深江家文書 一〇五点(一〇四通と一冊)

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深江家文書 一〇五点(一〇四通と一冊)

  • 深江家文書 一〇五点(一〇四通と一冊)

■所在地佐賀市城内一丁目 佐賀県立博物館(個人)
■文化財指定状況佐賀県 重要文化財
■文化財指定日昭和62年3月16日
■登録ID5290

深江家文書は、市内に所蔵されている龍造寺家文書、深堀家文書とともに代表的な武家文書として高く評価される。深江家はもと安富氏といい、文永2年(1265)に安富泰嗣(やすつぐ)が肥前国高来東郷深江村の地頭職を得て、その子頼泰(よりやす)が鎮西引付として関東から九州入りし、島原半島の深江村を本拠として土着したことに始まる。
近世初期のころ、西九州の豪将であった龍造寺隆信の勢力が、この地方に及んだときに、安富氏はその勢力下に入り、その後隆信の島原の戦における敗死と同時に一族をひきいて鍋島氏に属した。
この安富一族に相関連した文書は、総数104通、巻子本3巻に仕立てられているが、比較的に保存がよく貴重な歴史資料である。
その内容として、上巻は、33通からなり、文永10年(1273)6月の「六波羅御教書」正応2年(1289)3月12日の「蒙古合戦、勲功賞、肥前神埼荘配分状」、正安2年(1300)12月7日「仁和寺領、肥前高来東郷荘、深江村年貢状請取状」、正和4年(1315)の「関東御教書、鎮西御教書」などがある。
中巻は、32通からなり、建武3年(1336)7月8日の「足利尊氏感状」、貞和6年(1350)7月10日の「足利直冬御教書、同下文」などがあり、下巻は38通からなっており、正平17年(1362)5月、他の日附2通の「征西将軍宮懐良(かねなが)親王令旨(りょうじ)」などがある。いずれも南北朝時代の肥前領の動きや、当時の政情を学ぶ上で重要な資料である。