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[物語・いわれ][地名・とおり名][赤松校区]は25件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 赤松校区
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佐賀藩
【佐賀藩の検地】天正16年(1588)幕府公認、35万7千436石5斗9升9合(慶長16年、1611)。知行地の大配分は三支藩・本藩の親類や重臣で一定の自治を認められたもの。小配分は一般の家臣の知行である。 【三支藩】 1.小城藩の祖は鍋島元茂(勝茂の長男)。73,252石 元茂は長男であったが生母の家柄が低く勝茂と高源院(徳川家康の養女)との間に忠直が生まれたので本家を相続せず、忠直が若死にしたので忠直の子、光茂(次男)が継いだ。 2.蓮池藩の祖は鍋島直澄(勝茂の三男)。52,625石 3.鹿島藩の祖は鍋島直朝(勝茂の五男)。15,616石 三支藩は鍋島氏が龍造寺一門に対して自らの支配体制を確立強化する目的で創出されたもので幕府から直接朱印状を交付される独立支藩とは異なり、あくまでも佐賀本藩の高のうちから知行配分された。三支藩は内分支藩とはいえ、大名並みに参勤交代を行い幕府の普請役なども負担するという性格も有した。参勤交代は、寛永17年(1640)に認められ三家交替(一家は江戸詰、二家は国元)制をとり、幕府は三支藩を部屋住格の大名とした。この三支藩の参勤交替、諸役負担は佐賀藩の財政困窮の一因ともなった。 4.親類 ・白石鍋島家20,276石・川久保神代家10,000石・久保田村田家10,770石・村田鍋島家6,000石 5.親類同格 ・武雄鍋島家21,600石・多久家21,734石・諌早家26,200石・須古鍋島家10,000石 6.親類同格の次 家老、首座という家格、上級家臣層で佐賀城下に屋敷をもち自治権、参勤、本藩の藩務も分担していた。 【佐賀藩士の身分】 連判家老、加判家老、首座、独礼、平侍、手明鑓、徒士、足軽という順序であった。手明鑓は本藩・蓮池藩だけにある身分で勝茂が元和6年財政難のために50石未満の侍200人に平時の役を免除して知行をとりあげ、かわりに15石の切米を一率に支給し、戦時には鑓(槍)1本をもって奉公するように定められていた。このことから手明鑓と呼ばれた。 着到(軍事編成の組織)と手明鑓15組に分かれ、御側4組、先手2組、警固6組、留守居3組、三支藩・親類。親類同格は本藩とは別に、それぞれ着到を持つ。15組の大組頭は家老・首座などからなっていた。
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佐嘉の誕生由来
佐賀の地名は『肥前風土記』の楠の栄え説から佐嘉になったという説が一般化している。「佐嘉」が「佐賀」に統一されたのは、明治2年(1869)のことで、それ以前は「佐嘉」の文字が多く用いられている。 奈良時代、風土記が成立した8世紀には、「佐嘉」の地名があった。そのころの肥前国府は、佐賀市街から北数キロメートルにある佐賀市大和町久池井一帯で、国分寺、国分尼寺なども建立され、この付近が佐嘉の中心地であった。ここは川上川の扇状地帯となっていて、山麓には大小200もの古墳が分布し、縄文・弥生の遺物も豊富に出土している。 『日本書紀』にみえる淀姫社(河上神社)、奈良朝寺院跡の大願寺、この付近一帯には由緒ある寺院が多い。 中世にはいると国府は南下し、いまの佐賀市鍋島町蠣久付近に移動、さらに近世にはいって、現在地に城下町が建設された。つまり歴史的な佐嘉の中心は有明海の自然陸化、干拓などとともに南下したとみるべきである。平野部に堀割りが多いのは、かつての有明海の澪(みお)が残存して堀になったといわれ、有明海が遡流する海抜等高線5m以南に堀割りが分布している。 ちなみに佐賀市の中心部は海抜4メートルで、1,500年ほど前の有明海の海岸線に当たる。佐賀平野は大体100年に1キロメートルの割合で沖にむかって陸地が発達してきている。
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佐賀城下町の建設
