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[旧佐賀市][赤松校区]は120件登録されています。
旧佐賀市 赤松校区
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乾亨院
【宗派】南禅寺 臨済宗 【山号】四徳山 佐賀城本丸歴史館と城堀を隔てた南東の地点にあり、龍造寺隆信の生誕地と隣合っている。 永正年間(1504〜1521)隆信の曽祖父、山城守家兼(剛忠)の創建で、その弟天亨和尚が開山。この乾亨院には、明治7年の佐賀戦争に戦死した陸軍将兵が埋葬され豪壮な大理石が3基ならんで建てられている。右が中隊長大池蠖二大尉以下2名の将校の墓。中は下士官20名の階級と氏名が刻まれ、左が兵卒75名と軍属9名の身分、氏名が刻まれている。3基とも背面には「明治7年佐賀役戦死者の墓」と刻んであり、裏面には白川県、第二大区九区宮内村と刻んである。白川県は明治16年熊本県となる。墓碑にある隊号は、熊本鎮台第十一番大隊のことで、佐賀不穏の情報によって鎮圧のために派遣されたものである。新任の岩村通俊佐賀権令とともに佐賀城に入り、佐賀軍と銃火を交えて敗北した。この寺の境内には官軍と戦った征韓党の実際の指導者だった朝倉弾藏の墓もある。
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寶琳院
【山号】恵日山 【宗派】天台宗 【本尊】聖観音菩薩 和銅4年(711)行基建立と伝えられ佐賀城下鬼丸町の南部にある。龍造寺氏の本拠に近く深いつながりをもっていた。長く衰微していた龍造寺氏を龍造寺康家が復興した。龍造寺の家系図によると、明応年間(1492〜1501)に水ヶ江城の館に移った水ヶ江龍造寺氏の祖康家の4子澄覚(家兼の兄)が開山し、住職となった。その後歴代の住職は龍造寺家から出た。2代目は家兼の孫にあたる豪覚であり、また豪覚の兄周家の子である胤信(隆信)は7歳で出家して寶琳院へ入り円月(圓月)と称した。のち還俗して五州二島の領主とよばれるほど勢力を培った。隆信の弟信周や、隆信曾孫にあたる伯庵(高房の子)の墓がある。
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五重塔
天台宗恵日山寶琳院にある。この五重塔は軸部と屋根とは別石造りとなっている。造立明らかでなく、軸部の一部を欠失しているのが残念である。
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龍泰寺
【山号】平安山 【宗派】曹洞宗 【本尊】釈迦如来 寺号は「龍造寺安泰」の意による。龍造寺隆信が少弐氏の館跡を選んで、永禄6年(1563)わが家の菩提寺とするために建立した。隆信はもと天台宗の僧籍から還俗して宗家をついだ人。かつて円蔵院の怪火を鎮めた大用和尚の法力を感じて、曹洞禅を信ずるようになったと伝わっている。天正12年(1584)隆信が島原(沖田畷)で戦死したので、この寺に墓所を築き、夫人や子の政家夫妻も葬った。その後龍造寺の血脈伝える村田家の歴代もここに葬られ、龍造寺ゆかりの寺である。その後隆信は宗龍寺に、政家夫妻の墓も高傳寺に移された。明治4年鍋島家において、多くの寺院に散在する龍造寺、鍋島両家の墓を高傳寺1か所に集めることになった時、隆信夫人も移葬され、龍造寺の系統としては村田家だけが残っている。またこの寺は佐賀藩士鍋島家の菩提寺であって、同家代々は勿論、明治、大正を通して偉大な政治家であった大隈重信の墓も境内にある。また重信の母堂三井子自ら寄進された自作の「蓮の曼陀羅」も寺宝となっている。 このように由緒ある寺だが、何度かの火災のため寺宝が亡失したことは惜しいことである。本堂は佐賀戦争で焼失を免れた佐賀城本丸の「玄関・式台等」解体されたものを大正初年頃この寺の本堂に改築されている。創建当時の壮大さと比べることはできないが、建物・境内とも巨刹(大寺)の偉容を保っている。
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与賀神社
