佐賀城下町の建設

佐賀城下町の建設

■所在地佐賀市(赤松)
■登録ID2497

佐賀市の基礎は徳川幕府から鍋島氏が肥前国内に35万7,000石の知行が認められ、外様大名として、佐賀藩が成立したことにある。慶長7年(1602)より佐賀城の築城がはじまり、これと平行して城下町の建設がすすめられた。
佐賀城は中世肥前の豪族であった龍造寺氏の村中城を拡張して、現在の佐賀県庁のある城内地区に築城された。工事は城濠掘りからはじめられた。城濠は幅40間(約72m)を指定し、各方9町、周囲約1里(4km)を掘らせた。その東南角に5層の天守閣を築いた。この佐賀城は典型的な平城で、亀甲城とか沈み城などとも呼ばれ、完成まで5年の歳月を要した。
城下町の建設は城の周りに侍屋敷を設け、○○小路と名づけ、いまでも竹の生垣を残す旧武家屋敷が静かな住宅地帯となっている。さらにその外側に商人町をつくり、現在の鍋島町、高木瀬町あたりにあった市場をここに移して町家を拡げた。また川上川の中流に石井樋を架して、ここより人工河川の多布施川を佐賀城まで掘り、城下の飲料水や沿線の潅漑水とした。
当時の交通施設としては、長崎街道が神埼町から城原川の右岸堤防上を南下して千代田町の境原、さらに佐賀市巨勢町の高尾を経て城下に入り、牛島町、白山町、伊勢屋町、長瀬町などを経て八戸町、扇町に到った。また佐賀江湖、八田江湖、本庄江湖も城下の水運に利用され、佐賀は平野部における水陸交通の結節点ともなり城下町を繁栄させた。

出典:佐賀城下みて歩きP1