後相集い、たのもし講が各地で行われ、夕食を共にし、昼の疲れを癒すとともに、持ち寄った数十万円を入札による順番で借り、商売の運転資金としあったし、今でもその流れは散見される。親睦会として三夜待ちは今でも行われている。 国鉄貨物の物資の運搬は、もっぱら荷馬車が使われ、空になった荷車にぶら下がったりして遊んだ(昭和22〜23年頃)。現はがくれ荘の北、アーサーマンションあたりに貨物車の集積場があり、現道路南側に運送会社が数軒あり、荷馬車が行き来していて、馬糞が道路上に落ちていた。 旧佐賀駅には操車場があり、蒸気機関車の向きを変える作業が面白かった。 草場、現九電ビルの所に佐賀県農事試験場があり、農事参観デーの期間は多くの参観者が列をなした。西側の流れ小川の水は清く、蛍の見物に出かけていた。 草場天満宮についても、その歴史、謂れなど今は知る人はない。草場の現坂本アパートあたりに神野劇場があったとされるが、今は知る人もない。 ちなみに、神野区画整理事業(昭和30年〜40年頃)、佐賀駅の移転(昭和51年頃)。 国道264号線の二度にわたる拡幅工事などで、前述の三青果市場は移転し、鉄道高架のおかげで便利になった一方、商店は移転、廃業が相次ぎ、草場区は永年居住の人と最近入居された人が混在している状態。ちなみに、高層マンション林立の中で、佐賀で一番にできたマンションは、草場の中央青果市場の跡地に立ったエスペランサ1号館である(昭和45年頃と思われる)。 旧佐賀駅前にあったロータリーの「一粒300メートル」の看板塔も懐かしい。 昭和28年大水害の時は、堀江通りの自宅は床上浸水などで畳を上げた思い出がある。 佐賀駅移転前の線路の跡、鉄橋跡(現佐賀新聞社北側)は今も判別される。 高木瀬の現佐賀市文化会館、県総合体育館の所に第55連隊の陸軍兵舎があり、堀江通りでは、陸軍軍隊の行軍訓練の隊列が見られた思い出がある(昭和20年以前)。現県総合運動場は旧軍隊の広大な練兵場であったが、兵舎は終戦後大陸からの引揚者の宿舎となり、協楽園と称された(昭和34、5年頃まで)。 【商店の慣わし】 正月初荷 お盆薮入り 11月〜12月 誓文払い 徒弟制度(弟子入り) 旦那、番頭、若頭、小僧、丁稚、奉公 残念ながら、二度にわたる国道拡幅事業、神野区画整理事業、郊外型商業施設などで、紡績通り、 堀江通りの商店街の繁栄の面影はない。 ※写真は草場天満宮
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クリークの思い出
化学肥料のなかった時代は、泥土は地力増進のためには貴重なものであった。各年毎に、裏作、休耕田、地力維持のための泥土揚げに力を入れていた。泥土は、「ブイ」といった荷負道具で、田圃に配られていた。 石井樋からの水が止まり「干落ち」となって泥土揚げが始まると、学校から一目散に走って帰り、勉強道具を投げだし、手網とびくを持って、泥土揚に行き、泥んこになって夢中で魚を捕った楽しい思い出が、今でも忘れられない。 そのころの田舎の蛋白源は、鶏と川魚が主なものであった。 鯉、鮒、鰻、鯰、ドンコー、ドジョー、はや、それから亀もよく捕れた。泥土揚げでとれた魚は、出役の人数で、クジを引いて分けられていた。その鮒は、串に差して焼いたものを吊るして保存しおかずにしていた。 夏には、よく鮒釣りをした。棚地で、米をといだり、食器や釜を洗うので、米粒や飯粒が落ちるので、鮒が集まり、夕方はよく釣れていた。昼には、川岸に浮いている鯉をホコで突いて取った。また竹で作ったドーケで、底に泥と米ぬかを塗って川岸に沈めて、朝と夕方上げると、よく鯉や鮒が入っていた。夏休みの一つの楽しみであった。 