主祭神 与止日女神(よどひめのかみ) 〔=豊玉姫命(とよたまひめのみこと)〕 海の神、神武天皇の祖母 配祀神 八幡神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) 山の神、豊玉姫命の夫 住吉神 綿津見命(わたつみのみこと) 海の神 乙宮神 宗像三女神(むなかたさんじょしん) 海の神 印鑰神 天児屋根命(あめのこやね) 祝詞の神様 応神天皇(おうじんてんのう) 八幡大神、武門の神様 菅原道真公(すがわらみちざねこう) 学問の神様 御神徳 豊玉姫命は神武天皇の祖母、海神の娘で龍宮城のお姫様です。海の神、山の神、水の神として広く信仰され、安産の神様です。また、武門の神様、学問・祝詞の神様が祀られており、鎮護国家・安産育児・交通安全・学問武道・殖産開運などにご神威あらたかです。 與賀神社の由緒 欽明天皇二十五年(564年)に勅願造立され、鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦二年(1212年)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245年)執権北条経時が勅により祭祀の礼式を定めたと伝えられています。 ついで、建長三年(1251年)には与賀郷の地頭であった大宰少弐資能安穏のため洪鐘一口が寄進され、永正十年(1513年)には神階一位に進められました。 室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、文明十四年(1482年)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった父教頼の旧館を開き与賀城を築き、当神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、楼門を造立し神事を修飾した。 その後、少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、与賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般士民の崇敬厚く、特に鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、数々の寄進をなされた。 鎌倉時代から江戸時代までは、現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた与賀荘一円、即ち佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮であった。旧社格は大正14年に列せられた県社である。 鍋島藩政時代には、神事として旧与賀郷の注連元(くめもと)行列をはじめ流鏑馬、連歌、管弦等特殊なものがあった。そのなごりとして、佐賀神楽(かぐら)、獅子舞を現在伝承している。 当社の参道は八丁馬場(与賀馬場)といわれ、千数百メートルの間に3基の石造りの肥前鳥居がある(国重文)。 三の鳥居は「佐賀荘正一位与止日女大明神」の銘をもち慶長8年(1603)鍋島直茂夫人藤女によって建納されたものである。八丁馬場は武家屋敷であったといわれている。社前の鳥居をくぐって、小川に架けられた石橋は慶長11年(1606)に建立されたものである(国重文)。それを渡って朱塗りの楼門(国重文)は県内で最も古く全体の様式は和様であるが部分的に唐様の手法も使用されている。 境内には大クス3本があるが拝殿の南側にあるクス(県天然記念物)が最大で樹齢1,400年と推定され、そばに青木月斗の「我に迫る三千年の楠若葉」の句碑がある。社務所に応永年間(1394〜1428)作といわれる備前刀匠の作といわれる太刀(国重文)がある。そのほか延享4〜寛延元年(1747〜1748)に至る『社頭日記』。嘉永6〜慶応3年(1853〜1867)までの『宗門改帳』10冊など藩政史料として注目すべきものがある。延宝6年(1678)2代藩主光茂夫人が永松玄偲に書かせて奉納した絹本着色与賀神社縁起図も江戸初期の与賀神社の神幸をうかがわせる資料として貴重なものである。この絵巻には社僧や女官・宮人の妻などの命婦が描かれている。城下図にも与賀神社付近の延命院、浄土寺、宮司房の神宮寺があるが、宮司房だけが廃絶しほかは現存している。
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与賀神社の水辺の燈篭
水辺の燈篭は昔、前の宮川で幼児がたびたび川そう(かっぱ)に引き込まれ水死したので石灯篭一対を川の中に建立し、今後この燈篭が立っている間は絶対に子どもをさらわないと「川そう」に誓わしめ、以来その難をまぬがれ子どもの水死はなくなったと伝えられている。なお燈篭にはそれぞれ次の年代が刻まれている。 北の燈篭銘「元禄十六年(1703)云々」 南の燈篭銘「享保四年(1719)云々」
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龍造寺八幡宮下の宮
龍造寺八幡宮は、文治3年(1187)に龍造寺南次郎季家が建立した。当宮は昭和60年(1985)7月に社殿を創建し、本社に当る龍造寺八幡宮(白山鎮座)の御分霊を遷し、鎮座された。元来この地は、龍造寺八幡宮の氏子であり、遠く龍造寺の領する重要な一角に位置していた。 古くこの境内は本社の頓宮として秋祭には本社の神輿のお下りがあり、下の宮祭が斉行される。 夏祭りは、毎年7月の第4日曜日、秋祭りは11月3日、そして毎月の月並祭は18日と定めている。夏祭りは町内上げての祭りで老若男女が参加、一時は朝市、盆踊り、子ども御輿も繰り出し朝から夜9時過ぎまで賑わった。最近は、時代の移り変わりに高齢化や多忙のためか、大人の参加者が減り、子ども御輿は町内廻りを実施している。
