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[旧佐賀市][ 物語・四方山話]は108件登録されています。
旧佐賀市 物語・四方山話
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『野中烏犀圓』第8代、パリー万国博覧会に出席す
慶應3年3月(1867)パリーで開催された万国博覧会に、徳川将軍家代表徳川昭徳の他薩摩藩および佐賀藩より参加した。佐賀藩の事務管長は、精煉方の主任・佐野常民であったが、商取引に自信がなかった常民は、親交のあった佐賀市材木町の豪商、野中元右衛門を販売担当の使節に加えた。元右衛門は、腹心の貿易商、深川長右衛門にも参加を求め、佐野は、精煉方の遠山文一郎を随行させた。通訳には、幕府の遣米使節の経験を持つ藩の英学塾『長崎致遠館』の教導、小出千之助を選んだ。野中元右衛門は、烏犀圓本舗、第6代源兵衛の養子の長男として生まれ、第8代となった人である。号を古水といったが、そのころ特に体が弱くなっていた。常民から渡仏の話があったとき、家族達は心配して何度か辞退させようとした。その時、『君命を受けたからには、死んでも本望だ。 フランスは、仏国というから死んだら極楽浄土も近いだろう』と笑い飛ばしていた。彼は、長崎貿易にも着手し、嬉野茶のアメリカ輸出を画策するなどして、家業は栄えて巨富を積んだが、藩主の恩顧を忘れず藩財政の窮乏を救ったことも度々で、ついに士籍に列せられ、また、古水と号し、歌人古川松根に師事した。さて、国際舞台への夢を抱き長崎から出航し、五十数日を経てパリに到着しその後間もなく急病に襲われたため、その夕急逝した。時に55歳、パリの東の方ペール・ラシェーズの墓地に眠った。佐賀藩は、英艦フェートン号事件により、長崎警備の重要性から大砲の鋳造、軍艦の購入など防備の充実に苦心した。膨大な藩財政のため、藩産品の輸出に力を入れるため、上海パリに人材を派遣したのである。 チヨンマゲ姿で、博覧会に応対した佐賀のコーナーには珍話が多く、人気を呼んだ。 ☆ 有田焼の酒徳利の評判がよいのも不思議だった。数日して、客が持ってきたのを見ると、金具を付けてランプの台にしていた。 ☆ 和紙の強さに驚いて、ブラウスにしようというパリ娘もいた。 ☆ 幅の広いコンブを壁の代わりに買って帰った。 ☆ きれいなフランス婦人が『雪駄』のすべすべした皮が気に入ったらしく、自分の頬を軽く叩いていた『それは履き物です』といったのに、婦人は、片方だけ持って帰ろうとした。婦人は、『日本の履物を知るには、一つあったらよい』と言われてがっかりした。
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岩倉具視卿子息たちの佐賀留学逗留
明治政府の中心的人物であった岩倉具視卿は、当時、頭角を現していた副島種臣、大隈重信、大木喬任、江藤新平らを育てた佐賀藩の教育に強い関心を示し、自分の子息らを藩校の弘道館へ留学させたいと、藩主直正に頼んだ。 当時、弘道館はあらあらしい気風がみなぎっており、驚いた直正公は「貴公子を迎えるには恥ずかしい限り」と固く辞退した。 しかし,結局、子息二人は佐賀に下り、願正寺に投宿しました。そして1カ月遅れて養子、分家の子息なども来佐した。 中央から佐賀への留学は、当時、佐賀が優秀な教育の場と目されていた証拠であろう。
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長崎奉行宿泊所、「御茶屋」(願正寺)から「本陣」(呉服町野口恵助宅)へ
徳川幕府は享保2年(1717)、長崎に奉行所を作り、江戸から毎年一人、長崎奉行を派遣し外国船の貿易を監督させた。長崎奉行が佐賀を通過する折、佐賀藩大名は領内の支藩大名もふくめ、宿泊所である「お茶屋」に出向いて、あいさつするのがならわしであった。佐賀ではその宿泊所に願正寺が充てられていた。藩主の休憩所が臨時に充てられていたようで、現在の書院が使用されていたと思われる。また、そのほかの階級の宿泊するところは、本庄、長瀬、呉服に、2、3軒、はたご屋としてあった。 当時、大名などが宿泊するところを、東海道など五街道では[本陣」といい、町人の経営する民営であったが、長崎街道など西日本の地域では大名宿は「御茶屋」といい、藩の経営であった。 寛政末年になると長崎奉行が佐賀城下に宿泊する頻度が増えてきたため、当城下にも本格的に宿泊所の「本陣」を設ける必要が生じてきた。そこで,寛政12年(1800)3月から、呉服町の御用商人・野口恵助が私邸をすべて提供した個所を「本陣」として使用、その後、諸施設を整備し拡張した。今の呉服町錦通りエスティマンションがその跡地で、外塀の角に説明板が付けられている。 本陣ができてからは願正寺、称念寺は脇本陣として使用された。
