了関橋と蓮池藩

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了関橋と蓮池藩

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■所在地佐賀市今宿町
■年代近世
■登録ID2428

蓮池2代藩主鍋島直之は佐賀本藩4代藩主吉茂より軍学の教えをうけるため、佐賀城下へ連日通っていたが、蓮池から佐賀城下までの道のりは遠く、構口を通ってう回しなければならず苦労されていた。そこで直之は蓮池から佐賀城下まで直線で道路を作ることを計画した。城下入口にさしかかった時、川が流れていた。これが今日の裏十間川である。直之は困りはてたすえ、橋を架けることにしこの橋に了関橋と名づけた。了関とは直之の戒名で「要玄院殿了関宗勇大居士」の了関にちなんで命名されたものである。このことについては寛永3年(1626)の佐賀城下の古地図にも見ることができる。
泰国院様御年譜地取によると、享和元年(1801)下今宿西の了関橋のことについて、「旅人通路仕上りは相叶わざる場所につき西橋取相成る等に候えども其通りに、町内の者共難儀に及び候由に」と記されている。いずれにせよこの了関橋は蓮池と佐賀城下を結ぶ重要な役割を果たした。
了関の名は藩政を子にゆずったあとの戒名でもある。了関は今の千代田町へ出て構口を通り、思案橋の蔦屋から北へまがり、柳町の今の佐賀市歴史民俗館の前を通って呉服町の旧南里の前へ出て城内に向かうという大変な遠廻りをしていました。その時代はいつも戦争のことを考えていたから川に橋をかければ便利なことはわかっていても敵に攻められるときに困るから橋は増やさないきまりになっていた。佐賀藩の殿様は了関の苦労を察し宝永7年(1710)佐賀本藩の費用で橋を架けてやった。了関のおかげで橋がかけられ大変便利になったばかりか今宿で栄え、材木町から柳町附近に繁昌していた商業が、これをきっかけに水ヶ江にも広がった。

出典:あゝ佐賀城その歴史と周辺P40

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