佐嘉の誕生由来

佐嘉の誕生由来

■所在地佐賀市(赤松)
■登録ID2496

佐賀の地名は『肥前風土記』の楠の栄え説から佐嘉になったという説が一般化している。「佐嘉」が「佐賀」に統一されたのは、明治2年(1869)のことで、それ以前は「佐嘉」の文字が多く用いられている。

奈良時代、風土記が成立した8世紀には、「佐嘉」の地名があった。そのころの肥前国府は、佐賀市街から北数キロメートルにある佐賀市大和町久池井一帯で、国分寺、国分尼寺なども建立され、この付近が佐嘉の中心地であった。ここは川上川の扇状地帯となっていて、山麓には大小200もの古墳が分布し、縄文・弥生の遺物も豊富に出土している。
『日本書紀』にみえる淀姫社(河上神社)、奈良朝寺院跡の大願寺、この付近一帯には由緒ある寺院が多い。

中世にはいると国府は南下し、いまの佐賀市鍋島町蠣久付近に移動、さらに近世にはいって、現在地に城下町が建設された。つまり歴史的な佐嘉の中心は有明海の自然陸化、干拓などとともに南下したとみるべきである。平野部に堀割りが多いのは、かつての有明海の澪(みお)が残存して堀になったといわれ、有明海が遡流する海抜等高線5m以南に堀割りが分布している。

ちなみに佐賀市の中心部は海抜4メートルで、1,500年ほど前の有明海の海岸線に当たる。佐賀平野は大体100年に1キロメートルの割合で沖にむかって陸地が発達してきている。

出典:佐賀城下みて歩きP1