また、朝から夕方まで泳いだり、「ヤモ(とんぼ)合わせ」という遊びに夢中で時を忘れて、「もっと早く帰らんばー」と、度々母からしかられた。 ほかに、堀のあちこちに、アバ(足場小屋)を作り、梅雨時など、四っ手網で魚を捕った。秋から冬にかけ、投げ針にドジョーや雨蛙を餌に付けて、夕方川にかけておくと朝には鰻や鯰がよく掛かっていた。 農閑期には、新郷の原口さんたちが、川鵜を使って漁に来られ、鵜が川に放されると、鵜に追われた魚が岸近くまで逃げてくるので、それを前かきですくって捕った。 秋になると、菱の実がよく採れる。地区では、15区くらいに区分して入札が行われていた。菱の茂り具合で、50銭から1円50銭ぐらいで入札されていた。「ハンギー」に乗って菱の実を穫り、大釜で蒸して夕涼みの番台(バンコ)で、皆で食べるのは、そのころのなによりの楽しみであった。 千代田町や久保田町は、クリークが多く菱がよくとれるので、農家の嫁たちは町まで出かけて、「菱ヤンヨー」とふれ歩いて売っていた。佐賀の夏の懐しい風物詩であった。 霜がおりる頃になると川には、川蟹やハクラ(すすき)、亀などが下ってくるので、流れの早い土橋の下に、芦(よし)ずを張り、竹で編んだ「うけ」をつけて、魚をとった。 川漁は、1年中よく行われていた。菱や(うけ)の入札の金が、地区の財源になっていた。 藩政時代の灌漑は、「カッポ」と言って、木の桶に両方から縄をつけたもので水を汲み上げていた。郡代官が巡視に来て、この様子を見て余りの重労働に驚いて、「1日に2反ぐらいの水を汲めるのか」と聞いたのに対し、「1日に8反分ぐらいの水を汲み上げる」と答えている。これを見ても昔の百姓の苦労は、並大抵ではなかったことが良く判る。 安永3年(1774)「此年以来、水車始まる」という記録が残されている。水車ができて灌水能力も上がり、大分楽になったとは言え、今から思うと、やはり重労働であった。 高い田に水を揚げるのには、2段、3段とついで揚げるので、小学校の5・6年になると、水車の前乗りをさせられて、泣く思いをしたことを覚えている。しかし、田圃に鯉を養殖してあって、だんだん大きくなった鯉が、水口に集まって来るのを見るのが、せめてもの慰めであった。 大正11年頃、今のような電力による機械灌漑が始まり、労力軽減に大いに役立ち、農業経営が非常に楽になった。農業の機械化の第一歩である。電線が張り廻らされたので危ないから凧上げが中止になった。 機械灌漑によって水車を踏む必要がなくなり、上水道の普及によって、飲料水取水の必要がなくなった。そのため、川への関心がうすくなり、農薬による汚染が進むにつれて、河川の荒廃も急速に進んで来て、用排水機能がいちじるしく低下して来た。 そして、国際情勢が変わると同時に、農業を取り巻く情勢は、きわめて厳しいものがあり、農業経営の合理化のために、農業基盤整備が急がれてきた。
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徐福伝説
今から約2,200年前、皇霊天皇の72年、万里の長城を築いた秦の始皇帝の第3子徐福が、始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて、20隻の新造船に、若い男女500人を連れて、五穀を初めさまざまの品物を持って、蓬莱(ほうらい)の国日本に向って船出した。 そして、九州に現われ、有明海に入り船を着けたのが、諸富町搦(からみ)であった。 そこで、長旅の疲れをいやし、由緒ある土地であるからとして、美しい宮を建てたのが、金立神社下宮となっている。そして、手水を使うために井戸を掘らせた。そこを、テライ(手洗いの意)と名付けた。園田家に保存されている。 