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慶雲院
佐賀城跡南東の位置にある。吉祥山慶雲院と号し、臨済宗南禅寺派。現在は無住。水ヶ江城は明応年間(1492〜1501)に設けられた。龍造寺家兼の父康家が永正7年(1510)に没したので、ここに寺を建立し、後に家兼夫妻を葬ったといわれている。慶雲院の名称の由来は康家の戒名が慶雲殿○○○だったので、慶雲院と称したといわれているとの事。現在この寺の管理、お世話は瑞龍庵住職がされている。
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大聖観音菩薩と南無地蔵菩薩(光円寺内)
○ 大聖観音菩薩 (長寿・安産) ○ 南無地蔵菩薩 (昔から歯痛に霊験あらたかであると伝えられている) 天明年間(1781〜1789)の大飢饉の際、多数の餓死者を出し、その供養と子どもたちを飢えから守ろうと地区の人々(光円寺馬場)が、地蔵さんを祀り、毎年願望を込めて祭典を催してきた。 しかし、今はそれも途絶え、地蔵さんも台座を残し、御神体は光円寺内の北東の角、御堂の中に祀られている。
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中の館神社
祭神 正一位 福阿弥稲大明神 神社 正一位 徳阿弥稲大明神 多久氏の祖、龍造寺和泉守長信公、多久家鎮守として祀られたもの 天満宮 祭神の東側に龍造寺天満宮が祀られている(明治34年改築)。東館内に勧請せられたもので、東館を天満屋敷ともいう。 (龍造寺剛忠公の長男家純公、水ヶ江城鎮守として)今日、倒壊の危険もあったため、平成17年12月町区民の浄財により神社南側に新しく築かれる。 多久家、神社と社地西に祭祀田として1反6歩の水田を添えて無償にて市に譲渡され、毎年の祭典は市の主催により、町民も参加して催されてきたが神社法の改正により、市が祭祀を行うことを禁じたため、廃社となるべきところを与賀神社の摂社として登録され、厄を免れる。その後は、地区有志の手により、細々とした祭(2月・8月)が行われている。
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宗龍禅寺
正式名は、金剛山宗龍禅寺(龍造寺隆信公の法号「法雲院殿泰巌宗龍大居士」に因んで定めた)。 天正16年(1588)5月、龍造寺山城守隆信公の冥福を祈る菩提寺として、佐賀藩祖鍋島直茂公が佐賀城、城内の鬼門に建立し、城の守護神として崇拝した由緒ある名刹である。現在まで400年以上の永きにわたり連綿と法灯が守られている。 本尊釈迦如来を祀り、大本山を吉祥山永平寺(福井県)とする曹洞宗の禅寺で、佐賀藩主より石高(地米)200石、寺領19町8段(19万6364㎡)、敷地(鋪地)8段6畝6歩(8588㎡)を拝領していた。当時、200石を佐賀藩より拝領されていたことは、如何に藩主が龍造寺家に対して配慮していたかをうかがわせるものである。 慶長12年(1607)江戸で自刃した隆信公の孫、駿河守高房の遺骨を泰長院からこの寺へ移葬したが、不祥事が続いたので別に天祐寺を建ててそこに祀った。(これが、「佐賀猫化け騒動」の発端とされている) 隆信公の墓も明治4年、高伝寺へ移葬された。 山門を入って北側に日支事変の際、江湾鎮の旧戦場で壮烈鬼神を泣かしめる最後を遂げた典型的な葉隠武士、空閑昇少佐の墓がある。 裏の墓地には、「佐賀の夜桜」で有名な日本五大騒動の一つである「猫化け騒動」で怪猫を退治したと伝えられる忠臣小森千左衛門(講談では小森半左衛門となっている)の墓がある。 また昔、神埼郡三田川村箱川を領していた佐々木四郎高綱が宇治川先陣の用いた鞍をこの寺に納めたと伝えられている。 明治7年の戦争の際には、中立党であった前山精一郎一派の集会所になっていた。
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養福寺
