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[旧佐賀市][赤松校区]は120件登録されています。
旧佐賀市 赤松校区
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佐大通り
佐賀大学の東側に南北に通る道路で、佐賀大学が開校して以来通称されていると思われる。 現在道路は拡幅中であるが、この工事を行うために佐賀県と住民との協議で、佐大通りのイメージを壊さないようにとの思いは一致している。
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石長寺小路
江戸時代の通称地名。佐賀城下の武家屋敷敷地。佐賀城の西に位置し、通りは石長寺の東側を南北に走り、また南北の通りの中ほどから西に走って精町小路に接する。弘化2年の総着到によると、居住する武士は6名、その総石高281石。平均石高は46石余となり、主に下級武士の居住地であった。元文5年屋敷帳によると、平士2人・平明鑓5人・徒士1人が居を構えている。小路名の由来ともなった曹洞宗石長寺がある。これは佐賀郡久池井村玉林寺の末寺で、創建年代は不明だが、開山は霊岳。敷地は3反1畝20歩。「明治7年取調帳」では「石長寺名」とあり、与賀村の枝町として見える。与賀村は明治14年に与賀町となるが、当地は明治前期に与賀町のうちに含まれるようになった。
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龍造寺家家紋 十二日足
龍造寺家の家紋は、十二日足(じゅうにひあし)紋を用いているが、いつごろから使用されたかは不明である。 これは、日に光芒が脛(すね)のような形で十二ついているもので、日は太陽を象ったもので、神を意味しており、鎌倉時代には、皇室の御紋章にされたともいわれる。 「歴代鎮西志」に、「龍造寺家の紋は日光(ひあし)なり。略家伝に曰く、往昔先祖初めて下る時、夢に旭日の光晃曜として身を照らす。覚めて見るに、旭日東に映じて光身に徹す。宛も見る所の夢の如くなり。是に於て、其の晃曜を尽くし、旗に着くるに、向う所利を得、処る所運開く、爾来永えに流へて家紋と為る。所謂日光文是れ也。」とある。
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石長寺中興記碑(1基)
重要文化財
石碑は安山岩製で「石長寺中興記」の碑と亀趺という亀形を呈した台座からなる。文字は頂部に横書きで、表面に「石長寺」裏面に「中興記」を刻み、その下に縦書きで表裏ともに1行47文字で15行の文字を配する。 台座の亀趺は南向き(旧位置図では東向き)で、頭部を欠損している。亀趺は、現在までのところ、佐賀県下で約20例が知られているが、この「石長寺中興記碑」と多久市西渓公園内にある「大宝聖林■萬古長春石」碑以外は明治期のものであり、享保14年(1729)銘の「石長寺中興記碑」は正徳5年(1713)銘の「大宝聖林■萬古長春石」碑に次いで古いものである。 なお、「石長寺中興記碑」は石長寺境内に置かれているが、道路拡張により原位置ではない。 【銘文の内容(概要)】 医王山石長寺の創建時期や開山開基については不明である。中古に明室心光大姉(龍造寺隆信の妹)が中興したが、今は大姉の墳墓・霊碑が残るのみである。近年再び荒廃していたが、豪商柿久良悦が私財を投じて堂宇・庫裏・山門を新築し、本尊を補修するなどして石長寺を再興した。また、境内に法華経一万部読誦の回向塔や石造地蔵六体などを造立した。 「石長寺中興記碑」は、明室心光大姉、柿久良光・良悦、石長寺の略歴についてのほぼ唯一の資料であり、戦国時代末期から江戸時代中期にかけての佐賀の歴史を知る上で貴重な資料である。 また亀趺は、近世初頭に日本に伝わった石造物の洋式であり、本例は県下で最初期、全国的に見ても早い時期のものである。
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旧百﨑家住宅主屋
登録有形文化財
旧百﨑家住宅は、佐賀市の中央部、佐賀城南堀端から東西に延びる水ヶ江横小路の南側に北面して建つ。敷地の西側と南側は佐賀平野特有のクリークに面し、「佐賀城廻之絵図」(元文5年・1740)・「佐賀御城下絵図」(文化11年・1814)によると藩政期には佐賀藩の御典医を務めた石井家が居住する武家屋敷地であったことがわかる。所有者は、石井家から続く家系で代々医者を務めており、主屋では以前診察も行われていたという、また祖先の石井如自は、佐賀近世文壇の先駆的作家と称される俳人として有名で、明治期の百﨑欽一も医者として医院を経営する傍ら俳人として活躍した人物である。 屋敷は、明治前期の建築と考えられる寄棟造茅葺の主屋とその南西側に昭和6年に増築された二階建ての離れが附属する構成をとる。茅葺屋根は棟を三方に鉤の手状に折り曲げた複雑な外観を持ち、四方に桟瓦葺の下屋を廻らして全体的に立ちの低い造りとする。主屋の座敷は南側にある庭園に向けて開放的な造りで、内部造作は簡明ながら質が高い。 旧百﨑家住宅は、佐賀城下において来歴の判明する武家屋敷地に建ち、御典医と俳人の流れを有する所有者によって代々受け継がれてきたもので、茅葺の主屋は複雑な屋根形状からなる地方的特色と質の高い武家屋敷の様相を有し、佐賀城下における往時の景観を今に伝えるものとして価値を有している。
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大隈重信記念館 一棟
登録有形文化財