徐福は、しばらくここに足をとどめていたが、つれづれなるままに、里人と共に舟を浮かべて、酒宴を開いた。歌をうたい、盃を浮かべて、酒をくみ交わしていると、その盃の浮かんだ所から、白い泡が出て渦を巻いたかと思うと、一つの小島が浮かび出た。 これからこの島が浮盃と名づけられ、どんな大潮が押し寄せても沈まなかった。(現在の浮盃は、いつの間にか地続きになっている)。 幾日か後、徐福の一行は、ここを出発して北の方に見える山へ向かった。道という道はなく、一面青々とよしが茂っていた。行々子(よしきり)が声を立てて鳴いていた。一行は、よしを押し分け押し分けて進んだ。このよしの片方の葉だけが落ちたために、片葉のよしとなって、今でもそれが生えている。 よしの原が続き、道らしい道もなく、難渋したので、持ち合わせていた布を敷きながら、今の三重から水町を通り、北川副村の光法から、江上町、枝吉、そして紺屋町、柳町、呉服元町(金立さんのお下りの道)を通り、やがて山麓に分け入ったのが、金立村の入口であった。そこまでに敷いた布が1,000反に達したので、その地を千布と名づけたと伝えられている。 徐福の一行が、金立村の入口に到着すると、源蔵という里人が、ていねいに出迎えた。源蔵は、この辺の豪族で、酒屋を営んでいたが、邸宅も大きく酒などを出して、遠来の客をもてなした。源蔵には、お辰という美しい18になる娘がいた。 蓬莱の美酒に酔った徐福には、花にもまごう日本娘のお辰の風情に、若い血を湧かせ、お辰も、たくましい体に異国の服をまとった徐福に心を引かれ、二人は激しい恋に結ばれて、人目を忍ぶ逢瀬を楽しんだ。 やがて、源蔵に案内されて、薬草を探しに、山に分けいった。「ほんとうに、不老不死の薬は、この山にあるか」と尋ねる徐福に、源蔵は、「必ずありますから」と安心させて、方々を探し回ったが、なかなか見つからなかった。 ある日、二人は痛む足を引きずり頂上の裏の方に行くと、白髪童顔の仙人が、しきりに釜の中で何かゆでている。ニッコリ笑って、自分の方から「何のために、こんな所まで来たのか」と問いかけた。「実は、不老不死の薬草を探しているが、見つからず、困っている」と答えると、仙人はカラカラと笑った。「心配はいらぬ。この釜の中のものが、それじゃ。わしは千年も前から、ここに来て、こうしてこの薬を飲んでいるのだ。おかげで何年たっても年はとらず、この通り元気だ」と言って腰をたたいて見せた。 「この薬は、この山の横から谷あいまで、岩の間や大木の根などに生えている」と言って、取ったばかりの薬草を渡したかと思うと、立ち昇る白い湯気と共に消えていった。 二人は、大変喜んで、あちこち走り回って、たくさんの薬草を採集して、みんなで飲んで、若さを楽しむことができた。 徐福は、すぐにもこの薬草を始皇帝に贈って喜ばせたいと思ったが、海路は余り遠く、贈るすべもなかった。一行中には、500年も生きたと言われる者もいたが、いつの間にか死に絶えて、伝説の夢を追う人々の話の中にのみ生きている。 徐福が求めた不老不死の薬草は、「現在金立山に生えている黒蕗(くろふき)がそれである」と伝えられている。植物学上ではウマノスズクサに属するウスバ細幸と称するもので、(みちのね草)(谷アフイ)(みやぬな)などと言われている。 今史跡として残っているものは、搦の上陸点、金立神社下宮(今移転して搦の青年会場)、浮盃、寺井の井戸、片葉のよし、千布のお辰観音、源蔵屋敷の源蔵松などがある。 また、伝説にはいくつも言い伝えがある。 徐福は医学者で、長寿を願う始皇帝は、多くの者に医学を学ばせ優遇したと言われ、徐福もその一人という。 徐福の渡来も、単なる薬草探しではなく、日本に対する移民政策だと言う人もある。