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検番と芸者くらべ
明治初期、佐賀市内の貸座敷密集地は上芦町と下今宿であった。明治16年(1883)佐賀県が再置されたが、時の県令(知事)鎌田景弼は「県庁の近くに遊郭があるのはけしからん。風紀が乱れ・・・」と言って廃止してしまった。しかしすぐ復活運動が始まり5年後には復活して以前を上回る繁栄ぶりであった。 佐賀市に初めて芸者検番が店開きしたのは明治30年(1897)、この年佐賀自由(佐賀新聞社)新聞に「佐賀市に芸妓検番の無きはもの足らぬ心地すと さる粋さまも言われき。依って今般検番を設け、京阪その他より幾多の芸妓を集めて営業を始め・・・」という広告を対象としたユニークな企画を実施した。「佐賀県下芸者くらべ」というコンテストである。 2月10日の社告で「本社当節左の趣向にて県下芸者くらべ投票を募集す。(中略)県下のあらゆる芸妓について、美中の美、粋中の粋、花中の花を撰り、世の粋士嫖客に紹介するも亦、本社の一粋ならめ。」と告知した。新聞に刷り込まれた投票用紙で投票する仕組み。大別嬪に純金の大指輪1個、未来の大別嬪にも純金の指輪。三味線や踊り、歌などの各部門で一位になった芸者にも象牙の三味線のバチといった豪華な賞品も用意された。明治らしいおおらかさが感じられるエピソードである。
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進駐軍宿舎
昭和20年秋、大戦の敗戦により佐賀市にもアメリカ占領軍が進駐してきた。市内の主な公共施設にはアメリカ兵の衛兵が立ち、MPがパトロールしていた。新道の内庫所も接収され、何らかの施設となったのか、朝夕の星条旗の上げ下ろしには路上のアメリカ兵の直立不動の姿も見られた。 材木町の資産家川原氏宅の洋風の別棟も司令官宿舎として接収された。当時庶民の生活は衣食住にも事欠き、水道は水圧が弱く、共同水道でも地面下まで掘り下げないと水があまり出なかった。また電力も不足し電圧を下げたローソク送電、しかも度々停電した。 ただ、司令官宿舎だけは煌々と灯りがともり、門前の電柱の街灯も輝いていた。期末試験が迫ると近所の旧制中学生たちは、教科書や参考書を手に街灯の下に集まっていた。 司令官の就学前の一人息子アーサー君、やんちゃ坊主らしく近隣の台所までちらかしていた。つかまえて話しかけたが、われわれのつたない英語力では名前や年齢を聞き出すのが精いっぱいであった。 司令官夫人は夏になると、やはり接収されていた佐賀中学(現西高)のプールに行くため、ジープに乗って肌をさらしていた。 接収解除後、川原家では床の間だったか押し入れだったかがトイレに改造されていたとこぼしていたということである。
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入れ薬屋さん
富山県や奈良県や田代などから回ってくるおなじみの「置き薬屋」、即ち売薬業者のことで、昔から残っているのどかな風景である。家庭で緊急時に必要な腹痛、歯痛、頭痛、かぜ薬や、のべ膏薬、貝がらにつめた白膏薬などの薬が主で、便利なものとして忘れられず利用している家庭がある。
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綱敷天神さん
蛎久の犬塚さん北裏、古賀さん宅の北に小竹が茂り、三方堀に囲まれているところが「綱敷天神」のあとであり、東側の堀を天神堀(てーじんぼい)と呼んでいる。 察するに、菅原道真公が太宰府に流されるとき、船でこられ博多に上陸されたが、突然のことなので高貴な方を受けいれるところもない。とりあえず新しい船のとも綱をぐるぐるとまるく巻き、お迎えされた。そこで人々は、綱の上にお坐りになる天神様、綱敷天神と呼びあがめた。 太宰府天満宮から蛎久に神霊を迎えるに当たり、綱をしき中宿的なところを設けたあとではないだろうか。こうしてここが綱敷天神といい伝えられているのであろう。
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イッチーの木
樹令……350年以上。『名木、古木』 鍋島直茂、成富兵庫などが亡くなった頃の生まれで天満宮境内にある。 イッチーの実の熟したものは、色がとても美しい。ドングリの背くらべというがイッチーもほとんどが形にかわりがなく整っている。コマ等を作って時間のたつのも忘れて遊んだ。今のように電池を入れた遊び道具などなかった時代は貴重なもので、子どもの財産くらべにはその数がものを言った。 手に入れる方法は ・石か瓦を、なっている枝に投げあてて落す。 ・朝はやく、提灯つけて落ちたものを拾う。 ・堀に落ちたものを、椿の葉をまるめて竹の先につけ水の中から拾いあげる。 ・ゲーム(イッチーあて)に勝つ。