大隈重信記念館は、佐賀城北東の旧武家地にある会所小路に面する大隈重信旧宅(国史跡)の敷地東側に北面して建つ。同記念館は、大隈侯生誕125年を記念し、昭和39年に佐賀出身の早稲田大学卒業生を中心とした建設委員会が発足して計画されたもので、同大名誉教授である今井兼次が設計を行い、地元の松尾建設が施工を請負って昭和41年(1966)11月に竣工したものである。竣工の翌年には建設委員会より佐賀市が寄贈を受けて開館し、現在まで同市による管理・運営が行われてきたもので、今年(※2017年)10月で開館50周年を迎える。 同記念館は鉄筋コンクリート造の二階建で、建物の内外が複雑かつやわらかな曲面で構成されており、全体的にどっしりと安定した佇まいは県木である楠の根幹と大隈侯の「からだ」を表現したものである。内部は東西の柱をアーチで結ぶなど同侯の理念である東西文明の融合と調和を表し、トップライトやステンドグラスの色光で彩られる室内空間もまた同侯の精神や風格、香気を表現したものとされ、建物自体が同侯の人間像・人間愛を体現した芸術作品としての特色を有している。 設計者である今井兼次は、後期表現派を代表する建築家としてモダニズムから距離を置き、アントニオ・ガウディやルドルフ・シュタイナーなどの建築家をいち早く評価して紹介するとともに、早稲田大学図書館(大正14年(1925))や日本二十六聖人殉教記念館(昭和37年(1962))などの優れた作品を残しており、同記念館の設計にあたっては、シュタイナーの「建築の人間化」という建築思想に影響を受け、ゲーテアヌム(スイス・バーゼル)を参考にしたものである。 大隈重信記念館は、大隈侯の生誕125周年を記念して建設された。建物自体が同侯を顕彰する記念碑的性格を有し、早稲田大学出身の建築家、今井兼次による建築理念をコンクリートによるやわらかな曲面で表現したもので、地元職人の施工技術の高さが窺えるなど、生家である茅葺の旧宅とともに日本の近代化に貢献した大隈侯の足跡に触れることのできる建物として価値を有するものである。
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与賀神社本殿・幣殿・拝殿
登録有形文化財
与賀神社は、欽明天皇25年(564)に勅願造立(ちょくがんぞうりゅう)され、建暦2年(1212)北条義時が社殿を再興したと伝わる。 登録される建造物は、本殿・幣殿・拝殿を一直線に接続した複合社殿であり、残存する本殿と拝殿の棟札によると、佐賀藩6代藩主鍋島宗教(享保3年(1718)~安永9年(1780))を大願主とし、酒井新五左衛門孝耀(生没年不明)を総大工として建築された。その後、屋根を銅板葺に改造している。 本殿は、石積基壇上に建つ大型の五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で、その内部に正面3間側面1間切妻造祭壇付きの内殿と、さらに内殿内部の極彩色の一間社流見世棚造(いっけんしゃながれみせだなづくり)の宮殿3棟を配置する。内外の随所を獅子や鷹などの瑞獣(ずいじゅう)や雲龍などを主題とした精巧な彫刻で華やかに飾り、見所の多い建造物である。 幣殿は桁行2間、切妻造、銅板葺で、石積基壇上の切石礎石上に建ち、本殿及び拝殿と一体に造られる。室内の本殿側には、装飾豊かな本蟇股(ほんかえるまた)を置き、華やかな室内となっている。元は本殿側を高くする段差があったが、現在はこれを無くし、平坦な床としている。 拝殿は、桁行3間、梁行3間、入母屋造、軒唐破風(のきからはふ)付、銅板葺で、元の切石積をコンクリート洗出しで固めた基壇上に建つ。背面を除く三方に擬宝珠柱(ぎぼしばしら)付き切目縁を付け、柱上には拳鼻付き平三斗(ひらみつと)を置く。室内は、出三斗(でみつと)で支える格天井(ごうてんじょう)や、正面と背面中央間の虹梁(こうりょう)を浮彫付きとするなど、装飾豊かである。床を新建材張りに改造した他、昭和37年(1962)に、拝殿右奥に祭器庫を増築している。 与賀神社本殿・幣殿・拝殿は、残存する棟札により建築来歴が明らかで、かつ、その後の改造も少なく、また、建造物内外の随所を彫刻で華やかに装飾しており、地域の歴史的景観に寄与するものとして重要な建造物である。
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カササギ生息地
天然記念物
カサザキはカラス科に属し、カラスよりやや小さく、黒色に白斑のある翼を大きくはばたかせながら飛びかっている。 カササギはアフリカの北西部及び北半球の全域に分布しているが、地域差が強く、わが国では佐賀平野を中心に生息していて、他で見ることのできない珍しい鳥である。大正12年(1923)、天然記念物にその生息地として指定された。佐賀市・鳥栖市・神埼市・三養基郡・多久市・小城市・武雄市・杵島郡・鹿島市・藤津郡と福岡県の三潴郡・山門郡が範囲である。最近は唐津市・東松浦郡・伊万里市・西松浦郡はもとより熊本県や長崎県でも生息している。 カササギは勝烏(かちがらす)、勝鳥(かちどり)、肥前烏(ひぜんがらす)などと呼ばれて佐賀県民に親しまれ、昭和40年(1965)5月、県鳥に指定された。生息の起源については、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に佐賀藩祖鍋島直茂らが持ち帰ったなどという人為的移設説や自然飛来説などがある。 繁殖期は1月から6月ごろまで、巣作りは早いもので12月に始まり高木や電柱上に営巣し、送電に支障をきたすこともある。無数の枯枝を組み合わせて作られた球形の大きな巣内に2月から3月ごろにかけて5~6個を産卵し雌が抱卵して、約20日ぐらいで孵化(ふか)し、4~5月頃を中心にヒナは巣立をする。
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大隈重信旧宅
重要文化財
佐賀城下の東部にあって東西に通るいわゆる「佐賀の七小路」は北から順に「馬責(うません)馬場・通り・椎・花房・中の橋・枳(げす)・会所」の各小路で、佐賀藩の中流クラスの石高の武士が住いしたところである。大隈重信の旧宅はこの一番南の会所小路の南側にある敷地約315坪(1039.5平方メートル)、建坪約45坪(148.5平方メートル)の佐賀地方に多い「コ」の字形をしたかぎ屋の一部平屋、一部2階造りの家である。2階は重信の勉強のために母親が建て増したものといわれている。 大隈重信は、天保(てんぽう)9年(1838)この家で父大隈信保、母三井子の長男として生まれた。父信保は鉄砲組頭(くみがしら)などをつとめた人で、天保3年(1832)にこの家を買得した。重信は誕生以来ここを住居とし、幕末動乱期国事(こくじ)に奔走(ほんそう)し、明治元年(1867)ここを去って東京へ移った。 旧宅は建築当初からすると2間ばかり北にひかれ、玄関に改造のあとがあり、また台所は撤去されて管理部屋が付設されるなど、少し改造されているが、座敷・次の問・居問等の主要部はよく残っている。また、昭和43年(1968)に解体修理されている。 現在、佐賀城下の武家屋敷は屋敷の門をのぞいてはほとんど残っていない。その意味からも大隈重信旧宅は佐賀城下の一般的な武家屋敷のありようを示すものとして貴重なものといえる。
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有明海漁撈用具
重要文化財
