晒橋

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■所在地佐賀市呉服元町
■登録ID479

 元呉服町と蓮池町の境で『錦通り』とも一時呼んでいたところで、光明寺の前にある橋がいわゆる『晒橋』である。この橋は、大財町副島病院南の大財橋より少し西より、願正寺の東を南に流れて、愛宕神社東を通り、晒橋から裏十間川に入る『呉服町水路』に架かる橋で、橋の欄干には往時を偲ぶガス灯が設置され復元されたのである。現在の橋になる(昭和の初期)前は、松原神社の石橋を小さくしたような形の石の太鼓橋であった。現在の橋に架け替えられた時に、県内で初めてアスファルト舗装道となって、市営バス(マイクロ)がとおった。また、橋の北側には「たなじ」があって、小さな川舟がつくこともあったし、その側に人力車の立場があった。(龍ヶ江弘誓氏談)この橋の由来は、昔ここのところに罪人を縛り、罪状を記した木札を吊し、この橋を通る人達に見せしめのため終日晒したことによると云う説と、この横の50m位上流で窓の梅の東が、かつて今宿からの最終船着き場となっていたことから、この川で布を晒したとの一説もあるが、南北の呉服町水路は『真宗堀』とも呼ばれる人工堀のため後者の説は薄いようである。このような罪人の晒場所は、ここのほか唐人町の土橋や本庄町井樋の上辺にあったらしく、また、この通りは昔構口から佐賀城下を通る長崎街道筋に当たり、この橋の西北に『本陣』の屋敷跡があった。『本陣』の屋敷があったすぐ側であるため、打ち首の晒し場所であったとは考えられないようで、今の軽犯罪者の晒しであったようである。かつてこの町は蓮池町と呼ばれていたが、その後千代町に変わり、現在ではこの橋の西側を呉服元町に、東を柳町に町名が改正され昔より有名だった蓮池町の名前は完全に消えていった。この蓮池町一帯は昔々数軒の算盤屋があって繁盛し、遠く関西方面にも取引きがあったということである。この橋から上流400m位の川を『新堀』とか『真宗堀』とかで呼ばれて、また、愛宕神社東の通りの路地を『新堀端』ともいわれ、佐賀藩と願正寺との深い関わりのあるところでもある。また、橋の側の光明寺第12代住職龍ケ江良俊師は、あの佐賀で有名な唄の『梅干し』の作詞者である。

出典:ふるさと循誘(P.115)

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