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[旧佐賀市][循誘校区]は138件登録されています。
旧佐賀市 循誘校区
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御堂橋
もとは天神橋と云っていた。仏心寺の北西に地蔵尊を祀った小さな御堂がある。地蔵尊の名は、災難除地蔵尊と記載されている。よくここで子どもが溺死していたので、堀を調べてみたら地蔵尊が沈んでいたので、これを引き上げ御堂を建て地蔵尊をお祀りしたので、その後は災難はなくなったとのことである。
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竜頭橋
云い伝えによれば、昔ここから龍が立ちのぼったので、タツガシラ橋と云われているとのことである。龍は、竜神となって天に上り雲を呼び雨を呼ぶとの話があり、水神に通じているのでこの話は、旱魃雨乞い祈願の効果があったのではないだろうか。
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大財新橋
トヨタ自動車東に架かる橋で、大財本通りより東の大溝川の大溝橋に至る間の新道路建設に際して架橋されたものではないだろうか。昔の道路は、元水町ゴム北側から入り仏心寺の南を通り成長の家の南『中林橋』に至っていた。
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願正寺鐘楼、時の鐘
当寺の鐘楼は、鍋島3代藩主綱茂の代となった元禄8年(1695)から同9年の間に建立された。 この鐘は佐賀城下に時間を知らせる鐘として、元禄9年8月から用いられた。 時報は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までで、鐘楼役、香番役の2名が昼夜勤務をしていたようである。 鐘楼香番所は、鐘楼の石段を登った内部に設けられ、六畳敷きの部屋を住居として、そこに”時計香ためし”やその他の時を計る諸道具が備えてあったようである。この詰所で時間を計り、時が来れば、ここから更に階段を上って、四方吹き抜けの楼上で鐘をついていたと思われる。 藩からは毎年10石の鐘つき料を下付されていた。 この時の鐘は安政元年(1854)5月にはひびが入って、役目を終え、あとは白山の八幡社で撞くように命じられている。それまで約160年間、途中で鐘楼の修復再建の時期を含め、城下に時を告げる役目を続けたことになる。現在の鐘は戦後の昭和24年に鋳造したもので、毎夕5時に夕べの鐘を鳴らし、人々に親しまれている。
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殿さま御成りの間(願正寺書院)
現呉服元町の願正寺には、藩主の御成間と伝えられる書院が残されている。本堂の東側、庫裏との間に南面して建つ。屋根は、切妻造桟瓦葺、梁間は2間半で、南側に1間幅の下屋庇を降ろし、側まわり柱上には舟肘木を載せる。間取りは、西側に十畳の座敷、その東側に二十畳の次の間を並べ、南側にそれぞれ1間幅の入側線を付け、境は竹の節欄間を載せた杉戸で仕切られる。座敷は1間幅の付書院に、天袋、崩型の違棚を備え、床框は漆塗り、床構えの造作に優れる。床柱、長押は面皮付の杉村で、次の間東側にも杉戸を入れる。部屋境には上下に壁を挟んで筋欄間を入れる。 豊増龍太家(八幡小路)の造作と比較すると、柱幅、内法高、柱間、天井高など、数値的には近似をみるが、使用材料や装飾に差が見いだせ、藩主の御成間にふさわしい格式を示している。元禄15年(1702)建立の本堂があり、また本堂前の石灯籠は宝永5年(1708)の刻銘を持つので、この間に庫裏を含めて建立されたと推定され、様式から判断しても元禄から宝永頃の書院として間違いない。 佐賀城下に残された最良の書院遺構として、建築年代、建築的質、建築の由緒から見ても第一級の価値を有する。
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願正寺本堂・初の県議会会填
願正寺は慶長5年(1600)の創建であるが、現在の本堂は元禄15年(1702)の建立で、3代佐賀藩主・鍋島綱茂が大檀越となり、親類同格の多久家・多久茂文が廰主となって、当寺第6世慶海を願主として竣工した。 佐賀藩内の真宗の中心寺院として建てられた、13問四面の、九州でも有数の大きい木造建築である。歴史的に見てもほかに類をみない年輪と機能の集積を重ねた貴重な建物である。 天井裏の骨格はいろいろな種類の木材が組み合わされており、お殿様の御声がかりで藩内各地から木材が集められたようである。 また、本堂内陣と外陣の巨大な丸柱と天井の格子板はすべてケヤキ作りであり、今日では外材以外では復元不可能といわれる貴重なものである。 なお、この本堂では本来の参詣者用だけでなく、たとえば明治16年8月、初の佐賀県議会が開かれ、19年1月の臨時県議会まで通算7回の議会開催に使用されたと思われる。 当時はまだ、大勢の集会ができる大きな建物がなく、産業関係など、さまざまな会合や催しに願正寺などの城下の本堂が使用された。