有明海は、潮流の干満の差が著しく、干潮時には広大な干潟を形成する。この干潟は、河川の運搬した微粒の有機物を多く含んだ泥土が厚く堆積したものである。この干潟に生息している魚介類はムツゴロウをはじめ、干潟独特の生物が多い。従って、これらの魚介類を捕獲するための漁法、漁撈用具は生態に対応した捕獲に最適な機能をもつ特有なものであるが、その構造は極めて単純である。 有明海の漁撈は、干潟を中心とする漁撈・沖合の漁撈・養殖業の三種に分けられる。古くから干潟漁法、その他特殊な漁法が行われてきたが、土砂の堆積や干拓の進捗によって急激な変貌を余儀なくされたため、古い用具類は滅失寸前であった。 収集・保存された漁撈用具は、157種293点にのぼる。干潟漁撈具66、漁網類88、貝採取用具33、舟道具31、保存加工用具25、服装9、その他48となっている。これらの漁撈具の中には、漁法の変遷等によって、既に禁止された漁具類もあり、有明海の漁撈を理解する上で、貴重な資料となっている。
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太刀 銘康(以下不明)伝康光 一口
重要文化財
この太刀は「康」以下不明であるが、備前国(岡山県東部)長船(おさふね)の康光の作とされている。この期の備前刀を一般に「応永備前(おうえいびぜん)」と呼び、盛光(もりみつ)・康光・則光(のりみつ)を三光(さんみつ)と呼んでいる。現在康光の作刀で「応永二二年二月日」(1415)の紀年銘が国の重要文化財に指定されている。この太刀もこの頃の作と思われる。佐賀市の与賀神社に奉納されているもので、県内では数少ない名刀のひとつである。 法量 長さ72.3センチメートル。 反り 2.4センチメートル。 形状:鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)、細樋(ほそひ)が鎬にそってある。 鍛(きたえ):板目肌(いためはだ)。 刃文(はもん):匂本位(においほんい)の丁字乱れで、下の方は乱れが小さく、上にいくほど大きくなっている。また、腰の開いた乱れが交わり、映(うつ)り(地に白く影のようなものが立つ)が現われる。 帽子:乱れこんで小丸に返る。 中心(なかご):生(う)ぶ。栗尻(くりじり)、鑢(やすり)目勝手下り。目釘穴1個。
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与賀神社三の鳥居及び石橋 二基
重要文化財
与賀神社三の鳥居は慶長8年(1603)佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、高さ3.90メートル、笠木の長さ5.65メートルである。肥前鳥居は、室町時代の末期ごろに肥前国を中心として造立された石造文化の一つで、江戸時代初期に最盛期を迎えている。 その形式は、笠木と島木が一体化し、先端は流線形を呈しており、笠木・貫・柱が3本継で、柱の下部は張り出して生け込みとなっているなど、特色のある構造を有している。 与賀神社の烏居は、造立の古いものの一つとして、また、最も典型的なものの一例として価値が高いものである。 石橋1基は、長さ10.5メートル、幅3.15メートル、川床までの高さは中央部で1.78メートルで、両側に高さ56センチメートルの欄干があり、10個の擬宝珠がついている。ゆるい曲線をもつ反り橋で橋脚は3本併立の6列である。擬宝珠の銅板に 肥前州与賀荘 正一位与止日女大明神 …… 慶長十一年丙午南呂彼岸日 鍋島加賀守豊臣朝臣直茂造立之 の線刻銘があり、江戸時代初期の石橋として県内で唯一のものである。
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佐賀城鯱の門及び続櫓 一棟
重要文化財
佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を鍋島直茂(なおしげ)・勝茂(かつしげ)父子によって、慶長13年(1607)から慶長16年までの佐賀城総普請によって整備拡張されたものである。 この鯱の門は、天保6年(1835)から始まる本丸再建に際し、本丸の門として天保9年(1838)に完成したものである。 本来、城門は戦時の防備に重きを置き計画されているが、建築年代が江戸時代後期でもあり、建物があるべき防備の役割は形骸化が進み、装飾的要素が前面に出てくる。 鯱の門周辺の防備は、門の南北に高石垣が連なり、本来、門と天守台までの高石垣の中ほどから、現在は削平されてしまっているが、北方に向かって土塁が設けられていた。 「櫓(やぐら)」の本来の意味は、「矢倉(やぐら)」=武器庫であり、この櫓の発展形態が天守である。櫓門とは、通用する門構えに2階を上げた形式をいう。 鯱の門に附属している続櫓は、石垣天端いっぱいには建てられておらず、「犬走り」がめぐる。1階部分の左右には、床張りの門衛所があり、また、門内北側には番所が接続されるなど、近世城郭の初期には見られない機能的な形態となっている。 建物は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓が配されている。櫓門の正面の桁行は5間(約11.9メートル)、礎石上から棟瓦上まで約12.5メートルを測る。 この門は明治7年(1874)の佐賀の役でも弾雨にさらされ、現在でも弾痕が観察できる。その後、佐賀商業学校の門として同校のシンボルとなっていた。明治以降幾度かの小修理がなされたが、建築から120余年の昭和36年(1961)に、大修理が行われた。 この昭和の大修理の際、部材に大工の氏名や年代の墨書が発見され、この門が移設や転用材を用いたものではなく、本丸再建に伴う新建築物であることがわかった。 鯱は、北方のものが、高さ1.70メートル、重量190キログラム、南方のものが高さ1.75メートル、重量210キログラム、製作者「冶工谷口清左衛門」(刻銘)とあった。谷口家は、佐賀藩の御用鋳物師であり、幕末にはわが国で最初の「反射炉」建設及び運営に活躍した。 鯱の門は、この城門に続く石垣とともに往時の佐賀城をしのぶにたる佐賀城の建物遺構として貴重である。
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与賀神社楼門 一棟
重要文化財