佐賀市の基礎は徳川幕府から鍋島氏が肥前国内に35万7,000石の知行が認められ、外様大名として、佐賀藩が成立したことにある。慶長7年(1602)より佐賀城の築城がはじまり、これと平行して城下町の建設がすすめられた。 佐賀城は中世肥前の豪族であった龍造寺氏の村中城を拡張して、現在の佐賀県庁のある城内地区に築城された。工事は城濠掘りからはじめられた。城濠は幅40間(約72m)を指定し、各方9町、周囲約1里(4km)を掘らせた。その東南角に5層の天守閣を築いた。この佐賀城は典型的な平城で、亀甲城とか沈み城などとも呼ばれ、完成まで5年の歳月を要した。 城下町の建設は城の周りに侍屋敷を設け、○○小路と名づけ、いまでも竹の生垣を残す旧武家屋敷が静かな住宅地帯となっている。さらにその外側に商人町をつくり、現在の鍋島町、高木瀬町あたりにあった市場をここに移して町家を拡げた。また川上川の中流に石井樋を架して、ここより人工河川の多布施川を佐賀城まで掘り、城下の飲料水や沿線の潅漑水とした。 当時の交通施設としては、長崎街道が神埼町から城原川の右岸堤防上を南下して千代田町の境原、さらに佐賀市巨勢町の高尾を経て城下に入り、牛島町、白山町、伊勢屋町、長瀬町などを経て八戸町、扇町に到った。また佐賀江湖、八田江湖、本庄江湖も城下の水運に利用され、佐賀は平野部における水陸交通の結節点ともなり城下町を繁栄させた。
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幕末・明治の佐賀
幕末の名君鍋島直正は外国船が日本にたびたび来航する中で、いち早く国防の必要性を献策した。佐賀藩の独力で、いまの日新小学校のところと上多布施の2か所に反射炉をつくり鉄製大砲を鋳造した。これは日本における最初のものである。ここでつくられた大砲は品川台場、紀淡海峡、長崎台場などに備えられた。佐賀は幕末日本最大の兵器廠であり、藩製の大砲は戊辰戦争で威力を発揮した。 明治2年鍋島直正は藩籍を奉還、同4年廃藩置県によって中央集権的な国家体制ができあがった。肥前国では旧藩のまま県になったが、その後数回にわたって佐賀県の統廃合が行われた。佐賀城には置県とともに県庁が置かれたが、明治7年2月佐賀戦争があり、城内は戦火に遭い、大書院、旧藩主の居間、鯱の門を残して焼失した。その後の経過を記すと、大書院は佐賀中学校の校舎につかわれたが、大正9年解体、その一部は大隈重信の墓のある赤松町の龍泰寺の再建に使われた。藩主の居間は、戦後南水ヶ江町に移され、同地区の公民館として活用されている。現在、佐賀城の面影をしのぶものとしては、鯱の門とその両側の石垣だけとなっている。 一番残念なことは、戦前東の城濠を完全に埋めてしまい、近年また城内公園の遊歩道建設のため、 南の城濠を狭くし、往時の濠幅の半分くらいになっている。一時天守閣の復元運動もあったが、それもいまは下火となり、佐賀城跡はいまやビルの谷間に低くなり、忘れ去られようとしている。
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城下町から県都へ
佐賀戦争後、市勢は振るわなかったが、県民の再県運動が功を奏し、明治16年5月、長崎県より分割独立して、今日の佐賀県が誕生。新しい県庁舎が城内に置かれ、佐賀県の政治・経済・文化の中心都市として立ち直った。旧藩時代にあった洋式工業の機械類は政府が買取り、東京に運ばれて、海軍の必要な兵器をつくった。そのため佐賀では平和産業に切りかえ、精煉方では硝子製造を行い、ランプやコップなどをつくった。鉄工業は反射炉で働いていた谷口氏が鉄工場を長瀬町につくり、福岡の東公園にある日蓮や亀山上皇の銅像をつくるくらいの大手工場も生まれた。しかし製品市場に遠隔という欠点や工業用水の不足、また佐賀平野の農地面積が比較的大きく、農業による収容人口が大であり、余剰労働力は北九州や京阪神の大工業地帯に吸収されて、地元に就職する人が少ないなどで工業は伸び悩んだ。明治維新とともに藩主以下有能な士を出した佐賀も、これらの人材は中央に出払い、その後の人材の多くは、軍人や政治家、官吏に偏し、産業人になる人が少なかったためとされている。そのため佐賀市は県庁の所在地でありながら、人口・市勢ともほとんど発展しないのどかな町の典型とされ、第二次大戦時も大きな戦災もなく戦後を迎えた。
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戦後佐賀市の変様
