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[旧佐賀市][循誘校区]は138件登録されています。
旧佐賀市 循誘校区
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十間堀川
十間堀川は、佐賀城の外堀の役目を果たしていた。即ち平城であったために、この十間堀川は、ほぼ東西に流れ、勧興小学校の南、循誘小学校の北を経て大財六丁目の南二次井樋までおおよそ1,900m、ここで大溝川に合流し、枝吉樋門まで1,400m合わせて3.3kmにおよんで、川幅は十間(18.2m)あったので十間堀川と云っていた。 この十間堀川の特徴は、佐賀市の北部の河川水を受け、高低差の少ない排水河川である。かつて今宿に千石船が出入りした頃できるだけ川に水を溜めておく必要があったので、下流の蓮池地区には蛇のように曲がりくねったいわゆる蛇行の河川だった。このため枝吉樋門から八田まで河川を改修したり、蒲田津に大きな強制排水ポンプ場を設置して排水能力を高めている。
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裏十間川
この川の北側は、中の小路・中央本町・呉服元町・柳町、川の南側は、松原1丁目から4丁目となっている。上流には、東魚町橋・恵比須橋があり循誘校区の最初は、欄干橋となっている。欄干橋以東は、武家地と町地の境となっている。
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紺屋川
呉服町水路の、元窓の梅東裏を起点として東に流れ旧古賀銀行の北を通って、藤影幼稚園の南から、兵庫屋の追手橋で南に曲がり香月酒屋から思案橋を下り貫通道路の紺屋橋を経て、今宿で佐賀江に合流している川である。
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小寺川
巨勢川西の兵庫町一帯(土井.藤木.西淵.東淵.西中野.下村)の水田の農業用水を受け持つのが、この小寺川であり、上流は川上川の分水で小寺井樋から五領.長瀬.下高木を流れて兵庫町に至っている。
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大溝川下水路
佐賀市消防署の西側を南下し、鉄道線路の下に大藤橋がありこの線路をこえて戸上電機の東の水路を下ると、元佐賀線跡地の道路と金立に至る県道との交差点(大財北町住宅南)の西側に大財橋(昭和45年)がある。 大財橋から約100m南に『楠の木塚橋』があるが、この橋は大財本通りから大財六丁目を経て、兵庫町下村に通じる道路新設工事の道筋に当たるため、新しく鉄筋の橋に1994年架け替えられた。また、大溝橋は、西の元佐賀線跡地の道路新設工事と合わせて、新しい鉄筋のコンクリート橋が完成し面目を一新している。この南三叉路に架かる橋は、火薬庫橋と名付けられているが、この直ぐ西には昔火薬を保管する場所があった。この付近には人家もなく淋しい所であったが現在では、住宅が立ち並んで賑やかな所となっている。この橋から流れた川は、東の二次井樋で十間堀川と合流している。
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大溝都市下水路
大溝川下水路と十間堀川とは二次井樋付近で十間堀川と合流し南下するが、この二次井樋付近は昔『野越し』といって道路より高く水位が上がれば、道路を自然に越して水は他の方に流れる仕組みが、長い間の村と村との間に定められた治水の慣行であった。 これは、この井樋の東は三間川で、西の大溝川と東の幹線水路との間の水量を調整する役目をもっていたのである。しかしながら大水の場合は早急に排水する必要があるので、それぞれ河川の改修や強制排水ポンプなどの設置で、大雨の被害を最小限度に止めるための努力がされている。 二次井樋から南下した水路は、桜大橋を経て構口橋に至っている。
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十島水路
大藤橋(佐賀市消防署西側の河川が、西鉄営業所前でJR長崎本線と交差する場所の橋)から南に入り、戸上前橋、八の坪橋(生長の家西北)中林橋(生長の家西南側)それから十島橋を経て下流は大藤水路と合流して十間堀川に入っている水路である。
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呉服町水路