3,000人位の人が、徐市、徐名、徐林、徐福たちに連れられて、日本に渡って来て、農耕や漁法を教えて土着したり、他に移動したりして、方々に伝説を残しているという。 九州でも、先ず伊万里に着き、黒髪山に登って薬を探し、それから有明海に入り、竜王崎に来た。薬草のある所がわからない徐福は、「大盃を浮かべて、それが流れついた所で、薬草を求めよ」とのお告げを受けて寺井津の搦に着いたとも言われている。 また一説には、神武天皇のご東征の順路と共通点があるとして、日向を出発して大船団を率いて、男軍、女軍に分けて、東に向けて移動し、崗水門に着き、両方共に熊野に到着して、そこに留まって、多くの史跡を残したと言うのである。 神武天皇と徐福は、その通過した道順一帯から、弥生文化の遺物が出土した。神武も徐福も、同じ様に大きな弓を使用した。日本開国に出てくる神話と徐福の国の神話が同じであるという。神武と徐福は、歴史の舞台において、同じ時代に、同じ地に出現した卓越とした人物として、なかには同一人物論を説く学者もいる。
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福満寺の回国塔
福満寺の門前に残る回国塔は、高さ6尺余りの花崗岩で、少し傾いて建っている。前面には、中央上部に仏像を彫り、その下に「大乗妙典回国之塔」の8字、右側には、「天下泰平」、少し下に「奥州津軽」、左側には、「国家安全」、同じく少し下に「行者諦賢」、また裏面には、年月日が刻んであったようだが、「享保年間」とだけしかわからない。 享保2年(1717)春3月、彼岸会の最終日、寺の門前を訪れた一人の六部経持ちの旅僧は、見たところ40年輩の頑丈な男、やや面やつれはしているが、一文字眉で髭はぼうぼうとしているが、精悍の気がみなぎっている。伏し目勝ちにため息をもらし、両眼に涙を浮かべて、何か意味ありげであった。旅僧は「お頼み申し上げます。お願い申します」と、応待に出た老僧に、「奥州津軽の生れで、諦賢と申します。実名だけは、お許し下さい。私の犯した恐ろしい罪は、ザンゲいたします」と申します。「それで回国なさるのか。何はともあれ、罪業消滅のため一切ザンゲされるがよい。私も相談にあずかりましょう」と答えた。 私は、奥州津転の岩木川のほとりに一家を構え、渡し守をして、夫婦二人食うや食わずの貧しい暮らしでした。正徳12年(1722)5月、降り続く雨に、今日は風まで強く吹き込んで、水かさは増し、ごうごうと渦まき流れていた。 床に入ろうとしたとき、「船頭さん、船頭さん。ご用じゃ、お上みのご用じゃ」と言う。 諦賢が驚いて外へ出ると、一人の飛脚が立っていて、「実は、明日までにぜひ届けねばならぬご用金、気の毒だが、川を渡してくれ。骨折賃は、ウンとはずむ」と言う。事情を聞けば、いかにも気の毒である。飛脚一人を乗せて船を出した。雨は止んだが、暗雲が垂れ込め、水勢は激しく小船は上下左右に揺れ動き、なかなか前に進まない。飛脚は、向う岸に着くのを願ってかたずをのんで前を見つめている。その時、隙をうかがっていた船頭は、持っていた櫂を、飛脚の脳天目がけて打ち下した。飛脚は、「船頭、お前は俺を殺す気か、何の恨みがあって、こんなむごいことするのか」と言う。船頭は、「お前に恨みはないが、持っている金が欲しい。金を渡せ」と言う。「恨みもない者を殺すとは、極悪人め、たとえ殺されても、生れ変り死に変り、恨みを晴らさでおくものか」「やかましい。往生ぎわの悪い奴だ」とやりとりがあって、また一撃脳天を打ち砕かれて、アッと一声、そのまま絶命した。舶頭は、飛脚の懐をさぐって、金子300両を取り出し、死体を水中に投げ込んで、岸に引き返した。 