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[旧佐賀市][赤松校区]は120件登録されています。
旧佐賀市 赤松校区
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文字エビス塔
末次家敷地東北角に安置している。 佐賀市内には430体以上の恵比須像があり、その数は恐らく日本一といわれている。その後調査が進むにつれ、数は増加し、恵比須DEまちづくりネットワークが平成21年3月に発行した「佐賀市の恵比須台帳」によれば471体に増加している。 本塔には「西宮」と刻まれた文字恵比須である。縦16cm、横19cm、高さ37cmの角柱型になっている。本来は石屋さんであった隣地の所有で、他所から入手したものらしく、立ち退くに当たり放置された物を、現所有者が祀るようになった。恵比須台帳に記載がないので、追加すべき1体である。
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侯爵鍋島家佐賀内庫所
明治以降、鍋島家の御館は城内の三の丸であったが、明治7年2月に起こった佐賀戦争により焼失した。筋違井樋辺より県庁(本丸)めがけて大砲を発射、御館が矢向になり、2月16日午前10時頃より御館に火が掛り、蔵々共残らず焼失と「日記」(※鍋028−1)にある。 その後、鍋島山城(親類・白石鍋島家)抱地であった宗龍寺東側の地に移転、明治9年5月「佐賀御館御玄関より役所迄の処藁葺に候処、当節瓦に葺替相成候事」とあり、比較的質素な建物であったようだ。一般的に内庫所と言われていた建物は、明治末から大正初めにかけて改築されたもので、大正5年の陸軍特別大演習には摂政殿下(皇太子)お成りの予定であったが、聖上の様態が思わしくなく、急遽閑院宮が代わりを務め、新築の内庫所に宿泊された。 当屋敷は、戦後手放され、宗教団体の善隣会所有となったが、昭和40年ごろ、武雄の御船山観光ホテルに移築され、部分的な改築はあるものの、鍋島報效会所有の平面図と比較してみると、ほぼ原型を留めて現在も客室として使用されている。 ※鍋島文庫整理番号028-1 ※写真は内庫所のあった場所に建てられた市民会館。市民会館は2016年3月末に閉館し、現在は別の建物が建っている。
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副田先生顕彰之碑(筑後川渡船転覆)
故副田訓導遭難殉職の状況 昭和18年10月9日赤松国民学校第6学年男女233名(男125、女108)は、松(男)組を副田美代次訓導、竹(男)組古賀俊夫訓導、梅(男女)組古川幸男訓導、桜(女)組横尾たつ訓導、桃(女)組古瀬マサ訓導の5名にて引率し、福岡縣柳河町に修学旅行の帰途、午後2時頃若津より渡河、第1回に松組(男)49名、竹組(男)17名、他に乗客7、8名と共に乗船出発す。石塚渡場を距る20m深所2.5mの地点に差しかかるや、満潮と多人数の為動揺し船より浸水すると見るまに船は沈みつつ2回にわたり顚覆す。急を見るや附近の船、警防団員数名救助に駈けつく。顚覆と同時に大部分の児童は顚覆せる船体にすがりつき、警防団員救助人に救助せられ、或は泳ぎ渡りたるもあり。 平素水泳錬達の副田美代次訓導は顚覆と見るや直ちに溺れんとする者の救助に当り、浮き沈みしつつある児童14、15名を岸近くまで「泣くな」と激励しつつ助け上げ、全身着衣の上に浪と戦い既に精魂つきたるも最後に「先生先生」と叫びつつすがりつく児童を救い流木にすがらせ、岸に押上げ、尚も流れ行く児童等を助けんと赴きしか身体の自由を失いしものか遂に水底深く姿を没せり。
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開拓紀念碑
