検索結果 RESULT
[物語・いわれ][物語・四方山話][本庄校区]は14件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 本庄校区
-
鍋島家の由来
戦国時代、九州の三大勢力にまで成長した龍造寺氏のもとで活躍した鍋島氏は、龍造寺氏の勢力が衰えると、かつての実力が認められ、同氏の跡を受け継いで領国を治めることになった。それから、江戸時代を通して幕末まで鍋島氏の藩政が行われている。 その鍋島家は、誰が、どこから、いつごろ、どうして、肥前の鍋島の地を選び居館を構えたか、同氏の活動が始まる前のことについて、裏付けとなる確かな史料は乏しいようであるが、考えられるものがいくらかある。 鍋島家の略系(源氏系)を記すと「宇多天皇-敦実親王-(10代略)-清綱-清定-清経-経定-経秀-経直-清直-清久-清房-直茂-勝茂-」となっている。 『鍋島家系図』によると、かつては山城の国長岡に住み長岡を家名としていたこの家は、経秀の代に京の北野に転居したようである。それから、経秀が初めて子経直と共に肥前に来て鍋島の地に住むようになってから、家名を「鍋島」としている。経秀は、初めは長岡伊勢守と号していたが、鍋島に来て鍋島伊勢守としている。法名は崇元である。また、子の経直は、初め佐々木長岡三郎から、父経秀と同様に鍋島三郎兵衛尉と言い、法名は道寿である。それで鍋島家の始祖は経秀であり、2代目が経直となっている。 経秀父子が肥前に西下し、鍋島に住むことになった年代を知る確かな史料は無いようである。しかし、大方その時期を推定できる一つの史料がある。それは『雲海山岩蔵寺浄土無縁如法経過去帳』でこの中の一部に「鍋嶋 崇元 永徳三四十六」と記載がある。これは、始祖の経秀(崇元)が永徳3年4月16日に死去した時を記したものである。これから、崇元の死去が永徳3年(1383)であれば、その子経直(道寿)の死亡年と併せて考えれば、この父子が西下して肥前に来たのは、南北朝中期以降、後期(1370~)の頃とされている。 それから、どんな事情か、ゆかりなどがあって肥前に西下し、鍋島に住み着いたのか、このことについても何一つ書き残されたものはないようであるが、その可能性は考えられるようである。経秀の前の住地北野は、天満宮が鎮座(北野天満宮・祭神菅原道真)するところであり、蠣久荘は、祭神を同じくする太宰府天満宮の安楽寺領荘園であって、鍋島の地は、その頃この蠣久荘に属していたと推定されるから、北野に居住し、何らかのかたちで天満宮に縁故のあった経秀が、安楽寺領荘園であった蠣久荘に来て住み、あるいはその住地に天満宮の祠を建てたということはあり得ないことではないと言われている。 今、鍋島家発祥の地「御館の森」は、地域の人たちで管理されている。この近くには、鍋島家の初めの菩提寺の観音寺がある。 南北朝時代後期頃(1370~)、鍋島経秀(法号・崇元)、経直(法号・道寿)父子が肥前の国鍋島の地を選び、そこに居館を構え本拠にしていた。これから時代は過ぎ、応永年間(1394~1427)の末頃、経直は、住居を鍋島から本庄(本庄町寺小路)に移し、ここを拠点にして活動を始めている。移住の理由は、それを裏付ける史料は見当たらないが、龍造寺村(佐賀市城内一円)を本拠地として、勢力を持つ龍造寺氏に何かの事情で近付くためであっただろうと考えられている。 本庄を本拠にした鍋島経直の後は、清直-清久-清房と受け継がれ、鍋島氏は次第に力を蓄えていった。鍋島氏が龍造寺氏の旗下に属して興隆への第一歩を踏み出したのは、享禄3年(1530)の田手畷の戦いと言われている。同年8月、肥前に侵攻してきた周防の大内勢は、東肥前に勢力を持つ少弐氏の援軍龍造寺氏と激突となりました。