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榎橋
(昭55・3)もとの橋は(昭6・7)水ヶ江二、材木二。 橋の西方、会所小路に大隈重信の生家と記念館がある。どの橋からも小路に入るには少し曲がりをつけ死角にしてある。これも佐賀城下町づくりの特徴である。橋の東北隅にお稲荷さんを祀る祠がある。中に「正一位榎森稲荷五社大明神」石造のご神体が安置され、側面に「慶応二年丙寅冬十一年吉日奉再建」(1866)の銘。昔、橋の東南に大きな榎が繁っており、社もそこにあった。榎橋から東への道路拡張で邪魔になるお稲荷さんを牛島天満宮へ返そうという町内(17班)の意見、橋近くに住む中山さんの夢に、お稲荷さんが牛島天満宮に帰りたくないと。そこで橋の北側に社を移すことにしたということである。 稲荷さんは祭りは正月、5月、7月、9月のそれぞれ8日で、材木町17班で行う。昔は夏祭りの祇園は盛大で、水上舞台ができ、町内の人だけでなく踊り手や商売人も見え、佐賀ニワカの田代熊一一座は人気があった。「じろりの六日恵比須」「榎の八日稲荷」「中の橋の十日恵比須」といって昔は材木町の各班で豪華さを競いあっていた。昔の榎橋は反橋(太鼓橋)になり、橋下を自由に船が往来できるようにしてあった。
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牛嶋口跡
史跡
江戸時代の佐賀城下には主に六箇所の入口(牛嶋口、八戸口、今宿町口、唐人町口、多布施町口、天祐寺町口)があり、木戸や番所を設けて通行人を監視していた。そのなかで、城下東に位置する牛嶋口は、牛嶋構口や慶長町口とも呼ばれ、城下の大手口として格式の高い入口のひとつとされていた。 平成28年度の発掘調査で、絵図と合致する橋の土台が発見されたことで、番所の位置も特定でき、「牛嶋口」の位置が明確になった。さらに、橋土台に築かれた石垣は、「輪取り」や「シノギ角」など、城の石垣構築に通じる技術集団の係わりが推測されるもので、対外的に見せることも意識した造りであること、橋桁を支える「枕土台」を検出したことで、絵図や文献資料から、長さ20m、幅6m規模の太鼓橋であったと考えられること、街道は砂と粘土を何層にも突き固めて整地され、人や荷車などが通るため以外に、別の意図があったことが想像される強固な地行が行われていることなど、この場所に対する佐賀藩の強い意識がうかがわれる痕跡が明らかになった。 明治時代以降、主要道路に架かる橋の多くは近代的な橋に架け替えられ、古い時代の痕跡は失われてきた。そのような中、牛嶋口の遺構が残されたのは、場所をかえて新たな橋が架けられ、その後も大きな開発の手が加えられなかったことが要因である。 牛嶋口跡は、佐賀城下の入口を示す遺構が良好な状態で残り、今では失われた橋と街道遺構の構造が一体的に判る貴重な資料として全国的に見ても数少ない例である。さらに佐賀城下を形成するにあたり、歴史的、地理的に重要な場所である。 関連情報(※URLをコピーしてご利用ください) https://www.city.saga.lg.jp/main/50105.html
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馬責馬場(うませんばば)
片田江七小路の1つで、最も北に位置する小路で、その西端には馬の調練場である馬場(勢屯:せいだまり)があったことから、この名がついたものと考えられる。
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大黒天
大黒天は、インドや中国においては古くから寺院の守護神とされ、また、豊饒を司る神として信仰されていた。わが国では大国主命と習合し、エビスとともに福神の代表的な存在となって信仰されてきた。大黒天には、甲子待ちの主尊として崇敬されているのと、福神信仰に基づくものとがあって、甲子または子の日に、夜遅くまで起きていて精進供養する行事を子待ちまたは甲子待ちといっている。甲子待ちまたは子待ちは主として農村で催されていて、県内の大黒天像の多くは農村地帯に分布している。大黒天頭巾をかぶり、右手に槌を握って右肩のところに捧げ、左手で袋の口を握り、背中に袋を背負って、2個の俵の上に立つ像で、脚が極端に短かくて、胴の下に足先だけがついているような像で、果して立像だろうかと疑念をいだかせる像もあるが、すべてが同形式の大黒天である。お顔を見ると、半月の眉、目尻の下がった細い眼、笑を含んだ口元など、典形的な福神の相である。エビスさんと大黒さんは一対をなす福神として信仰されるが、この両者の出身はそれぞれ異なって、エビスさんはわが国生まれであるのに対し、大黒さんはインドの生まれで、仏教とともにわが国に移住された異邦人である。この両者が一対となって信仰されている点は、現代風に見ると国際結婚の先駆者とでも云うべきでしょう。循誘校区内には、材木2丁目にあり、久保泉西原の大黒天は、路傍にあってとても大きく、威風堂々としている。
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佐賀のエビスさん