与賀神社楼門は、構造形式から見ると、室町時代前後のものと推定される。『藤龍家譜』によれば、「文明14年(1428)大宰少弐政資が、父教頼(のりより)の旧館を改修して与賀城を築き、与賀神社を城の鬼門の鎮守となし」との記載があり、それと推考される。 その後、文禄5年(1596)大修理を行い、寛文3年(1663)宝暦年間や、幕末及び明治・大正にも小修理が行われた。 最初は柿葺(こけらぶき)であったが、後に銅葺に改められた。終戦後腐朽し建物全体が弛緩したので、昭和25年(1950)11月、文化財保護委貝会の指導を受けて、全部解体し、後世改修していた部分は旧状に復し、根本修理が実施され、同27年(1952)5月に完成した。 この楼門は正面3間、側面2間、白然石の礎石に円柱を建て、中央通りの床を石敷とし、なかに両開框組板戸を設けている。正面の両端間には組格子窓、両側面各間と後面両端間は、板嵌である。 初層の斗栱(ときょう)は四方廻縁(まわりえん)の腰組となって、縁廻をうけている。縁四方には和様の勾欄(こうらん)をめぐらしている。斗栱は廻縁下は和様の連三斗、上層は和様の出組で絵様拳鼻がついている。軒廻は地種、飛檐棰(ひえんたるき)とも疎棰(そたるき)に配置して二軒となって、頭貫鼻、墓股等随所に絵模様彫刻が使われている。 この楼門は軸部、軒廻、斗栱等の大部分の化粧材を丹塗(にぬり)とし、格子組は黒塗、木口は黄土塗である。全体の様式は和様の手法によっているが、細部には唐様の手法も使われている。佐賀県下では現存する最古級の木造建築物であって、極めて貴重な遺構といえる。
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与賀神社の楠 一株
天然記念物
与賀神社は欽明(きんめい)天皇の時代(6世紀)に創建されたと伝えられる。その後、文明14年(1482)に少弐政資(しょうにまさすけ)が与賀城(現在の佐賀市赤松町・与賀町)を築いたとき、その城館の鎮守の社(やしろ)としたものである。 この神社の境内には、クスの巨木が3株ある。その中で拝殿の南側にある1株が、昭和40年(1965)に県天然記念物として指定されたものである。 樹齢600年と推定され、根回り25.5メートル、目通り、幹回り9.77メートル、樹高20.5メートル、枝張り東西37メートル、南北25メートルである。 地上5メートルの高さのところから幹が大きく2つに分かれて、四方に枝葉が繁っている。幹や枝には、多くのノキシノブ・コケ類が付着して生育しており、老樹を感じさせる。木幹にはかなり大きい空洞があるものの樹勢は盛んである。 堂々とした老樹の風格の姿は、由緒の古い与賀神社を物語るかのようにそびえ、数多い佐賀市内のクスの中でも代表的な巨木である。 このクスの堂々たる風格に感じ入った俳人、青木月斗(げっと)の句碑が境内に建てられている。 われにせまる 三千年の楠若葉
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佐嘉城阯の楠(群)
天然記念物
佐賀地方には、古くからクスが生い茂っていたとみえて、8世紀前半に編集された『肥前国風土記』の佐嘉郡の条に「むかし、樟(くす)樹一株この村に生ゆ。幹枝秀でて高く、茎葉繁茂して朝日の影は杵島郡蒲川山をおおい、暮日の影は養父郡草横山をおおう…」と記されている。さらに、佐賀(佐嘉)という地名は、クスの巨木が生え栄えていることから「栄国(さかのくに)」と呼ばれるようになったことによると伝えている。 現在佐賀城跡一帯には、総数120株あまりのクスが生えている。特に、お濠のほとりには樹齢300年をこえると推定される巨木が並び生え、水面に濃い影を映し、県民に深い安らぎを与えている。 佐賀城阯のクスは、17世紀前半、かつて龍造寺(りゅうぞうじ)氏の居城(きょじょう)であった村中(むらなか)城を整備拡張して近世の佐賀城に構築したころに植えられたものと推定されている。大きいものでは、樹高26メートル、目通り幹回り6.5メートル、枝張り24.5メートルにおよぶものがあり、城下町佐賀を彩る由緒ある巨木群として価値が高い。
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佐賀城跡
史跡
佐賀城は、佐賀平野の低平地に築かれた、最も幅広の所で約72メートル(40間)の堀に囲まれた典型的な平城である。この城は、天正年間に整備された龍造寺氏の村中城を拡張し、慶長13年(1608)から慶長16年まで鍋島直茂・勝茂親子の佐賀城総普請により完成した。その際、本丸・二の丸の曲輪は新たに付け加えたといわれている。慶長年間に描いたとされる「佐賀小城内絵図」の本丸には、五層の天守閣と多くの殿舎が描かれており、本丸が佐賀藩の象徴であったことがうかがわれる。 佐賀城は、大きな火災に二度遭っている。享保11年(1726)の火災では天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸のほとんどが焼失し、享保13年に二の丸、宝暦5年(1755)に三の丸が再建された。その際本丸の再建は見送られ、二の丸が藩政の中心となった。天保6年(1835)再び火災に遭い、二の丸が焼失したため、10代藩主鍋島直正は110年ぶりの本丸再建を表明し、「佐賀城御本丸差図」が作成された。天保9年(1838)には直正が新築成った本丸に入り、佐賀藩の雄藩化や日本の近代化に大きく貢献していくことになった。 佐賀城の発掘調査は、これまでの調査で、石垣や堀などの曲輪を区画する遺構や通路跡を断片的に確認しているが、平成5年(1993)から平成13年の間に実施した本丸跡の調査では建物礎石のほか、多くの遺構が残存していることがわかった。 本丸は、北側・西側・東側の一部を石垣で、東南半と南側は土塁で囲んでいる。寛政6~10年(1794~98)には本丸南側に石搦が築かれたことが記録されており、調査により築城期より南側に7メートル拡張し、赤石(安山岩質凝灰角礫岩)を積み上げていることが明らかになっている。本丸の規模は、東西が二の丸との間の水路から三の丸との間の堀まで194メートル、南北は鯱の門東側石垣から南堀までが190メートルある。本丸内部では、東西が土塁の内側で(東・西とも土塁の幅を14メートルとした場合)158メートル、南北が広い東側で(南側土塁は幅を21メートルとした場合)162メートル、最も狭い天守台南側で(土塁幅を21メートルとした場合)105メートルある。天保期の「佐賀城御本丸差図」に描かれている御玄関・御式台・外御書院・御料理間・御座間・御台所等の建物跡は、差図とほぼ一致する状態で確認されているが、大御書院・大溜・御舞台については、差図と確認された遺構が一致しないことから、この部分にあたる遺構は嘉永期の差図に描かれている皆次郎様御住居・御会業之間等の建物跡であることが明らかになっている。