龍造寺氏の主将龍造寺家兼は、神埼まで出かけ大内勢の第一陣を破り、第二陣とは田手畷(神埼郡三田川町)での迎え撃ちとなった。戦いは、家兼の率いる軍勢に不利となり苦戦となった。この時、急場を突いて横合いから赤熊(しゃぐま・白熊の尾を赤に染めたもの)を被った異様な一隊が突進して、大内勢の意表を突いてかき乱し、大混乱に陥れた。強い意気込みの大内勢は、主力のものが討ち取られ筑前に逃れた。 戦功を挙げた赤熊武者の一隊は、鍋島清久・清房父子や野田清孝ら鍋島の軍勢であった。龍造寺家兼は、清久・清房父子らの働きを喜び、清房に自分の孫娘(長子家純の娘)を嫁がせた。この縁組で龍造寺と鍋島は親戚となり、二人の間に生まれたのが後の鍋島直茂(藩祖)である。それに、佐賀郡本庄(現本庄町)80町の地を恩賞として与え、これが鍋島氏隆盛の糸口と言われている。 鍋島清房は、天文20年(1552)、高傳寺を建立して鍋島家の菩提寺としました。清久、清房や、近親者の墓所は、同寺の歴代藩主の墓とは別に本堂の北側にある。
-
盲目堀(めくら堀※)物語 ※歴史的固有名詞であるためそのまま使用しています
溝口と正里との畷の中央で、佐大職員宿舎の北にある東西の水路を盲目堀と言う。 その昔直茂公が幼少の時、千本松の館より飯盛の石井常延兵部大輔の館に通って夜学に励んでいた。ある夜帰り路に荒神盲僧さんが路傍の堀に落ちて溺死せんとしているのを直茂公は助け上げた。背負って館に帰り火を起こして暖め、食事など与えて介抱し元気になった盲僧を小城まで送って行った。 盲僧は直茂公の好意を非常に喜び、行脚のとき使っていた大事な筑前琵琶を割って米3升を炊き、直茂公にすすめた。そして盲僧が言うに「この米3升の飯を食べてしまうことが出来るならば、あなたは天下を治めるでしょう」と。直茂公は3升の飯を食いつくさんと努めたが、やっと1升の飯を食べることができた。盲僧はこれを見て「あなたは一州の主となるであろう」と予言した。 その後、果たして盲僧の言葉のごとく鍋島直茂公は肥前の太守になったので、その盲僧を肥前一帯の荒神盲僧の最高位の「発頭」となし、禄石を賜った。 鍋島清久公(直茂の祖父)が生前、ある大雪の夜、一盲僧が溝に落ちてまさに凍死せんとする処に通りかかって、清久公は、これを救いあげ館に連れて帰り、火を起し湯茶を汲み、衣類を与え食物を饗して慰めたので、盲目僧は泣声を発してその仁慈に感じ厚く礼を述べて去った。数年後、清久公が伊勢参宮の帰途京都に行った時、ふとある僧に会ったが、これが偶然にも先の年助けた盲目僧であった。彼は清久公に会って大変喜び、家に招待し饗応に努めたが、やがて一面の琵琶を携えて来て「この品は異国渡来の名品である。諺に唐朝の琵琶を焼いて其烱(ホノオガノボル)に当れば、子孫が必ず国を守ると、故にこれを焼いて、大君の恩に謝せん」と言って、自らこれを焼いた。
-
詫田(多久田)の番匠物語
昔は大工や石工には階級があった。朝廷の仕事の出来るものを匠(タクミ)といった。次は番匠(バンショウ)次は棟梁(トウリョウ)次は石工、大工、弟子といった。 多久聖廟や八幡社の彫刻は、詫田番匠がこの仕事をする時には身を清め、聖徳太子の像を拝み、立派な仕事をしたと言われている。 多久田の番匠作の動物は、本物のように動き回るのでキリシタンの魔法使いと疑われ、度々役人が逮捕したが、それがまた人形ばかり。そこで役人どもが考えた末、番匠の妻の言葉に従って、寒い朝、吐く息の白いのを目印に、やっと本物の番匠を縛り上げることができたという。
-
鍋島家と千本松