戦後、国土復興のため、中小企業が勃興、市勢も一時活気を呈したが、やはり生産都市としてではなく、消費的性格が強いため、市勢も伸び悩む傾向にあった。しかし、昭和29年以降の町村合併によって隣接の11か村を吸収合併、市域は明治22年の市制発足当時に比べ、22倍に拡大、人口も10万台を突破した。だが、佐賀市の都市機能はこれに対処できず、飛躍的に増加した自動車に大都市なみの障害をおこす結果となった。そのため、県や市では総合開発計画をつくり、これまで雑居していた商業地区と住宅地、工場地と住宅地を区別するため、高木瀬町に工場団地をつくり、バイパスの建設、神野土地区画整理、街路計画、下水道計画など次第に近代都市としての脱皮がなされてきている。とくに狭隘だった佐賀駅も昭和51年高架移転を完了、都市の再開発も駅前から唐人町に通じるシンボルロードを完成させた。
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水ヶ江町・裏十間川界隈
水ヶ江も片田江も江戸期の通称地名である。その境界は十間堀川であった。この川の西から裏十間川が北に走り、昔は佐賀江湖からこの運河をつうじ物資が運ばれていた。かつて川幅が十間もあったところから名付けられた川の名である。裏十間川は町人町と武家町の境をなした川でもあった。
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七小路は片田江
「馬通る椎に花房中の橋、枳(げす)に会所は片田江のうち」、人によっては片田江のところを「向う十間」と歌う人もいる。この歌によって昔の人は七小路の順序を覚えた。現在は水ヶ江二丁目の中に包含されているため七小路があったことさえ知らぬ人が多いので紹介しておこう。 片田江には北の端から馬責(うません)馬場、通り小路、椎小路(貫通道路)、花房小路、中の橋小路、枳小路、会所小路、北十間端を加えると八つになるが、これは語呂合せである。向う十間は南十間端から指した名称で、古くは南十間端を十間端と呼んでいたが、後年川の一部を埋めて北側に町並ができた。したがって北十間端までが片田江のうちで、南十間端以南が水ヶ江である。これは佐賀城下町建設以来のことであるが、このような歴史的な由緒ある地名が消えていくことは誠に残念なことである。
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水ヶ江町の由来と変遷
「水ヶ江」は「水が家」の意味で、「龍は水を以って家となす」の古事から、龍造寺氏の龍と水を結びつけてつくられた地名である。現在の中の館町から水ヶ江五丁目付近のクリーク地帯に水ヶ江城があった。江戸期は佐賀城の東堀近くに大身の武家屋敷が多く、南の鷹匠小路、独行小路、虎次竪小路などは、もともと水ヶ江龍造寺氏の本拠のあったところである。したがって水ヶ江という場合は南十間端以南を指すのが元の姿である。 水ヶ江の変遷をみると、明治11年の戸口帳に水ヶ江組とみえ、その下に水ヶ江小路(戸数242、人口1,062)、片田江小路(戸数334、人口1,482)となっていたが、同14年、この二つが合併、水ヶ江町と改称された。 裏十間川は町人町と武家町の境となっていて、この川にかかる橋が西側の七小路の武家屋敷に入るとき、必ず鍵型に曲がっている。これは防衛上につくられている。中ほどにかかる横目(じろり)橋は、職業の違いでお互に対立意識をもって横目でじろりとにらんで通ったとかいわれている。 川に面する材木町筋は恵比須信仰が盛んで、立派な御堂をつくっている。毎年5月10日、9月10日はお籠り、7月10日は祗園で地区民がみんな集って酒宴を開いている。古い料亭杉谷もこの近くにあった。また、川端に「あかかべ」を商標とした醸造場の中島酒造の立派な酒蔵もみられたが、いまは建物の影で昔の面影はない。 近年、この川筋は現代風に整備され、並木や歩道までつけられ、釣人が糸を垂れるほどの風情をとりもどしている。
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佐賀城濠