御式台・外御書院・御料理間等の建物礎石の基礎は、礎石ごとに砂利や玉石を使い基礎を固めているが、御納戸や屯之間等の基礎は幅約1メートル、深さ約1.5メートルの溝を柱筋に掘り込み、最下部に松の丸太を組み合わせて置き、その上に粘土混じりの砂と割った瓦を交互に重ねて地固めし、最後に礎石を載せている。このことは、「御手許日記」の、工事費を節約するために松と「赤石」を使って基礎とするという記録と一致する。また天保期再建の建物礎石の約0.5メートル下からは、享保期の火災時の灰をかぶった状態で建物礎石が見つかっており、この礎石は慶長期のものである可能性が高い。 佐賀城跡は、堀の一部は埋められているものの、当時の趣をよく残している。また、西国の近世城郭では石垣普請による城郭構築が一般的であるが、石垣と土塁を併用した例はあまりなく、天守台は、本丸内部から登る通路がないことなど、他の城郭と比較しても特異である。特に本丸内部の建物遺構は、築城期から廃城期までの変遷を追うことができ、天保期再建時の建物群は、礎石の遺存状況の良好さに加え、その規模の大きさ、本丸内部に占める密集度など本丸御殿の様相をよく表している。本丸御殿は、御玄関・御式台・外御書院などの「表」の部分、藩主の居室である御座問などの「中奥」、長局などの「大奥」機能に加え、請役所や御懸硯方の「役所」機能も取り込んだ、藩政のまさに拠点としての役割を果たしている。近世の城郭で本丸内部を発掘調査した事例は少ない上、「表」・「中奥」・「大奥」機能に「役所」機能を付随した発掘調査例は希少で、城郭史・建築史の観点からも非常に貴重な資料である。
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深江家文書 一〇五点(一〇四通と一冊)
重要文化財
深江家文書は、市内に所蔵されている龍造寺家文書、深堀家文書とともに代表的な武家文書として高く評価される。深江家はもと安富氏といい、文永2年(1265)に安富泰嗣(やすつぐ)が肥前国高来東郷深江村の地頭職を得て、その子頼泰(よりやす)が鎮西引付として関東から九州入りし、島原半島の深江村を本拠として土着したことに始まる。 近世初期のころ、西九州の豪将であった龍造寺隆信の勢力が、この地方に及んだときに、安富氏はその勢力下に入り、その後隆信の島原の戦における敗死と同時に一族をひきいて鍋島氏に属した。 この安富一族に相関連した文書は、総数104通、巻子本3巻に仕立てられているが、比較的に保存がよく貴重な歴史資料である。 その内容として、上巻は、33通からなり、文永10年(1273)6月の「六波羅御教書」正応2年(1289)3月12日の「蒙古合戦、勲功賞、肥前神埼荘配分状」、正安2年(1300)12月7日「仁和寺領、肥前高来東郷荘、深江村年貢状請取状」、正和4年(1315)の「関東御教書、鎮西御教書」などがある。 中巻は、32通からなり、建武3年(1336)7月8日の「足利尊氏感状」、貞和6年(1350)7月10日の「足利直冬御教書、同下文」などがあり、下巻は38通からなっており、正平17年(1362)5月、他の日附2通の「征西将軍宮懐良(かねなが)親王令旨(りょうじ)」などがある。いずれも南北朝時代の肥前領の動きや、当時の政情を学ぶ上で重要な資料である。
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薙刀 一口 銘貞治元年十二月日 備前長船政光
重要文化財
政光は備前刀工長船派で、相伝備前系の兼光(かねみつ)一門の一人である。政光の現存する作品は延文(1356~1361)から応永(1394~1428)に及んでおり、その活躍した時代は明らかである。 この薙刀は貞治元年(1362)の銘がある。彼の作刀で重文に指定されているものに「康安元年十一月日」(1361)の記年銘の太刀がある。 法量 長さ61.2センチメートル。 反り 2.7センチメートル。 形状 薙刀造(なぎなたづくり)、真棟(しんのむね)、薙刀樋に添樋((そえひ)が中心(なかご)途中で角止め(下端を一文字に止める)になっている。 鍛(きたえ):板目肌で、ところどころに流れ肌がまじり、かすかに映りがある。 刃文(はもん):匂本位の小乱れで、小足よく入り匂しまる。物打ちより上は、のたれ調になる。 帽子:わずかに乱れ、返り(棟の方に返る焼刃)が乱れこんで深く焼きさげている。 中心(なかご):摺上(すりあげ)、先切り、鑢(やすり)目勝手下り、目釘穴2個。
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紙本著色龍造寺隆信像 一幅
重要文化財
龍造寺隆信(1529~1584)は、現在の佐賀城付近を根拠地とした龍造寺一族のうち、分家水ケ江龍造寺氏の周家の子として生まれた。8歳で天台宗宝琳寺で出家したが、天文15年(1546)に水ケ江龍造寺氏の当主家兼(剛忠)が没したので還俗して家督を相続、天文17年(1548)には宗家の家督も相続した。 天正6年(1578)には有馬氏を降伏させ肥前を平定した後、近隣諸国へ戦いを拡大し、勢力範囲は筑前、筑後、肥後、豊前にまで及んだ。 隆信の肖像画は、現在9点が知られており、本図と同形式のものに、鍋島報效会本、松林家本、佐賀県立博物館本が知られるが、本図は肖像画としても優れ、同形式の中で先行する作品と推測できる。また、本図と異なる姿で描かれた隆信の肖像画も、本図の形式を基本として改良を加えたものである。 したがって、本図は隆信の肖像画の中で「肥満の大将」(『九州治乱記』)と伝えられる豪放な戦国大名の姿を誇張、理想化も少なく描出している点、最も優れた作品といえる。同時に、従来から知られる桃山時代の武将像と比較しても、その破格な服装をはじめ、隆信の豊満な肉体的特徴など、個性豊かな肖像画であり、その価値が高い。
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矢調べ 岡田三郎助筆 一面
重要文化財
