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[旧佐賀市][循誘校区]は138件登録されています。
旧佐賀市 循誘校区
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清心院
永正年代(1510年前後)龍造寺豊前守胤家が居館とした。後年、西の館に移って、ここはその子の斎亮に譲った。斎亮は、深く仏を信じ、豊前の国彦山権現に参籠修行し、遂に僧となり、清心院と称することになった。やがて、居館を寺としたので法号をそのまま院号とした。 慶長年間、佐賀城構築のときから、この寺が城の東北隅にあるので、鬼門鎮護の道場とし、西北隅の天祐寺とともに、佐賀城の出城の役目をしていた。現在でも清心院の周囲には堀が残っていて、当時の要衝の地であったことを偲ぶことができる。
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思案橋
当時、材木町は武家屋敷諸用達を務める商家町で、昔の唄に『思案橋の名物は、蔦屋の一粒金、釜屋のビンツケ、野中烏犀圓現金掛け値なし』とか歌われていたようである。蔦屋では一粒金の他にも文房具.紙.うるし.金箔などを売り、釜屋(西村油屋)ではビンツケ(日本髪を結うときに使うもの)の他ろうそく.元結い油を売り、松永呉服店や野中烏犀圓等町民の生活物資を売る店で賑わっていた。当時のことばに『こげこげ舟端近い、いえいえ思案橋近かし、びんつけモテエ(元結)は安し』とはやったといわれているが、これは、『舟をこげこげ。材木、紺屋、今宿の舟つき場は近いよ。思案橋には、ビンツケ、元結が、安くてたくさんあるから、髪を結って、おしゃれができるよ。』との意味でこの周辺は、長崎街道筋ではあるし、多くの商家が立ち並び、また今宿に出入りする船のりの人達が遊んだり、佐賀名物などの買い物をするなど大変な賑わいを見せていたようである。思案橋と名前が付いたのは一説によれば、明治の終わり頃まで、この橋の側まで舟がきていたので、『ここから遊郭は近いのでさてさて行こか、帰えろうかと』この橋のそばで迷い思案(考える)したのでとの話もある。昭和18年8月戦時下で統制経済が厳しくなっていく中で、思案橋のうどんとして有名だった『うどんの橋口屋』が200年の歴史の幕を閉じることで当時の新聞に綿々とその昔を偲び廃業を惜しむ声が次の通り大きく報道された。『軒のひさしが、ほのかな陰影をそっと窓辺に落としている。昔造りの建築情緒・今は過ぎし日の華やかな1頁を語る、その名も床し思案橋のうどんの橋口屋が……の書き出し『思えばちょんまげ時代の昔から今日まで200余年の長い間、佐賀市民はもちろんのこと、近郷近在の人達にまで馴染まれていたうどん屋だけに、その廃業はわけて感慨無量のものがある』と惜しんでいる。また、この橋の側で酒造業を営み『佐賀馬鉄』を誘致したり、その当時、佐賀市の財界人として有名な伊丹家の伊丹彦次郎、田上源太郎、福田慶四郎、中野五郎氏等とともに会社創立委員として活躍するなどしていた、当時飛ぶ鳥も落とすといわれた牛島町思案橋の、美目秀麗の青年実業家『下村辰右衛門』として有名であったようである。後に多額納税貴族院議員を勤めたが、循誘校区から国会議員に出られたのは、これが始めてであり今日までその後は国会議員は出ていない。あの『次郎物語』の作者で有名な下村湖人の養父ともいわれている。
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牛島天満宮
牛島天満宮は、かつて蓮池町にあったらしく、鍋島勝茂公が佐賀城を築かれた折り、城の鬼門(北東)に当たる牛島町に移して、城の護神として祀つられた。 天満宮は全国に1万社以上あるといわれ、御祭神は菅原道真公である。学問の神様として有名である。天満宮のいわれは、『天満大自在天神』と呼ばれ、それは雷神の別名でもあるが、それを縮めて『天満宮』とか『天神さま』とか呼んだのである。 神橋前の肥前鳥居は、慶長の頃建造されたものである。この肥前鳥居の形式は、石柱の下部が力強く幅が大きくなっていて、笠木は太い柱に対して薄手で先端は流線型、一種特有の様式である。また肥前鳥居には、額束のあるのとないのものとあって、額束にしても細い角柱のものと、幅の広い方形板のもあるが一定していない。佐賀市には、牛島神社のほか与賀神社、伊勢神社、北面天満宮、掘江神社、八幡神社、本庄神社などにある。県内最古のものは、東松浦郡湊町の八坂神社にある。拝殿の前の上にある『天満宮』と彫刻の額があるが、これは大木英鉄の書である。英鉄は大木喬任の先祖で書画を善くした。また大木喬任の子で大木遠吉は、鉄道大臣のときに国鉄佐賀線を計画し推進した人である。牛島天満宮は、仁平元年(1151)道真公から第16代目に当たる、菅原教正が巨勢郷牛島村に社を創建したしたことに始まっている。牛島天満宮の境内には、樹齢千年といわれ佐賀市天然記念物に指定された楠の大樹がある。このほか石造りの肥前鳥居や、太宰府から分芽した飛び梅や古い石橋がある。また、金刀比羅神社や石造物の庚申塔、猿田彦大神、招福神の稲荷大明神等数多くの石造物があって、石造物文化財を研究する上からは、大変興味深い存在である。
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牛島神社の金刀比羅神