家に帰ると、妻が、「おかえり、ほんの今、飛脚さんが見えた。お前さん、そこで会わなかったかい」と言う。「いや、今向う岸に渡してきたばかりじゃないか」と船頭は答えると、妻は、「いや確かに、ここでうなだれて立っていた。よく見ると、頭から血を流していた」と言う。「そんなことがあるものか、もう言うな。俺はひと寝入りする」と言うて、寝たが、別に怪しいことは起こらなかった。 それから女房は懐妊し、月満ちて、男の子が生れた。一粒種の息子を大事に育て、3年過ぎた。その3年目の5月、しとしとと降り続く雨の夜、目を覚ました子どもが、小便をしたいとしきりにせがむ。その夜に限って、外に出ようとせがむ。仕方なく外へ出ると、今度はあっちと言って、船着場を指した。そこで抱きながら放尿させていると、ジロジロと父親の顔を見上げながら、子どもは「父ちゃん、私が殺されたのは、ちょうど3年前の今夜のような真の闇夜だったのだろう」と、大人の声しかも、あの夜の飛脚そのままの声で言うではないか。船頭はびっくり仰天、水を浴びたようで、体も凍らんばかりで、口もきけず身動きもできず、ただ立ちつくした。やがて、われにかえり、因果は恐ろしい。こうしてはおられぬ」と、家に飛び込んだ諦賢は、妻に3年前の飛脚殺しの一部始終を打ち明けた。 「この上は、罪業消滅のため、かつ飛脚の菩提を弔うために、六部となって回国しようと決心した」と妻に話した。「外に、道はあるまい。後のことは私がやるから、一刻も早く飛脚が浮かばれるようにしなければ、坊やの命にも災いがないとも限らないよ」と、妻も勧めた。そこで私は「早速仏門に入り、66か国の回国の途につき、3年余り廻って、ここに来ました」と、話した。 ここで、福満寺の老僧の好意によって、1年余りを過し、その間に回国の塔を刻むのに精魂を傾け、竣工すると別れを告げて、再び行雲流水に身を托して、いずこともなく立ち去ったというのが、回国の塔の由来である。
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佐賀の化猫騒動
鍋島勝茂公は、窮迫した藩の財政建て直しのために、領地の開拓による国益の増強を図るべく、有明海の干拓事業に着目し、白石の秀津に館を建て、よくこの館に来ては、工事の督励に当たった。 当時、武家の間には、鷹狩りの技がもてはやされ、佐賀藩でも、白石平野が藩随一の鷹狩り場とされ、勝茂公も、須古山、杵島山一帯、太原での鷹狩り、猪狩りを常とした。白石に来ては、この白石の館に滞在することが多かった。 ここに逗留(とうりゅう)する夜は、土地の者と語り合うことが常であったという。しかし、ここは龍造寺氏の家臣の領地であったために、鍋島家にとっては、必ずしも居心地は良くなかったらしい。 しかし、「葉隠聞書」によると、「この館は、白石秀林館と言い、勝茂公御狩り(須古山のお狩り)御鷹狩り(白石太原のお狩り)のため、ご逗留され候御館なり。ご隠居後は、御東(佐賀城)並びに秀津をご住居にされる思召の由……」とある。 化猫騒動は、この白石館を舞台にしたもので、寛永17年(1640)春3月のある宵、花見に疲れた勝茂公が就寝されたとき、風もない月夜に一陣のなまぐさい風がサッと吹いて、桜の花が散った。 不思議に思った千布本右衛門邦行が、南庭の方をジッと見つめると、暗やみの中に、何者とも知れぬ怪物が現われた。「おのれ化けものめ」と切りつけると、ヒイヒイとけたたましい叫び声を上げて、築山の陰に逃げ去った。 このようなことがあってから、勝茂公の近臣の発狂、庶子君の怪死などの怪しい事件が続いたり、勝茂公自身が、夜度々うなされて気分がすぐれぬ日が続いた。 