厄払い神の物語
厄払い神の物語
■所在地佐賀市本庄町
■年代近世
■登録ID722
上飯盛区の南西に鬱蒼たる樹木のなかに、銘名が手水権現宮という祠がある。別名を「厄払い神」と言い伝えられている。
嘉永〜安政年間(1848〜1859)の物語である。
当時佐賀一帯を流行病が襲った。人々はバタバタと倒れ死んでいった。医療技術の発達していない時代のことで、苦しむ村人に有効な手当ては出来ず、死んでいくのを見ているだけであった。
村の長者も、いい知恵が浮かばず「もう神に頼るだけ」と祈祷師を頼んで、村人全員で神に祈ったが、なんの効果もなく、流行病はいっそう猛威をふるい、村人の大半が病に倒れていった。残った村人たちは、生活の支えとなっていた有明海の神に必死に祈った。もう村の全滅も必至と思われた時、有明海の方から、高さ7寸(21cm)、長さ1尺3寸(39cm)の屋根形の石が飛んできて、祈りの輪のなかに「ドスン」と落ちた。村人は驚き「神のさずけものだ」と社を建て、この石を神体に祀った。途端に猛威をふるっていた流行病が、うそのように鎮まった。以来村人は、その社を厄払神の「手水権現」として祀っている。
空をつく木立ちを仰ぎ「こがん茂っとんない暗かけん、スカッと切ったこんにゃあ」と言ったら、その人は見上げていた首が動かんようになったという話が残っている。
高さ2.5m、幅1.5mの粗末なつくりの社だが、上飯盛の地区民たちは、今も柴や花を供えつづけ、ゴックウサン(にぎり飯)も絶えることがない。
出典:かたりべの里鹿子P.32本荘の歴史P.67