金刀比羅神は海上での交通安全、大漁満足の神として、漁師・水上関係者ら船舶関係者が特に信仰を寄せる神様である。この神は梵語(古代インドの文語)のクンピーラから出たといわれ、インドの聖なる河に棲むワニを、神格化したといわれ、水の神、海の神として信仰された。 日本に渡来して讃岐の国(香川県)琴平に祀られ、『金刀比羅』権現の本宮となって、全国の金刀比羅信仰の中心になっている。正式には『象頭山金比羅大権現』というのが正しい呼び方である。明治になって神仏混淆を禁ぜられてから、金刀比羅宮(ことひらぐう)と呼ばれるようになった。現在は、大物主命(おおものぬしのみこと)を祭神として、崇徳天皇を相殿として祀ってある。もともと農神であり水神であったため、農民の間にも信仰され、特に雨乞いの神として霊験があったといわれる。それが室町時代以降になり商業が盛んになるにつれて、海上交通、海運業が盛んになり、瀬戸内海交通の守護神のように崇められ、かつての農神、水神としての影が薄くなった。 瀬戸内海の海上交通は、現在想像する以上に盛んで政治、軍事、経済に大きな役割を演じていた。平常は鏡のように穏やかでも、一度荒天ともなれば波浪が高く突風が起きたり、たくさんの島々で潮流が複雑となり大変危険で、また海賊が出て航海の難儀は、おのずから危険をさけ守護してくれる神を信仰することになった。海上で遭難したとき、金比羅大権現の名を口に唱え、毛髪を切ったり、持物を海中に投ずれば難をまぬがれるという。また、暗夜に船の行く先がわからなくなったとき、この神を念ずると、きっと、ひとかたまりの火がぼーっと現れ、それを目あてに漕いで行けば、無事着岸できるといわれていた。金刀比羅宮が今日伊勢に劣らない程全国民の信仰を集め、一年間お参りする人は、400万にも及んでいるといわれるように繁盛したのは、江戸時代になってからで、慶安2年2月(1649)に幕府の朱印地となって、330石の地を給せられ、宝暦10年5月(1760)には勅願所と定められたりした。また、ここには四国第一の芝居小屋『金丸座』が常設されて、大坂や江戸の千両役者も出演し、西国の大名なども参勤交代の途中にここに立ち寄って芝居見物をしたともいわれ、3月、6月、10月の顔見世興業がとくに人気があった。佐賀市金立町の金刀比羅神社は、四国の金刀比羅宮分神で今から1300年程前に勧請されて、龍造寺、鍋島家の勅願神社として海上安全のほか農業殖産、医薬祖、福徳円満縁結びの神として祈願立願で庶民も合わせて心の支えとしてきた。牛島神社にも金刀比羅神が祀ってある。
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佐賀劇場跡
佐賀市材木町一の橋にあった佐賀劇場は、大正5年福岡市で開催された九州沖縄八県連合共進会の演芸館を古賀小一氏が払い下げを受け、当時『改良座』と称して演芸場を開設したのが始まりである。この劇場は、内側と外側が別々に回る二重の円形舞台が装置される等設備が整っていた。大正8年には『栄楽座』と改め、また昭和14年頃に『佐賀劇場』と改めた。佐賀劇場では、いろいろな演芸が上演され、芝居や浪花節(浪曲)は特に賑わい、関東関西の一流浪曲師が、この佐賀劇場の舞台で活躍し、『佐賀で浪曲の興業をやって損したことがない』と市民の間で口々に言われたこともあった。現在大相撲の国技館のように、建物の周辺には、何本も、のぼり旗が立っていて娯楽施設としての演芸場の雰囲気を一段と盛り上げていた。また、筑紫美洲(主)子さんもこの舞台で大いに活躍されていた。芝居と映画を組み合わせた『連鎖劇』といわれる新しい芝居なども上演されるなど、次の時代に出てくる常設映画館が流行するまで、佐賀市民の娯楽施設として重要な役割を演じてきた。その他当時の演芸場は、演説会、講演会などの集会場としての利用も多くあった。佐賀のガス会社の開業式も大正2年4月13日にこの改良座で行われ、佐賀県知事、佐賀市長の他400名が集まり、賑やかな式典であったと当時の新聞は報じていた。また、明治17年頃松原町新馬場に『松栄座』ができた後に『新栄座』と改められたが、(後に昭和館と改称)ここでは、佐賀市が水道施設の建設計画を進めた大正2年には、大々的な『佐賀市水道建設反対市民大会』がこの『新栄座』で開催された歴史もある。
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長徳寺の芭蕉塚
昔天明、寛政の頃に無漏庵菊亮という俳人がおり、本名は副島作次右衛門といって、芭蕉門下五十年に及んで修行してその名を全国に響かして、佐賀の俳句の世界では中興の祖と呼ばれていたが、寛政5年3月、芭蕉の百回忌に際してこれを記念し、かつ、冥福を祈念して東佐賀町の長徳寺に、高さ1.93メートルの自然石の表面に次の句を刻み建立した。 『馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり』(この句は、小夜の中山(静岡県金谷駅の北の一名所で東海道の一難所)で詠んだ句)の真筆を埋め、その上に碑を建立したもので当時肥前の俳人悉く集まり、盛大に供養を営んだといわれている。松尾芭蕉は、伊勢の津で有名な伊賀上野赤坂町に生まれ、幼名を金作といい、後に宗房と名のり、通称を甚七郎または、藤七郎、忠右衛門(忠左衛門)といった。弱年のときから、上野にいた藤堂家の若君良忠(よしただ)の近習に選ばれたが、良忠は、大変学問が好きで俳諧も北村季吟に学び、蝉吟(せんぎん)と号していたので、芭蕉もその感化を受けるようになった。 寛文2年(1662)19歳の12月29日が立春であったので『春や来し年や行けん小晦日』の句を残したが、これが芭蕉の句として知られているもっとも古いものである。 『野ざらし』の旅から帰った翌年の春、『古池や蛙飛びこむ水の音』の句を得て、芭蕉独自の詩世界が開けたのである。芭蕉のもっとも大きな旅行は、元禄2年(1689)46歳のときの陸奥、出羽、より北陸の旅であった。『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす、古人も多く旅に死せるあり、予もいづれの年よりか、片の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず』こういう書き出しで始まる『奥の細道』は、芭蕉の紀行文のなかでもっとも優れたものである。幾度か文を改め、句を作り替え、ねりにねって完成したのは5年後の元禄7年のことであった。元禄7年5月には九州への旅を思い立って、芭蕉の子ども次郎兵衛をともなって江戸を出、故郷へたちよって大阪へ入ったのは9月9日であったがそこで病気になり、10月12日の夕刻に51歳でなくなった。辞世の句は、その8日に詠んだ『旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる』である。佐賀県内には、唐津市、伊万里市、佐賀市等に芭蕉の句碑があり、蓮池公園には、『一声の江に横たふやほととぎす』の句碑がある。