安住山養福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で「一向宗由緒書 乾」によると、慶長年中(1596〜1614)に陽泰院(鍋島直茂継室)に奉公していた田崎氏の妻が、一子嘉右衛門の柳川陣へお供した際に戦死後、尼になり「妙忍」といった。主君の菩提と夫子の後生を弔うために一宇建立を願い出て認められた「御建寺 御城下八ヶ寺」のひとつ。所在場所は鷹匠小路ではなく「虎次小路」と記されている。尚住職は代々田崎氏が勤めている。 御城下八ヶ寺とは、願正寺(高木町)・真覚寺(駄賃町)・正蓮寺(高木町)・蓮生寺(岸川町)・正運寺(高木町裏)・専光寺(下今宿町)・妙念寺(愛敬島村)・養福寺(虎次小路)のこと。 「一向宗由緒書 乾」(鍋700−2) 御建寺 御城下八ヶ寺 一 虎次小路 養福寺 号安住山 法官無 慶長年中田崎氏之妻 陽泰院様へ御奉公申上 一子嘉右衛門柳川御陣御供仕戦死之後 蒙 御免尼ニ成妙忍と申候 主君之御菩提次ニハ夫子之後生をも弔わん為に一宇建立 を奉願候処 陽泰院様其志を御感被遊 如願被仰付旨従 陽泰院様久池井弥右衛門を以 被仰渡候 右為御礼 御城罷出候節手織の木綿壱反串柿一連差上候処殊之外御笑御悦 被遊候由 右之謂を以不相替毎歳年始ニ御礼申上来候 但御礼物白麻壱束弐本能扇子
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円蔵院
佐賀城跡の南に位置する。福厳山と号し曹洞宗。本尊は聖観世音菩薩。龍造寺家兼(剛忠)によって天文14年(1545)建立されたもので、同年正月馬場頼周らにより川上や祇園原(神埼市神埼町尾崎)で討たれた子の家純、孫の周家・澄家・頼純、そして天文7年に病死した家純の次男で宝琳院の住職であった豪覚などの供養のためであった。寛文6年(1666)住職の村了が寺格の問題で2代藩主光茂に直訴して死罪となった。これは、彼を助けようとした山本常朝の師、高伝寺の湛然が華蔵庵(佐賀市大和町松瀬)に移る原因ともなった事件である。
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光円寺
龍造寺隆信の家臣、木下伊勢守入道覚順の次男が18歳のとき京で僧の修行した3年後、仙叔蔵王と称し、天文23年(1554)に中館前の伊勢守の屋敷の一部に道場を建て、仙叔(栄寺)を開山して光円寺を開創した。ここに墓がある。
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佐賀城四方の濠
【施工】成富兵庫茂安。鍋島直茂・勝茂父子に仕えた重臣で領内農民を動員する。 筑前藩主黒田長政人夫をおくり支援する。県立図書館・佐嘉神社駐車場の北堀で筑前堀の名をとどめている。返礼に黒田長政築城の際、堀つくりに鍋島直茂人夫をおくり支援、肥前堀の名をとどめているという。 佐賀城をめぐるお堀は、東堀693m、西堀644m、南堀765m、北堀450m。幅60〜70m。深さ2〜3m。 護岸:佐賀地方の地盤軟弱のため、基底部の沈下防止に赤石(多久納所産)・松・丸太角杭等を施工してある。(西・南堀端角の道路下に説明記碑在り)。
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佐賀城本丸の建物役割
1.御式台…外からの客の応接 2.外書院…謁見の間 3.大 溜…登城した家臣たちの謁見場 4.大書院…選抜された人の謁見場 5.御料理間…饗応の場(きょうおうのば) 6.請役所…藩政の中心で請役家老のいる所(龍造寺家系の多久・諫早・武雄・須古の各家が交替で勤めた。) 7.能舞台・楽屋…作られたかどうかは不明 8.御座間(お居の間)…藩主の居間。執務室 9.御懸硯方(おんかけすずりかた)…藩主の手許金を司る。軍事費に使用された。 10.長局(ながつぼね)…お局の居室 11.御絵図方…田畑、宅地の測量 12.御付物方…什器等備品及び財産の管理
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蒟蒻橋
龍造寺隆信誕生地のすぐ南で、中の館公民館横の水路に架けられている。近くの寺がその昔住職がいなくて荒れ果て、うっそうとした大楠にコンニャクの化け物が住みつき、ここを通る人のほっぺたにくっつき人をふるえあがらせたという。ある日のこと、うわさを聞いた侍二人がコンニャクの化け物退治にやってきて、コンニャクを切りつけたが、化け物はふるえるばかりでさすがの侍も気味が悪くなったという。このようなことから、それ以来この橋を通る人は気味が悪くいつしかコンニャク橋というようになった。この橋より北方約50mのところに官軍墓地がある。
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愛右衛門橋
多布施川がこの付近までさかのぼっていることから、藩政時代には多布施川の上流まで川砂をとりに船が上り下りをしていたという。砂をとらない時は船をはしけのかわりに横に並べ人を渡していたといわれている。その船頭役をつとめていたのが愛右衛門といわれていることから、この橋の名前がつけられたという。 今日では川幅が狭くなり周辺には民家が密集し、往時の面影を見ることはできないが、かつてはこの川も清流で種々の魚が泳ぎ風情がただよっていたといわれている。現在ある橋は、昭和58年10月につくりなおされ、当時の姿はどこにもないが「親柱」に「愛右衛門橋」という名前だけが刻まれている。