佐賀城の外濠を1周すると、ほぼ4kmあった。江戸城(現皇居)の外濠の周囲は5.5kmであり、これに次ぐ大きな城濠であった。だが、昭和9年から14年にかけて、一番広かった東濠が全部埋められてしまった。埋立の理由は市政50周年記念事業として、その広場で鯱の門博覧会を開催するということであった。当時、北川副の枝吉樋門から八田江に排水するための人工河川が掘られていた。その泥土をどこに捨てるか苦慮しているところでもあったので、この案一挙両得と市議会の承認を得、トロッコが敷設され、学生まで動員して短期間で東濠を埋めてしまった。勿論、東濠を埋めることに猛反対する人も多かったが、時の権力には庶民は勝てなかった。埋立は終ったが、博覧会は時局柄ふさわしくないと政府当局からの指令もあって中止となった。埋立地は市民に頒けられることになり、佐賀市はその土地代で財政を潤わすことになった。当時の新聞には「埋立費は坪7円から10円程度、いま買っておけば、坪30円位にすぐなるので、買手続出が予想される」などの記事がのせられている。 現在の城濠の面積は、築城当時の面積からすると、すでに50%が埋立てられている。城内内部の内濠などの埋立などは学校敷地の拡張などで仕方ないとしても東濠を全部埋める選択をしたことは、「悔いを千載に残す」ことになった。 幸い北濠、南濠、西濠は昔の姿をとどめ、中心部は城内公園として、また官庁、学校、図書館、博物館などの風致地区として、佐賀の丸の内と呼ばれている。現在、佐賀市はゆたかな水辺をたたえる佐賀城公園建設をめざしているが、いくら立派な施設をつくっても、これ以上城濠を埋めるようなことがあれば、佐賀市の再生が危うくなることを歴史は教えているようだ。
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与賀町のはじまり
通称「与賀ん馬場」または「八丁馬場」と呼ばれた与賀神社の参道は道祖元町まで東西に直線で続いている。この道は条里制の遺構を残す道路で城下町建設の時基準線となった。 『藤龍家譜』という本に「文安五年(1448)中国の大内氏から追われた少弐教頼が、佐賀の龍造寺氏を頼って、この地に逃れ、与賀城を築いた。その子政資は文明14年(1482)城の鬼門に与賀社を建て鎮守とした。この界隈は小津の入江で喧噪であったので、港を西に移し、西岸の在家を分けて、東岸を今宿に、西岸を今津に移し、旧江の極まるところを相応と名づく、その時、「小津郷改めて与賀郷という」とみえる。 与賀城は現在の龍泰寺付近にあったと推定されている。与賀神社では毎年5月30日、同社の創建者少弐政資の神霊を迎えて祭典を施行している。なお、与賀町という行政地名の誕生は明治14年である。
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与賀界隈は寺のまち
与賀ん馬場は辻の堂堅小路、妙安寺小路、石長寺路、精小路など多くの小路が交錯、その間を結ぶ通称「あや」という路地道も多い。昔の武家と寺院が混在した地域である。 古地図をみると与賀社の北に梅林寺(廃寺)、光照寺、南に延命院、その西に阿弥陀院(廃寺)、南に印鑰大明神と龍泰寺、佐賀大学通りに面した浄土寺、石長寺、精小路の加昌院、その南の泰長院。古地図には泰長院の塔頭として無量軒、瑞珠軒、大儀庵、西珠庵、妙珠庵の名がみえる。その南に水月寺、隣りして善定寺と佐賀城下で社寺が最も多い。社寺が多いというのは、それだけ当時は文化度の高い地域であった。学僧といわれた泰長院3世是琢は朝鮮の役に従軍、講和の功績で白米30石加増、寺で精米したことから「精」の名が起ったといわれる。その里から寛政の三博士といわれ、佐賀弘道館創設にも寄与した古賀精里、佐賀七賢人の一人島義勇もこの地の出身である。水月寺には葉隠四哲の一人石田一鼎の墓がある。善定寺は名僧不及を生んだ寺で、幕末、勤王僧で日本歴史に残した月性「男児志を立てて郷関を出ず」の作者も、2年間不及塾で学んだ。その子孫木山定生は日本宗教界に貢献、明治44年、京都女子専門学校(現京都女子大)の創立者。この寺には慶応3年(1867)パリ万博に佐野常民と参加した野中古水(野中烏犀圓先々代)墓がある。浄土寺には日本近代絵画の先駆者百武兼行、佐賀画壇の重鎮だった山口亮一の墓がある。
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与賀ん馬場を歩く
与賀神社前の川中に石燈龍が二つ立っている。河童から子どもを守る水難除けといわれている。西魚町にいた川柳作家北島醇醉は「与賀宮さんの子守唄」をつくりレコード化している。「与宮さんの太鼓橋、川の中にや石燈籠、橋の下にゃ ううなまず 淀姫さんのお使きゃばん、ねんねん しんしゃい ねんしんしゃい」昔の風情を残す佐賀名所の一つである。 社前にある五光建設の建物は元栗林歯科医院の建物、大正9年建立の和洋折衷様式、明るい洋風の下見板張りに、和風のいかめしい入母屋造りの屋根がのせられている。大正の佐賀の建築史を知る貴重な建物。この西隣に戦後まで佐賀市民に親しまれた芝居小屋、「喜楽座」があった。 喜楽座は明治14年設立、当初「喜楽舎」といった県内最古の娯楽場であったが、いまは知る人も少ない。