(碑文要点) ○ 旧主家(坊所鍋島家)の困窮を憂いて旧家臣や有志が募金計画(事務長に南里忠次、各地の代表を委員とする)し、旧藩公より金員の拝借をして、若干の町歩の田地を購入する願書を作成した。 ○ 佐賀の家扶、中野致明にもとおして、代表が上京、東京鍋島家の家令・深川亮蔵に提出したが却下された ○ 特例として、蓮堀を拝借して堀を埋め開拓埋築の恩命があった ○ 代表が帰郷後、早速、開拓埋築工事に着手して、3年後の明治29年に田地3町5反余を得た ○ 負債の弁償、屋敷の修繕など、また、工事の苦労をたたえるために紀念碑を建てた (参考) ○ 坊所鍋島家は国家老で鍋島生三からはじまる ○ 旧領地は三根郡に坊所村ほか5か村、神埼郡9か村、佐賀郡3か村となる。地米高は嘉永7年(1854)2020石余
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東御屋敷(向陽軒)
佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の別荘として建築され、勝茂公は一日の多くをここで過ごした。
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虚受楼
佐賀藩10代藩主、鍋島直正公が政務の疲れを癒し、漢詩の作成にいそしんだ書斎兼茶室。 天保6年(1836)2月、佐賀城南東部の水ヶ江(水ヶ江三丁目付近)に藩主の保養別荘水ヶ江茶屋「虚受楼」の建築が始まった。 直正は、天保6年の正月、下痢に悩まされて、賀正に臨まれず、2日、3日も下痢がひどく、7日には古賀穀堂を伊勢神社などに代参させるほどであった。しかし、月末になって漸く回復した。 直正は、藩主に就いて以来6年間、藩政改革に奔走し、肉体的、精神的な無理から体力が衰え、その上、持ち前の几帳面な性格が災いしたのかも知れない。 直正公伝によれば、直正は壮年時、雨水の混じった水さえ飲んで渇きを癒したこともあり、潔癖性というほどのことはなかった。しかし、晩年になって、お手水ごとに、上中下の3つの手桶の水を使って終うほどで、庶兄の鍋島安房にも同じような潔癖性があった。(直正公傳第1編)
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観頣荘
観頣荘(かんいそう)は、西御屋敷とも称し、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂の別邸であった。元禄11年(1698)、家老鍋島弥平左衛門の抱え地に観頣荘が建立され、さらに、家臣の邸宅が取り上げられて広大な庭園が築かれた。元禄12年の文書にいわく「・・・御屋敷内手狭く殊に御近辺に罷り居り候者御近所故心遣い致し不自由迷惑致す由聞召し上げられ水月庵小路西側迄屋敷召上げられ候・・・」。造園には攝州兵庫の御本陣粘右衛門が招かれて当たったという。 観頣荘の模様については、綱茂の手記「観頣荘記」や作者不詳の絵図「観頣荘之図」(いずれも県立図書館蔵)からうかがうことができる。中央に灔藍池と呼ばれる池があり、周囲に観頣荘や繁陰山となる築山をつくり、各所に楼屋や亭を配したいわゆる回遊式庭園であったらしい。建物にはそれぞれ漱玉窩、真意楼、雲棒楼など経書から引用した名が付けられ、名前の由来が「観頣荘記」に記されている。聖堂もつくられている。しかし、「観頣荘記」は一種の文芸作品であるので、観頣荘の正確な建設場所は明確でない。だが、元文5年(1740)の城下図には池と聖堂が記されているので、敷地全体のおよその位置はわかる。同図にある鍋島主水抱え地は南側に池を望み、かつて荘居のあった場所と思われる。諫早石見抱え地は池の西側に接し、築山などを有する庭園の主要部分であったであろう。池の南東の慈眼院のある場所は、観頣荘建設の際に取り上げられた水月庵の旧跡で、ここも敷地内であったであろう。元禄13年の暮に1ヶ月近く、綱茂は息女と共に観頣荘に滞在している。城との往来は船によっているので、城とは水路で直接通じていたのであろう。池には大船を十余隻も浮かべることがあったという。同年、二の丸から聖堂を移した。このころには、観頣荘の建物、庭園はほぼ完成していたと思われる。綱茂はまた、親類や家老に縁付いた妹たちを呼んで藤の花見と歌会を行っている。その他、家老と、大風の被害を受けた領民の出来、出銀を免ずる相談を行うなど、ここで藩政をみることもあったようである。 ところが、綱茂の没後間もない宝永4年(1707)、早くも観頣荘の一部は解除され家臣8名に下賜されている。