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佐賀の馬鉄
愛右衛門橋のすぐ南側が「馬鉄道の停車跡」になっている。現在、吉原病院の敷地内に「記念碑」が建てられ、その記念碑には次のようなことが記されている。馬鉄(馬車鉄道)はレールの上の客車を馬が引く輸送方法である。佐賀の馬鉄は明治37年(1904)2月に佐賀馬車鉄道株式会社が発足し、本社および車庫を水ヶ江のこの地に設け、明治橋(現在の馬責馬場)から諸富まで、幅2尺6寸(約79cm)の軌道が敷設されたのが始まりである。明治31年、佐賀セメント会社の創業により交通の便をよくすることも考慮された。明治37年10月に開業し、明治橋、諸富間の全線を10の区に分けて営業したが、翌年には水ヶ江から県庁前、御幸橋を経て佐賀駅前まで路線を延ばした。佐賀駅から諸富までの所要時間は約1時間余りで「諸富国道ガー夕ガタ、馬場に乗ればツーツラツー、はよーねんねんしんしゃいの」と当時の子守唄にもうたわれた。大正元年(1912)神野、川上間の川上軌道が設立された。同年8月には佐賀馬鉄と合併して佐賀軌道株式会社と改名した(※)が、昭和12年(1937)には全線がバスに変わったと記されている。なお、この記念碑は吉原病院院長吉原正智先生が私費で建立された。 ※合併は大正8年8月(『鉄道省文書 佐賀電気軌道 三巻』国立公文書館デジタルアーカイブ)。大正15年(昭和元年)には馬力からガソリンへの動力変更願を出しており、昭和3年には馬鉄自体は終了した。その後昭和12年に全路線がバスへと移行している。
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了関橋と蓮池藩
蓮池2代藩主鍋島直之は佐賀本藩4代藩主吉茂より軍学の教えをうけるため、佐賀城下へ連日通っていたが、蓮池から佐賀城下までの道のりは遠く、構口を通ってう回しなければならず苦労されていた。そこで直之は蓮池から佐賀城下まで直線で道路を作ることを計画した。城下入口にさしかかった時、川が流れていた。これが今日の裏十間川である。直之は困りはてたすえ、橋を架けることにしこの橋に了関橋と名づけた。了関とは直之の戒名で「要玄院殿了関宗勇大居士」の了関にちなんで命名されたものである。このことについては寛永3年(1626)の佐賀城下の古地図にも見ることができる。 泰国院様御年譜地取によると、享和元年(1801)下今宿西の了関橋のことについて、「旅人通路仕上りは相叶わざる場所につき西橋取相成る等に候えども其通りに、町内の者共難儀に及び候由に」と記されている。いずれにせよこの了関橋は蓮池と佐賀城下を結ぶ重要な役割を果たした。 了関の名は藩政を子にゆずったあとの戒名でもある。了関は今の千代田町へ出て構口を通り、思案橋の蔦屋から北へまがり、柳町の今の佐賀市歴史民俗館の前を通って呉服町の旧南里の前へ出て城内に向かうという大変な遠廻りをしていました。その時代はいつも戦争のことを考えていたから川に橋をかければ便利なことはわかっていても敵に攻められるときに困るから橋は増やさないきまりになっていた。佐賀藩の殿様は了関の苦労を察し宝永7年(1710)佐賀本藩の費用で橋を架けてやった。了関のおかげで橋がかけられ大変便利になったばかりか今宿で栄え、材木町から柳町附近に繁昌していた商業が、これをきっかけに水ヶ江にも広がった。
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室園橋
もとの室園遊郭(今宿遊郭)の北入口と西入口に同名の橋が2つある。北の橋の欄干には、真松楼、酔月楼、三浦屋、三玉楼、丸吉楼、太平楼などの楼名が刻まれている。この2つの橋は室園遊郭組合の手で大正9年に造られた小さな石橋である。 遊郭で貸座敷業が始まったのは明治21年(1888)。佐賀市上芦町(高木町)は、明治17年開庁した県庁に近いため職員の風紀が乱れるとして営業廃止された。江湖端の材木町や今宿町では、廃止されると荷揚げ船の活気を減ずると異議を唱えたため、室園の地に移転し復活した。8月15日夜の今宿の精霊流しの時は、遊郭からも豪華な精霊船が出され、これを見るまで見物人は帰らなかったという。 郭の女は室園橋を渡って外に出ることは許されず、請願派出所で目を光らせた。西の室園橋を渡るのは近くの県立治療院で行われる花柳病検査のときと、身請けされて郭を去るときに限られた。 欄干には以下のように刻まれている。 (北東)むろそのはし」山遊楼」丸吉」三玉楼 (北中)一楽」明月支店」鶴明楼 (北西)赤星」太平楼」大正七年七月新工 (南西)室園橋」涼野」常盤屋」明月本店 (南中)酔月楼」三浦□(屋)」若□(治)□(屋) (南東)□(真)松楼」萬春楼」三星楼」大正九年七月竣功 この遊郭は明治中期頃からこの地に集中して歓楽街ができた。昭和10年頃には数十軒をこえる遊郭があり、遊女も百数十人を越える盛況であったといわれている。また、室園橋は、今宿へ出稼ぎする女の橋でもあり、故郷を遠く離れて働きに出る女性たちの賃金は安く、労働は過酷で、場合によっては帰らざる橋でもあった。