大財橋より少し西より、願正寺東に南下し、高木町の天神橋を通り愛宕神社、光明寺前の晒橋から裏十間川に流れる。 昔この水路は『新堀』または、『真宗堀』とよばれ、南北400mの短い水路であるが歴史のある水路である。
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高木町水路
高木町水路は、願正寺の東南で新堀と十文字に交差して、大財通りの『井手酒屋』北を通り、循誘小学校校門南前から東の川崎米穀店北に流れ、東佐賀町を経て、長専寺の横から構口橋北で大溝都市下水路に至っている。
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芦町水路
呉服町水路の愛宕神社東から分流して、大財町本通り『春駒』の南に架かる『芦町橋』を東に流れ、循誘小学校の南の『循誘橋』から東の追手橋北に至っている。また、牛島天満宮の西鳥居の『天満橋』は芦町水路に架かっている。
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大藤水路
大溝川の『藤の木橋』から分かれて南流しているが、新村川の末端である、愛敬島水路や大財水路とも連絡している。主な橋に、鶴橋、北御堂橋、御堂橋、竜頭橋、大財新橋があり、末は十間堀川に至っている。 ※写真は北御堂橋、竜頭橋、大財新橋
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下村辰右衛門
東京・新橋を走った東京鉄道馬車が、電車になるため、「不用になる客車やレールを使って、佐賀県内にも馬車鉄道を敷いたらどうか」、という話が出てきた。当時東京鉄道馬車の社長が、佐賀市出身の牟田口元学(貴族院議員、中央製糖、石狩石炭取締役その他)だったので大隈重信を介して、在京中の藤津郡出身の代議士永田佐治郎へ伝えられた。永田佐治郎は、この話しを聞いて鹿島の実業家牟田萬次郎氏(22歳で県会議員、佐賀米穀取引所開設発起人、広滝水力電気会社事業着手等)へ話しをした。佐賀市と鹿島市の実業家は早速賛成し、鹿島側は永田佐治郎を代表に佐賀側は実業家の下村辰右衛門を代表に交渉を進めた。この交渉が成立し、佐賀馬車鉄道、通称「馬鉄」が明治37年2月18日明治橋から佐賀市諸富町まで開通した。その後県庁前、御幸橋、佐賀駅まで延長されて、昭和3年まで佐賀市民に親しまれ運行された。下村辰右衛門は、佐賀市牛島町(現在東佐賀町)思案橋側で酒造屋を営んでいた。校区出身の国会議員は、現在までこの人一人である。 構口にある二十三夜尊設立に寄付されたことが石造物に記載されていて当時の面影を偲ぶことができる。また、神埼郡千代田町の『次郎物語』で有名な下村湖人の養父に当たるともいわれているようである。
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島本良順
代々漢方医の家に生れ蓮池町に開業、寛政年間(1789年〜1801年)長崎にて蘭学を学び、佐賀に帰り(1804年〜1818年)蘭方医の看板を掲げ、一方では門弟に講義を始めた。文政5年(1822年)執行勘造(後の伊東玄朴)が長崎から帰った良順へ入門した。門弟には伊東玄朴をはじめ、金武良哲、大庭雪齊など多数の入門者があった。天保5年(1834年)佐賀藩医学寮が八幡小路に設けられ、最初は漢方を教えていたが良順が寮監となって初めて蘭学が加えられた。こののち鍋島直正の時初めて種痘が実施された。因みに安政5年(1858年)今の片田江に医学寮が移ったが、現在の好生館の始まりである。島本良順は人柄、学力ともに認められ蓮池藩の侍医に抜擢された。晩年は寂しく、報いられることなく嘉永元年(1848年)11月13日に病没し、呉服元町光明寺に葬られたが、のちに柳町専福寺に改葬された。
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ノルマントン号海難事故と中林梧竹筆、八谷種次郎遭難追悼記念碑