エビスさんは、もともと漁民の間に発生した信仰であると考えられており、今日でも漁民や漁村のエビス信仰は根強いものがある。これは、豊漁をもたらす神として、一面においては、海中より出現した神、すなわち漂着神としての信仰が濃いと云われている。中世になって、エビスは次第に商業神としての神格を強め、商家では商売繁盛を願ってエビスさんを祀るようになった。また、農村では、農神として崇拝され、田植えが終わった後に苗を三把エビスさんに供える習慣は、全国各地に見られる。農村では、10月にエビス祭りを開催しているところが多く、また、12月8日を『百姓エビス』と呼んでいるところもあるといわれる。佐賀市内では、旧城下町にエビスさんが圧倒的に多く、その数は、373体あるとの話でこれは、長崎街道の宿場町として、商家の繁栄を物語るものであろうと考えられる。周辺の農村地帯にはその数が少ないようである。このほか山村では、エビスさんを『山の神』として祀り、信仰しているところもあり、主として狩人の問に信仰が厚いようである。エビスさんの形は非常に変化に富んでいるが、右足を下ろし左足を曲げ、左脇に鯛を抱き、右手の指を曲げ、竿を執る姿が多く、また反対に、左足を下ろして右足を曲げ、右脇に鯛を抱き左手に竿を執る姿もある。変った形には、大福帳や、算盤をもった姿のものや、『釣り上げエビス』といって釣り上げたその瞬間の喜びを表現したものもある。材木1丁目の双体エビスさんは、一体が釣り、他方が釣り上げた獲物を持つという二者一具を意味する双体エビス像で、魚籠のあるのは、このエビスさんだけとのことである。台座には『寛政三年九月吉日』と彫ってあり、約200年前のもので、材木2丁目6−8のエビスさんは、元禄3年(1690)の造立で、約300年位前のもので、双体エビス像では勿論、エビス像としても市内最古のものと云われている。 ※写真は材木2丁目6−8のエビスさん
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西宮塔
文字が書かれているエビスさんとして、最も多いのが、この『西宮』塔で、このほか『西の宮』『西ノ宮』があり、そのうち数の少ないのが『西の宮』塔である。エビスを西宮として祀るのは、エビスを祭神とする摂津国の西宮社の社名を用いたものである。エビスの文字塔は、幕末以後の造立で、文字塔そのものの造立年代が比較的に新しいと云うことがわかる。この文字塔は像と比べると、極めて安価に求めることができるという利点がある。この文字塔の出現は、単なる経済的な問題のみであろうか、集団的奉祀へとエビス信仰のあり方が変わった結果であろうか、とにかく、文字塔の出現は、エビス信仰の研究上注目される課題の一つであろうと考えられる。エビス文字塔には、自然石塔や切り石塔が多く、奇麗に整形し磨かれた駒形塔もある。材木1丁目の西宮塔は、造立年の明らかなものの中で古いものといわれ、文字の下方に鯛が一匹丹念に刻まれているのも他に例がなく、注目すべきものである。文字は『西宮』と書いてあるほか『恵比須大明神』 『西宮大明神』『恵美須尊』『蛭子命』『蛭子』等があるが、『夷塔』はなく、『夷』という文字には、異郷から訪れた神と云う意味が含まれていて、エビスに対する古い時代の考え方を伝えており、蛭子には神話の流れを伝えている文字だとも考えることができるようである。
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馬頭観世音菩薩
循誘小学校の南、記念橋付近の路傍に馬頭観世音菩薩の石像仏がある。この馬頭観世音菩薩は観音様の一種で、六観音の一つである。観世音菩薩は、通称観音さんと庶民に親しまれているが、人々のあらゆる災難や恐怖を救ってくれる御利益がある。この功徳が説かれている『観音経』というお経には、どんな災難があっても観音力を一心に念ずれば決して恐れることは無いと説かれている。また、生きる勇気や自信も与えてくれるという。これは除災招福のありがたさのために、観音様は日本のいたるところに見られる。人々の願いに応じて、千手観音、聖観音、十一面観音、馬頭観音などと千変万化に姿を変えられたからである。法華経普門品に説く三十三身すなわち観世音菩薩が三十三身に姿を変えて、観音の信仰者を救済することを説いている。千手観音、聖観音、十一面観音、馬頭観音、このほか不空羂索観音、如意輪観音を総称して六観音と呼び、また、不空羂索観音の代わりに准胝観音を加えて六観音と呼ぶ場合もある。これらすべてを合わせて七観音ということもある。馬頭観世音菩薩は、頭上に馬頭を戴く観音でインドのビシュヌ神の化身が仏教にとりいれられたものといわれる。その激しい性格から、馬頭明王として、観音に珍しい忿怒の表現をして、八大明王の中にもその名があげられている。本来は、転輪聖王の宝馬が世界を縦横無尽にかけめぐるように、一切の魔障を摧破して、人悲の大願を果たす威力ある観音という意にとるべきである。六観音を六道に配して、この尊が畜生道の苦を救う観音であるところから路傍にまで見られるように一般化した。また、馬頭観音の信仰は、馬の安全を祈ること、あるいは旅の安全を祈ることになるのか、別れ路の傍に立つと、この観音が安置してあるのがみられる。特に中部山岳地帯に多い。
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青面金剛刻像塔