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佐賀の南蛮寺(キリスト教会)
慶長年間の城下絵図の中に、材木町の北方、長徳寺と堀をへだてて、柳町の東部一帯に東西47間、南北43間の広大な面積に南蛮寺が記載されてはいるが、今はその面影を偲ぶ何物も見当たらない。慶長11年(1606)にドミニコ会のアロンソ・デ・メーナ神父が佐賀の領地内で教会を建てる許可を、佐賀の大名勝茂に申し出た。このとき、領内に教会を建てることを許したが、その前にガッコウと呼ばれる有名な僧と相談しなければならないと言った。 このガッコウと呼ばれた人物は、当時徳川家康の顧問で、鍋島家へも大きな影響力を持っていた小城の円光寺生まれの元佶和尚であった。この僧の協力で教会を設立することができたが、この元佶和尚の寛大な態度にデ・メーナ神父も非常に驚くとともに感謝したといわれている。当時仏教とキリスト教の対立が激しい時代だけにこのような形で教会設立の許可がなされた例は、佐賀以外に日本のどこにもなかったことであるといわれた。 デ・メーナ神父は早速慶長12年(1607)に鹿島の浜町に教会と修道院を建てた。また翌年鹿島に別の教会を建設した。柳町には、慶長13年(1608)に建てられた。 またドミニコ会の神父たちが浜町に教会を建てた頃、イエズス会の神父たちは嬉野町の不動山に教会を建設した。このほか白石町の須古にも建てられた。ところで佐賀の大名は、キリシタンに対し、好意はもっていたが、徳川家康が慶長17年(1612)に、第1回のキリシタン禁教令を出し、つづいて慶長19年(1614)に出されたものは、今までにない厳しいものであったし、その後秀忠、また特に家光はますます徹底的に力を入れた。 幕府の度重ねての禁教の命に従い、佐賀で教会の神父を追放したのは、慶長18年(1613)10月であったので佐賀での布教活動は、僅かに5年間であった。 佐賀の南蛮寺教会の姿を今に見ることはできないが、神戸市立美術館所蔵で、狩野永徳の弟宗秀の筆になる扇型の洛中洛外図に書かれているものを見て想像するしかないのである。
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柳町の民家・中原洋三家
中原家は、柳町の東部にあって昔の長崎街道沿いに建てられたものでその昔は、上今宿町と呼ばれていたところで、思案橋の『蔦屋』から北に行ったところに中原家があり、その向い側には大坪佐八家がある。また、すぐ北にある追手橋付近までには古い民家の町並みが見られ往時の長崎街道の面影を色濃く残している。 中原家は、『古手店、(ふるてや)貸書林を営み、唐物座札を商っていた』と古書に記されている。 循誘校区にはこのほか材木町や下今宿町など古い民家や商家などを見ることができるが、佐賀市は幸いにも今度の戦争による被害が少なく、したがって古い民家が市内各地に数多く残って、全国的に見ても珍しい建築遺産として注目されている。下今宿町付近も、佐賀藩唯一の河港として、かつては数多くの商家が建ち並んでいる豊富な民家の町並みであるが、県道の拡幅工事で姿を消して行くのはまことに残念で、鬼瓦等の一枚でも残していくように配慮をお願いしたいと思う。 九州の三大歌人といわれる人は、柳川の北原白秋、宮崎県延岡市の若山牧水、そして佐賀市久保泉町の中島哀浪氏である。 中原家の故中原勇夫氏は佐賀大学文理学部の教授をされるとともに、中島哀浪氏が主宰した『ひのくに』を継承されるとともに、幾多の歌集を出版され中でも『今泉蟹守歌文集の出版、その他万葉集の研究や杵島山に万葉杵島曲歌垣碑、中島哀浪歌碑の建設など幅広い活動を進められた。その為数々の文化功労賞を受賞され、佐賀県短歌界の発展に不滅の業績を残された。
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佐賀商業会議所の創立
明治29年(1896)4月、大隈重信は母堂法要のため30年ぶりに帰郷した。そのとき、北堀端の大坪氏宅で歓迎会が開催されたが、その席で、大隈重信は『佐賀と実業』と題して演説を行ったが、これに刺激されて、佐賀商業会議所設立の気運が起こった。 佐賀商業会議所設立には、そのころの佐賀市長永田暉明が中心的に動き、佐賀百六銀行頭取中野致明以下24人が発起人に、会議所創立委員に深川、田上、中野、西村、原口の5人が推挙され、創立委員は、たびたび会議を開き、明治29年8月30日に設立認可申請書を提出し、同年9月29日付で佐賀県庁を経て認可され、全国で43番目、九州で5番目の会議所になった。 明治30年(1897)3月27日の議員総会で、初代会頭に原口良輔が、副会頭に西村萬次郎が選ばれた。 明治37年3月には、民間のたばこ生産が禁止されても、県の生産者が困らないように、官営たばこ製造所を佐賀市に誘致する請願運動を決議し、これが誘致に成功したり、佐賀市に漆器伝習所を佐賀市の援助を受けて設置するなどの活動をした。 商業会議所設立後、明治32年には県の特産物である織物・たばこ・素麺の業者組合設立を各業者に呼びかけたりした。明治39年3月から4月まで佐賀市で開かれた九州沖縄八県連合共進会でも、物産展示、販売などを積極的に行った。 昭和3年1月、商工会議所法の実施により従来の商業会議所を、商工会議所と称するようになった。 商業会議所の事務所は、当初佐賀市役所の片隅に設け、明治38年12月、松原町の原剛一家屋に移転し、大正13年3月佐賀百六銀行跡に、大正15年11月、旧古賀銀行馬責馬場支店跡へ、その後旧古賀銀行本店跡を購入し、これを改装して昭和9年(1934)6月、ここにはじめて独立の事務所を所有することになった。 昭和29年(1954)12月に、県庁北に佐賀商工会館が建設されると、そこへ移り今日に至っている。
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八坂神社