そうして、ある夜の真夜中ごろ、勝茂公の寝室近くに、ただならぬ気配が感じられたので、近習の者が駆けつけると、愛妻のお豊の方が、「退れ」と、形相を変えて叱りつけたという。同じようなことが二晩も続いたことを知った本右衛門は、重松という武士と二人で、勝茂公の寝室の見通せる場所に身をひそめて、宵の口から見張りをしていた。 その夜中に、生温かい風を感じたと思うと、猫の鳴き声を遠くに聞いた気配がして、そのまま眠りこみ、気がついたときは、夜が明けていた。 前夜も怪しい気配がしたので、近習が寝所に駆けつけると、例のごとくお豊の方が、言葉も荒々しく叱りつけた。中の様子をうかがうと、勝茂公は、床の上で苦しみもがいていたという。しかし、相手は、主君の愛妻であってみれば、どうにもならない。 その翌日の夜、本右衛門は、「今夜こそ、実態を見届けよう」と心に期し、短刀を股にはさみ、眠りこけると短刀が股を刺すようにして、夜半を待っていた。どの位たったか、寝所を見やると、勝茂公もお豊の方も、もう寝ついていなければならないのに、お豊の方の影が、障子に写っていた。 よくうかがうと、寝室にただならぬ気配がし、中では、うめき苦しむようで、その度にお豊の方の影が動き、もがき苦しむ気配が感じられる度に、クックックという女の含み笑いの声が聞こえる。こうしたことが何度か繰り返されていたかと思うと、ひとしきり苦悶の声が高くなって、お豊の方の障子の影が横を向いたとき、本右衛門が見たのは、紛れもなく猫の影であった。 猫の影は、主君勝茂公の苦しみもがくのをあざ笑うように、これでもかこれでもかと、何か復讐しているような姿であった。 思わず短刀を握りしめて立ち上ろうとしたが、眠るまいとして股にはさんでいた短刀の傷で、股の痛みがひどく、どうしても立ち上がることができなかった。 間もなく寝室の灯が消えて、何事もなかったかのように静まり返り、どこかで猫の鳴き声を聞いたかのように思うと、本右衛門は、眠りに落ちていった。 昨日まで春の花に酔っていた秀林館も、今日は、惨雨愁風の妖気が漂うようであった。 今宵もまた、お豊の方は愛嬌よく、勝茂公の酒の相手をつとめていた。愛妾お豊の方が怪しいとにらんだ本右衛門は、サッと主君の居間に飛び込み、お豊の方の側に走り寄り、電光石火、エイッとばかり、大身の槍を構えて、一気に突き刺した。 この不意討ちに、勝茂公はびっくり仰天、「おのれ、本右南門、汝は乱心したか」と、大刀を取って、はったと睨みつけた。この時、本右衛門は、主君に一礼し、「殿、このお豊の方こそ、お家に仇なす怪物の化身、よくご覧ください」と言う間もなく、また女の脇腹を突き刺した。 近習の家臣たちが、すわ一大事とばかり、時を移さず、お居の間近く駆け付けた。 本右衛門の最後の槍先は、化猫の本性を現わした怪猫の急所を貫いた。怪猫は血に染まりながら、のたうち回り縁側から庭先へ逃げうせた。短い夜が明けてみると、築山の陰に怪猫が打ち倒れて、うめいていた。 それは、物すごい大三毛猫の死がいであった。 千布本右衛門は功労によりこの地に領地を賜った。
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佐賀空襲
昭和20年8月5日から6日未明にかけて、佐賀市周辺は、B29の洗礼を受けた。 マリアナ基地を発進したB29約30機は、九州西海岸を北上して、佐賀平野上空に侵入した。5日午後11時30分頃から、1分から3分間隔にて、6日午前1時頃まで、約1時間半にわたり、北川副・西与賀・諸富付近に、焼夷弾攻撃を加えた。それに、本土近くまで接近してきた航空母艦から飛び立ったグラマン戦闘機から、無差別の機銃掃射が人影に浴びせかけられた。 この佐賀空襲の時の北川副村の被害は、小学校が全焼、岩松軒(がんしょうけん)、光源寺をはじめ焼失家屋91戸、死者21名であったと記録されている。なお、佐賀空襲における被害は、旧佐賀市、諸富町、川副町、東与賀町、久保田町に及んでいて、死者合計は61名、焼失家屋は443戸であったと記録されている。