明治17年清国より帰国後4年目の中林梧竹が精魂を傾けて揮毫した碑である。 てん額、碑文とも同一書者という極めて異例の形式で、双方とも藩存直伝のてん隷技法を駆使して書かれたわが国近代書道上、本格的てん隷書の先声をなすものとして注目され、関係者の見学が多い。 海難事故は、明治19年(1886) 10月23日、横浜港から神戸港へ向かっていた英国籍の汽船ノルマントン号が、翌24日午後10時頃、和歌山県沖で暗礁に乗り上げ遭難した。一瞬にして、日本人乗客25名が船と運命を共にした。 八谷種次郎は、佐賀市蓮池町に居住し、裁縫業と靴製造業に携わり財力豊かな生活であった。父の意を受けて上京し十分修業をして、その帰途に遭難したが年29歳であった。 当時は、日本人乗客25名を船中に置き去りにして、船長以下の英国人が離船したことに対する国内世論が沸騰した。一方政府は、英国との間に条約改正の談判交渉中でもあったので、この事件の追及で、英国の感情も害しない周到な用意も必要で、政府は世論の沸騰と条約改正の狭間に立って苦境に追いこまれた。 とにかく、その後いろいろの経緯があって、同年12月8日に至り、船長ドレークは、自己の職責を怠り、日本人船客25名を見殺しにしたものと判決され、 3月の禁固に処せられた。 八谷種次郎の碑の碑文には、八谷種次郎は肥前の人なり。商工をもって裕国厚民の源となし、東京に至りて視察せり。帰付に及び、英国ノルマントン号の愉船のみ明治19年10月24日紀州洋に行き至り触礁沈没す。船長ドレークのなすところに因る。20余人と同じく難に及ぶ。時に年、29にして子1あり。哀れむべきのみなり。明治21年建。中林梧竹書 碑石質は、『透角閃石かんらん岩』で別名を『竹葉石』『斑石』または『笹石』『町屋石』とも云って、茨城県と熊本県の産で大変高価で珍石と云われている。
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『葉隠』 の筆録者田代陣基の墓
田代又左衛門陣基の墓が瑞龍庵内で発見されたのは、昭和13年の頃であった。碑面には、『松盟軒期酔之碑』と彫られていて、浪花節語りの名のようだといわれ調査の結果、田代又左衛門陣基の墓と判明しました。 三代佐賀藩主鍋島綱茂に仕え、祐筆役を務めた田代又左衛門陣基が役職を解かれた翌年、宝永7年33歳のとき山本常朝に初めて会った。 山本神右衛門常朝は、二代佐賀藩主鍋島光茂のとき、御側役、御書物役を務め、元禄13年藩主鍋島光茂の逝去に当り殉死しょうとしたが、 追腹禁止の藩令があったので剃髪して金立山麓の黒土原に閉居していた。 宝永7年3月5日、田代又左衛門陣基が金立山麓の黒土原に山本常朝を訪ね、『しら雲やただ今花に尋ねあい』期酔 と詠み山本常朝も『浮世から何里あらふか山桜』古丸 と応えお互いに喜び会った。 宝永7年(1710) 3月から享保元年(1716)にかけて草庵に足しげく訪れ、7年間におよび山本常朝の談話を筆録し、1342項目の全部を全11巻に筆録編集した。この『葉隠』の冒頭に、この始終11巻、追て火中すべしとされ、この『葉隠』は秘本とされていたが、佐賀藩士の間にこっそり写されて愛読されていた。 『葉隠』とは一体何ですかと聞かれたとき、 一口に言い切ることは難しいが『葉隠四誓願』は葉隠の要約されたものを表現しています。 『葉隠』とは『山里の木の葉がくれに聞き、ひそかに書きとめたもの』という気持ちをこめ、さらには、『陰の奉公』の意味合いも持たせたものでは ないだろうかといわれています。 山本神右衛門常朝の仏道の師で、高潔無比の禅僧といわれた湛然和尚、儒教・仏教の造詣深く当時佐賀藩第一の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之、山本神右衛門常朝、田代又左衛門陣基の四哲に、 『校註葉隠』を編纂し、だれにもわかりやすく説いた栗原荒野を加え、『葉隠』の五哲と呼ぶにふさわしい。
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室園遊廓の跡
この室園遊廓のあったところは、佐賀藩唯一の河港があったところで、有明海から筑後川をさかのぼり佐賀江を通って今宿に至るもので、物資の流通と人の交流が盛んで商業が盛んなところでした。 室園遊廓には、北の方からと東西からの入り口がありますが、北と西には昔ながらの石橋がかかっていて、その欄干には遊廓の名前の屋号が刻まれていて、かつてここが遊廓として大変賑わっていた昔の面影を、彷彿として今にして思い出させる歴史の一端を残しています。 この遊廓は、明治中頃からここに集中して歓楽街ができたと云われていますが、昭和初年頃には12軒の遊廓があったとのことです。大正4年には約150人の女の人がいて年間2万8千人くらいの客で賑わったと云われています。 大正後半から昭和初年にかけて、病に罹患する青年が多くなったので、昭和3年9月1日から病気の予防取締法が実施され、多くの論議を呼びました。 また、武雄町では遊廓から集団で抜け出し、佐賀の『佐賀婦人矯風会』に保護を求め大きく問題化したこともありました。昭和31年婦人団体などを中心とした世論の力で売春防止法が成立し、昭和33年(1958) 3月までに転廃業し、公娼制度に終止符が打たれました。現在でも当時の面影を残す旧楼の建物が数軒残っています。