柳町(現千代町)の元古賀銀行の南前に石造の鳥居が目につく、ここが八坂神社である。八坂神社は、祇園社ともいってスサノオノミコトを祀ってある。 ここは、大旱魃になると、金立神社に雨乞いして、お籠もりのうえ御神体を御輿に移して、有明海の沖の島まで行くことになっているが、これは『お島さん参り』といって、有明海のど真中に暗礁があり、潮が引くと表を現す、要するに沖の島信仰は雨乞いを主体とした水の神の信仰で江戸時代からの古い伝説が今日まで伝わっている。 50年に1度か大旱魃のときにこの『お島さん参り』が行われるが、前回は大正14年に行われた。このとき八坂神社と材木町の日天社で休息されることになっているが、日天社で休息されることは、鳥犀円の薬と金立山の『不老長寿の薬草』との関係があるのではないかと言われている。昔はこの神社でも盛大にお祭りがなされていたが、大変残念ながら今日ではとだえてこの祭りを見ることができない。 祇園祭りの起源は、平安遷都後まもなく毎年のように、夏に流行する疫病を御霊のたたりと考え、その退散を祈った御霊会にある。それには、牛頭天王(ごずてんのう、インドの祇園精会の守護神で疫病の神)を祀る祇園社がよいというので、祇園御霊会が行われた。御輿に、祭鉾(飾りのある長い布)や田楽、猿楽、それに風流(作り屋台)がつきしたがいました。時とともに、祇園祭りは厄払いから余興本位に転化し、鉾や台を飾り、車を付け、御輿渡し変じて山鉾巡行となった。明冶になって、神仏分離から祇園社は、八坂神社と改称され、祭礼日も6月7日〜14日が、新暦の7月17日〜24日に改められ今日に至っている。 (京都府の歴史)より 八坂神社の境内の石柵には、当時柳町や蓮池町など商店主・会社・銀行などの代表者の名前が刻んであり多くの人々の寄進や崇敬を集めていた様子が偲ばれる。 この神社の南、裏十間川に架かる橋を『成就院橋』と呼んでいるが、この橋の西北に『成就院』があったという。明治維新前に成就院という盲僧屋敷があって一かどの修行場だったが、維新のとき衰滅し、祭神の祠だけが神仏混淆の形として残こったので町の人達が修復して祭りを続けている。
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佐賀米穀取引所
明治4年(1871)5月、政府はこれまでの米納制度を廃して、金納制度を実施すると、米穀の換金が急がれ、そのため米穀相場を建てる米穀市場の必要性が起こってきた。 佐賀でも明治6年に、正米市場の設立が認可され、二つの米穀市場が業務を行ったが、明治8年に両方の市場とも姿を消した。明治17年9月にも米商会所設立について討議されたこともあったが具体化するに至らなかった。明治20年(1887)8月3日『佐賀取引所設立願』が認可され、これが後年設立された佐賀米穀取引所の母体となった。直ちに設立総会を開き、馬責馬場の鍋島家所有地を借り受け、事務所、立会場を新築することになり、予定どおり明治21年(1888)9月1日に業務が開始された。 明治26年(1893)3月、改正取引所法が公布されると、会員組織の取引所を解散し旧取引所を母体に、改めて明治27年(1894)11月に、資本金3万円の株式会社佐賀米穀取引所を設立した。最盛期の大正9年には売買総高1500余石、仲買人も設立時11人が限定人員の35人に達し、利益配当も年15割に及んだということである。 取引所の立会方法は東京大阪の各取引と同じ競り売買で行われ、売買受渡し倉庫として、下今宿、厘外津、諸富、早津江、寺井、小城、牛津、鹿島、神埼、大川、柳川、久留米、博多、長崎等の倉庫が指定された。また、一説によれば、取引所の米穀物売買受渡銀行に、柳町にあった三省銀行が指定され、この思惑投機者への貸し出しが焦げついて、明治26年に同銀行は休業したといわれている。ところが、明治43年当時の同所理事長牟田萬次郎は、伊万里市生まれで鹿島の牟田家を継ぎ、22歳で県会議員に、また鹿島銀行の創立、『西海日報』の新聞発行、九州鉄道の創設、広滝水力電気株式会社の設立や牛津の肥前板紙、祐徳軌道、佐賀軌道の開通、佐賀綿ネル会社等々に尽力した佐賀実業界の大物であった。また、明治43年には福沢財閥の福沢桃介や、電気の鬼と言われた松永安左衛門等の協力を得て九州電気株式会社を創立しようと奔走し、九分どおり話がまとまり、将来は中央財界に乗り出す構想であったと言われていた。佐賀米穀取引所は、昭和14年取引所法が改められ、全国取引所が日本米穀会社に統合され、米価が一定値段に統制されたため、同年佐賀米穀取引所は解散するに至った。
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佐賀市制成立後の佐賀市役所庁舎
明治21年(1888)4月17日国では市制.町村制の法律を作りこれを公布し、翌年の明治22年4月1日から実施されることになった。 これまで佐賀市の各町は、中の小路にあった佐賀郡役所の管轄下にあった。そこで町にするか、市にするかで幾多の激しい論争が展開されたが結局、明治23年3月18日官報で市制施行が決定した。佐賀市史第3巻によれば、佐賀県では明治22年3月27日の告示で、佐賀市役所を松原町に設置することにし、一時は新馬場の佐賀米穀取引所の2階を借り受け事務所にした。市会の方は北堀端協和館を議員控所に、旧県会議事堂を仮議場として使用することにした。と記載されている。佐賀市と同様、明治22年4月1日市制を施行したのは久留米市、門司市、熊本市などがある。その後佐賀市役所の事務所は、明治22年6月には市庁舎を旧県庁及び起業社の一部へ移転した。また本来の市役所の事務は7月1日から旧県庁舎で開始された。この旧県庁舎の場所は元市役所の東側(昔建設省佐賀国道工事事務所)である。佐賀市役所の庁舎として使用する『開庁式』は少し後になって11月3日に佐賀県知事や市議会議長の祝詞が述べられたがいずれも市制施行を地方自治の発展と捉え、国運の隆盛の基礎であるとしていた。市庁舎の建物は大変狭いので、市会の決議を経て、北堀端の協和館を県から買収し、明治27年7月31日移転した。この協和館はかつて佐賀県は難治の県として有名で、県と県民との間には円満を欠くことがあったので、その融和を図りこれを解消しようとし、公会堂式の建物が必要として明治18、9年頃に建設されたもので、当時この建物内の倶楽部ではコックを雇い洋食を提供したり、球突き台を置いたりしていたといわれている。