鷹匠小路(たかしょうくうじ)

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鷹匠小路(たかしょうくうじ)

■所在地佐賀市水ケ江4丁目
■登録ID2512

佐賀城下の武家屋敷地の地名。佐賀城の東に位置し、現在の水ヶ江四丁目の一部にあたる。
御城下絵図を見ると、正保年中(1644〜47)及び承応3年(1654)の御城下絵図には、鷹屋(あるいは御鷹屋)と記載の箇所が2ヶ所ある。江戸時代前期、初代鍋島勝茂公の時代にこの「鷹屋」に由来して小路名がついたと思われる。
なお、東水ヶ江地区には他に「独行(どっこう)小路」「裏小路」があり、現在の鷹匠小路の一部は「虎次小路」とも言われていた。
~藤口悦子氏より御教示~

江戸期の通称地名。佐賀城下の武家屋敷地。鷹師小路とも書く。
佐賀城の東に位置し、北は南十間端に対し、南は東西に流れる多布施川の支流を隔てて古賀村に対する。通りは水ヶ江小路の南端近くから東に走り、左折して北上する。安住(あんじゅう)小路・独行(どっこう)小路を含む(御領中郡村附)。安住小路は鷹匠小路の東側に南北に走る。独行小路は水ヶ江小路の中ほどより鷹匠小路に平行に東西に走る。
弘化2年(1845)の総着到によれば、居住武士は47人で、総石高195石。これらのうちには組頭級の武士が8人おり、その名は鍋島播磨組手明鑓組頭兼船奉行諸岡彦右衛門、鍋島市佑組弓足軽組頭石隈徳太夫・大木主計組弓足軽組頭成富良左衛門・鍋島志摩組鉄砲足軽相良伴左衛門・坂部又右衛門組鉄砲足軽組頭川浪弥右衛門・同足軽組頭井手善太夫、同足軽組頭原口太兵衛である。
このほか組頭以下の武士が約30人いるが、そのなかには、鍋島市佑組に属する古川与一(切米10石)や坂部又右衛門組に属する田代孫三郎(切米19石余)がいる。
古川与一は松根ともいい、10代藩主鍋島直正の近習頭で明治4年(1871)に殉死した。国学者であるが多芸多能で特に書画に長じた。
田代孫三郎は経理に長じ、嘉永3年(1850)に建てられた築地反射炉の会計方を勤め、また本島藤太夫とともに長崎港の神ノ島・伊王島砲台築造を命ぜられて神ノ島・四郎島間の填海工事に功績をたてた。
「明治7年(1874)取調帳」では水ヶ江村の枝町として鷹匠名と見える。
明治14年(1881)、水ヶ江村は水ヶ江町となるが、明治初期には水ヶ江小路・片田江小路とともに水ヶ江村に含まれることになったと考えられる。
現在の水ヶ江四丁目の一部にあたる。
『角川日本地名大辞典(佐賀県)』昭和57年3月発行。

出典:藤口悦子・角川日本地名大辞典(佐賀県)昭和57年3月発行