60日に一度めぐってくる庚申の日、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願うのが庚申信仰である。庚申とは、十干十二支の組合せでできる六十干支のうちの一つで、年や月日を数えるのに用いられるものであり、すなわち庚申とは『庚申の日の信仰』ということである。 庚申信仰は、中国の道教信仰に基づくもので、日本では江戸時代に盛んになったが、今はあまり見かけられなくなっている。道教の教えというのは、『人の身中には、みな三尸(さんし)九虫の悪い虫が宿っている。この尸虫が庚申の日には昇天して、天帝にその人の罪科を告げて記録し、生命を縮めようとしている。道を学び不老不死を得ようと思う者は、まず三尸九虫を滅しなければならない。この三尸を制するのは、庚申の夜を眠らずに守り、天帝に罪を訴えることができないようにすることである。罪が、500条に満つると、その人は必ず死ぬ。三度庚申を守れば三尸は振伏し、七度庚申を守れば三尸を長絶する』ということである。 庚申の日は、講の人達は一日中身を慎み、悪いことを見てはいけない、悪いことを聞いてはいけない、悪いことを語ってはいけない、ということで『見ざる、聞かざる、言わざる』の三匹の猿が庚申塔に刻まれて、人々に注意をうながす。もしそれを破ると、口が曲がったり、目がつぶれるなどのたたりがあるといわれている。また庚申の日の夜に夫婦が交わることを固く禁じて、この晩に身ごもるとその子は、盗人になるなどと言われる。このように一晩中眠らずに、飲んだり、食べたり、語り合って過ごすことを『守庚申』(しゅこうしん)、とか『庚申待』(こうしんまち)といった。また庚申信仰が江戸時代に盛んになったのは、実は、庚申の神は一方で農業の神、養蚕の神、馬の守り神、漁業の神とされて、庶民の現世利益の『福の神』であったからであって、その後も庚申は、泥棒除けの神、火防の神など万能の神としてあがめられた。本覚院の『青面金剛』という明王は、中央部に邪鬼を踏む六手の青面金剛立像で、六手の持物は、左に三股叉、矢、宝棒、右に、一輪、弓、羂索、頭髪を逆立て両臑を現わしている。庚申塔が他の神仏と習合する例の中で、最も多いのは道祖神である。これは庚申の申(さる)と道祖神は猿田彦だなどという俗説に由来するものと思われる。このほか大日如来と庚申との習合や、地蔵尊と習合している場合もある。庚申塔は、往々寺院の境内に立つこともあるが、普通には路傍とか、三辻などに、そしてよく塞ノ神と仲よく並んでいることもある。こんな場合は大抵村の入り口などであって、疫病神の侵入を防ぐ役目を分担するものと思われる。そのついでに道標を兼ねていることもある。庚申塔の中には、庚申、猿田彦、青面金剛等と記された文字塔の他に青面金剛の図像を刻像塔としたものもある。
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紺屋町の六地蔵さん
地蔵尊は観音菩薩とともに、最も庶民に親しまれ信仰されている菩薩である。県内の地蔵菩薩石像としては、明徳2年(1391)南北朝末期から室町時代前期の応永年間(1394−1428)にまず出現しているが、六体の地蔵を一石に彫顕した六地蔵の造立が室町時代の後期に盛んになった。 地蔵尊は、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻転生する衆生を救済するということから、六つの分身と考え六地蔵としたと云われる。 佐賀県内で一番古い六地蔵さんは、文明16年(1484)に造立された嘉瀬町荻野の路傍にあるもので、路傍にたつ地蔵尊の信仰は、道祖神よりも盛んなように見受けられ、あるいは塞(さえ)の神に習合して路上守護の役目を果たしたかもしれない。 寺院や部落の出口、墓地の入り口に多く見ることができる。このようなものは、近くでは、大財の精金寺、六反田の長楽寺、愛宕神社、清心院等にある。 紺屋町の六地蔵さんは、宝暦13年(1763)の銘がある。この形式のほか、塔身を二段に分け、上に六観音、下に六地蔵を半肉彫りにしたものもあるが、九州地方の一石六面と十二面の様式は、他地方に類を見ないと云われている。
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二十三夜塔
三夜待ち、六夜待ちともいうのは信仰的な講であったが、今では親睦的な寄合いになっている。本来、神のそばにいて共に夜を明かすことと考えられていたのが、月を待つことに変化していったものといわれている。三夜持ちは、毎月23日の夜、青年組、中老組、老人組に分かれて催す男の人達の講で、女子の二十三夜講は存在していないようである。二十三夜講塔には『二十三夜』と記されたものが最も普遍的であるが、他に『勢至菩薩』『大勢至菩薩』としたもの、『月読命』『月夜見命』『月弓尊』としたものや、更には『月天』と刻まれたのもある。 文字塔のほか、尊像や二十三夜月、あるいは瑞雲等を彫顕した『刻像塔』があるが、刻像塔の大部分が勢至菩薩像である。紺屋町の刻像塔は、文久2年(1862)の建立で、材木町の日天神社にあるのは、安政5年(1858)となっている。また、毎月の月待ち行事の他『お日持ち』があるが、これは毎月でなく年に一度行うところが多く、牛島町でもこの風習があり、この他鍋島町の蛎久では7月15日に、東脊振では、10月14日から15日に寄り合いをして酒をのみ、家々で餅つき料理を作ったりするようである。