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横目橋
橋は材木町と水ヶ江町の間の裏十間川に架けられている。ここは佐賀城の外堀で川の西側が水ヶ江の武士の町、東側の材木町、紺屋町の名が示すように町人の町である。この橋を渡る時、いつも職業の違いで対立意識をしていたことから、お互いが敬遠して「じろり」と見つめあっていたことから、いつしかその名がつけられたといわれている。この周辺は明治の中頃まで舟が行き来をし、物資の集散地として栄えていた。この川筋の橋の横に「えびす像」が祀られている。往昔のえびす祭りは正月、5月、7月、9月の年4回行われ特に7月の祭りは川に舟舞台を設け踊りや、余興が行われていたという。いずれにせよこのえびす信仰は橋を渡る人を守護し安全を祈願したようである。近年十間堀川周辺は整備され、往時の面影に映し、風情がただよっている。
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六地蔵
天文年間(1532〜1554)に建てられた石造物として貴重な文化財である。六地蔵は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道の各道の衆生を教化する諸尊である。庶民の地蔵信仰は平安時代の末期の頃からであり、民間信仰の象徴的な存在となったのは鎌倉時代の末期である。一石六面(南側)と一石十二面(北側)の2基は九州地方では珍しいものである。南側の六地蔵は高さ1m60cm内外で支柱の中央に「天文弐暦十一月十八日」とあり願主権大僧都弁仁としるされ、大工弥七郎と刻まれている。一石寄せ造りの六地蔵は、礎石と大部支柱をかねた土台石柱と上部棹石の上に、台座と蓮華台をかね略した部分とその上に尊像(6躰)の構成が形式となり、その上に笠石をのせている。北側の十二地蔵は全体が高く台座より笠石まで2m50cm内外であって、礎石をかねた下部の支柱と台座をささえている上部の竿石からなっており、その上に台座と蓮華台がある。今日では誰いうとなく献華、献香が行われており、500年近くの歴史の跡をうったえている。肥前では格調の高いものといわれている。
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佐賀の役招魂碑
明治7年佐賀戦争で戦死や処刑された江藤新平、島義勇ら216柱を弔うため明治18年に建てられたものである。明治6年司法卿当時、征韓論を唱えて下野した参議の江藤新平は佐賀に帰り、征韓党を組織した。また秋田県令島義勇も職を辞して佐賀に帰り、憂国党を組織した。ともに征韓論を強く支持し、勅許を得ようと動きまわった。一方政府は佐賀の不平士族を鎮圧するため岩村通俊を佐賀県令に任命。岩村は熊本鎮台の兵を引きつれて入城した。これに刺激された両党士族約5,000名が政府軍と相対した。2月16日戦端は開かれ攻防10日余佐賀軍は敗退した。毎年4月13日、佐賀戦争の戦死者の霊を祀って慰霊祭が行われている。
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博物館と美術館
昭和45年10月、明治100年記念事業として佐賀県初めての本格的な博物館として建てられた。ここには唐津桜馬場弥生遺跡出土品(国重文)をはじめとする考古学資料、肥前名護屋城図屏風などの歴史的資料、染付鍋島藩絵図大皿などの美術資料、工芸資料、先覚者の書画、自然資料等佐賀県内の資料を所蔵している。美術館も昭和58年建設され多方面に活用されている。 屋外には彫刻の森として佐賀市水ヶ江出身の彫塑家古賀忠雄氏((明治36〜昭54)東京美術学校卒)の作品が展示されている。 1.二つの道 2.鶏舎の朝 3.岬の男(新文展特選) 4.生きる 5.浴後 6.晴間を待つ 7.呆心 8.漁夫三想 9.農夫 10.工場の老夜警夫 11.幻想 12.伸びよ次代 13.太陽を知る男 14.限界 15.シャモと男 16.圧 17.青雲 18.花売り 19.語らい 20.想 21.春を待つ 22.沼の幻想 23.思い 24.団欒 25.農場の朝 26.頬杖をつく またお城濠に面し、故市村清氏の遺志を継ぐ幸恵夫人寄贈の茶室清恵庵がある。 博物館玄関前には、佐賀藩カノン砲が置いてある。
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佐賀師範学校跡記念碑
