鍋島家と千本松

鍋島家と千本松

■所在地佐賀市本庄町
■登録ID706

鍋島家の先祖は佐々木源氏で長岡伊勢守経秀と言い、京都長岡に住まって居たが、その子三郎兵衛尉経直と共に肥前に下り、今の鍋島町に住んだ。鍋島町の東北一本松に約4畝程(約4アール)の土地があり、これを「御館の森」と称し、今なお碑石もある。経直の時代に「鍋島」と名乗り、今の本庄町東寺小路千本松に移住した。
直茂は天文7年(1538)3月13日佐賀郡本荘の千本松賢誉様(直茂公の姉で鍋島伊豆守信定の室)の館で生まれ、幼名を彦法師と言った。一時小城の城主千葉胤連の養子となったが、天文20年(1551)14歳の時、千葉家を辞して本庄に帰り、西川内の梅林庵において修養研学し、長じて太守龍造寺隆信に侍していた。初め左衛門太夫信安、また飛弾守信真あるいは信昌、信生など称したが、後に加賀守直茂と称した。
誕生地には胞衣塚があり、また日子神社を祀る。清久公(直茂公の祖父)の代より、千本松で彦山祭をなされた。お祭料として田地2反6畝5歩をお付けになり、鍋島内記が世話人で、3年に1度2月10日前後の吉日にお祭りがあった。
祭りの時は、お供物がただちにお城へ届けられ未明、徳善院(嘉瀬)が登城し、三汁十菜のお料理を召し上がり終えて、ただちに彦山へ参詣に出発された。その次に高傳寺の僧侶衆にもれなくふるまい、さらに本荘郷の僧俗、男女におふるまいになった。
その後祭事を10月15日に改め直茂公の胞衣塚の畔において、鍋島家より4間の仮家を拵え村中の老若男女を集め、赤飯の馳走をなすのが恒例になっていた。明治維新後廃止になり、大字本庄の主催にて祭事を引継ぎ、青年の奉納相撲等で賑わっていたが、昭和の戦争に突入とともに中止になった。

出典:かたりべの里本荘西分P.82本荘の歴史P.28