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弁財天
水の神の祖は、罔象女神(みずはめのかみ)であったといわれるが、渡来の祇園の牛頭天王(ごずてんのう)須佐之男命(すさのおのみこと)が習合して(神と仏と折衷して一体となること。)祇園様と呼ばれ、水神となったように、時代によって信仰は多くの神々をつくりだしていった。そして水神も世の中が複雑化していくにつれて、他の神へと転化されていくことも多くなってきた。弁財天もその一人である。弁財天は一般に『弁天様』といって、七福神の紅一点で美女の代名詞になってよく知られている。インドの古代神話で河川を司る水神であったが、仏教とともに日本に伝わった。日本は、多神教の国であり、神にしろ仏にしろ、そしてその他の神もその数は無数である。そしてある一体が時によっては神になったり、仏になったりする。また神か、仏か、いずれに属するのか不明のものもなかにはある。『七福神』など元来は仏教関係で仏様を守護する神がわが国に渡来して以来、中国の道教思想が取り入れられ、さらにわが神道思想と相まって七福神という神様ができあがった。呼び名として『大弁才功徳天』『妙音天』『美声天』などがあるが、土地を沃し、五穀豊穣をもたらす『水神』として農民に尊敬されて、よく水辺とか、川辺に祀られ、水を司る神とされていた。このほか水の流れる音に因んで、音楽の神、弁舌(知恵)の神などの『技芸神』として花街の女性や多くの人々の信仰をあつめた。また、財福の神、名利を望む人に功徳があるとされ、『弁才天』が『弁財天』に改められ、現在では『水神』『農神』より、ついに『財福の神』『福神』へとその性格が変わっていった。弁財天の神使は『蛇』である。蛇が大蛇になり、やがて雲を呼んで竜となるといわれ、竜は『竜神』として雨を降らせるとして各地に『竜王』または『八大竜王』の竜神信仰も農民の間に普及していった。金立山や天山などには弁財天が祀られているが、おそらく農業用水の供給源としての水神信仰が、これらの山には古くからあって、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったと思われる。
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願正寺本堂欄間彫刻「二十四孝」
本堂内陣の欄間は全面に、寺院には珍しいたくさんの人物や動物が彫刻されている。これは中国の親孝行をした子供たちの24編の物語である、二十四孝の彫刻である。 元禄15年の本堂建立の時に作られている。物語には、寒中、雪の中に、病気の母親のために筍を掘りに行った孟宗(もうそう)の話や、冬に生魚を欲しがった母のために、氷の張った水面を裸の体温で氷をとかして魚をとった王祥(おうしょう)の話などがちりばめてある。 これは寺院の建築にあたった多久茂文が多久に孔子聖廟を造ったり、東原庠舎を建てたりして、親孝行を重んじる儒教を信奉し推奨していた影響かと思われる。欄間の裏には「左甚五郎五代末流、和泉岸上但馬五兵衛」などの名が記されている。
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種痘の先駆者、大石良英の墓地と記念碑
佐賀城本丸歴史館に掲げられるひときわ大きい絵図がある。「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」である。佐賀藩主・鍋島直正公が、長男の淳一郎君(のちの直大公)の種痘に立ち会っておられる。 当時、天然痘が猛威をふるい、多くの人が亡くなった。このころ輸入された、唯一の予防法である種痘は牛の痘苗を接種するのであるが、それを嫌がる人が多かった。そこでお殿様みずからが、嫡子に種痘させ、江戸在住の息女、貢姫にも接種された。これが成功したことにより種痘は全国的に普及し、多くの人命が救われることになった。それは我が国の予防医学の先駆けともなったのである。 この種痘之図は全国的に有名であるが、この図で種痘をしている医師が大石良英である。 良英は佐賀県立病院好生館設立当初から教導方として医療の指導にあたるなど、蘭学医として大きい功績を残した。 願正寺には大石家一族の墓地がある。平成18年、県内の医療関係者を中心に墓地整備と、顕彰碑設立が思い立たれ、顕彰碑は参道に設置された。顕彰碑には日展審査員,成冨宏氏による「種痘之図」のブロンズのレリーフがきざまれている。
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佐賀龍谷学園発祥の地-願正寺