【記念碑】 育英の道に志し 青春の夢を抱きて 集い来る朋有り 佐賀県師範学校 佐賀県女子師範学校 佐賀青年師範学校 佐賀師範学校 佐賀大学教育学部 同窓会創設八十周年を 記念して思い出深き 佐賀師範跡をここに建つ 昭和四十二年十一月 有朋会 ※写真は改修前のもの。2020年に佐賀大教育学部の同窓会、有朋会が同窓会設立130年を記念して改修された。
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殉国十三烈士の碑
明治7年の佐賀戦争は、われわれ先人が近代日本建設の途上征韓論に端を発し、国を愛する真心と民権尊重のためのやむにやまれぬ戦いであって佐賀軍の敗北に終わった。戦後の処分は有無をいわせぬ即断裁判によって過酷を極めた。維新政府の功臣だった江藤新平、島義勇の両首領は、さらし首の極刑に処せられたのを始め、征韓、憂国両党の幹部は悉く斬首され佐賀城内の露と消えた。この中にはまだ26歳の香月経五郎、27歳の山中一郎ら若い逸材もいた。この二人は江藤門下の双璧として将来を嘱望されている人だった。その血を吐くような辞世「天道非か是か。涙、泉のごとし」と。この13烈士が長命を保ったとすれば、明治以降の近代化や社会政策の発展に大いに寄与したものと思われる。徹底した佐賀の弾圧は「佐賀県」の誕生を明治16年まで遅らせ、小城の松田正久が自由党をつくったといっては解散を命ぜられ、明治14年の政変では大隈重信が議会設立をもくろんだといっては失脚させられたりした。佐賀戦争を見直し13烈士の国を愛する情熱を顕彰することによって、青少年の健全育成に役立てようとの願いをこめての碑である。後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年に江藤、島両氏の生前の功績に対し、特別に爵位の恩命があった。 江藤新平 正四位 島義勇 従四位
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蒼海伯副島種臣誕生地
幼名次郎。体弱く引込思案。父佐賀藩士枝吉種彰(南濠)。藩校弘道館教授。国学者(経書、詩文)弘道館宝蔵院槍の指南役の武人。兄枝吉経称(通称、李之助。号、神陽)は水戸の藤田東湖と並び称される。種臣は次男、号、蒼海・一々学人。18歳の時、副島利忠の養子となり改姓。生家は現在取り払われ、その地には佐賀県福祉施設が建っている。敷地内に「蒼海伯副島種臣誕生地」と刻まれた巨碑が建てられている。 幼少の頃、恵まれた環境に育ち藩校弘道館ではクラスで首席。2万巻の書物を読破の優秀児。父の感化もうけ、兄神陽の烈しい勤王思想の感化をうける。江藤新平、大隈重信、大木喬任と「義祭同盟」を結んだ。長じて藩命により上洛し皇学を修め諸藩の志士と交流した。幕末動乱について論議し「一君説」を唱え若くして尊王攘夷運動に投じ、将軍宣下の廃止を進言し討幕論の先駆者となった。明治維新にはよく藩主を助け重きをなさしめた。元治元年(1864)種臣は大隈重信などとともに、藩主鍋島直正の許可を得て長崎に「致遠館」という英語学校をつくった。教師にはアメリカ人の宣教師フルベッキを招き、外国の憲法、新約全書を学ぶかたわら漢訳国際法などの研究にはげんだ。慶応3年(1867)鳥羽伏見の変が起こったとき長崎奉行は逃亡し、一時長崎は無政府状態となった。この時各藩の有志に推され、各国領事に維新の意義を説明し、長崎港を管理するとともに関税もとどこおりなく納めさせた。 これが種臣を新政府へ出仕させるきっかけとなった。新政府が組織された時、佐賀藩士で只一人最高地位を得、参与となった。政体書の起草、官制立案、新律綱領立案等の法典編纂に当った。次いで参議、その間外交使節として樺太境界線問題を解決し、明治4年には渡欧の岩倉具視にかわって外務卿に就任した。翌年、ペルーの商船マリヤ・ルーズ号がマカオから清国人奴隷200人を乗せて横浜に入港した。種臣は人道上許されないとして、職権で船を抑留して解放させた(奴隷解放)。この処置に対して、ドイツ、フランス、ポルトガルの政府は日本政府に抗議し国際問題となったが、結局は日本の処置が勝利し種臣の勇気ある行動は高く評価された。また、大使として清国に派遣されたとき老獪(ろうかい)な李鴻章との応酬機宜をあやまらず、琉球問題にも敏腕をふるい、日本外交の礎を築くとともに国威を発揚することができた等、数多くの逸話が残されており、その外交手腕は外国高官の高い評価を受けている。明治6年征韓論によって廟議が分裂した時は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らとともに民選議院の設立に名を連ねたが、自由民権運動には参加せず3年間中国を漫遊し、李鴻章と旧交を温めるなど日中友好に力をそそいだ。明治11年中国から帰国した種臣は、明治天皇の信認によって宮内庁御用掛兼明治天皇の一等侍講に任じられ、天皇に内外の情勢などについて講義し厚い信任をうけた。 