与賀社二の鳥居の側にマルボーロの鶴屋がある。寛永16年(1639)創業という老舗。明治中頃大隈重信がこの店の堤善吉と腕利き職人平田寿一を伴って東京牛込区鶴巻町に佐賀銘菓マルボーロ、新鶴屋を開店させ、佐賀をPRさせたことは余り知られていない。鶴屋の屋号は、ここに大きな松の木があり、その木に鶴が止ったことから起ったという。昭和初年の台風で松は倒れた。 この地は女子教育のメッカ。明治44年佐賀実科女学校として内田清一が創立した学校が現在の清和高校の前身である。また、明治28年鍋島村で私塾を開いていた中島ヤスが同37年与賀町に転居して塾を拡張、大正12年、佐賀裁縫女学校を設立、戦後旭高等女学校と改称、昭和41年、佐賀女子短期大学の設立となった文教の地である。現在は校舎もモダンなものとなっている。 西魚町近くは、ひと昔前までは商店街としてにぎわった。かつて北島酒造のあった煙突だけがその面影を残している。 この道筋で注目されるのは日本基督教団佐賀教会である。佐賀教会の歴史の出発点は佐賀藩家老久保田邑主であった村田若狭で、長崎にいたフルべッキより洗礼を受け、当初久保田村嘉瀬川河畔の納屋で秘かに礼拝していた。当時は厳しい禁制時代、若狭守が迫害の手から免れ得たのは名君鍋島直正の庇護ともいわれる。明治5年、若狭の育てた後輩がこの地に建てたのが本教会である。宣教師フルべッキの使者とし家臣には読売新聞創立者となった本野盛亨などもいた。 また、この教会前の小路には「次郎物語」を生んだ教育家、下村湖人が、佐賀中学頃住んだ場所などもあり、佐賀の文化を知るうえで、忘れられない地区である。
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龍泰寺小路
龍造寺隆信の建立した龍泰寺の門前から東西に走る小路。承応3年(1654)の佐賀城廻之絵図によると、本藩の家臣と小城藩の家臣が多い。城の西を固める位置にある武家屋敷であった。
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龍造寺・水ヶ江の地名の由来
筑波の国の龍造寺村の僧侶が来て住みついたから。 日本武尊の熊襲征伐にこられた時の船着場であったから。 水の中に住むという「龍」との関連で「龍の家」即ち「龍造寺の館」といった。水ヶ江も龍を連想し、水ヶ家が方言なまりで水ヶ江となったと伝えられている。
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沈み城の所以(2説)
1.佐賀城が敵勢に攻められた場合、周辺の水路を遮断することにより、天守閣等が一部を残し城下が湖水化する仕組みにしてあったためという。 2.他の城は城下から離れれば離れる程天守が高々と聳え見えるのに対し、佐賀城は次第に見えなくなる。平城のためだろうか。確かに江戸末期は松原町あたりは文字通り長い松原の林がもうけてあって、長崎街道から城内への視野を遮っていたであろうことは想像できる。
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鷹匠小路(たかしょうくうじ)
佐賀城下の武家屋敷地の地名。佐賀城の東に位置し、現在の水ヶ江四丁目の一部にあたる。 御城下絵図を見ると、正保年中(1644〜47)及び承応3年(1654)の御城下絵図には、鷹屋(あるいは御鷹屋)と記載の箇所が2ヶ所ある。江戸時代前期、初代鍋島勝茂公の時代にこの「鷹屋」に由来して小路名がついたと思われる。 なお、東水ヶ江地区には他に「独行(どっこう)小路」「裏小路」があり、現在の鷹匠小路の一部は「虎次小路」とも言われていた。 ~藤口悦子氏より御教示~ 江戸期の通称地名。佐賀城下の武家屋敷地。鷹師小路とも書く。 佐賀城の東に位置し、北は南十間端に対し、南は東西に流れる多布施川の支流を隔てて古賀村に対する。通りは水ヶ江小路の南端近くから東に走り、左折して北上する。安住(あんじゅう)小路・独行(どっこう)小路を含む(御領中郡村附)。安住小路は鷹匠小路の東側に南北に走る。独行小路は水ヶ江小路の中ほどより鷹匠小路に平行に東西に走る。 弘化2年(1845)の総着到によれば、居住武士は47人で、総石高195石。これらのうちには組頭級の武士が8人おり、その名は鍋島播磨組手明鑓組頭兼船奉行諸岡彦右衛門、鍋島市佑組弓足軽組頭石隈徳太夫・大木主計組弓足軽組頭成富良左衛門・鍋島志摩組鉄砲足軽相良伴左衛門・坂部又右衛門組鉄砲足軽組頭川浪弥右衛門・同足軽組頭井手善太夫、同足軽組頭原口太兵衛である。 