この歴史的建造物として現在は、赤松小学校北の元測候所跡の石垣の上に移転保存されている。大正2年、佐賀高等小学校を元市役所のところに建設するため、北堀端の勧興小学校(元市役所別館付近)に、また大正9年には又々協和館に移り、大正10年再び佐賀高等小学校に戻った。このように30余年の間約10ヶ所移転していたので、昭和4年4月、市制施行以来40年にして初めて堂々たる新庁舎が落成し市民共々祝った。ところが昭和7年6月1日午前3時火災が発生し建物は全部焼失してしまった。焼失後市公会堂に仮庁舎を移したが、講演会等の行事に支障を生じたので7月に協和館に移転し、火災より1年9月後の昭和9年2月10日再築の新庁舎に移転した。今は県有地となり『佐賀市役所庁舎跡』記念碑が残されている。昭和51年佐賀国民体育大会開催の前年昭和50年5月、現在の佐賀市栄町1番1号の地に新築移転し現在に至っている。
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楊柳亭
楊柳亭は、明治15年(1882)5月、岸川平左衛門が創業し、屋号は『新川崎屋』と呼んでいた。初代佐賀県知事鎌田景弼は政務に多忙であったが、無類の左党で鋭気を養うためよくここに通っていた。しだれ柳の多かった場所にちなんで『楊柳亭』と同知事が命名した。この鎌田知事は、熊本出身で弱冠42歳で5年2ケ月の在任であったが、豊かな実力と豪放の性格で、県政発展に尽くした人であった。なかでも、当時博多久留米間の鉄道開通について努力し、『佐賀にも一つ位駅がなければ』とのことで鳥栖駅が設置されたといわれている。楊柳亭では知事の肖像写真のほか『酔石景弼』の銘入り花瓶が大切に保存されている。なお、佐賀市大和町川上宝塔山内には『鎌田景弼先生の碑文』という記念碑がある。また、第25代の吉村哲三知事は、徹底して楊柳亭通いをしていた。この飲代は、知事給与の大半を使っていたという。まさに豪遊、それでも夫人の実家が富豪で毎月の生活費は、妻の実家から届けられていたとのことである。この知事の任期は僅か8ケ月だったが、当時県社の佐嘉神社を別格官幣社に昇格させるなどの努力をされた。この楊柳亭には、佐賀で有名なあの座敷唄『梅干し』の記念碑があり、毎年2月同好者が相寄り『梅干し』の唄会が開催されている。この記念碑は、昭和38年城内公園に建てられていたものを、昭和47年楊柳亭に移設されたもので、歌碑には、『しわはよれどもあの梅干しは色気はなれぬ粋なやつ』と書かれいる。この歌は、佐賀市光明寺第12代の住職龍ケ江良俊師の作詞である。昭和24年5月全国を行幸なされていた昭和天皇陛下が佐賀の地にお立ちよりの際、『楊柳亭』に宿泊されたこともあった。この楊柳亭の庭に織部灯籠がある。別名キリシタン灯籠とも云っている。また、本庄の高伝寺や蓮池公園にもこの織部灯籠がある。京都の桂離宮には24基の石灯籠があってその中に約3分の1に当たる7基がいわゆる織部灯籠である。古田織部は、慶長5年57歳で、茶道の上では天下一となっている。また単なる茶道の大家にあきたらず、造園や建築にも非凡な才能をもち新しい芸術をめざしていた建築家であり、総合デザイナーでもあった。建築・造園は古田織部の愛弟子で、当代一流の建築家となっていた小堀遠州が恩師の死をいたみ、それとなく気付かれぬように、桂離宮という景色の中に織部への敬慕の思いをひそかに織部灯籠に託したものと考えられる。この灯籠は竿を地に生け込むことから高さを周囲の景色と調整できるといわれている。(古田織部の世界から)
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西肥銀行
馬責馬場の凌皮膚科東側角に現在福島薬局があるが、昔の西肥銀行の面影はなく写真のように『明治橋』が昔日の銀行を偲ぶのみである。 また、すぐ北則の『明治橋』は、明治37年10月佐賀馬鉄がここを起点として諸富まで、はじめて走ったところで、また、ここから近くの南には、佐賀米穀取引所もあって大変賑わっていた。西肥銀行は、米麦取引業者を中心に融資していた米穀金融会社の一つであって、大正5年9月、久保田の大地主森山定太郎と、その親戚関係にあった神埼郡三田川町の地主、橋本栄治が中心になって、久保田町徳万に資本金50万円で本店を設立し開業した。大正5年11月三田川出張所を、大正6年1月神埼支店を、さらに大正7年7月水ケ江佐賀支店を開設し、創業以来順調な推移をたどったが、9年になって橋本栄治が事業に失敗したので銀行経営は、完全に森山一族に移った。そして大正12年6月には、本拠地を県庁所在地の佐賀市に移すため、佐賀支店を本店に変更した。大正9年の恐慌、関東大震災と続く全国的な不況で、大正15年には古賀・神埼実業両銀行の取付け、休業という厳しい状況の中で、住友銀行に経営権の委譲を打診、両銀行間に了解が成立し、住友銀行から新役員を迎える段階になったが、当時の佐賀県知事が買収に強く反対したため、支配人の派遣を受け入れるにとどまった。その後約9ケ月の冷却期間をおいて、常務取締役を迎えたが、昭和3年4月には住友銀行の内地連携銀行の佐賀百六銀行と合併し、これに住友銀行が経営参加する形となった。
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循誘小学校
