龍泰寺

龍泰寺

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■所在地佐賀市赤松町2-4
■年代中世
■登録ID2408

【山号】平安山
【宗派】曹洞宗
【本尊】釈迦如来
寺号は「龍造寺安泰」の意による。龍造寺隆信が少弐氏の館跡を選んで、永禄6年(1563)わが家の菩提寺とするために建立した。隆信はもと天台宗の僧籍から還俗して宗家をついだ人。かつて円蔵院の怪火を鎮めた大用和尚の法力を感じて、曹洞禅を信ずるようになったと伝わっている。天正12年(1584)隆信が島原(沖田畷)で戦死したので、この寺に墓所を築き、夫人や子の政家夫妻も葬った。その後龍造寺の血脈伝える村田家の歴代もここに葬られ、龍造寺ゆかりの寺である。その後隆信は宗龍寺に、政家夫妻の墓も高傳寺に移された。明治4年鍋島家において、多くの寺院に散在する龍造寺、鍋島両家の墓を高傳寺1か所に集めることになった時、隆信夫人も移葬され、龍造寺の系統としては村田家だけが残っている。またこの寺は佐賀藩士鍋島家の菩提寺であって、同家代々は勿論、明治、大正を通して偉大な政治家であった大隈重信の墓も境内にある。また重信の母堂三井子自ら寄進された自作の「蓮の曼陀羅」も寺宝となっている。
このように由緒ある寺だが、何度かの火災のため寺宝が亡失したことは惜しいことである。本堂は佐賀戦争で焼失を免れた佐賀城本丸の「玄関・式台等」解体されたものを大正初年頃この寺の本堂に改築されている。創建当時の壮大さと比べることはできないが、建物・境内とも巨刹(大寺)の偉容を保っている。

出典:あゝ佐賀城その歴史と周辺P65

明治三年大隈重信は大蔵大輔に任じられて、母を佐賀から東京に呼び寄せた。三井子の東京生活は暇があれば神社仏閣を参詣したが、祈るところはわが愛児重信が、身体つつがなく、立派な働きをしてくれることであった。とくに重信が四十二歳の厄年に達しようとする時、この厄年を無事通過するように願いをこめ、明治七年から十年まで、四か年にわたり、上野不忍池の蓮の茎から手まめに蓮糸を繰り出し、この蓮糸を京都西陣の五代目伊達弥助に頼んで、悲母観世音間曼陀羅四十二福を織らせ、これを有縁の寺々に納めた。その壱幅が菩提寺の龍泰寺に奉納され寺宝となっている。
蓮曼陀羅は巾十五センチ、長さ三十センチほどの小幅で厨子の中に飾られているが、これが蓮の糸かと思われるほど精巧な美しいものである。
この曼陀羅の一幅は当時の皇后陛下にも献納されたが、陛下は非常に喜ばれ、御歌を下賜された。
  清らなる蓮の糸一すじに
     祈りし老の心をぞ思ふ
三井子刀自は明治二十八年一月元旦、九十才で逝去した。会葬者一万人、両陛下から勅使が遣わされた。ただ英雄の母というだけでなく、深い信仰をたたえて勇敢にこの世を生き抜いた悲母への称賛の集いでもあった。

※ 『類題昭憲皇太后謹解』(三室戸敬光 編、中央歌道会、大正13年発行)の220頁に「右明治十一年大蔵卿大隈重信の老母が年月とりあつめし蓮の糸もておりいでたる仏像をたてまつりしを見そなはして下し賜へる」とあり、この歌が紹介されている。
※ 西陣織協会の藕糸織(ぐうしおり)観音像の紹介文から、「蓮糸が用いられているところは文様が施されている絵緯の部分のみ」とされている。

出典:市報さが昭和50年9月1日

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