鍋島家の先祖は佐々木源氏で長岡伊勢守経秀と言い、京都長岡に住まって居たが、その子三郎兵衛尉経直と共に肥前に下り、今の鍋島町に住んだ。鍋島町の東北一本松に約4畝程(約4アール)の土地があり、これを「御館の森」と称し、今なお碑石もある。経直の時代に「鍋島」と名乗り、今の本庄町東寺小路千本松に移住した。 直茂は天文7年(1538)3月13日佐賀郡本荘の千本松賢誉様(直茂公の姉で鍋島伊豆守信定の室)の館で生まれ、幼名を彦法師と言った。一時小城の城主千葉胤連の養子となったが、天文20年(1551)14歳の時、千葉家を辞して本庄に帰り、西川内の梅林庵において修養研学し、長じて太守龍造寺隆信に侍していた。初め左衛門太夫信安、また飛弾守信真あるいは信昌、信生など称したが、後に加賀守直茂と称した。 誕生地には胞衣塚があり、また日子神社を祀る。清久公(直茂公の祖父)の代より、千本松で彦山祭をなされた。お祭料として田地2反6畝5歩をお付けになり、鍋島内記が世話人で、3年に1度2月10日前後の吉日にお祭りがあった。 祭りの時は、お供物がただちにお城へ届けられ未明、徳善院(嘉瀬)が登城し、三汁十菜のお料理を召し上がり終えて、ただちに彦山へ参詣に出発された。その次に高傳寺の僧侶衆にもれなくふるまい、さらに本荘郷の僧俗、男女におふるまいになった。 その後祭事を10月15日に改め直茂公の胞衣塚の畔において、鍋島家より4間の仮家を拵え村中の老若男女を集め、赤飯の馳走をなすのが恒例になっていた。明治維新後廃止になり、大字本庄の主催にて祭事を引継ぎ、青年の奉納相撲等で賑わっていたが、昭和の戦争に突入とともに中止になった。
-
王子権現と日本武尊
景行天皇(第12代)の時代。火前国(肥前国)小津の川上(佐賀市川上付近)に取石鹿文(川上梟帥)と言う熊襲の首領がいた。 当時九州の熊襲は、朝廷にしばしば叛乱をおこし、景行天皇の26年に天皇は討伐の軍議を開かれた。 皇子小碓尊(後の日本武尊)御年15歳であったが「彼を討つために、大兵を動かし戦争をすると民業をさまたげ、民心をみだす恐れがあるから、私が行って、これを退治しましょう」と天皇に申し上げ許しを得る。 箕野国(美濃国)の弟彦公(乙彦公)が石占横立田子稲置、乳近稲置などを率いて参加したので、弟彦公を副将として、武内宿彌を補佐として、尊は西征の途に就く事となった。 尊の船は長門国より海路を取り、五島、平戸を経て有明海に入り、火の前の御崎(諌早)に一応上陸、ここよりその地の者の水先案内で、現在の西与賀あたりへ来航。それより小津江(今の多布施川の河線のあたり)を溯江し「中の龍造島」に着船になったと伝えられる。(龍造船−往昔天子の船を龍造船という。舳に龍の頭を彫刻されていたのでこの名がある。) 当時の龍造島とは、現在の佐賀城内附近より鬼丸の宝琳院附近に亘る島を上の龍造島といい、本庄の大井手(樋)附近に在ったものを下の龍造島と称え、両島の中間(約50m)の地点に碇島と呼ぶ二つの島があって相対している土地が王子権現を祭っていた島を中の龍造島と呼んでいた。 碇島は今では住宅団地の一角に祀ってある2基の碇観音により、その所在を知ることが出来る。 この上、中、下の三つの島は今こそ地続きとなってその区別も判然とせぬ位であるが、初めは、小津江中の島にして、日本武尊の龍造船がここに碇泊したので、初めて、龍造島の名が起ったのである。 かくて、仮殿を小津江の西に造り(寺小路妙見社附近)これを「本所」と称えた。 これが今日の「本庄」の名称の始まりであると伝えられる。 それから尊は龍造船を遡江して、掘江(今の市内神野町掘江神社付近)に到着、ここに諸将を集めて熊襲討伐の軍議を定めさせたのち、小舟によって上流に進み、蛎踏去(鍋島蛎久)に上陸、進んで保保川(佐保川か、春日村石井樋の西北地方)に到着された。 