西本願寺の第21代、明如門主は真宗教学の振興、青少年の育成のために、新しい学校制度を促進した。その一環として佐賀でも県内の真宗寺院が協同して、明治11年4月に、願正寺内で小教校が発足した。はじめは振風教校と名付けられたが、西肥仏教中学となり、さらに第五仏教中学に改められた。生徒数が増え、校舎が足らなくなったので、明治36年に、現在の水ヶ江の地に移転した。その後明治41年4月からは私立龍谷中学校として新たなスタートを切った。 「龍谷」の校名は、願正寺第11代住職の熊谷広済初代校長が、京都東山にある親鸞聖人の御廟(大谷本廟)に詣でた折、「龍谷山」とある山号の扁額を見て決めたということである。この「龍谷」の校名は、その後、京都の龍谷大学(大正11年命名)以来、旭川龍谷高校、札幌龍谷高校など、真宗関係の多くの学校に付けられたが、佐賀だけは、佐賀の地名を入れず、龍谷中学、龍谷高校と称している。最初からその校名であり、他校がそれと区別して校名の最初に地名を付けているのである。 昭和53年には創立100周年を記念して、当寺参道に「振風教校跡、佐賀龍谷学園発祥地」と刻まれた記念碑が本学園より建てられている。
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勤皇僧、離蓋の顕彰碑
幕末の動乱の中、西本願寺は勤王の志あつく、朝廷を中心とした近代国家を築き、外国の圧力に負けない国造りに尽力した。 本願寺門主の意向を受けた、当時の願正寺住職は、寺役の僧、離蓋に命じ勤皇の仕事に当たらせた。 離蓋は寺内の密室で、勤皇の志士たち、すなわち、若き頃の副島種臣、大木喬任、江藤新平、島義勇、大隈重信などの会合に便宜を図り、また僧形で全国を回り、資金を集め、各地の動乱の中にあって情報を収集し、志士達の活動に協力をした。 明治維新により志士たちは立身出世を遂げたが、離蓋は一野僧に甘んじた。時の権力者になって、東京の築地に邸宅を構えた大隈重信に、「恩返しをしたい、一生、面倒を見たい」と頼まれ上京した。 そのころ、神道を国教とする政策がとられ、廃仏毀釈のあらしが全国を襲い、廃寺させられる寺が続出し、反抗した僧侶が死罪に処せられたりする事態が起きた。 離蓋は安逸の老いの身を投げうって、政府の高位高官の間を奔走し、この国家的迷走の非なることを言を尽くして説いて回った。その働きもあって、この嵐が沈静化した。離蓋は晩年、盲目となり、佐賀に帰り、願正寺のそばの家でひっそりと波乱の生涯を閉じた。 離蓋没後、顕彰碑建立の計画があり、碑の上部に、時の本願寺門主、明如宗主の「護国扶宗」の篆書が準備された。離蓋は護国すなわち明治維新の成立を助け、近代国家となって外国の侵略を防ぎ国を護ったという意味である。扶宗は宗、すなわち仏教を助けたという意味である。 また碑文は副島種臣伯の撰文で、離蓋が明治維新の成立と廃仏毀釈の鎮静化に貢献したことが述べられている。碑文そのものは中林梧竹の書である。しかしこの碑は、当時はついに建たず、昭和の戦時中に、時代の流れもあり、建立の動きがあったが、これも終戦となって沙汰やみとなった。 たまたま離蓋の没後120年を迎え、当時の碑文の写真原板が残っていたことで、三度目の思い立ちがあり、平成19年に顕彰碑が建立された。
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呉服町通りの「ひぜんえびす屋」・道標・かど恵比須
佐賀市の中心街の中でも最も長い歴史を刻んできている店が、呉服元町で菓子製造販売の店舗をかまえている「ひぜんえびす屋」である。創業は安永年間(1772〜1780)というから、藩制期から街の栄枯盛衰を生き抜いてきた貴重な店である。 天保14年(1843)の当地域の古地図には「伊兵衛」と記してあるが、中溝伊兵衛のことであり、嘉永7年(1854)の竃帳には「菓子・饅頭店、中溝作平」とあり、中溝菓子店として昔から親しまれてきた。 店の建物も骨格はかなり古く、時代を感じさせる。 この店の角には昔からの石の道標が二本あり、それぞれ「こくらみち・ながさきゑ」「右おふくわんゑ」と刻されている。東の柳町方面から伸びた長崎街道がこの店までで行き止まり、そこから街道は東西に連なる往還、すなわち大通りを右に曲がってさらに元町方面に続いて行く。 道標のそばにお馴染みのかど恵比須があるが、幕末期の作らしい。胸には最高の福をもたらすという3個の宝珠が刻まれている。柔和ないい顔立ちである。
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八田江改修記念碑
この記念碑は佐賀江川と大崎の八田江を結ぶ河道が完成したことを記念する碑である。 佐賀江川は佐賀平野の北部や佐賀市内の排水の役割を担っているが、梅雨時の大雨や台風の大雨で、度々その能力を越え上流に洪水をもたらした。 一方八田江も市内を回流した水を大崎から有明海に排水する機能としてきた。しかし泥土の堆積によって排水能力が落ち、台風による高潮で下流地域ではしばしば大きな被害を出してきた。 これらを解決するため、枝吉の佐賀江川と大崎を結ぶ河道を開削した。枝吉に水門を設け、平時は閉じ、雨量や川の水位を見て開閉して調整している。 しかし、現在のように排水設備が完成するまでは、佐賀江川上流と八田江下流の利害が対立し、水門の開閉をめぐって水争いがあったそうである。 昭和末頃の大雨時には川副幹部が、この水門を視察している姿も見られた。 なお、この河道を掘削した土は、龍谷学園西側の堀の埋めたてに使ったり、師範学校生徒の手による運動場整備に使われたそうである。
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牛島町の二十三夜尊まつり