「矢調べ」は、明治、大正、昭和にわたり、東京美術学校西洋画の指導者として、また、文部省展覧会にはじまる官設展などの審査員として、日本近代洋画史におけるアカデミズムを代表した岡田三郎助(1869~1939)が、明治26年(1893)に制作した記念碑的な作品である。 岡田が本格的に洋画を学ぶのは、鹿児島出身の曽山幸彦(1859~1892)の画塾に入門してからで、この画塾において、岡田は曽山からは主に人体写生を学び、曽山没後は画塾を引き継いだ堀江正章(1858~1932)から、色彩についての教えを受けた。 この作品は、明治26年(1893)大幸館画塾の卒業制作であり、翌27年の第6回明治美術展の出品作である。作品の、主題としては曽山の作品にも見られた弓術に係わる「歴史的記録画」としての性格を持ち、色彩においては、脂色を帯びた全体の色調の中に、「コバルト先生」と異名をとった堀江の影響が膝上、腰の暗部などに見られる。 作品のモデルとなったのは、一説に、岡田の母方の縁者にあたる吉田丈治(長野県出身)で、のちに乃木希典大将のもと、陸軍主計少将となる人物とされる。また、同郷の画家小代為重(1861~1951)によれば、モデルは「偶々曽山のところへ来た清楚な感じの針屋の爺さん」という。 作品は、岡田のフランスでの絵画修行以前の代表作であるのみならず、明治洋画においても、とりわけ明治20年代の絵画傾向である明治美術会の設立から黒田清輝、久米桂一郎らによる新しい美術団体への若手画家たちの結集という時代にあって、ひときわ時代性をはらんだ作品である。
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山水図襖 谷文晁筆 十二面
重要文化財
この図は、江戸時代後期の代表的な画家で、関東画壇に君臨した谷文晃(ぶんちょう)(1763~1840)が描いた、超大作の山水図である。 構成は、右端の背の高い松のある岸辺からはじまり、奥に陸地のみえる広々とした湖水、湖水に浮かぶ島、左端に握り拳のような山を中心とした陸地へ続いて終わり、空間を広くとり、景観はゆったりと配置されている。要所に家や人物を配し、徐々にモチーフを充実させ、拳のような山で最高潮となる構成がとられており、画面に右から左へ向かう展開の方向性が認められる。 描線は比較的少なく、墨を面的に使用し、ぼかしやにじみが効果的に用いられており、構成も比較的単純である。湖水の奥に延々と描かれる陸地によって、空との境界を明確にしており、奥行きのある景観の中でモチーフの前後大小関係を的確に配置していること、彩色と墨色が近景ほど濃く、遠景ほど淡い空気遠近法を使用して、遠近を明らかにしていることなど、全体として写実的な印象を与え、文晃の西洋画学習の成果が想起される。 左端、第12面左下に落款があり、文政3年(1820)6月に制作されたことがわかる。 当時、文晃は58歳で江戸にいたことが確認でき、この図は江戸で制作され、後に佐賀にもたらされた作品であるといえる。 伝来の経緯は不明だが、文晃とは近い関係にあった古賀穀堂(こくどう)や草場佩川(はいせん)などの佐賀の人物を介してもたらされた可能性が考えられる。 この図は、文晃の確認できる最大級の作品であり、保存状態も良好で優品に数えられる。
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万部塔と六地蔵
史跡
万部島は、かつて、佐賀城の東堀と多布施川に囲まれた文字通りの島であった。城内から舟で、あるいは裏御門を通り向陽軒(東屋敷)から陸伝いに参詣するようになっていた。 万部島には数種類の石造物が建立されている。 万部塔は、佐賀藩の代々の藩主又は、嫡男が自ら願主となって「国家安泰・万民安楽」を祈願しての法華経一万部読誦の結願石塔11基が整然と並び建っている。その形式はすべて同じで、台石、蓮華台、棹石(上部三角)の四部分から構成され、高さはもちろん、問隔礎石の大きさに至るまで、まったく同じ形状寸法である。 現在は塔群のみであるが、かつては万部堂仁王門など付設してあったと伝えられている。 万部執行は、近世に入って各藩で行われていたが、佐賀では鍋島以前、龍造寺山城守家兼(剛忠)が、永正2年(1505)3月、天亨和尚(剛忠の弟で水上山万寿寺の僧)を導師として野田石見が奉行となって執行したのが最初である。 鍋島氏になってから初代藩主勝茂が、かつて脊振千坊の流れをくむ金乗院(天台宗、吉野ヶ里町目達原)の玄純僧正に「国家安全と万民安楽の道」をたずねた折、僧正は「法華経一万部の読誦による功徳は限りないものがある」と即答したことによってはじめられたと伝えられている。名代の藩主又は嫡男が1基あて建立しているが、藩主自ら願主となっての祈梼法要は領民との融和を図るのに大きな役割を果たしたと思われる。 また、龍造寺家兼(剛忠)ゆかりと伝えられる六地蔵2基が現存している。 南側の六地蔵は、高さ1メートル60センチ内外で竿石の中央に「天文弐暦十一月廿八日」とあり、「願主権大僧都弁仁 大工亦七郎」と刻まれている。通例の形式の石製六地蔵である。笠石は二重の四角形で両角の部分が角瓦をおもわせるような耳付をみせている。 北側の六地蔵は南側よりも全体が高く、台石から笠石まで2メートル50センチ内外で、礎石を兼ねた下部の支柱と台座を支えている上部の竿石からなっており、その上に台座と蓮華台がある。塔身は、尊像が上下二段に刻まれており、下段は立像の六躰地蔵で、地蔵列の肩上にさらに並列する六軀の彫像があって六角形の笠石がその上にかぶさっている六尊六地蔵塔である。 竿石の中央には、「天文二二年乙未霜月七日 大周壽成建○」と刻まれているが、全体の摩滅が激しく判読しにくい。 (写真:鍋島報效会提供)
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龍造寺隆信誕生地
史跡
肥前を代表する戦国大名、龍造寺氏は現佐賀市城内一帯の小津東郷龍造寺村の地頭から、戦国の争乱の中で次第に東肥前地方に勢力を伸ばしてきた。明応の頃(1492〜1501)に、本家の村中龍造寺家と、分家の水ヶ江龍造寺家とに分かれて、群雄に対する防備を固めた。 龍造寺隆信は、享禄2年(1529)2月15日水ヶ江城東館天神屋敷で生まれた。天文5年(1536)7歳のとき宝琳院(ほうりんいん)に入って出家し、円月と号し、また中納言と称した。 天文15年(1546)3月、曾祖父龍造寺家兼(剛忠)が93歳で死去した。家兼の遺志により、中納言は還俗して胤信(たねのぶ)と称し、水ヶ江龍造寺家を継ぎ、翌々年の天文17年に村中龍造寺家も継いで、龍造寺宗家の当主となり、山城守隆信と称した。 肥前・壱岐・対馬・筑後を平定し、肥後北部の諸将を従属させ、西筑前の九郡と豊前の北半を領有し、天正8年(1580)ごろ、五州二島の太守と称され、竜造寺氏の全盛時代を築いた。 誕生碑のかたわらに胎盤を納めた胞衣塚(えなづか)がある。形状は高さ1.10メートルで、1.90メートル四角である。
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赤松小学校の校務日誌 一括
重要文化財