尊は、賊魁川上梟帥が、その親族などを集めて酒宴していることを探知し、女装して剣を懐にし、密にその宴席に入り、他の婦女子と共に働いたが、夜陰になり、梟帥も酔い臥したので、彼を刺さんとされた時、梟帥はガバと跳ね起き「待て」と叫んで「そのもとは何者だ」と尋ねた。尊は声に応じて「吾はこれ大足彦天皇(景行天皇の御名)の子、日本童男なるぞ」とおっしゃった。梟帥はこの時を嘆称して「吾れ強力国中に比すべき者無し、しかるに、その武勇皇子の如きものに出会いし事なし、よって願わくば、尊号を奉り、日本武尊と称え申すべし」と言い、尊に御名を献じた。 尊は、彼を刺殺し悪い仲間を悉く討伐され熊襲を平定した。 この時、尊に随従して来た弟彦公は神埼、小城方面の賊徒を平げ、武内宿禰は武雄地方の賊徒を討伐して、何れも征服したので、尊は翌28年2月無事都に凱旋された。 その後、景行天皇の40年10月、尊は東夷征討の途に就かれ、途中駿河国での遭難を切抜けて後、相模より上総に渡海の際には、妃弟橘媛が海に投じて、尊の為に海神の犠牲となるなど数々の辛惨を舐めさせられたる後、東夷討伐より凱旋の途中伊勢の能褒野(伊勢国鈴鹿郡)において病の為め薨去された。 尊並びに同妃の悲報を当時の我が郷土の人々が伝え聞き、追慕の念一方ならず、尊の因縁深い小津の東郷の龍造島に一宇の祠堂を建立してこれを「小碓宮」または「王子宮」と称えて祀った。 その後、元明天皇の和銅4年(711)肥前国造朝廷に奉聞するに「当国はその昔、日本武尊の熊襲討伐により、住民はその恩恵を受け、尊の600年遠忌に当り敬慕なおやまず、一寺を建立して供養せんと欲するに、一夜雷雨ありて龍神その基を開く。これ尊が来着の土地なれば、願わくば勅許を蒙りて、宮寺と致したし」と奏請して、これを龍造寺と称えた。その維持費は土地の正税をもってこれに充てた。そしてこの村を龍造寺村と称するようになった。 その開山は行基菩薩だと言われているが、一説には尊の薨去後615年行基菩薩勅命により、全国行脚の途中、龍造島に泊った時、一夜風雨激しく洪水辺りを浸したが、その満々たる濁水の中に土地浮出でて、水に浸らぬ場所があるのを見て行基はその土地の由緒などを調べたところ尊の御事趾が判明し、しかも600年遠忌に当っているので自ら開山となって、此処に龍造寺を建立し尊の霊を供養し祀ったとも言う。 龍造寺の所在は初め、今の佐賀西高等学校付近に当る所であったが、後に移転され、現在の白山一丁目の高寺がそれである。 また、小碓宮は王子権現の尊号を祀り、祠を中の龍造島に移した。(今の宝琳院南に王子権現の祠があったが、現在は大井樋の瑞應寺の境内に移す。) その後また、星霜90余年を経て、桓武天皇の延暦23年(804)伝教大師入唐の途中に当地に立寄り、龍造寺に宿泊し、堂宇の破損腐朽せるを見て、これが再興を誓願し、また王子宮の再興を誓願すると言って出立し、入唐修業1年の後帰朝して龍造寺を修築し瑞石山の山号を付称し、以来天台宗の学徒をして、住持せしむる事とした。 (『高寺縁起』より)
-
酒楽橋物語
寒若寺の前から東へ通る道路に酒楽橋が架かっている。藪陰の小さな橋で目立たないが、この橋にも物語がある。昔、大の酒好きな村人がいて、今夜もどこかで酒をひっかけ鼻歌まじりの千鳥足で帰って来たところが、暗夜道に足を踏みはずして堀に落ちこんで溺死してしまった。村人は酒を楽しみ愛した好人物へのせめてもの供養にと、橋を架けかえて「酒楽橋」と名を留め、酒は楽しむべし溺れるなとの戒めともした。 また寒若寺側の「こうじ屋」の屋号をもった御厨家は、現在13代目と言われる。御厨家は現在は純農業で、8代目頃までは「麹屋」をしていたと言う。付近の「酒楽橋」はその昔「麹屋」の11代目が、橋を補強したと言う。今はコンクリートの橋になっている。