敷地内の水月庵旧跡に慈眼院が建立されたのは、宝永年中(1710まで)である。また、前出の諫早石見抱え地は4代藩主吉茂(1664~1730)から賜ったといわれている。このように観頣荘が短期間のうちに縮小解除された原因については、綱茂の文治主義に対する藩内の不評、綱茂に対する親類筋の個人的感情、天災・火災等による経済的圧迫などが考えられるが明らかでない。これに関連する資料の出現が待たれる。 元文の城下図を現在の地図と重ね合わせて観頣荘の敷地の境界を推定すると、東は西堀端と宝琳院西側の通ずる水路、西と南は佐賀大学東側を通り、左折して宝琳院南側を流れる善左衛門井樋水系、北は中周路通りとなる。鬼丸町の西部と赤松町の南部とを含む東西約200m、南北約400m、面積約8万㎡の区域である。水の流れは昔と変わらないが、昔をしのばせるものは、水辺の護岸の石とわずかばかりの立ち木のみである。
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多久家屋敷門(1棟)
永禄5年(1562)に肥前第二次東西戦争で西軍(有馬・大村・多久連合)が敗れ、前多久家は滅亡した。その後、元亀元年(1570)龍造寺隆信の実弟・長信が多久を支配し,後多久が始まる。水ヶ江龍造寺氏とも別称される。 長信の嫡男・安順は多久姓を名乗り多久安順となるが、鍋島氏の藩政運営では佐賀藩筆頭家老として実質的には藩政を采配している。多久安順は、豊臣秀吉の世に朝鮮にも出兵し、李参平を連れ帰った。水ヶ江二丁目の枳小路にある本屋敷門は伝統的な武家屋敷門となっており、建築関係者によればこの屋敷門を建てるには、「家一軒分の費用がいる」いうことで、土台は総ヒノキの立派なものである。
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協和館
明治維新以降の公共建築として最初に建てられもので、初代佐賀県知事が明治19年に松原二丁目に公会堂式の大衆も使える建物として建設されたもので、社交場としても利用されたことから、佐賀の鹿鳴館と呼ばれていた。 明治27年に佐賀市が佐賀県から買収し、佐賀市庁舎として利用されることになったが、その後は佐賀県及び佐賀市有を繰り返しながら、昭和32年に佐賀郵便局を建設されることになったため、建物は佐賀城天守台に移築され、集会施設として利用されていた。 平成16年佐賀城本丸歴史館の開館に伴い解体されたが、移築前のものを正確に留めるのは玄関部分のみで、二階部分は柱と小屋組を転用したものの柱は8寸角が5寸となり、柱間も京間を田舎間に縮小し、新たに設計され移築されていたことがわかっている。
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さがレトロ館
建物は、明治20年警察部庁舎として現在の佐賀県庁本館付近に建設されたが、昭和11年に警察本部の建て替えに伴い、現在地に移設されている。 その後、佐賀県蚕糸取締所、佐賀地方経済調査庁や視聴覚ライブラリーなどとして活用されてきたが、平成21年3月29日から佐賀レトロ館として、スローフード中心のカフェレストランとして活用されている。
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楠の木おばさんの碑と大楠群
福田よしが54歳であった昭和25年(1950)に、旧佐賀城一帯の楠20数本が業者に売り払われ伐採されようとした時に楠の木の前にはだかり、「こいば切っないば、私を先に切らんかんた」と叫び、伐採阻止の行動を起こした。そして「楠保存会」を発足させ、佐賀県知事鍋島直紹氏には楠の木保存の重要性を訴え、県知事後援のもとに楠の木の保存のために奔走された。 佐賀城跡の楠群は、昭和28年(1953)11月3日、佐賀県天然記念物に指定され永久保存されることになった。また、県庁前に碑が建立され念願であった目的を達成することになった。 楠は、昭和29年(1954)に佐賀県の「県花」となり、昭和41年(1966)には「県木」に指定された。 昭和55年(1980)には、佐賀城公園西堀端に「楠の木おばさんの碑」が地元自治会で建立され、今後とも西城内で活躍され、西濠の水と大楠の緑の大群の景観を現在に残して頂いた福田よしさんを顕彰していかれる。