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鍋島猫化け騒動
2代藩主鍋島光茂(1657〜1700)は盲目の青年、龍造寺又七郎を城中に招き囲碁に興じていた。龍造寺氏は鍋島氏の主家にあたるが、当時は没落し、又七郎も客分として禄1,000石を与えられて臣従していた。碁の名人である又七郎に光茂は連敗、激昂のあまり遂に又七郎を斬殺してしまった。又七郎の母はわが子の死を嘆き、悲しみと怒りを飼猫に語り自殺する。流れる老婆の血をなめ尽くした怪猫はいずこともなく姿を隠した。そして城内に忍び込み光茂の愛妾お豊の方をくい殺し、お豊の方に化けて夜ごとに光茂を苦しめた。忠臣伊藤惣太・小森半左衛門はお豊の方(怪猫)を見破り退治して、鍋島家の安泰をはかったというのが粗筋で、これが幕末になってから劇化された。しかし、実際の主人公は光茂ではなく直茂であり、龍造寺氏では隆信の孫、高房である。天正12年(1584)龍造寺隆信が島津、有馬の連合軍と戦い、島原半島沖田畷で敗死すると、肥前統治の実権は果敢で思慮深い重臣鍋島直茂に移った。龍造寺高房は憤激のあまり慶長12年(1607)、22歳の若さで江戸屋敷で自殺してしまった。高房の遺体は佐賀城下精の泰長院に葬られ、高房の父政家(50代)も落胆のあまり同年死去してしまった。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下に出没して治安を乱した。直茂も高房の非業の死に心を痛め、高房のために天祐寺(多布施三丁目)を建立し、その霊を慰めた。これが鍋島猫化け騒動の背景である。小森半左衛門の墓碑は宗龍寺(水ヶ江一丁目)にあるが、過去帳にはない。
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鍋島家紋
杏葉紋はもともと馬具の杏葉に象ったもので、その形成上から2個以上をもって紋と成してあるものが多い。鍋島家の紋は杏葉の紋である。「藩翰譜」によれば、鍋島直茂が今山の戦いに勝利したことにより、敵大友八郎の紋をわが紋にしたとあり、それまで用いられていた剣菱紋は、以後かえ紋として使用されたようである。 また一般に杏葉紋には葉脈はないが、鍋島本家の杏葉には葉脈がかたどってあるため、後世、茗荷紋、とくに「だき茗荷」などと見誤られることとなった。ちなみに嫡子や三支藩、または親類の白石鍋島家の紋には葉脈がなくおしべのついた花杏葉が用いられ、それぞれおしべの数が異なっている。
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佐嘉の地名起源(『肥前風土記』)
日本武尊が御巡幸の時、楠巨木が繁茂しているのを見て「この国は栄えの国というべし」といわれた言葉から、栄郡(さかえこおり)転じて佐嘉郡になったという。 郡の西の川に荒ぶる神がいて、往来の人の半数を生かし、半数を殺した。そこで郡の主が大荒田の占いに問うたら巫女、旧く「下山田の上で生けにえの代わりに人形、馬形を造って神を祭れ」と、そのようにしたら荒ぶる神はやわらぎ静まった。そこで、この巫女は賢女(さかしめ)であるといわれたことから、賢女郡というようになったという。
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佐賀の役(佐賀戦争)