循誘小学校の誕生は、明治8年教正小学校という名前で紺屋町に創立されたのが始まりで、明治17年循誘公民館西隣りの長徳寺南側に当時の予算3,000円で柳町校舎が建設され、明治19年1月21日移転して開校された。学校敷地は、当時思案橋で酒造業をしていた下村辰右衛門(後に国会議員となった)が寄付したものであり、また、佐賀市仲仕組所が500円を寄付した。循誘小学校百周年記念事業が、昭和50年に盛大に実施されたがその記念誌には、この柳町校舎で学んだ人達の思い出が掲載されている。明治44年6月1日、この柳町校舎も老朽化し、狭隘となったので巨勢村に移転。その頃は校舎も新しく、校地も広く佐賀県一小学校といわれていた。小学校の門は佐賀市高木町にあるので小学校の住所は高木町となっている。また、同年それまで勧興校区だった呉服町、千代町、新馬場、馬責馬場、通り小路等が循誘校区に変更された。大正14年には創立50周年の記念式典が挙行され、その記念として校門から南の佐賀劇場手前までの直線道路が通学道路として完成した。このときに架けられた橋に『記念橋』とか『循誘橋』の名前が付けられた。昭和10年5月国鉄佐賀線が開通し、初めての汽車が通るとき、循誘小学校の子どもたちは、線路に沿って日の丸の旗を振って祝ったといわれている。この汽車は通常ガソリンカーと呼んでいて汽車の発車する時の汽笛が『ポーッ』とでなくラッパを鳴らすように『プウッー』と鳴らしていたのが印象深い。この佐賀線は、三国線とも呼ばれていて肥前、筑後、肥後を結ぶ予定で熊本の南関町まで開通する予定であった。児童の数は、創立時は118人であったのが大正10年以来常に1千人を超えていて、昭和35年には最高の34学級の1,750人を記録した。これは戦後のベビーブームが一度に押し寄せたもので、急激な児童数の増加に伴い、どこの市町村でも教室の建設に追われ苦労の時代が続いたようである。この当時佐賀県では大町小学校で3千人を超えた記録があり1学級50人から60人位で教壇のすぐ側まで机を並べていたことも珍しくなかった。しかし近年は子どもの出生率も低下し、児童数も激減している。
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願正寺
関ケ原の戦いに鍋島勝茂は西軍の豊臣方に加わり、伏見城を攻め下し伊勢の阿濃津城を攻めている間に、東軍の徳川方が勝利し西軍は敗北した。このため鍋島勝茂はたちまち進退に窮してしまった。このとき、小城出身の金持院元佶長老と、西本願寺の准如上人が、中にたち斡旋につとめたので、鍋島家も危機を脱することができた。これによって鍋島家では元佶長老のため小城に三岳寺を、西本願寺のためには、佐賀に願正寺を建立して報うることにした。願正寺には鍋島家から四百石の寺領を与え、また三岳寺にはその門前を寺領となしたので、今でも寺の一帯を門前と云っている。後に南禅寺の住職にもなった。佐賀藩領にはドミニコ会やイエズス会のキリスト教会があったが、その導入の際には、仏僧との対立で大変険悪な状態であったが、多くの反対のなかで元佶長老はこれを快諾したので、これを聞いた人は驚嘆し、なかなか信じることができなかったと云われている。願正寺は、鍋島家のためによく勤めた。寛永2年洪水のため千栗堤防が2ヶ所決壊したときは、国内の門徒を集め、その一手だけで天建寺前の660米を修復した。費用も門徒で負担したのでこれを御馳走土井と云うようになった。また、天明年間には、杵島干拓の潮止め工事に人夫を延べ3万6千人を出し完成を助けた。愛宕神社前の川を『新堀川』又は『真宗堀』と呼んでいるが、これは願正寺建立後、鍋島家が領内の真宗僧侶門徒はすべて西本願寺派の願正寺に所属するようお触れを出した折り、それに従わなかった他派の人々がいて、首謀者が捕らわれ鎮静し、首謀者は許されたがその罪を償うために掘らされた堀である。明治16年初の佐賀県臨時県会が願正寺で開かれ、明治19年まで同寺で県会が開かれたこともあった。願正寺の鐘が佐賀城本丸の時太鼓とならんで、佐賀城下の時鐘として用いられたのは、元禄9年(1696)からで佐賀城本丸の時太鼓は、藩役人の出勤時刻を知らせていたが、願正寺の時鐘は佐賀城下の市民一般に時刻を報じていた。この願正寺の鐘にヒビが生じたので、造り替える金もなかったので、春日村の『玉林寺』の梵鐘を譲り受け高寺付近から時の鐘を鳴らし、昭和3年4月に廃止した。願正寺鐘楼は全体的に屋根造りは重厚で美しい線形をしており、鐘楼としては伊勢町の真覚寺が佐賀市の文化財に指定されているが、これに勝るとも劣らないものである。
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晒橋
元呉服町と蓮池町の境で『錦通り』とも一時呼んでいたところで、光明寺の前にある橋がいわゆる『晒橋』である。この橋は、大財町副島病院南の大財橋より少し西より、願正寺の東を南に流れて、愛宕神社東を通り、晒橋から裏十間川に入る『呉服町水路』に架かる橋で、橋の欄干には往時を偲ぶガス灯が設置され復元されたのである。現在の橋になる(昭和の初期)前は、松原神社の石橋を小さくしたような形の石の太鼓橋であった。現在の橋に架け替えられた時に、県内で初めてアスファルト舗装道となって、市営バス(マイクロ)がとおった。また、橋の北側には「たなじ」があって、小さな川舟がつくこともあったし、その側に人力車の立場があった。(龍ヶ江弘誓氏談)この橋の由来は、昔ここのところに罪人を縛り、罪状を記した木札を吊し、この橋を通る人達に見せしめのため終日晒したことによると云う説と、この横の50m位上流で窓の梅の東が、かつて今宿からの最終船着き場となっていたことから、この川で布を晒したとの一説もあるが、南北の呉服町水路は『真宗堀』とも呼ばれる人工堀のため後者の説は薄いようである。このような罪人の晒場所は、ここのほか唐人町の土橋や本庄町井樋の上辺にあったらしく、また、この通りは昔構口から佐賀城下を通る長崎街道筋に当たり、この橋の西北に『本陣』の屋敷跡があった。『本陣』の屋敷があったすぐ側であるため、打ち首の晒し場所であったとは考えられないようで、今の軽犯罪者の晒しであったようである。かつてこの町は蓮池町と呼ばれていたが、その後千代町に変わり、現在ではこの橋の西側を呉服元町に、東を柳町に町名が改正され昔より有名だった蓮池町の名前は完全に消えていった。この蓮池町一帯は昔々数軒の算盤屋があって繁盛し、遠く関西方面にも取引きがあったということである。この橋から上流400m位の川を『新堀』とか『真宗堀』とかで呼ばれて、また、愛宕神社東の通りの路地を『新堀端』ともいわれ、佐賀藩と願正寺との深い関わりのあるところでもある。また、橋の側の光明寺第12代住職龍ケ江良俊師は、あの佐賀で有名な唄の『梅干し』の作詞者である。
