王子権現と日本武尊
王子権現と日本武尊
■所在地佐賀市本庄町
■登録ID708
景行天皇(第12代)の時代。火前国(肥前国)小津の川上(佐賀市川上付近)に取石鹿文(川上梟帥)と言う熊襲の首領がいた。
当時九州の熊襲は、朝廷にしばしば叛乱をおこし、景行天皇の26年に天皇は討伐の軍議を開かれた。
皇子小碓尊(後の日本武尊)御年15歳であったが「彼を討つために、大兵を動かし戦争をすると民業をさまたげ、民心をみだす恐れがあるから、私が行って、これを退治しましょう」と天皇に申し上げ許しを得る。
箕野国(美濃国)の弟彦公(乙彦公)が石占横立田子稲置、乳近稲置などを率いて参加したので、弟彦公を副将として、武内宿彌を補佐として、尊は西征の途に就く事となった。
尊の船は長門国より海路を取り、五島、平戸を経て有明海に入り、火の前の御崎(諌早)に一応上陸、ここよりその地の者の水先案内で、現在の西与賀あたりへ来航。それより小津江(今の多布施川の河線のあたり)を溯江し「中の龍造島」に着船になったと伝えられる。(龍造船−往昔天子の船を龍造船という。舳に龍の頭を彫刻されていたのでこの名がある。)
当時の龍造島とは、現在の佐賀城内附近より鬼丸の宝琳院附近に亘る島を上の龍造島といい、本庄の大井手(樋)附近に在ったものを下の龍造島と称え、両島の中間(約50m)の地点に碇島と呼ぶ二つの島があって相対している土地が王子権現を祭っていた島を中の龍造島と呼んでいた。
碇島は今では住宅団地の一角に祀ってある2基の碇観音により、その所在を知ることが出来る。
この上、中、下の三つの島は今こそ地続きとなってその区別も判然とせぬ位であるが、初めは、小津江中の島にして、日本武尊の龍造船がここに碇泊したので、初めて、龍造島の名が起ったのである。
かくて、仮殿を小津江の西に造り(寺小路妙見社附近)これを「本所」と称えた。
これが今日の「本庄」の名称の始まりであると伝えられる。
それから尊は龍造船を遡江して、掘江(今の市内神野町掘江神社付近)に到着、ここに諸将を集めて熊襲討伐の軍議を定めさせたのち、小舟によって上流に進み、蛎踏去(鍋島蛎久)に上陸、進んで保保川(佐保川か、春日村石井樋の西北地方)に到着された。
尊は、賊魁川上梟帥が、その親族などを集めて酒宴していることを探知し、女装して剣を懐にし、密にその宴席に入り、他の婦女子と共に働いたが、夜陰になり、梟帥も酔い臥したので、彼を刺さんとされた時、梟帥はガバと跳ね起き「待て」と叫んで「そのもとは何者だ」と尋ねた。尊は声に応じて「吾はこれ大足彦天皇(景行天皇の御名)の子、日本童男なるぞ」とおっしゃった。梟帥はこの時を嘆称して「吾れ強力国中に比すべき者無し、しかるに、その武勇皇子の如きものに出会いし事なし、よって願わくば、尊号を奉り、日本武尊と称え申すべし」と言い、尊に御名を献じた。
尊は、彼を刺殺し悪い仲間を悉く討伐され熊襲を平定した。
この時、尊に随従して来た弟彦公は神埼、小城方面の賊徒を平げ、武内宿禰は武雄地方の賊徒を討伐して、何れも征服したので、尊は翌28年2月無事都に凱旋された。
その後、景行天皇の40年10月、尊は東夷征討の途に就かれ、途中駿河国での遭難を切抜けて後、相模より上総に渡海の際には、妃弟橘媛が海に投じて、尊の為に海神の犠牲となるなど数々の辛惨を舐めさせられたる後、東夷討伐より凱旋の途中伊勢の能褒野(伊勢国鈴鹿郡)において病の為め薨去された。
尊並びに同妃の悲報を当時の我が郷土の人々が伝え聞き、追慕の念一方ならず、尊の因縁深い小津の東郷の龍造島に一宇の祠堂を建立してこれを「小碓宮」または「王子宮」と称えて祀った。
その後、元明天皇の和銅4年(711)肥前国造朝廷に奉聞するに「当国はその昔、日本武尊の熊襲討伐により、住民はその恩恵を受け、尊の600年遠忌に当り敬慕なおやまず、一寺を建立して供養せんと欲するに、一夜雷雨ありて龍神その基を開く。これ尊が来着の土地なれば、願わくば勅許を蒙りて、宮寺と致したし」と奏請して、これを龍造寺と称えた。その維持費は土地の正税をもってこれに充てた。そしてこの村を龍造寺村と称するようになった。
その開山は行基菩薩だと言われているが、一説には尊の薨去後615年行基菩薩勅命により、全国行脚の途中、龍造島に泊った時、一夜風雨激しく洪水辺りを浸したが、その満々たる濁水の中に土地浮出でて、水に浸らぬ場所があるのを見て行基はその土地の由緒などを調べたところ尊の御事趾が判明し、しかも600年遠忌に当っているので自ら開山となって、此処に龍造寺を建立し尊の霊を供養し祀ったとも言う。
龍造寺の所在は初め、今の佐賀西高等学校付近に当る所であったが、後に移転され、現在の白山一丁目の高寺がそれである。
また、小碓宮は王子権現の尊号を祀り、祠を中の龍造島に移した。(今の宝琳院南に王子権現の祠があったが、現在は大井樋の瑞應寺の境内に移す。)
その後また、星霜90余年を経て、桓武天皇の延暦23年(804)伝教大師入唐の途中に当地に立寄り、龍造寺に宿泊し、堂宇の破損腐朽せるを見て、これが再興を誓願し、また王子宮の再興を誓願すると言って出立し、入唐修業1年の後帰朝して龍造寺を修築し瑞石山の山号を付称し、以来天台宗の学徒をして、住持せしむる事とした。
(『高寺縁起』より)
出典:かたりべの里本荘東分P.6本荘の歴史P.102