赤松尋常小学校は、明治41年(1908)に創立され昭和16年(1941)の赤松国民学校を経て、昭和22年(1947)に佐賀市立赤松小学校となって現在に至る。創立時には佐賀高等小学校及び市議会の一室をもって仮校舎としていたが、明治22年(1889)に佐賀城本丸跡の東半部に市立佐賀商業学校の新築完成後、西半部に新校舎を建て、平成5年(1993)までこの地に存続した。 この赤松小学校には、創立からの校務日誌が保存されている。日誌は墨書、ペン書き、ボールペン書き(鉛筆書き)と時代を追うごとに変化しているが、そこには校内の行事を中心に、当時の学校生活の内容が記されている。また、行事関係だけではなく、その時代の状況も推しはかられる記事があり、佐賀市の近現代の歴史を垣間見ることができる。 例を挙げれば、大隈重信や伊藤博文の死去に際しての学校としての対応、昭和大恐慌時の古賀銀行休業に関する人身動揺に対しての学校としての対処、戦時下の空襲の状況などがあり、校務日誌のなかにも所々に社会情勢が反映されている。 この日誌は、学校教育の歴史を物語るものとしてだけではなく、佐賀市の近現代の歩みを知ることのできる資料として貴重である。
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絹本着彩与賀神社縁起図 一幅
重要文化財
与賀神社縁起図は、延宝6年(1678)に佐賀藩2代藩主光茂夫人から奉納寄進されたものである。絹本着彩天地2.17メートル、幅1.65メートルで、筆者は永松玄偲である。 社伝にもとづき、神を感知してから社を創建し、御神幸が行われるまでの過程を、物語風に展開した画面構成となっている。画題は建物・人物・山川・樹木の4種からなり、人物をはじめとして、描写は細密で、画面の構成も整っており、大和絵風に描写されている。 筆者の永松玄偲は、佐賀の画家永松秀精の父で、子秀精は源左衛門と称し、元鍋島弥平左衛門の家臣であったが、寛保2年(1742)に絵師として本藩に召しかかえられたと伝えられる。
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延命地蔵
天文20年(1551)、龍造寺隆信は土橋栄益等より佐嘉の城を追われ肥前国から追放された時に柳川城主蒲池鑑盛より筑後国一木村に保護された経緯がある。後に、隆信は鑑盛の嫡男鎮並に娘を嫁がせ、鎮並は大友を離れて隆信と誼を結ぶ等、良好な関係にあった。 天正6年(1578)の日向耳川の戦いで大友が島津に敗北すると、義父龍造寺隆信の筑後国進攻に蒲池鎮並は全面的に協力した。鎮並との不仲であった蒲地鎮広と隆信との間に和議が成立すると、柳川の領有化を志向する隆信と対立するようになり、ついに野心を挟む姿勢をとった。天正8年(1580)、龍造寺隆信は龍造寺政家に総勢1万3千の軍を率いさせ出陣、蒲池鎮並討伐のため柳川に向かわせた。抗戦する鎮並の陣も籠城300余日に及ぶも和を乞うてきた。鎮並は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦を結んだ。 天正9年(1581)、蒲池鎮並は密かに島津に通じた。鎮並は同国の西牟田鎮豊へ使者を送り、島津の老臣伊集院忠棟よりの状を見せ、島津へ一味あるべき勧めた。しかし西牟田はこれに同意せず、家人向井左京亮を伊集院よりの書札を携えて龍造寺に向かわせた。須古城に居た龍造寺隆信は鎮並が島津の影響下に入ることを恐れ、鎮並を討つべしと謀殺を画策した。 5月20日頃、龍造寺は田原伊勢守・秀島源兵衛を使者として柳川へ送り、「昨年冬の和平以後、いまだ禮を受けず。近日佐嘉へ来られたい。然るに須古の新館にて猿楽を興行すべし、其許よりも猿楽の役者共を召し連れて来られたし」と述べた。この次第に対し、鎮並は病気と称して返答しなかった。田原は心賢きものであり、鎮並の母と伯父の蒲池鎮久へと働きかけ、隆信父子は何も別心はないと起請文を以って申し出た。母と鎮久はこれを信用し、鎮並もようやく田原・秀島と対面、承引した。 隔して5月25日、鎮並は伯父左馬大夫を始めとして、親類家人等200余騎、楽役を含め300余で柳川の城を出立した。これを聞いた家臣大木統光は肥前に赴くこと留まるよう諫言するも、蒲池鎮並は「早斯様に出立ちした上、今引き返すことは見苦しき。その上、天運全からば、縦令剣戟刀杖の中たりとも恐るるに足らむや」と馬を早めて寺井江を渡り、夕方には村中城へ着いた。そして龍造寺久家(政家)と対面、昨年冬の和平の禮を述べ、その夜は饗膳となり、鍋島信生(直茂)も同席した。終夜の酒宴が終わると鎮並等は、城北にある本行寺に宿を取り、翌26日は逗留した。須古城の龍造寺隆信は、土肥出雲神信安をして鎮並に酒肴を贈った。鎮並は悦び隆信に禮謝、その酒肴で出雲守を饗した。また、鎮並は出雲守を前に猿楽を踊って見せ、出雲守は明日の運命を思い落涙したという。 そして27日未明、本行寺を出立、須古城を目指し与賀の馬場を通ったとき、龍造寺の伏兵である小河信貫・徳島長房・水町彌太右衛門・秀島源兵衛・石井の一族らが、四方より一斉に鬨を上げて襲い掛かった。蒲池鎮並は歯噛みして伯父左馬大夫へ「口惜しき次第かな、我が柳川にて懸念致した通りであった。これも天運やも知れぬが、偏に御辺の勧めに依りて計略にはまったのであるぞ」と憤激した。左馬大夫はこれに何も答えず、謀られた怒りに血が上り、「我らに二心在らざる事、只今見給うべし」と言い捨て、与賀大明神の鳥居の前まで馬を駆け、「汚き龍造寺が仕業かな。おのれ、七生が間は恨み続けてくれる」と叫んだ。そして矢を二筋三筋放つと家の上に駆け登って散々に矢を射掛け、屋根の上から飛び降り烈火の如く戦い、堤左馬允と渡り合うも遂に討ち取られた。龍造寺勢は多大な被害を出しながらも173人を討ち取った。鎮並は一族家臣が討ち死にする隙に、小家に立ち入って沐浴した後、腹掻き切って息絶えた。この戦いの様子は今でも「川は血で真っ赤に染まり、骸は堀を埋めた」と語り継がれている。(参考:北肥戦誌) 写真は「延命地蔵」(辻の堂信号より北に入り右手) この地域に不思議なことが度重なるので、両軍亡骸を慰めるために建立されたもの。
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有田家文書 九〇通
重要文化財
有田家の出自と歴代については明らかでないが、有田家に伝来している有田系図によれば、松浦氏の祖とされている久に出て、12代ののち政に至り、さらに次のような世代を経て茂成・紀に至っている。 政―親―盛―茂成―紀 茂成は龍造寺隆信の弟龍造寺信周の子で、家名を有田と改めた。鍋島氏に仕え、寛永2年(1625)7月7日死去した。紀は寛永5年(1628)の着到によれば知行1700石を領している。 文書は鍋島直茂以下、勝茂・忠直・光茂・綱茂等を始め、勝茂夫人高源院などの書状(手紙)や覚書類のそろっていることが有田家文書の特色である。 殊に勝茂の書状、覚書は慶長初年(1596)から明暦年間(1655~1657)にわたって総数38通に達し、佐賀藩の歴史を明らかにする上に価値の高い資料である。