このほか組頭以下の武士が約30人いるが、そのなかには、鍋島市佑組に属する古川与一(切米10石)や坂部又右衛門組に属する田代孫三郎(切米19石余)がいる。 古川与一は松根ともいい、10代藩主鍋島直正の近習頭で明治4年(1871)に殉死した。国学者であるが多芸多能で特に書画に長じた。 田代孫三郎は経理に長じ、嘉永3年(1850)に建てられた築地反射炉の会計方を勤め、また本島藤太夫とともに長崎港の神ノ島・伊王島砲台築造を命ぜられて神ノ島・四郎島間の填海工事に功績をたてた。 「明治7年(1874)取調帳」では水ヶ江村の枝町として鷹匠名と見える。 明治14年(1881)、水ヶ江村は水ヶ江町となるが、明治初期には水ヶ江小路・片田江小路とともに水ヶ江村に含まれることになったと考えられる。 現在の水ヶ江四丁目の一部にあたる。 『角川日本地名大辞典(佐賀県)』昭和57年3月発行。
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通小路
片田江七小路の1つで、長崎街道を通り東から城内に入るには、一の橋を渡り、この小路を通るのが最も近く、そのため人通りが多かったのではないだろうか。名前の由来はそこから来ていると考えられる。また、後年米穀取引所がここの西北端に開設され、その煉瓦造の建物が近年まで残っていた。
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椎小路
片田江七小路の1つで、北から3番目の小路で、現在は国道(貫通道路=国道264号線)になっている。椎小路という名前からこの小路には椎の木があったと思われる。
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花房小路
片田江七小路の1つで、佐賀城下を描いた御城下絵図(元文5年:1740)を見ると、この小路の東南角に花房という名前の武士が住んでいたことがわかる。このことが、小路名の由来に関係がとも考えられる。
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中ノ橋小路
片田江七小路の1つで、この小路の東には町人町である材木町や紺屋町に通じる中ノ橋という橋がある。この橋を渡ってここを往来したところから、この名がついたと思われる。
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枳小路
片田江七小路の1つで、枳小路という名前の枳は、「からたち」のこと。この小路にある武家屋敷の水路には、からたちの生け垣が近年まで残っていた。このことから、枳小路の名前がついたと考えられる。
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会所小路
片田江七小路の1つで、佐賀江湖筋に近く、水運による蔵屋敷や問屋街もかつては川筋にあり、この水路に役人や商人などの集まる会所があったことから、この名になったと言われている。 ここには、早稲田大学の創立者であり、明治・大正期に活躍した政治家である大隈重信の生家がある。
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佐大通り
佐賀大学の東側に南北に通る道路で、佐賀大学が開校して以来通称されていると思われる。 現在道路は拡幅中であるが、この工事を行うために佐賀県と住民との協議で、佐大通りのイメージを壊さないようにとの思いは一致している。
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石長寺小路
江戸時代の通称地名。佐賀城下の武家屋敷敷地。佐賀城の西に位置し、通りは石長寺の東側を南北に走り、また南北の通りの中ほどから西に走って精町小路に接する。弘化2年の総着到によると、居住する武士は6名、その総石高281石。平均石高は46石余となり、主に下級武士の居住地であった。元文5年屋敷帳によると、平士2人・平明鑓5人・徒士1人が居を構えている。小路名の由来ともなった曹洞宗石長寺がある。これは佐賀郡久池井村玉林寺の末寺で、創建年代は不明だが、開山は霊岳。敷地は3反1畝20歩。「明治7年取調帳」では「石長寺名」とあり、与賀村の枝町として見える。与賀村は明治14年に与賀町となるが、当地は明治前期に与賀町のうちに含まれるようになった。