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野狐
川上川の官人橋よりずーっと下んほうの、蛎久のほうに通ずっところの渡しのところで、婚礼のりっぱな衣裳にしやいて、渡しに乗ってじゃーもん、そいぎ、「こん畜生、また、がんして行きよいひっだぐった。」て思うて、その船頭さんがひっくい返しなったて。そいぎなた、そいから先ゃあ、もうあがんして船頭さんの小屋はつん燃えたて言いよんさった。そしてもういくら船ば作ってもなた、そこは晩には渡られんて言いよいなった。そいどんが、わやくして。
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野狐のご膳迎え
野狐の嫁入りちゅうとはもう、どうしたっちゃ、あがんと、ちょうちんばね、もう、ちょっと、ほんなちょうちんのごとっ、ずっと渡っていくよ。あの土手(チィチィ)ば。 あたいどま八戸村おったけんがさい、あのチィチィ土手はね、もう、裏からひょーんと、しるっわけ。そいぎ、あの土手がもう、ひとばなれのねぇ。馬の死んぎ、あのチィチィ土手の下のよしのさい、竹のごとっして、太うしてよしでん広かもう。そこのきわに馬ば埋めていたて。そいけん、誰でんよおそうの悪しゃ通いよらんやったて。そがんところしか野狐はおらんわけ。 野狐のご膳迎えちゅうてね、嫁御ばね、持つときは。そいぎね、そのちょうちんのね、もう、ちょっと、明かかごういのさがったとと同じこと。そや見たごとあっ。
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野狐と祝儀帰り
うちの親父さんたちゃ、祝儀てんなんてん行たてね、嘉瀬の手前にチィチィでぇちゅうてー本橋のあんもんね。私の親父さんは嘉瀬元町からもんじゃけんが、よう祝儀とか行きよらしたて。祝儀のみやげがもう、酔ぇくろうてチィチィでぇば来よって。そうして、みやげば酔ぇくろうとっばってん、もう、わが両手にさげとった、わがおべぇちいとらす。ち、言わすわけ。 そうして、わがもう、なんもかいも泥んごとなって、酒飲みよらしたわけ。そうしてなんたぁ、深町のその、チィチィでぇちゅうところが両方に、やぼのあって、あっこはでぇじゃもん。そして、向こうは一本橋のチィチィでぇじゃもう。そこがゆう野狐のおったところなた。 そいぎ、そこば帰って来んば八戸村まで帰って来られん。そいぎもう、来っときなんたぁ、もう、野狐の足型のこのじばんに、いっぴゃあ、犬の足型んごたっ。そうしてなた、もう、なんでんもう、手のごいで折り結めんごたっとば結ってさげて来ないよった。もうそこからぶつっとおし切れて、手のごいばっかい持って来ないよった。
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狐の話
明治から大正にかけて、お宮の近くに鎮守の森があった。そこには、たくさんの野狐が住んでいてよくいたずらをしていた。 ある日、八戸村に住んでいた林幸さんが親類のこんれいによばれたその帰り、酒に酔うていい気持ちになりふらふら歩いていた。土手にさしかかって一やすみするときまではおみやげを手に持っていたことはたしかだった。 ところが、一息ついてごちそうを持って帰り、家でひらいてみたら、野菜を藁でむすんだものだった。
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狐の見送り
大正8年ごろ、あるおばさんが、神野町に毎日田んぼの小道を歩いて通勤していました。ある日のこと、夕方、帰ってくる途中で日がうす暗くなってきました。おばさんは急いでいましたが、おきの森にさしかかると、急に右の肩が重く感じました。うしろを向いてもものかげはありませんでした。おばさんは、さらに急いで歩いていますと、左の肩まで重くなってきました。おかしいなと思い思い、自分の家の橋にきたら、急に肩がかるくなりすっーとしました。うしろをふりむいたときは狐の姿はありませんでした。おばさんは、これが狐の見送りだなと思いました。今でもその森口はのこっています。
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ゆうれいのおはなし
