与賀ん馬場を歩く

与賀ん馬場を歩く

■所在地佐賀市与賀町・西魚町
■登録ID2507

与賀神社前の川中に石燈龍が二つ立っている。河童から子どもを守る水難除けといわれている。西魚町にいた川柳作家北島醇醉は「与賀宮さんの子守唄」をつくりレコード化している。「与宮さんの太鼓橋、川の中にや石燈籠、橋の下にゃ ううなまず 淀姫さんのお使きゃばん、ねんねん しんしゃい ねんしんしゃい」昔の風情を残す佐賀名所の一つである。
社前にある五光建設の建物は元栗林歯科医院の建物、大正9年建立の和洋折衷様式、明るい洋風の下見板張りに、和風のいかめしい入母屋造りの屋根がのせられている。大正の佐賀の建築史を知る貴重な建物。この西隣に戦後まで佐賀市民に親しまれた芝居小屋、「喜楽座」があった。
喜楽座は明治14年設立、当初「喜楽舎」といった県内最古の娯楽場であったが、いまは知る人も少ない。与賀社二の鳥居の側にマルボーロの鶴屋がある。寛永16年(1639)創業という老舗。明治中頃大隈重信がこの店の堤善吉と腕利き職人平田寿一を伴って東京牛込区鶴巻町に佐賀銘菓マルボーロ、新鶴屋を開店させ、佐賀をPRさせたことは余り知られていない。鶴屋の屋号は、ここに大きな松の木があり、その木に鶴が止ったことから起ったという。昭和初年の台風で松は倒れた。
この地は女子教育のメッカ。明治44年佐賀実科女学校として内田清一が創立した学校が現在の清和高校の前身である。また、明治28年鍋島村で私塾を開いていた中島ヤスが同37年与賀町に転居して塾を拡張、大正12年、佐賀裁縫女学校を設立、戦後旭高等女学校と改称、昭和41年、佐賀女子短期大学の設立となった文教の地である。現在は校舎もモダンなものとなっている。
西魚町近くは、ひと昔前までは商店街としてにぎわった。かつて北島酒造のあった煙突だけがその面影を残している。
この道筋で注目されるのは日本基督教団佐賀教会である。佐賀教会の歴史の出発点は佐賀藩家老久保田邑主であった村田若狭で、長崎にいたフルべッキより洗礼を受け、当初久保田村嘉瀬川河畔の納屋で秘かに礼拝していた。当時は厳しい禁制時代、若狭守が迫害の手から免れ得たのは名君鍋島直正の庇護ともいわれる。明治5年、若狭の育てた後輩がこの地に建てたのが本教会である。宣教師フルべッキの使者とし家臣には読売新聞創立者となった本野盛亨などもいた。
また、この教会前の小路には「次郎物語」を生んだ教育家、下村湖人が、佐賀中学頃住んだ場所などもあり、佐賀の文化を知るうえで、忘れられない地区である。

出典:佐賀城下みて歩きP13