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旧佐賀城本丸御座間・堪忍所
重要文化財
佐賀市水ヶ江三丁目の大木公園内にあった南水会館建物は、佐賀城本丸跡の佐賀市立赤松小学校「作法室」を、小学校の改築に伴って昭和32年(1957)に移築したものである。 赤松小学校は、明治42年(1909)佐賀城本丸跡に開校し、当初は鍋島家から佐賀市へ寄贈された既存建物を校舎として利用していた。これらの詳細は判然としないが、南水会館として移築された建物は、他のものが解体されていく中、最後まで残存していた建築物であり、当時の小学校校舎平面図と天保期の本丸建物を描いたと考えられる佐賀城御本丸差図を比較すると、藩主の日常の居問である「御座間(ござのま)」がこれに当たると考えられる。 この建物は、小学校時代は「御居間(おいのま)」と呼ばれて「永久保存建物」として使われてきた。詳細は不明ながら、大正10年(1921)と翌11年に修理を実施し、昭和14年(1939)には「郷土館」として利用されることになった。しかし、昭和32年(1957)に大木公園に移築されるまで、大規模な改変を受けることなく残存してきたようである。これは、当時の赤松小学校教員によって、移築時に作成された「御居間模型」(縮尺20分の1、赤松小学校保有)や、残存写真から確認されている。 大木公園への移築は、昭和32年に着手し、翌33年3月29日に完成している。移転を手がけた大工棟梁からの聞き取りによると、敷地の関係で1間ほどの桁行きを縮め、玄関を設けた外は、基本的に部材の移動をせず、小学校時の姿に復元したとのこと。ただし、内部は公民館としての利用を考慮し、床棚周りを廃し、舞台を設け、部屋間仕切りを撤去又は新設している。その後、南東角の控室北面両端下屋部分を増築し、現在の姿となっている。 この南水会館建物については、上記状況から、これまでも天保9年(1838)再建の佐賀城本丸御殿「御座間」であると推定されてきたが、佐賀城本丸歴史館建設に係る詳細調査により、その確証が得られ、より詳細な状況が明らかとなった。 まず、小屋裏及び床下の複数の箇所に「御座問」の墨書が発見された。また、玄関の小屋部材から「堪忍所(かんにんどころ)」の墨書も発見し、御座問とその東側の堪忍所が移築残存していることが判明した。番付には方位を含むものあり、これにより本丸にあった状況と現状は方位が180度入れ替わっていることも判明した。さらに、小屋裏には、「御座間」「堪忍所」と同一の筆と見られる墨書番付ともう一組の番付があり、前者が創建時番付、後者が解体時番付であることが確認できた。小屋裏の状況は、先の大工棟梁の言葉どおり玄関部分、つまり旧堪忍所部分が部材切断、部材移動が著しく、他の部分は桁行きの番号を除き、ほぼ旧状どおり丁寧に再用しているのが確認された。その他、残存する痕跡を根拠として、御座間、堪忍所の平面が復元され、柱をはじめ部材位置の大きな変更がないことが確認された。一方、赤松小学校の「御座間模型」により、失った床棚周りなど、室内形状が推定された。 以上を総合すると、南水会館建物は天保期本丸御殿御座間・堪忍所の遺構として貴重な存在であることが改めて確認された。近世城郭の御殿遺構は、二条城二ノ丸御殿書院群{国宝 慶長8年(1603)}、掛川城二ノ丸御殿{重要文化財 安政二年(1855)}、川越城本丸御殿{埼玉県重要文化財 嘉永元年(1848)}、福井城本丸御殿大奥小座敷・御座間(福井県重要文化財 天保2年(1831)}など、全国的に見ても現存例は少なく、その点からもこの建築物の建築史的価値は大きい。 御座間・堪忍所と同時期に建築された佐賀城現存建築物は、重要文化財「佐賀城鯱の門及び続櫓」しか確認できるものはなく、御殿建築物としては唯一のものである。また、藩主の日常生活の場という重要な機能を果たしたものであるにもかかわらず、比較的質素なたたずまいを有し、幕末・維新期の気風や社会的状況も伝えているところなど、佐賀市に残された幕末・維新期を代表する建築物として高く評価できる。 なお、南水会館建物は、平成13年9月に解体され、佐賀城本丸跡で本来の位置に御座間・堪忍所として移築・復原工事が行われ、佐賀城本丸歴史館として公開されている。
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武家屋敷の門 一棟
重要文化財
元来、門は出入りする者の身分によって格式があり、上位から四脚門、棟(むな)門、唐門、上土(あげつち)門、薬医(やくい)門、平門、冠木(かぶき)門等の順に定められていた。 この門は、元鍋島家の家臣水町氏の屋敷門として、多良の名工、託田の番匠の手によって建築されたと伝えられている3間1尺の薬医門である。 もともと、薬医門は医師の門として使われたもので、病人の出入りを妨げないように門扉はなかったらしく、後に公家、武家の屋敷等に使われるようになってからつけるようになった。 四角な本柱4本を前方に、控柱2本を後方に立て、その上に切妻屋根を置く。側面から見ると、棟は本柱の真上より後方にずれているのが薬医門の特色である。屋根は本瓦葺で破風には、かぶら、懸魚(げぎょ)その両側に鰭(ひれ)が装飾されている。 軒裏は、棰(たるき)、野地板とも化粧に仕上げられ、裏側の一部には鏡板の軒天井が張られていて、肘木の先端には繰形彫刻が施されている。扉は両開板戸が吊ってあるが、これは後になって取り換えられたもので、当初は引き分けの板戸が建て込まれていた。なお、平成20年度の解体修理で、扉は引き戸に戻した。 用材はすべて欅(けやき)が使われている。建設年代は不明であるが、構造形式から江戸後期と推定される。永い期間風雨にさらされ、本柱や控柱の脚廻りの損傷が処々にみられる。しかし、屋根瓦は幾度か葺き替えられたらしく、棰や野地板の損傷はほとんどなく、普段の管理が行き届いているので脚部を除いた小屋組、軸組材はほぼ原形のまま保存されている。 昭和45年の道路拡幅の折、3メートルほど東へ移設されている。 桃山、江戸と時代が変わるにつれて建築方法も華美に流れていく中で、特に質素を旨とした当時の佐賀藩の気風を表現したこの門は、簡素で均整のとれた風格を備えた武家門として価値が高いものである。