明治の頃のお話です。 ある村にひいおじいちゃんが住んでいました。ひいおじいちゃんには、とても仲のよいお友だちがいました。 ところがある日、お友だちがお亡くなりになったので、ひいおじいちゃんは悲しみました。それから10日ほどたったころ、田んぼの見まわりに行って帰る途中、一本の柳の木があるところに亡くなった友だちが立っていました。ひいおじいちゃんはびっくりしましたが、お友だちと話しをしたそうです。ひいおじいちゃんに、ゆうれいとなって逢いに来たのは、まだこの世に悔いが残っていたからでしょう。
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河そうの話
あたいどんがこまか時分に、河そうから取られて死んじゃったいね。おどま見ぎゃ行たことがあっじゃん。八戸村まで見ぎゃ行たよ。 八戸村ちゅうところは太か百姓ばっかいじゃん。そけぇ20ばっかいなっ姉やんがいたて。みんな昼あがいしてから姉やんが1人してあせらんば。男どんはしっきゃあ昼飯くうぎ田ん中さい出てしまうわけ。そいもんじゃっけんが、その姉やん1人して気のもむっ。そいが昼飯くうてじきやっけんもう、ぬっか最中じゃん。そいもんじゃってが、その家の裏のふとか濠に「ああ、ぬっかったぁ」というてね。川じのところまで飛び込うだ時まで見といなっさい。そいから先は姉やんがいつまでもあがってこんもんじゃさい。 「もう、姉やんが飛び込うでから、もういつまってん出てこん」 て。そいぎ、出てこんもんじゃい、うちは、大騒動たい。そいぎ、あんた、河そうがさいもうね、尻からさい、じごのいっぱい出とったよ。あたいが1年生にいきよった頃、7つか8つかやったぁ。 棚じのとこれぇ髪でん、くう長うして、そのままあげたばっかいしてやった。そりゃーじごの出とった。
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川そうくぐり
現在の中島荒太郎さん、渡瀬秀来さん宅の間の橋あたりを川原口という。 いまから4、50年前までここで「川そうくぐり」という行事があっていた。 長さ5mぐらい、太さは大人の腕ぐらいにしたコモを固めて、川の中にアーチ形に門をつくる。神主さんの祝詞のあと、コモで作った帽子大のものから四っ足を出したようなものが川上から3度流される。行事がすむと橋のそばに並んでいた4、50人の童たちが一斉に川の中に入り、アーチの門を3度くぐる。 瓶を持ってお宮まで一目散に走って順に並ぶ。盃2、3杯の神酒をもらって引きあげる。 この川を今、島とり川といっているが、長老の話では四万取り川だということである。四万ということはたくさんを意味する。たくさんの童が洪水や水泳などで溺死した。これは川そうという動物に取られたのであろうということから、川そうくぐり行事がはじまったということである。
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鍋島消防団
佐賀市消防団鍋島分団第1部に受け継がれている貴重な消防団の沿革は以下のとおりとなっている。 1.私設消防組の設置 明治10年 2月 蛎久消防組設置 明治33年11月 鍋島消防組設置 2.大正15年11月 公設鍋島消防組に改組 1部:蛎久、3部鍋島 3.昭和14年 4月 警防団に改組 4.昭和23年 9月 自治体鍋島村消防団に改組 昭和27年9月に第5部を森西に設置 蛎久消防組は明治10年の設立で、鍋島村誕生以前の蛎久村と呼ばれた頃であり、地方における消防組としては最先端を行くものであったに違いない。昭和25年10月6日、佐賀市の城南中学校グランドで第1回佐賀県消防操法大会にガソリンポンプ操法で出場した鍋島消防団が見事1位の成績を収めて県下消防の志気を鼓舞し、鍋島の名を博したことは今も消防人の間に語り継がれている。 昭和28年鍋島の大水害の折には遺体の捜索、救護、救助、嘉瀬川本流の堰止め工事に常に率先して活躍し、町民の信望に応え感謝された。その後、諫早の大水害や県内塩田川堤防の決壊の折には、分団をあげて応援に出動し、28水の御恩返しに励み、麗しい行為として賞賛された。
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鍋島婦人会
鍋島婦人会は、戦後混乱した世相の中で初代会長千綿チカ氏の献身的な努力によって、婦人会が立て直され、婦人の教養と明るい社会づくりにを行いながら、地域活動が展開されてきた。また、食生活の改善や消費者グループの育成のほか、ボランティア活動を行いながら、ふれあいを大切にした活動も推進されてきた。しかし、会員の減少などから、婦人会は女性の会と変わり、地域活動が行われている。 (歴代会長) 初代 千綿チカ、 2代 古川ツイ、 3代 富崎初枝、 4代 杉町きよ、 5代 石田よね、 6代 島内たよ、 7代 石丸数子、 8代 古瀬典子、 9代 石川スマ子