佐賀城鯱の門及び続櫓 一棟

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佐賀城鯱の門及び続櫓 一棟

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■所在地佐賀市城内二丁目 佐賀市
■文化財指定状況国 重要文化財
■文化財指定日昭和32年6月18日
■登録ID5328

佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を鍋島直茂(なおしげ)・勝茂(かつしげ)父子によって、慶長13年(1607)から慶長16年までの佐賀城総普請によって整備拡張されたものである。
この鯱の門は、天保6年(1835)から始まる本丸再建に際し、本丸の門として天保9年(1838)に完成したものである。
本来、城門は戦時の防備に重きを置き計画されているが、建築年代が江戸時代後期でもあり、建物があるべき防備の役割は形骸化が進み、装飾的要素が前面に出てくる。
鯱の門周辺の防備は、門の南北に高石垣が連なり、本来、門と天守台までの高石垣の中ほどから、現在は削平されてしまっているが、北方に向かって土塁が設けられていた。
「櫓(やぐら)」の本来の意味は、「矢倉(やぐら)」=武器庫であり、この櫓の発展形態が天守である。櫓門とは、通用する門構えに2階を上げた形式をいう。
鯱の門に附属している続櫓は、石垣天端いっぱいには建てられておらず、「犬走り」がめぐる。1階部分の左右には、床張りの門衛所があり、また、門内北側には番所が接続されるなど、近世城郭の初期には見られない機能的な形態となっている。
建物は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓が配されている。櫓門の正面の桁行は5間(約11.9メートル)、礎石上から棟瓦上まで約12.5メートルを測る。
この門は明治7年(1874)の佐賀の役でも弾雨にさらされ、現在でも弾痕が観察できる。その後、佐賀商業学校の門として同校のシンボルとなっていた。明治以降幾度かの小修理がなされたが、建築から120余年の昭和36年(1961)に、大修理が行われた。
この昭和の大修理の際、部材に大工の氏名や年代の墨書が発見され、この門が移設や転用材を用いたものではなく、本丸再建に伴う新建築物であることがわかった。
鯱は、北方のものが、高さ1.70メートル、重量190キログラム、南方のものが高さ1.75メートル、重量210キログラム、製作者「冶工谷口清左衛門」(刻銘)とあった。谷口家は、佐賀藩の御用鋳物師であり、幕末にはわが国で最初の「反射炉」建設及び運営に活躍した。
鯱の門は、この城門に続く石垣とともに往時の佐賀城をしのぶにたる佐賀城の建物遺構として貴重である。