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万部島
万部島は昔は川に囲まれた島であった。 龍造寺家兼(剛忠)が水ヶ江城内で法華経一万部を修業、読誦した経文を書写して城の東北の鬼門(陰陽道で悪魔が出るという北東の方向)に奉納した。(読経納経)この地が万部島である。家兼(剛忠)は「我が子孫、秀いずる者あらねば則ち下民を撫育し、慈悲垂れて家臣を憐れみ、人道を勤めておこたる勿れ」といい貯えていた財宝をことごとく貧民に施し、領民が借用していた銀米類一切を棄損(慈善・公益・救済などのための寄付・ほどこし)したという。 鍋島勝茂(初代藩主)より直大(11代)に至るまで萬禱石塔の記念碑が11基建立されている。 祈禱石碑 形式−台石、蓮華代、棹石(上部三角) 同一形式状寸法 第1基 松平肥前守藤原朝臣勝茂 第2基 大守従四位肥前侍従松平丹後守藤原光茂 同嫡男 第3基〜第11基(国家安泰、万民安楽祈念) 国家安泰・万民安楽を祈願するならわしは各藩で行われたが、佐賀では、鍋島氏以前、龍造寺家兼が永正2年(1505)3月、天亨和尚を導師として、野田石見が奉行となって領内の僧300人を集め執行したのが最初である。天亨和尚は剛忠の弟で水上山万寿寺の僧。また乾亨院の開山である。万部祈願塔をかまえたことは、天災地変によりこうむる年毎の災害が、最小限度に済むように、国家安全にして連続万代におよぶように、藩主一族、領民のすべてが安らかにして諸願円満に成就するようにと、大法要を営み、仁政のほどをしめしたことを裏書きするものである。
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鬼丸聖堂跡
佐賀藩2代藩主光茂元禄4年(1691)佐賀二の丸に設立。元禄10年(1697)3代藩主綱茂二の丸聖堂を観頤荘内に移転する。当時佐賀藩の学問の中心であった。弘化3年(1846)10代藩主直正(閑叟)聖堂は弘道館に移される。広壮な観頤荘もいつとなく廃滅し何ひとつ名ごりをとどめていない。ただ広大な庭園は観頤荘の図によって当時をしのぶのみとなり、鬼丸聖堂は講堂「天縦殿」の額や孔子をはじめとする三聖像などが現在佐賀県立博物館に保存されている。 佐賀大学が文教にゆかり深い一角を占めているのはゆかしいことである。 【由来】 佐賀藩3代藩主鍋島綱茂は17違いの異母弟、多久5代邑主国家老多久茂文とともに学問好きの殿様として知られ部屋住みのころから経書にも通じ書画にも巧みであった。のちの5代将軍徳川綱吉の前で輪講を勤めたほどであった。多久茂文が貞享年中(1684〜1687)聖堂(後の多久聖廟)及び学校を建てようと志し、本藩の許可を願い出るとまず佐賀に建ててからということになり藩主光茂(2代)は世嗣綱茂の肝入りで元禄4年(1691)佐賀城内二の丸に小規模であったが孔子孟子ほか四君子の像を祀って聖堂を設け諸人の礼拝を許した。 【注】 経書 儒教で聖人賢人の言行や教えを書いた根本経典四書五経 儒教 孔子を祖とし仁義道徳を説き、身を修め家をととのえ天下を治めることを目的にした政治道徳の教え。中国歴代の正統思想として重んぜられ、わが国にも古くから伝来して大きな影響を与えた。
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南濠周辺の史跡
南濠に面する中の館町は龍造寺氏の水ヶ江城のあった場所で、龍造寺隆信の生誕地を示す大きな記念碑がある。その東側にある乾亨院には、明治7年佐賀戦争で戦死した政府軍の官軍墓地がある。豪壮な大理石の3基の墓石が目をひく、同じ境内には官軍と戦った征韓党の指導者朝倉弾蔵の墓もある。 中の館町の西隣鬼丸町に明治の元勲副島種臣の生誕地があり、記念碑が建てられている。記念碑前の濠岸には佐賀城濠の石積みの模型がつくられており、赤石といわれる凝灰岩が用いられたことがわかる。
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西濠端周辺史跡