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『野中烏犀圓』第8代、パリー万国博覧会に出席す
慶應3年3月(1867)パリーで開催された万国博覧会に、徳川将軍家代表徳川昭徳の他薩摩藩および佐賀藩より参加した。佐賀藩の事務管長は、精煉方の主任・佐野常民であったが、商取引に自信がなかった常民は、親交のあった佐賀市材木町の豪商、野中元右衛門を販売担当の使節に加えた。元右衛門は、腹心の貿易商、深川長右衛門にも参加を求め、佐野は、精煉方の遠山文一郎を随行させた。通訳には、幕府の遣米使節の経験を持つ藩の英学塾『長崎致遠館』の教導、小出千之助を選んだ。野中元右衛門は、烏犀圓本舗、第6代源兵衛の養子の長男として生まれ、第8代となった人である。号を古水といったが、そのころ特に体が弱くなっていた。常民から渡仏の話があったとき、家族達は心配して何度か辞退させようとした。その時、『君命を受けたからには、死んでも本望だ。 フランスは、仏国というから死んだら極楽浄土も近いだろう』と笑い飛ばしていた。彼は、長崎貿易にも着手し、嬉野茶のアメリカ輸出を画策するなどして、家業は栄えて巨富を積んだが、藩主の恩顧を忘れず藩財政の窮乏を救ったことも度々で、ついに士籍に列せられ、また、古水と号し、歌人古川松根に師事した。さて、国際舞台への夢を抱き長崎から出航し、五十数日を経てパリに到着しその後間もなく急病に襲われたため、その夕急逝した。時に55歳、パリの東の方ペール・ラシェーズの墓地に眠った。佐賀藩は、英艦フェートン号事件により、長崎警備の重要性から大砲の鋳造、軍艦の購入など防備の充実に苦心した。膨大な藩財政のため、藩産品の輸出に力を入れるため、上海パリに人材を派遣したのである。 チヨンマゲ姿で、博覧会に応対した佐賀のコーナーには珍話が多く、人気を呼んだ。 ☆ 有田焼の酒徳利の評判がよいのも不思議だった。数日して、客が持ってきたのを見ると、金具を付けてランプの台にしていた。 ☆ 和紙の強さに驚いて、ブラウスにしようというパリ娘もいた。 ☆ 幅の広いコンブを壁の代わりに買って帰った。 ☆ きれいなフランス婦人が『雪駄』のすべすべした皮が気に入ったらしく、自分の頬を軽く叩いていた『それは履き物です』といったのに、婦人は、片方だけ持って帰ろうとした。婦人は、『日本の履物を知るには、一つあったらよい』と言われてがっかりした。
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岩倉具視卿子息たちの佐賀留学逗留
明治政府の中心的人物であった岩倉具視卿は、当時、頭角を現していた副島種臣、大隈重信、大木喬任、江藤新平らを育てた佐賀藩の教育に強い関心を示し、自分の子息らを藩校の弘道館へ留学させたいと、藩主直正に頼んだ。 当時、弘道館はあらあらしい気風がみなぎっており、驚いた直正公は「貴公子を迎えるには恥ずかしい限り」と固く辞退した。 しかし,結局、子息二人は佐賀に下り、願正寺に投宿しました。そして1カ月遅れて養子、分家の子息なども来佐した。 中央から佐賀への留学は、当時、佐賀が優秀な教育の場と目されていた証拠であろう。
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長崎奉行宿泊所、「御茶屋」(願正寺)から「本陣」(呉服町野口恵助宅)へ
徳川幕府は享保2年(1717)、長崎に奉行所を作り、江戸から毎年一人、長崎奉行を派遣し外国船の貿易を監督させた。長崎奉行が佐賀を通過する折、佐賀藩大名は領内の支藩大名もふくめ、宿泊所である「お茶屋」に出向いて、あいさつするのがならわしであった。佐賀ではその宿泊所に願正寺が充てられていた。藩主の休憩所が臨時に充てられていたようで、現在の書院が使用されていたと思われる。また、そのほかの階級の宿泊するところは、本庄、長瀬、呉服に、2、3軒、はたご屋としてあった。 当時、大名などが宿泊するところを、東海道など五街道では[本陣」といい、町人の経営する民営であったが、長崎街道など西日本の地域では大名宿は「御茶屋」といい、藩の経営であった。 寛政末年になると長崎奉行が佐賀城下に宿泊する頻度が増えてきたため、当城下にも本格的に宿泊所の「本陣」を設ける必要が生じてきた。そこで,寛政12年(1800)3月から、呉服町の御用商人・野口恵助が私邸をすべて提供した個所を「本陣」として使用、その後、諸施設を整備し拡張した。今の呉服町錦通りエスティマンションがその跡地で、外塀の角に説明板が付けられている。 本陣ができてからは願正寺、称念寺は脇本陣として使用された。