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愛宕神社
関ケ原合戦のとき、鍋島勢は西軍に加担したことで、徳川から疑惑の眼で見られ、鍋島家の浮沈にも及ぼうとしたおり、井伊兵部少輔・本多佐渡守、円光寺住職元佶らの斡旋で、かつ、直茂の忠心に対し許され、筑後柳川の城主立花左近将監宗茂征討の命を受けた。慶長5年(1600)10月14日鍋島直茂・勝茂父子は、3万余騎を率いて佐賀を出発した。 この折り、各地方は罹災多く特に災火の禍いを憂慮された勝茂は、鍋島生三を名代として、京都愛宕山に祈願をしたところ、無事災害もなく御利運があったので御信仰を深められ、新堀端(佐賀市呉服町)に京都愛宕山より勧請された。 東京愛宕神社の祭神は、火の神(火産霊命{ほむのびのみこと})・水の神(罔象女命{みずはめのみこと})・山の神(大山祇命{おおやまつみのみこと})などで、伏せの神として広く信仰されてきた。藩政時代の火災のなかで、明暦11年(1761)1月19日高木町より出火、新堀端・呉服町・元町・中町・魚町・八百屋町・夕日町・中の小路のすべてが(332軒)焼失したとの記録がある。戦後昭和24年からは、呉服町・蓮池町・新天地・元町・白山町の協力で、夏祭りには御輿が繰り出され、災禍転除の行事が盛大に行われている。
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佐賀百六銀行
明治9年の国立銀行条例の改正後、各地に国立銀行設立の気運が強くなった。鍋島家東京本邸でも深川亮蔵が中心になって設立計画が進められ、明治10年12月には県出身の士族有志が資本を拠出し、東京第三十国立銀行が設立された。深川亮蔵はこれと並行して、佐賀鍋島家にはたらきかけ、佐賀県にも銀行設立を企図した。 明治10年6月、設立趣意書を各方面に配布すると同時に、水ケ江の宗龍寺に創立事務所を設け、出資金を募集したところ短期間で集めることができた。明治12年2月認可申請書を提出、ときの大蔵卿大隈重信の認可を受けた。 佐賀第百六国立銀行の設立は旧佐賀藩主、東京鍋島家の銀行類似業務の仕法方(出納係)深川亮蔵(東京第三十国立銀行頭取)らの援助のもとに、鍋島茂智らの旧藩士のほか、伊丹文右衛門、古賀善平ら旧藩御用商人によって、明治12年4月1日、本店を北堀端2103番地にて開業した。開業と同時に県の公金取り扱い指定を受け、明治16年7月には、国庫金出納事務を扱うなど、県下最大の国立銀行となった。 明治31年4月1日付きで、株式会社佐賀百六銀行に変更し、佐賀馬車鉄道株式会社(明治34年設立)広滝水力電気株式会社(明治39年設立)など県内主力企業の育成に積極的に力を貸した。 大正13年4月肥前銀行を吸収合併し、同年9月には本店を肥前銀行跡の佐賀市呉服町28番地2・3(元佐賀玉屋北)に移転した。 住友銀行に営業権を譲渡、第一次大戦後の反動恐慌に続く慢性的な不況により、大正15年には、県内2大銀行の取り付け休業騒動等が発生し、同行の経営も厳しくなった。昭和3年1月、同行は住友銀行に経営を委譲する方針を固め、持株の割合も住友銀行が86%を占めいわゆる住友銀行の内地連携銀行となった。 住友銀行佐賀支店は、昭和16年9月1日、1県1行主義による銀行合同の流れにしたがい、唐人町、水ケ江等の各支店を佐賀興業銀行に譲渡し、同行の本店は、住友銀行佐賀支店となった。 昭和45年11月八幡小路2-3に支店を移転し現在に至っている(※)。 ※2001年に合併により住友銀行は三井住友銀行となる。支店は駅前中央1丁目に移転。
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肥前銀行
佐賀・柳河両藩の御用商人で、かたわら酒造業、両替業を営む県下屈指の富豪で、『金善』の屋号で知られていた弥富寛一およびその一族によって、大正4年5月27日資本金50万円で設立し、川副町早津江に本店を置いた。 大正6年2月1日呉服町に佐賀支店を開設した。大正9年2月1日に佐賀支店を本店とし、旧本店を早津江支店に変更し、その後神野に出張所を設けるなど営業基盤の重点を佐賀市に移し始めた。 米麦取り引き業者を中心に融資していたが、折しも、第一次大戦後の不況に続き関東大震災が起こり、先行きを考慮し、大正13年4月佐賀百六銀行と合併した。この合併は、佐賀百六銀行を代表する鍋島家と、肥前銀行の弥富家とが幕末から明治期にかけて深い関係にあることと、両行がともに杵島炭鉱に出資したことがあげられる。 大正13年9月には、佐賀百六銀行の本店を北掘端から肥前銀行本店のあった呉服町に移した。
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佐賀中央銀行
現在、旧佐賀銀行呉服町支店となっていたところは、かつて、昔ここにあった佐賀中央銀行と、現在佐賀銀行本店のあるところに佐賀興業銀行本店があったが、この県内を二分していた両銀行が、昭和30年7月11日歴史的大合併をしてここに佐賀銀行が誕生した。佐賀中央銀行は、唐津銀行と西海商業銀行とが昭和6年8月に合併して、新しく誕生した銀行である。明治18年10月、佐賀市柳町に本店のある三省銀行は、唐津支店の営業を譲り受け、店舗は三省銀行の支店を引受け、11月2日に開業し頭取は、弱冠26歳の大島小太郎が就任した。 同銀行は、大商家が軒を並べる繁華街で立地条件にも恵まれ、順調に滑りだし、資本の増資や役員を増し経営陣の強化を行い、明治24年には純利益が、佐賀県下で一番になった。また、唐津銀行役員を中心とする30有余名の有志が、唐津鉄道㈱を設立し唐津から厳木まで開通したり、相知炭坑が機械化、火薬の使用、有望な炭層の発見などの条件に恵まれ経営が発展していった。明治45年4月、創立以来28年にして唐津の中心地に新築移転した。建物は、唐津が生んだ有名な工学博士辰野金吾が監督し、設計は清水組の田中実工学士、京都高島屋が装飾を受持1年7ヶ月をかけて竣工した。この西洋風の広壮雄大な建物に唐津市民は大変驚いた。以後今日まで当時の面影を残し、文化財的価値を高めている建物である。福岡県前原町の糸島銀行本支店6店を大正10年に合併し、また、唐津町に本店を置く相互銀行を大正13年に吸収合併した。関東大震災後、佐賀市の伊丹一族が経営する栄銀行が、深川造船所の破産により大きな打撃を受けていたので、両者の旧知である松永安左衛門の仲介もあって大正14年5月唐津銀行が栄銀行を吸収合併した。第一次大戦後不況の長期化により、銀行経営環境も悪化し、国県の意向も受けこれまで同じ唐津で明治後半以来のライバルであった西海商業銀行と合併し、昭和6年8月、佐賀中央銀行を新設した。昭和21年12月本店を唐津市から佐賀市呉服町に移し、昭和30年佐賀銀行呉服町支店となった。