-
陽泰院様物語
鍋島直茂がまだ龍造寺隆信に仕えていた頃の事である。ある日出陣のお供をして、上飯盛の石井館に昼食のため多勢立ち寄られた。不意の来訪に石井常延を始め家臣一同、おかずの調達に当惑していた。すると常延公の姫君彦鶴(陽泰院)は、慌てた気色もなく、赤だすきもかいがいしく、庭一杯に藁を敷き、その上に塩鰯を打ち撒き、藁で覆い火をつけた。 打ち上がる火勢を一同何事かと見ているうちに、姫君は火の消えるのを待って、程よく焼けた鰯を集め箕で選り分け、熱湯をかけて即席の肴として供応された。 これを見て、隆信始め居並ぶ家臣一同は、姫の機転のきいた接待振りに驚嘆の眼を見張った。とりわけ直茂は「あのように頭の働く人を女房に持ちたいものだ」と彼の心をとらえた。 当時直茂は31歳を過ぎ、既に前妻と離別していたと思われる。間もなくその彦鶴(29歳)と縁談が整い正妻として迎えた。 石井氏は藤原鎌足の末裔で、下総猿島郡石井郷に住んでいたが、千葉氏の縁故で肥前に来たという家系である。当主は兵部大輔常延で、その娘彦鶴が鍋島直茂の正妻になってからは、ますます石井一門は栄えた。 直茂が執心した相手だけに、むつまじく、数多い直茂の逸話には、いつも夫人が陰のように添っている。 太閤秀吉が名護屋に在陣の時、九州の大名の妻女を招かれ、遊興された時、陽泰院にも「出るように」と言って来たので、幸蔵主(太閤の侍女)に頼み断ったが、あとで幸蔵主から「身勝手を許すと例になるので、一度は出かけるように」と言って来たので、額の髪を剃って角が生えたようにつくり、みにくい面相で出かけ、お目見えになり、それ以後は出かけなかったという。
-
厄払い神の物語
上飯盛区の南西に鬱蒼たる樹木のなかに、銘名が手水権現宮という祠がある。別名を「厄払い神」と言い伝えられている。 嘉永〜安政年間(1848〜1859)の物語である。 当時佐賀一帯を流行病が襲った。人々はバタバタと倒れ死んでいった。医療技術の発達していない時代のことで、苦しむ村人に有効な手当ては出来ず、死んでいくのを見ているだけであった。 村の長者も、いい知恵が浮かばず「もう神に頼るだけ」と祈祷師を頼んで、村人全員で神に祈ったが、なんの効果もなく、流行病はいっそう猛威をふるい、村人の大半が病に倒れていった。残った村人たちは、生活の支えとなっていた有明海の神に必死に祈った。もう村の全滅も必至と思われた時、有明海の方から、高さ7寸(21cm)、長さ1尺3寸(39cm)の屋根形の石が飛んできて、祈りの輪のなかに「ドスン」と落ちた。村人は驚き「神のさずけものだ」と社を建て、この石を神体に祀った。途端に猛威をふるっていた流行病が、うそのように鎮まった。以来村人は、その社を厄払神の「手水権現」として祀っている。 空をつく木立ちを仰ぎ「こがん茂っとんない暗かけん、スカッと切ったこんにゃあ」と言ったら、その人は見上げていた首が動かんようになったという話が残っている。 高さ2.5m、幅1.5mの粗末なつくりの社だが、上飯盛の地区民たちは、今も柴や花を供えつづけ、ゴックウサン(にぎり飯)も絶えることがない。
-
鍋島安芸守茂賢柳河陣戦闘の事
慶長5年(1600)10月20日の夜明け頃、深堀鍋島600名の兵が先鋒として八ノ院についた。先鋒隊のなかでもよりすぐりの精鋭が殉死した22名の組家中の武士たちであった。相浦三兵衛が斥候に出た。「敵がこの村の向こう側にいるので一戦は避けられない」と報告をしている間に、数千の敵に囲まれてしまい、またたくまに乱戦となった。 敵は、先鋒の切り崩しにかかった。黒い鎧の敵兵6人が、横一列に並んで槍を構えて突進してくる。味方の先鋒隊は敵の進路をさえぎるため、両膝を折って槍を低く構え、しゃにむに突撃をはかる敵の胴突きを狙っている。