明治7年(1874)頃の佐賀には、征韓論実行を主張する征韓党と、政府の欧化政策に反抗する保守的な憂国党の二大士族のグループがあった。政府内で征韓論を主張していれられず下野した前参議江藤新平は迎えられて征韓党の首領となった。憂国党は北海道開発の祖、前秋田県令島義勇を党主としてその数は1万余りに達した。江藤はひとたびことを起こせば各地の反対分子があいついで呼応すると期待していたが、その足並みはそろわなかった。それに反して政府の処置はすばやかった。政府は陸軍省に出兵を命じ、参議、内務卿大久保利通に兵馬の大権を授けて出張させた。岩倉高俊は佐賀県令に任じられ、熊本鎮台の兵を率い佐賀城に入り戦闘を開始した。佐賀士族軍は一時佐賀城を奪回したが、洋式鉄砲訓練をうけた政府軍が攻勢に転じ完敗させられた。 江藤はひそかに鹿児島に逃れ西郷隆盛を頼ったが、西郷はこれに応じなかったので渡海して高知に赴き片岡健吉・林有造に会見したが、ただ自首を勧められるだけであった。江藤はさらに東上を企てたが、高知県東端の甲の浦で逮捕され、佐賀に護送された。ただちに軍事裁判が開かれ、江藤、島は「梟首」の惨刑に処せられた。後年明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年、江藤新平、正四位。島義勇、従四位。贈位。
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乾亨院のコンニャクの化け物
もう4・500年も昔のことだが城内の乾亨院の大楠には、コンニャクの化け物が住んでいた。時は移って、さすがの大クスも年老いて、切り倒された。 その後にその木の魂をなぐさめるために、石碑がたてられた(明治20年)。石碑の表に「南木神社」と刻まれている。また、コンニャクの化け物のいわれを残して、側の川に架けられた橋を「コンニャクばし」と呼ぶようになった。
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佐賀城下の火災
1.享保11年(1726)3代藩主綱茂公の時、片田江堅小路、手明鑓の藩士の家から出火。水ヶ江、二の丸、鬼丸まで類焼。天守閣を除いて再建。 当時大飢饉、火災、天災に苦しめられ、倹約令発布。実用性のうすい天守閣は後まわしになったという。 2.天保6年(1835)10代藩主直正(閑叟)公の時、二の丸長屋より失火。三の丸、御座間(御居間)を残し焼失。直正公の室、盛姫様 徳川家のため、幕府より2万両の見舞金をうける。当時としては大金であった。 3.明治7年(1874)佐賀戦争で玄関、式台、外書院、鯱の門を残し戦禍をうける。玄関、式台は解体され龍泰寺本殿に移築された。御座の間(執務室)も移転された。鯱の門は26弾痕を残し名をとどめているが国の重要文化財に指定され、石垣も含めて当時の面影を偲ばしてくれる。
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龍造寺家家紋 十二日足
龍造寺家の家紋は、十二日足(じゅうにひあし)紋を用いているが、いつごろから使用されたかは不明である。 これは、日に光芒が脛(すね)のような形で十二ついているもので、日は太陽を象ったもので、神を意味しており、鎌倉時代には、皇室の御紋章にされたともいわれる。 「歴代鎮西志」に、「龍造寺家の紋は日光(ひあし)なり。略家伝に曰く、往昔先祖初めて下る時、夢に旭日の光晃曜として身を照らす。覚めて見るに、旭日東に映じて光身に徹す。宛も見る所の夢の如くなり。是に於て、其の晃曜を尽くし、旗に着くるに、向う所利を得、処る所運開く、爾来永えに流へて家紋と為る。所謂日光文是れ也。」とある。