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佐賀市塵芥焼却炉
佐賀市は塵芥を処理できる量が少なく、一部を土地埋め立てに利用していたが、大変非衛生的であったので、昭和11年3月市議会に建設予算が提案された。審議する中で、延期説が出るなどしたので、調査委員会を設け半年にわたる研究を進め、昭和13年8月焼却炉を建設することになった。焼却炉は、岩本式にして4火床8炉として、昭和13年9月17日、火入れ式を行った。昭和28年にこの施設を改造拡大する計画であったが付近住民の反対で実現できなかった。然し、これまでの焼却炉が次第に老朽化し、十分能力を発揮できなかったので、昭和34年に焼却炉の内部大改造を行い、これまで一日処理能力約20tを30tに引き上げた。その後、高度経済成長とともに生活水準が向上し、家庭から排出するゴミの量も年々増大し、併せて産業廃棄物もまた増加していった。この間、昭和28年には、循誘小学校、兵庫小学校の敷地の埋め立てを行い循誘小学校の敷地1,600㎡は、昭和31年埋め立てによって造成された。また、牛島天満宮裏の低地も埋め立てられた。この他昭和46年には、高木瀬町の市有池沼(蓮堀)を埋め立てて城北中学校グラウンド、佐賀県陸運事務所用地等を造成その他毎年、高木瀬、金立、久保泉、兵庫等の埋め立て可能な場所は、次々に埋め立てが行われた。佐賀市では、『1日8時間で60t、24時間操業で180t焼却することができる江口式連続燃焼型ゴミ焼却炉』の近代的ゴミ焼却場を建設するため、佐賀市高木瀬町に用地を買収し、昭和41年3月に愈々近代的ゴミ焼却場建設に着手し、昭和43年3月に総工事費約16億円をもって工事が竣工した。当初は順調に行ったが、いろいろな原因でゴミ焼却施設の稼働が十分でなかったので、『都市ゴミ破砕固形処理施設の設置や、この施設に連動する『ゴミ高速堆肥化施設(コンポストプラント)』の購入などに苦心した。現在は、嘉瀬町に埋立地を確保し、かつ、焼却施設を54年度から川崎反転ストーカ式ゴミ焼却施設の建設が進められ、55年度に完成し、今日まで運転されている。昭和41年3月に、高木瀬町にゴミ焼却場が新築し移転されたので、田代南のゴミ焼却場は、歴史の幕を閉じることになり、今日、地域の公園として整備されている。
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呉服橋
勧興小学校南から循誘校区に入る最初の橋で、すぐ近くには『大財聖堂』に因んだ聖堂橋がある。この橋は戦後呉服町角のロイヤルレストランから交通局東側を通る道路が戦後建設されたときに架けられた。 佐嘉藩主鍋島光茂は、元禄4年(1691年)城内に『鬼丸聖堂』を、武富廉斎が元禄7年(1694年)大財町六反田に敷地約1.400坪に『大財聖堂』を建てた。元禄時代から幕末までの間約170年余り学問を広めた。現在は、聖堂跡に、石造の記念碑が建っている。
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大財橋
大財本通の副島病院や、元山崎石油店の南に架かる橋である。この十間堀川を境にして、南は旧佐賀市、北はかつての神野村とに分かれていた。 大正11年に佐賀市と神野村が合併したものである。
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清心橋
十間堀川は、循誘小学校の北を経て清心院の南をとおり二次井樋に至るが、清心橋は、川のすぐ北側にある清心院に因んで橋の名前とした。なお、清心院には佐賀市文化財指定の『不動明王』の木彫像がある。
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欄干橋
松原神社の東側に『欄干茶屋』があり、藩主の休息所となっていた。また、幕府の使節などと面接する際の迎賓館としていた。光明寺の北に『本陣』があり茶屋との連絡も便利であった。この欄干茶屋に因んだ橋である。橋の北に佐賀銀行呉服町支店があった。かつては佐賀中央銀行本店で、県内2大銀行の佐賀興業銀行と昭和30年7月両銀行が合併して、佐賀銀行が創立された。
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明治橋
馬鉄の開通式が明治37年2月28日、この明治橋の始発駅で盛大に式典が行われ、大隈重信候も出席したといわれている。 また、現在の福島薬局のところには西肥銀行があった。昭和3年佐賀百六銀行と合併した。
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成就院橋
現在の八坂神社南裏十間川に架かる橋である。承応3年(1654)の絵図には橋が記載されている。昔は橋の西北に成就院と、盲僧成就院の屋敷があって、一かどの修行場だったが明治維新のとき衰滅した。
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常喜橋
循誘小学校の校門から南に突き当たりにある橋で、明治22年の『市制施行当時之佐賀市街図』にはすでに記載がある。
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旭橋
常喜橋のすぐ側の裏十間川が南に曲がるところにあって、明治22年の『市制施行当時之佐賀市街図』には、旭橋はないので、牛島町から思案橋等の方面に新道路を建設したときに架橋したものと思われる。