この一帯は龍造寺氏時代の村中城のあったところである。老楠が茂り、城内側の若楠会館の西側には楠を献身的に守った楠おばさん故福田ヨシさんの記念碑がある。西濠端に面してはイギリス宣教師が住んでいた、数少ない明治の洋風建築の中元寺家がみられる。その近くの小路の奥には大隈重信の墓地がある龍泰寺がある。この寺は龍造寺隆信が建立した曹洞宗寺院、寺号は龍造寺安泰から山号を平安山と称している。現在の本堂は佐賀城本丸屋敷を解して改築したものである。
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水ヶ江城
第14代龍造寺康家が村中城を次男の家和にゆずって水ヶ江に隠居し館を設けた。更に分家筋の家兼(剛忠)にゆずった。家兼は龍造寺氏の守りを強化するために城を築く。それが水ヶ江城である。このことは大内氏・大友氏の攻撃に備えるためだったと思われる。家兼(剛忠)は戦国武将として活躍し、分家が本家村中城をしのいだという。龍造寺隆信はこの地でうまれた。
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古賀忠雄誕生地
古賀忠雄は、明治36年に佐賀市水ヶ江町105番地(現在の水ヶ江五丁目)に生まれている。 この地に、古賀忠雄誕生地の標柱が昭和61年3月31日に建てられている。 古賀忠雄は、幼少より図画、手工、習字などにすぐれ、附属小学校高等科を卒業後、佐賀県立有田工業学校図案絵画科入学。この間、日本画家腹巻丹丘に認められ、東京美術学校彫刻科彫塑部本科に入学。 在学中、第10回帝展の「仏心」を出品し初入選する。昭和14年36歳の時、第3回文展(戦後日展に改称)へ「岬の男」を出品、特選を受賞する。後に第5回文展出品「建つ大東亜」で帝国芸術院賞を受賞し確固たる地位を築く。戦後は、日展委員、審査委員、参事等を歴任、昭和42年日本芸術院会員となり日展常務理事、日本彫刻会理事長、陶彫会会長等の要職を務め多忙を極める中、深い情緒性と力強さのあいまった作品を発表し、日本彫刻界をリードした。
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佐賀米穀取引所跡
江戸時代の税の納め方は米で納めるという米納制度で、明治政府は明治6(1873)年の地租改正条例により金納制度に改められた。 そのため米穀を換金するための、米穀市場が必要となった。株式会社佐賀米穀取引所は、明治27年(1894)佐賀取引所を母体とし、佐賀市松原町に設立された。取引所の売買は、東京や大阪と同じ競り売買で行われ、米の受け渡し場所は県内各地や県外に設けられた指定倉庫とされてきた。 初めの頃は、売買も1日に2回、大阪の堂島米穀取引所の相場を見ながら行われていたが、売り上げ、出来高は順調に伸び、仲買人も年毎に増加し、業務規模も徐々に拡大され、資本金も設立時の3万円から明治34年(1901)に10万円に、さらに大正9年(1920)には30万円に増額された。 佐賀米穀取引所は、佐賀県経済の発展に大きく寄与したが、昭和14年(1939)9月、政府の米穀統制強化の結果米価が一定となり、明治以来60有余年の歴史に幕を閉じることになった。
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鍋島緞通
中央アジアからトルコ、中国を経て国産の絨毯が誕生したのは、元禄年間(1688〜1704)ではないかと言われている。 伝えられるところによると、有明海近くに住む農民、古賀清右衛門が鮮やかな色文様を入れた木綿の敷物を織ったのが最初だという。当時、華やかさから「花毛氈」と呼ばれていた。その評判を聞いた佐賀藩3代藩主、鍋島綱茂公は技術を保護し、佐賀藩御用となり、その製品は一般への売買が禁止され、将軍家への月並献上品に指定された。 明治時代に鍋島緞通は一般への販売が開始され、大島貞七という実業家が大々的に販売を手がけていた。織り手の育成が急務となり、刑務所などでも技術指導が行われ、そのころ佐賀刑務所に勤務し、更生事業を担当していた吉島正敏は、大正元年に独立。鍋島緞通製造販売を家業として開始した。