現在牛島町にある二十三夜尊は、構口東の江見線と旧34号線の分岐点で、副島自転車店のところに祀っていたが、道路を作るとき邪魔になるので何処かに移転しなくてはとの話が出て、いろいろ協議の結果牛島町がその候補地に挙げられることになった。牛島町の町民が協議を重ねていたところ、当時町内(思案橋のところ)で酒造業をしていた人で後に貴族院議員になったり、また佐賀馬鉄(馬車鉄道)の誘致で活躍されたり、循誘小学校の前身で柳町校舎といわれたときの学校敷地を寄付されたりした、下村辰右衛門さんが『二十三夜尊を祀った町には火災が起こらない』との話をされたので、これを契機として移転の話が決まった。移転先は、今の構口西堤防の松林を切り開いてそこに祀ることになった。そのとき、祠の石造りに安置することになり、下村さんが寄付されて明治26年7月23日に移転落成した。爾来、初代自治会長森喜太郎、2代目角町、3代目小宮、4代目吉村、5代目馬場卯一、6代目香月と二十三夜尊まつりを受け継いできた。まつりの様子は、町内に舞台を作り、花火を打ち上げ、景品の抽選会や金魚すくいなど夜は10時頃まで大変賑わった。また、午前10時には僧侶を迎えて、お祀りしていた。お蔭様でこれまで牛島町には一度も火災が発生せず大変感謝している。
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横目橋そばのエビス祭り
横目(ジロリ)橋のたもとに、元禄3年(1690)の造立になるという、佐賀市内最古の双体エビス像が銅ぶきのお堂に祀られている。ふつう夫婦エビスといわれ、ひとつの石に2体ほられているのは珍しいということである。 いつか班長さんからエビスの氏子として、お祭りの当番が廻ってくることを知らされた。そしてその1回目が意外にはやくやってきたのである。当番は1年間でお祭りは夏冬2回、夏祭りは神事のあとで御供物の餅、お菓子などを氏子に配る。冬はツウ渡しといって神事の後ごちそうを作り、次の当番の人をお招きしツウを渡す。お祭りの日は、現在では1月20日前後の都合のよい時にしているが、昔は平日でも決まった日に行なわれていた。氏子は減少し、40年前は24軒であったが現在は16軒である。お祭りには1軒より500円の抜銭をする。昭和40年代には100円であったが次第に高くなり、58年から現在まで500円の徴収である。物価の値上がりでこれだけではまかなえないが氏子や有志の方のご芳志もあって500円にすえ置きである。前日に掃除草とりをしお供えの買物をして準備をする。米1キロ紅白の餅、塩魚、野菜、酒(アカカベより献上)菓子などである。当日は天満宮の宮司さんに神事をお願いしている。昔はツウ渡しのごちそうも手づくりであったが、今は折詰をとり自分たちではお吸物をつくるぐらいであるが、食事を一緒にすれば親しくなり、固い絆ができるようで、この街に住んでよかったとしみじみ思える。昔は、横目のエビス祭りといえば大じかけに舞台がかかり、鳴り物入りで賑わっていたと云う。昔から、この川におぼれる人も無く事故ひとつ無いことを聞けば、商売繁盛のみでなくエビスのご加護とも、素直に思える。年々風化し摩滅して、顔の表情もみえないエビスの前に立つ時、時の流れを感じる。お堂は、大正15年6月の改築で西の宮改築寄附者人名塔には30円から3円の氏子の名がしるされているが、人名は薄れてはっきりしない。もう一つその横に四角い人名塔がある。これは改築前のはじめの建立者のものと思われるがはっきりしない。
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今宿(あけぼの橋)の精霊流し
精霊流しは、8月13日から始まって15日に及ぶ盆祭り最後の15日の夕刻から夜にかけて行われる。家に迎えた故人の霊を供養した後にふたたび霊を送る行事が、精霊流しである。『精霊』は舟に乗って来世に還る。というわけで初盆を迎えた家では、精霊舟をつくり精霊を送る習慣がある。佐賀では昔からこの行事は、今宿と八戸の高橋で行われてきた。長崎の精霊流しは話しによれば爆竹、花火に費用をかけるそうで、精霊流しはたいへんな賑わいといわれている。当日今宿では数軒の夜店も出て人出も多く交通が混雑するので、交通整理をしたり火災予防のため消防団員や消防車も待機して、町ぐるみでこの行事が夜遅くまでつづいている。まず、僧侶の読経と地元の婦人による御詠歌の中、申込順に場内放送により精霊舟が次々と遺族の人達により流される。船の名前も『西方丸』や『浄土丸』とかつけられて盆の供え物を精霊さんの土産として舟に入れ、舟には大小の提灯や打ち上げ花火が飾らている。精霊舟の大きいのは3メートル以上もあったりする。このとき川の中では、胴長をつけた地元町区の人々が舟や花火に火をつけ、下流に流すのを手助けする。花火が大音響とともに空に打ち上げられる。また、個人で小さな箱や舟で流す人もあって、多くの夜店と人出で、あけぼの橋周辺は夜遅くまで混雑している状況である。この今宿は佐賀城下唯一の河港として栄えたもので、この佐賀江川は、東は蓮池町から筑後川に注いで有明海に通じている。昔はこの川を利用して多くの物資が千石舟で運搬され、今宿にはたくさんの店や倉庫が立ち並んで大いに賑わっていた。陸に鉄道ができるまで、この川が交通運輸の役割を果たしていたのである。また旅人の中には長崎街道通行規定を守らず、こっそりこの町を通過するものが増えたので、佐賀藩では、橋口に木戸を設け、番人をおいて取り締まった。『佐賀名物打ち切りノンキー、玉ノンキー』は、佐賀人にとって最もなつかしい飴菓子であった。昔はこの飴をノミで切ったので、ノミキリからノンキーの名が起こったと云われ、江戸時代佐賀の今宿で作られたのが始まりと云われている。 今宿の精霊流しは、諸般の事情により、平成21年から中止になっている。