敵は1間近くまで迫った。味方は、膝をつき、槍を構えたまま身じろぎもしない。 味方の大将安芸守茂賢は、先頭に躍り出て3尋3尺(約4.5m)の長柄の槍で6人の敵を横に払った。馬上で槍を振り落とされた敵兵は、刀を抜いて突撃してきた。 茂賢が先駆けの一人を突き伏せ、田代幸右衛門が、すかさずそいつの首をはねた。 しかし、息もつかせず、残りの敵兵が茂賢に襲い掛かる。茂賢は3人を突き刺した。 深堀猪之助は組み討ちして一人の首をかき切り、残りの3人も猪之助が血祭にあげた。 八ノ院の闘いは、このようにして開始され、激しい戦が、午前8時から午後4時ごろまで、8時間にわたって展開された。泥田のなかでの乱戦である。その内に、武雄軍が、鉄砲で援護射撃をはじめた。さすがの敵も堀に多数の死者を残して敗走した。 その2日後、22日に立花宗茂は柳河城を明け渡した。 (中尾正美氏編 『深堀資料集成』より)
-
寺家の獅子頭
この獅子面は龍造寺家兼公から本庄村寺家一門に賜わったもので、代々末次の中尾家に保存されていた。家兼(剛忠)公が獅子は百獣の王と称せられ、その威は比類無く悪魔もこれを恐れる。誠に幸喜ある獣であると仰せられ、京都紫宸殿の棟木の余材で、雌雄各1個の獅子面を作り、かねて恩顧深い末次村の寺家に下賜せられた。よって寺家一同は感激し獅子舞を考案して、目出度い言葉を揃え国家安全子孫繁昌を祈り謹んで舞い寿ぐ事にした。 毎年正月3日及び5日の両夜、西の丸元茂公(小城鍋島支藩の祖)の邸を始め寶琳院、与賀神社、本庄神社、本庄の御館屋敷、龍泰寺、御隠居所(多布施直茂公の屋敷)等に出演し、同4日7日は本丸に出演する事に定められていた。後年には家中の主なる所にも出演するようになり、寺家の獅子舞と言って有名になる。 後日談「後年に至り此獅子舞の組合の者が、与賀龍造寺の一門龍造寺信門公より米数十俵を借用しその上不都合な行為があったので、この獅子面を取上げ置かれていた所、その夜深更に家内震動し獅子があばれ出したので、信門公は非常に怒りこれを弓矢にかけられた。矢は雄獅子の左眼下に命中したので、この疵が残っている」と言い伝えられているが、この獅子頭は現在所在不明である。
-
直茂と梅林庵・寳持院
直茂は天文7年(1538)3月13日、佐賀郡本庄の館にて生れ、幼名を彦法師といい、一時小城の城主千葉胤連の養子となったが、天文20年(1551)14歳の時、千葉家を辞して本庄の館に帰り、梅林庵において修養研学に励んでいた。そのころ梅林庵の南にあった寳持院の和尚が髪の手入れ、衣裳の着付などすべてにわたって心からお世話を務めた。そこで彦法師が成長された後、寳持院に対して「何なりと望みのものがあれば、かなえてやろう」と言われたところ、寳持院は「私には、何もお願いすることはありません。ただ蒟蒻(コンニャク)を一生のあいだ食べたいと思っています。御親切におっしゃることでございますから、この望みをかなえてください」と申し上げた。それで一生涯2日に一度ずつ使いの者が、この寺へ蒟蒻を持参したということである。 彦法師は長じて龍造寺隆信に仕えた。初め左衛門太夫信安、また飛弾守信真あるいは信昌、信生などと称したが、晩年加賀守直茂と称した。
-
寳持院と鍋島直茂
「直茂公は、梅林庵にて御手習遊ばされ候。其の時分梅林庵近所の寳持院、御鬢御衣装諸事の御給仕心に入れ勤められ候。公御成長の後、寳持院へ、『何にても望みの事相叶へ遣はさるべき。』旨仰せられ候處、『私何も望みこれなく候。蒟蒻を一生たべ申し度く候。御懇に仰下さるゝ事に候間、此の望み御叶へ下され候へ。』と申し上げられ候。それより一生の内、二日に一度宛、御使にて蒟蒻を遣はされ候由。」(『葉隠』聞書三) これは『葉隠』に記されている1項である。直茂は、少年期に梅林庵で手習の間、寳持院の和尚に身の廻りなどの世話になっている。成長した直茂は、和尚に望みのもの贈ることを申し出、和尚は蒟蒻を所望した。直茂はこれに応え蒟蒻を贈り続け、いつまでも感謝の気持ちを忘れなかった。ほほえましい逸話である。