しかし宮中のしきたりや格式などに嫌気がさし、病気を理由に辞意を表わし引篭った時、天皇から直接宸翰(手紙)を賜った。当時、侍講には多くの学者がいたが、いかに信頼を受けていたかがわかる。また種臣がいつも清貧に甘んじているかを知らされた天皇が侍従を遣わし、2万円を種臣に御下賜になった。種臣は天皇の温かい心に感激の涙を流しながら「天皇は万民を平等に愛し給うのが本当の姿で、1個の私を愛し給うものではない。今、国内には天災などで困っている人も多いので、できればその方々に差上げてほしい」と、これを辞退した。種臣の高潔寡欲恬淡(こうけつかよくかったん)は明治政府家中、第1位といわれた。明治25年松方内閣の時、議会が混乱し流血事件が発生した。この危機を救うために高邁な人として種臣が内務大臣として選任されたが事ならずして辞職した。明治17年伯爵を授けられた。再び枢密院顧問官に任ぜられた。 【書家 副島種臣】 種臣は書家として明治時代の最高の一人である。種臣の書は1字1字全身全霊がこめられており、気品に富み人柄が表われ、見る者に襟を正させる何ものかがある。現在佐賀新聞の題字は副島種臣としてある。 【詩人】 また、詩書にもすぐれ思いつくまま雄渾な筆で書きまくった。後の世俗を越えた雅趣が詩人以上の詩をつくらせ、書家以上の書を書かせたのではないかと思われる。 【質素と道楽】 種臣は生涯を通じ質素で食事も豆腐におから、ひじき、こんにゃくが好物で酒は飲まなかった。来客があっても貴賤の別なく十錢弁当を出すことにきめている。 ただ一つの道楽は相撲が好きで、力士を可愛がり借金をして化粧まわしを贈ったりした。明治38年1月病気になり天皇から特旨をもって桐花代授章を下賜され、ねんごろな見舞の言葉を賜った。死期が近まった種臣は力士に棺をかつがせるよう遺言し、同月31日にこの世を去った。葬儀の2月6日は大相撲春場所の最中であったが、横綱常陸山以下20人の力士が種臣の棺をかついだと伝えられている。墓は東京の青山墓地と佐賀市本庄町高傳寺にある。
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山本常朝誕生地
中の橋小路、水ヶ江大通り、角の野田金物店から東に入って4軒目、戦前、県立病院臼井鉄治院長が開業していた臼井病院跡地に「葉隠口述者山本常朝誕生地」の石の標柱が立っている。 山本常朝は万治2年(1659)中野神右衛門重澄の三男としてこの地に生まれた。重澄は承応3年(1654)有田代官を辞任して64歳で佐賀に戻り、この地に住んで本藩に仕え、万治元年(1658)隠居が認められたのは4年後69歳のときであった。常朝はその翌年、重澄70歳の子として生まれた。常朝は幼少の頃虚弱体質であったが、父重澄はスパルタ教育で常朝を鍛えた逸話も多い。あの気迫にみちた『葉隠』を生む原動力となった。
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中山家住宅
当家は南北に通る安住小路の西側に東に面して屋敷を構える。文化期「御城下絵図」によると、宅地の主屋を含む北半部に中山正親抱と記され、庭園の広がる南半部は横田雉之允の名が見え、中山正親の名は北隣の宅地に記される。現在では水路を越えて宅地は広がり、中山正親抱の宅地を核として、南隣の横田雉之允の宅地東隣の藤山内蔵之允の宅地も併せ、広大な屋敷構えを見せる。 屋敷構えは北側に配した主屋を中心に、その南隣に厩(うまや)、小路側に前庭、主屋南側に品の良い庭園を設けている。小路とは生垣によって隔てられるが、かつては小路に向けて門を開いていた。門の正面に切妻屋根を戴く玄関があるが、式台を後に改造したものである。 主屋の屋根は寄棟造り茅葺きの上屋に桟瓦葺きの下屋が巡る形式だが、間取りに対応して棟が複雑に折れ曲がる。玄関から東西に延びる大きな棟が奥向きの諸室、そこから南側に鍵型に突き出た棟が、表向きの諸室、北側に突き出た棟には土間を収めている。 表向きの4室は座敷を頂点とする序列に従って配列され、いずれも棹縁天井を張り、玄関を除く3室には長押が打たれる。次の間の採光部分に窓台を設ける点は、類例が少なく珍しい。中央の棟に連なる4室は、奥向きの機能を有していたと考えられるが、改造が多いため当初の姿を特定できなかった。 ただし、棹縁天井が張られる部屋は仏間として利用され、他の武家住宅とは異なる間取りを示す。北側の棟は当初土間で、別棟の釜屋とともに広大な作業空間を用意していた。 小屋組は叉首を用いた折置組の構造で、陸梁と胴差型の梁を併用している。構造や意匠から判断して19世紀前期の建築と推定される。大規模にも関わらず、建築の保存状態は良好で、特に土間廻りがよく残され、座敷に面した庭園の質も高い。門は失われたものの、屋敷構え全体がよく残されている。周りの水路や小路と一体となって優れた歴史環境を形成し、武家住宅遺構として貴重な存在である。