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舟木邸と珍の山唐津
舟木邸は、佐賀市柳町の旧古賀銀行の設計者である、故舟木右馬之助氏の自邸で、本人の設計施工である。 なお、舟木邸から出土した珍の山唐津について「古唐津」の解説では、朝鮮唐津の首なし徳利をそのまま、または他の首と接合して2度焼きしたものである。慶長年間、佐賀市珍の山で焼造したものと誤信するものがあるので、次の事項を掲げて説明したい。 1)珍の山陶の出土した位置は佐賀市の中心に位置する西の堀端の舟木右馬介氏の邸内であって、ここは旧佐嘉栄城をめぐる西の堀に直面し、本丸よりわずかに150mほどの近距離にあたる。慶長の頃、本丸のまじかで民需の陶窯を築くいわれはあるまい。 2)珍陶の出土した舟木邸には、焦土、窯道具類を発見しない。 3)舟木老夫人(昭和38年頃)によれば、舟木家は代々鍋島家のお納戸役を勤めた家で、先祖に古玩癖の強い人があって珍器を数多く蒐集したと伝え聞く。明治25年頃、屋敷内より偶然出土した珍陶を町の骨董商が予想以上の高値に買い取った記憶がある。その後、古物商の懇望によって明治40年頃と昭和5年頃の2回にわたって土中の珍陶はほとんど掘り出された。今数点を記念として家に残してあるが、小さい残欠はまだ床下や土中に埋っていると。 4)現在舟木邸に残されている出土陶を見ると朝鮮唐津ばかりでなく天目茶碗、絵唐津の碗鉢片口など。 あるいは無地唐津の香炉、酒盃など様々。
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あゝ佐賀城
作詞 諸隈 廣満 作曲 坂井 元次 編曲 諸隈 廣満 1.楠の茂れる城垣(しろがき)に 春秋重ねし苔の色 瞼をとじてたたずめば 星霜(せいそう)語る声聞ゆ 2.続き櫓(やぐら)の甍(いらか)映(は)え 聳(そび)え輝く鯱の雄 門扉(とびら)に矢弾(やだま)の傷深く 天守の閣は何想う 3.めぐる濠面(ほりも)の水碧(あお)く 何を写さん影映(は)えて かいまに城の消ゆと言う 巧もゆかし沈み城 4.水ヶ江・村中・佐賀城と 移りし城はかわれども 変らぬものは葉隠か しのぶ小路(こうじ)の城下町 あゝ城下町
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矢竹の生垣
市内の武家屋敷が急激に減少していく中、わずかに残る竹垣は武家屋敷の名残を見出すことができる。佐賀市の景観賞に輝いた「鍋島本村の矢竹の生垣」は、かつて鍋島氏が佐賀の地に下向した際の御館の森近く、付き従った武士の屋敷である。 矢竹の生垣は、武家屋敷の面影を今に残している。この生垣の竹は、食料や弓矢としても用いられたと伝えられている。(「ふるさと佐賀 21世紀に伝えたい、佐賀市の姿」より) 東水ヶ江地区には部分的にではあるが以下の5ヶ所で確認できた。水ヶ江4丁目 高柳家(部分)、同 茂田家(部分)、同 ふさや酒店(部分)、朝日町 牛島家、 同 鳴海家(部分)、 その中でも牛島家は南側の道路に面したところ全面に、良好な状態で残り、手入れも行き届いている。
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彫刻の森
彫刻家、古賀忠雄のブロンズ、石膏の彫像26体の作品が博物館・美術館の南側・南堀の散歩道(佐賀城公園)に設置され彫刻の森をつくっている。 また、佐賀県庁舎と佐賀県立図書館との間に「愛と平和」の像が、平和の塔建立期成会の手で建てられている。この「愛と平和」の像は、昭和39年に建立されたものである。
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龍造寺隆信
龍造寺周家の嫡子。享禄2年(1529)2月15日に水ケ江の城内で生まれた。7歳のときに、鬼丸・宝琳院で出家し、18歳で還俗して龍造寺宗家を継ぐ。 性は、剛勇果断で、肥前を統一し、筑後、筑前などを攻略した。天正10年、5州2島の太守と称せられた。 天正12年(1585)に、島津軍と島原の沖田畷で戦うが敗れて戦死した。享年56歳。 昭和4年に生誕地である中の館に巨石の記念碑が建立された。