-
本荘院住持と直茂公
早朝、藤嶋生益の所へ鍋島家祈願所の本荘院住職が来て「今朝、ご本尊の御身体を拭こうと思い、宝殿を開いたら、御首が落ちておりました。早々に申上げるため、御首を持参いたしました」と袈裟の包みを差し出した。生益は「御首はご覧なされるものでないから持ち帰って下さい。お話のこときっと申し上げます」と言って出仕し、直茂公に申し上げた。 すると直茂公は「さてさてなんと憎い坊主が予を騙そうとすることか、ただちに捕手を召しつれ拷問にかけて本当のことを白状させよ」と大変なご立腹であった。生益は訳がわからず「お家のおんためを思い申し上げに参りましたのを拷問にかけるなどとは、どんなものでしょうか」と申し上げたが、「その方は出来ぬようだ。他の者に申しつける」とことのほかお叱りになった。 「出来ないわけではございません。そのようにお考えならば、住持に会って手をとり、直茂公が、ご立腹で拷問にかけようと仰せられた」と伝えたところ「それは迷惑なこと、お怒りは理解できない」と言う。さらに生益が「出家の身で不浄役人の拷問を受けてからの白状は見苦しいことだろう」と言ったので、住持も「しからば正直に申しましょう。ご本尊を拭いたところ、ご身体が動いたため、お首が落ちましたので、ふと思いつき先のように申し上げたら、ご造営もなされ、寺も栄えるだろうと思って申し上げました」と白状した。生益は急いで帰り白状したとおり申し上げると、直茂公は前と違ってお笑いなされた。生益は大いに怒って、「私を騙した遺恨晴しに磔にかけたいと思いますので、私にくださいませ」と申し上げた。 直茂公はますます笑い出されて、「その方は最初本当だと思ったため今腹を立てておる。予は、やつの企みを見破ったのでその時は腹立ったが、今はそうでもない。かの坊主め、この間予の神詣でのたびに寺に寄ってくれと申していたので一度立ち寄ったところ、吸物を出しおったが椀の底に土がついていた。そうしておいて頭を地面にこすりつけた。ありがたいことだなどと申しおった。心からありがたいと思うならば、予に出す膳は入念にする心遣いがなくてはなるまい。売僧(バイス)め許しておけないやつと日頃から思っていたが、とうとうこのようなこと謀りおったのだ。しかし祈願所ではあるし、ただ住持を代えるだけにせよ」と仰せられた。生益はすっかり恐れ入ったという。(葉隠聞書より)
-
慶誾寺にて村了和尚直訴の件
円蔵院(中の館町)の村了和尚が自分の寺の由緒が龍造寺家の菩提寺であることを申し述べ、たびたび「このように由緒ある寺でありますので、当地の12か寺の一つに加えて下さいますように」と願い出ていたが、その許しがおりなかった。 村了和尚は光茂公が、慶誾寺へ御参詣のとき、仏壇の下に隠れていて直訴を行ったが、お取り調べの結果、斬罪を命ぜられることになった。 これを聞いた高傳寺の湛然和尚は「出家をお殺しになるものではございません。拙僧が身がらをお預かりしますから、どうかお助け下さいますよう」と申し上げたが、お聞きとどけにならず、村了は首を斬られてしまった。このことを知るや、湛然和尚は、ただちに寺を出て、新庄の東善寺を経て三反田の通天庵へ入ってしまった。光茂公は使者をさしむけて、高傳寺へ帰るよう、たびたび懇請されたが、湛然和尚は承知しなかった。 光茂公は、華蔵庵を開き、開山とし扶持料10石をつけた。その湛然和尚は13年間謹慎同様の日を送って亡くなられた。