与賀神社

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与賀神社

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■所在地佐賀市与賀町2-50
■年代近世
■登録ID2409

主祭神  
与止日女神(よどひめのかみ)
〔=豊玉姫命(とよたまひめのみこと)〕  海の神、神武天皇の祖母
    
配祀神 
八幡神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) 山の神、豊玉姫命の夫
住吉神 綿津見命(わたつみのみこと) 海の神 
乙宮神 宗像三女神(むなかたさんじょしん) 海の神
印鑰神 天児屋根命(あめのこやね) 祝詞の神様   
応神天皇(おうじんてんのう) 八幡大神、武門の神様
菅原道真公(すがわらみちざねこう) 学問の神様

御神徳 
豊玉姫命は神武天皇の祖母、海神の娘で龍宮城のお姫様です。海の神、山の神、水の神として広く信仰され、安産の神様です。また、武門の神様、学問・祝詞の神様が祀られており、鎮護国家・安産育児・交通安全・学問武道・殖産開運などにご神威あらたかです。

與賀神社の由緒
欽明天皇二十五年(564年)に勅願造立され、鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦二年(1212年)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245年)執権北条経時が勅により祭祀の礼式を定めたと伝えられています。
ついで、建長三年(1251年)には与賀郷の地頭であった大宰少弐資能安穏のため洪鐘一口が寄進され、永正十年(1513年)には神階一位に進められました。
室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、文明十四年(1482年)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった父教頼の旧館を開き与賀城を築き、当神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、楼門を造立し神事を修飾した。
その後、少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、与賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般士民の崇敬厚く、特に鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、数々の寄進をなされた。
 
鎌倉時代から江戸時代までは、現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた与賀荘一円、即ち佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮であった。旧社格は大正14年に列せられた県社である。
鍋島藩政時代には、神事として旧与賀郷の注連元(くめもと)行列をはじめ流鏑馬、連歌、管弦等特殊なものがあった。そのなごりとして、佐賀神楽(かぐら)、獅子舞を現在伝承している。

当社の参道は八丁馬場(与賀馬場)といわれ、千数百メートルの間に3基の石造りの肥前鳥居がある(国重文)。
三の鳥居は「佐賀荘正一位与止日女大明神」の銘をもち慶長8年(1603)鍋島直茂夫人藤女によって建納されたものである。八丁馬場は武家屋敷であったといわれている。社前の鳥居をくぐって、小川に架けられた石橋は慶長11年(1606)に建立されたものである(国重文)。それを渡って朱塗りの楼門(国重文)は県内で最も古く全体の様式は和様であるが部分的に唐様の手法も使用されている。
境内には大クス3本があるが拝殿の南側にあるクス(県天然記念物)が最大で樹齢1,400年と推定され、そばに青木月斗の「我に迫る三千年の楠若葉」の句碑がある。社務所に応永年間(1394〜1428)作といわれる備前刀匠の作といわれる太刀(国重文)がある。そのほか延享4〜寛延元年(1747〜1748)に至る『社頭日記』。嘉永6〜慶応3年(1853〜1867)までの『宗門改帳』10冊など藩政史料として注目すべきものがある。延宝6年(1678)2代藩主光茂夫人が永松玄偲に書かせて奉納した絹本着色与賀神社縁起図も江戸初期の与賀神社の神幸をうかがわせる資料として貴重なものである。この絵巻には社僧や女官・宮人の妻などの命婦が描かれている。城下図にも与賀神社付近の延命院、浄土寺、宮司房の神宮寺があるが、宮司房だけが廃絶しほかは現存している。

出典:神社聞き取り、「あゝ佐賀城その歴史と周辺P67」

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