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山本常朝
山本重澄の70歳の時の子であり、万治2年(1659)6月10日に佐賀市片田江の横の小路の屋敷で(中ノ橋小路)で生まれた。 9歳で2代藩主、鍋島光茂の御側付けになる。その後、小々姓、御書物役、京都役を勤めた。 元禄13年(1700)藩主光茂の死去により出家した。 金立村黒土原の庵で1710年から鍋島論語とも言われる「葉隠」を田代陣基に口述した。 享保元年(1716)、葉隠全11巻が完成した。その4年後に常朝死去。享年61歳 誕生地記念碑が中ノ橋小路にある。
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大隈重信
天保9年(1838 )2月16日に佐賀市水ヶ江会所小路で生まれた。藩校弘道館に学び、蘭学寮では西洋の新知識を吸収した。 明治に入り、参議、大蔵卿などを歴任、明治14年の政変で下野して、立憲改進党を組織した。 また、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立者である。 明治31年と大正3年の2回、内閣を組織して総理大臣となった。大正11年85歳で逝去。生家が保存されていて、記念館も建設されている。
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佐野常民
文政5年(1822)12月28日に佐賀市川副町早津江で佐賀藩士、下村光贇の五男として生まれる。 11歳の時、佐賀市水ヶ江枳小路の藩医佐野常徴の養子となり、14歳の時弘道館内生に抜擢された。 藩主鍋島直正の知遇を得て、藩の艦船製造に当たり、のちに明治政府に入って海軍創設に尽力した。 大蔵卿や農商務大臣などを歴任し、日本赤十字社の前身である博愛社を設けた。 この他、日本美術協会を設立し、更に博覧会総裁も務めた。明治35年81歳で死去した。
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副島種臣
文政11年(1828)9月9日に藩校弘道館教授であった、枝吉南濠の次男として佐賀市鬼丸町に生まれた。長兄は、勤王家である枝吉神陽である。のちに、赤松町南堀端の副島利忠の養子となり、藩命で京都に留学し皇学を研究、長崎では英学を学んだ。 明治政府では参与職や外務卿を勤め、のちに外務大臣、枢密顧問官となる。 中林梧竹と共に近代書の源流と言われ、明治38年に78歳で死去した。 佐賀県社会福祉会館敷地に生誕記念碑が建立されている。
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島義勇
文政5年(1822)9月12日に佐賀市与賀町精小路に生まれた。弘道館に入り、従兄枝吉神陽に学び、のちに江戸に出て佐藤一斎の門に入った。 藩主鍋島直正の命により、蝦夷や樺太を2年間探検し、直正が蝦夷開拓使長官になったときに同判事となり札幌市街の建設を行った。 明治7年に江藤新平と共に佐賀戦争を起こして敗れ、4月13日に佐賀で斬られた。53歳。 ※『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、島義勇の出生地は「西田代横 同小路南側 従東到西 六番」で、現在の佐賀市西田代にあたる。 ※写真は佐賀城公園の島義勇之像
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大木喬任
天保3年(1832)3月23日に佐賀市水ヶ江三丁目(現南水会館)で生まれた。佐賀藩士・知喬の長子で、勤王論を唱える。 明治維新で江藤新平と共に東京遷都を主張した。のちに、東京府知事、民部卿、文部卿、元老院議長、枢密院議長などを勤めた。 明治32年に68歳で死去。 南水会館に巨大な記念碑が建っている。 ※出生地について『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、「片田江北より六番横小路南側従西到東 五番」とあり、現在の佐賀市水ヶ江二丁目、枳小路で生まれている。