慶誾寺にて村了和尚直訴の件

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慶誾寺にて村了和尚直訴の件

■所在地佐賀市本庄町大字鹿子27
■年代近世
■登録ID788

円蔵院(中の館町)の村了和尚が自分の寺の由緒が龍造寺家の菩提寺であることを申し述べ、たびたび「このように由緒ある寺でありますので、当地の12か寺の一つに加えて下さいますように」と願い出ていたが、その許しがおりなかった。
村了和尚は光茂公が、慶誾寺へ御参詣のとき、仏壇の下に隠れていて直訴を行ったが、お取り調べの結果、斬罪を命ぜられることになった。
これを聞いた高傳寺の湛然和尚は「出家をお殺しになるものではございません。拙僧が身がらをお預かりしますから、どうかお助け下さいますよう」と申し上げたが、お聞きとどけにならず、村了は首を斬られてしまった。このことを知るや、湛然和尚は、ただちに寺を出て、新庄の東善寺を経て三反田の通天庵へ入ってしまった。光茂公は使者をさしむけて、高傳寺へ帰るよう、たびたび懇請されたが、湛然和尚は承知しなかった。
光茂公は、華蔵庵を開き、開山とし扶持料10石をつけた。その湛然和尚は13年間謹慎同様の日を送って亡くなられた。

出典:かたりべの里鹿子P.68本荘の歴史P.80

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