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おりきんばっちゃん
一 おりきんばっちゃん どけ行くかんた 目ぐすいびんばさげて つっくるびーて 鼻たれて 私しゃ通い小路(くうじ)のぇ 黒田さん 目のようじょう いっからや おとちぃから そりゃ又きつかない とこ 電信柱に 頭入(ずくにゅう)どんば 打ったくらんごとない 二 おりきんばっちゃん どけ行くかんた しっきれジョウリひぁーて じんぱちがさどみゃ ひっさげて 私しゃ 娘がえぇ 田植がせぇに いきよったい 何で行く あゆうでさい そりゃ又きつかない とこ うまんビーどんに トイコのふしどめゃ しいちかれんごとない
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蓮池節
蓮池の在郷辺から 糊つけ着物に 小倉の帯しめ 願正寺参りさす時ゃ ちょうどさいば藁人形 一で赤いもんな 法印さんの衣か お稲荷さんの鳥居か 朱か紅か お猿さんのお尻か 酢海老のいでがらか 次に白いもんな 豆腐に初雪 源氏の白旗 横丁のまんきやの白壁に お姫さんの内ももど 高砂のじさまとばさまが 小松の木蔭で ロすいたのを 鶴と亀とが 上下からのぞいて 若い衆は何となさるかい お前や忠信さんかい よもや狐じゃあるまいけれども この鼓をぽんと打ちゃ きゃんと鳴く 静は踊り出す 蓮池町は戦後の町村合併により現在佐賀市となっているが、市の中心部から約6キロ、佐賀平野の東南隅、筑後川の下流域の水郷地帯の中に位置する旧城下町である。 藩政時代は蓮池鍋島といわれ、佐賀藩36万石の一支藩であった。したがって葉隠で代表される旧藩時代のおもかげが、今も町並、風習、言葉づかい等に色濃く残っている。もともと佐賀地方には面浮立、田楽等の民俗芸能か、箪笥長持唄、万才くずし等の祭祝行事とむすびついた民謡のほか、特にすぐれたものがないのは、佐賀藩の方針としてきわめてきびしい勤儉令を実行し、歌舞音曲や芸事は軟弱とする気風があったからだといわれる。蓮池も他の鍋島家中と同じく、質素儉約、文武両道の奨励の気風の中にも仲々の芸所として知られている。その蓮池町に大正から昭和にかけて樺島政市さんという盲人の三味線上手があったが、妻女のおしげさんに手をひかれて門付けをして人々から大変したしまれた。この政市さんがつくったのがこの蓮の池節、水田耕作を主とする農民生活と古雅な城下町の人情、風俗をおどけた調子で風刺描写して大変よろこぼれたそうである。
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「蓮池節」と「おりきんばっちゃん」-願正寺参りのうた
願正寺は江戸時代を通じ、佐賀藩全体を束ねる触頭(ふれがしら)として、藩や本願寺との関わりも深く、また、信仰的にも中心寺院として藩内一円から多くの参詣があった。「願正寺に参れば御本山に参ったも同じ」といわれ、御正忌報恩講や春秋の彼岸法要の折は、たとえば諸富の街道は朝早くからカラカラという下駄の音が途切れなく続いていたそうである。脊振の山などから一晩かかって歩いてきていたという寺の参道には念珠などを売る店も立ち並び賑わっていた。蓮池方面からの願正寺参りを面白く歌ったのが蓮池節で、佐賀お座敷歌として花柳界などで流行した。作者は門つけをしていた樺島政市さんで、明治、大正、昭和と、蓮池から佐賀に出てきて、三味に合わせて歌いつづけていたそうである。また、「おりきんばっちやん」の民謡は、本来、一番だけが伝わってきたが、近年、願正寺参りの歌詞なども加わり、ユーモアたっぷりに歌われている。どちらも踊りの振り付けがされている。 なお、昔は交通の便もなく、地方から佐賀の街に出ることも少なく、願正寺参りなどで佐賀にきたついでに呉服ものを買う人が多く、門前町として、呉服屋が多い呉服町などが形成されたといわれる。
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牛島天満宮の飛び梅
昭和15年10月23日の佐賀新聞によれば、神埼郡千歳村崎村の出身で東京に住む三浦光二氏が千歳村の庭内に太宰府天満宮の『飛び梅』の芽生を移植した老木があることが判り、その老木の根元からさらに芽生えた梅の木が献木されたとの記事が掲載されている。三浦光二氏の曾祖父に当たる肥前蓮池藩士古賀源太輔は、毎月太宰府天満宮に月参りを続けるうち、当時の宮司小西摂津守と昵懇になり、同神社の御更衣祭に際して、菅公着用の御衣の一片を拝領更に文久3年同神社境内にある安楽寺、司務正別当.延寿王院の法印信全から菅公御尊容にと『飛び梅』の芽生えとともに墨附を拝受されたのである。太宰府天満宮の『飛び梅』は醍醐天皇延喜5年の社殿造宮以来しばしば兵火の難を受け、現存するのはその代樹であるが、奇しくも佐賀県に太宰府天満宮の『飛び梅』の老木が見つかったのである。