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貫通道路ツアー
旧佐賀市内の道路は右に左に曲折し見通しが悪くなる。敵の進入を防ぐための城下町特有のつくりである。大正から昭和初期、馬車や自転車が登場。さらに自動車が往来するようになると、不便この上もない状態となった。 産業の振興や軍事的意味合いをこめて、道路整備が叫ばれて20年近く、昭和6年12月市内を東西に貫通する道路「貫通道路」の整備が着工した。 整備の内容は、「構口橋を神埼国道並みに少し斜めに架換え、牛島町南裏を一直線に西へ椎小路を出て片田江の風呂屋の角飲食店の処を突き抜け、裏門通りの南豊亭玄関を通過し・・・」と思い切ったルートの選択であった。 工事はまず構口-材木町間700m(幅員15m)でスタートし、年度ごとに西から東へと交互に進められ、全長4000mが昭和11年、5年の歳月と総工費87万円を投じて完成した。 名物のイチョウ並木は、近代道路の美観をそろえるためと10年度の事業で植えられた。このイチョウは材木町の植木業者 末次与八氏が久留米から1本1円で仕入れて植えたという。 幅員15m〜18mは当時としてはとてつもなく広く「そんなに広い道路を造ってどうするのか。一日何台車が通るというんだ。」と市民から反対の声があったという。そのため「貫通道路ツーツラツー」と子守歌に歌われるほどだった。 しかし昭和30年代後半から、貫通道路の交通渋滞が目立ち始めた。貫通道路ツーツラツーははるか昔のことになってしまった。
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旧町人町に集まる寺院
循誘校区にかぎったことではないが、校区内のゼンリン地図を見ると、藩政時代の町人町と呼ばれた各町に寺院が集中していることが分かる。東は下今宿町の証明寺から西は願正寺まで22ヶ寺を数える。宗派のちがい、規模の大小はあるが、10ヶ町足らずのこの町にこれだけ存在するのも珍しい。寺院名だけ残し、すでに廃寺となったものも数ヶ寺ある。 これら寺院の中で創建年代の判明しているものは、ほとんどが慶長13年(1608)頃の総普請で、屋敷や町小路が作られた以降に創建あるいは移建されたものである。これは一朝ことある時には、武士たちの屯所として、または砦として戦略的な意図をもって配置されたものと思われる。創建年代を比べてみると、わずか数年の間に建てられたものもあるし、あまり長くない期間中に建てられたものもある。 これらの寺院には、いくばくかの寺領としての知行地も与えられたのかも知れないが、この大きな建物の建築費用はどのようにして調達したのだろうか。当時の藩財政も決して豊かでなかっただろうし、富裕な町民も出現しているとも思われない。また寺の維持費は誰が負担したのか。さらにすでにあった小さな街なみに、広大な敷地をどのようにして確保したのか。すでに幕藩体制も確立し戦いの世の中でない時に次々と建てられたのか謎である。 これらの寺院が江戸初期の一戸ごとに所属寺院を定めた寺請制度とどのようなかかわりがあったのかも興味深い。また、南蛮寺と呼ばれた教会が柳町の地に、寺院と隣接して建設を許可されたのも何かの意図があったのだろうか。 なお、校区内のある寺には、天文10年(1541)の銘の記された六地蔵があるが、寺の創建時のものか、後世路傍などにあったものを寺に安置したものかは不明。 ちなみに明治16年長埼県からの佐賀県分離独立を願う有志が集会を開いたのは高木町の観照院であり、同年第1回の県議会を開いたのは願正寺である。
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川の底をくぐる川
裏十間川は朝日町了関橋の下流でいくつかに枝分かれして東に流れている。この川の末流は八田江に注いでいるが、枝分かれした水路はすべて八田江右岸で姿を消す。 そのうち朝日町、今宿町を流れる水路は、今宿町証明寺裏で姿を消している。八田江の両岸を注意して見ないと分からないが、この水路は八田江の底をくぐりサイホンの原理で枝吉、木原方面に流れるようになっている。これは枝吉、木原方面の灌漑用水に八田江の潮がまじらない工夫であると思われる。 なおその下流の姿を消した水路は、八田江の水が少ないときは大きなコンクリート製の管の一部が姿を現し、小さな堰のような役割をしているようである。 ※写真3枚目は水利工事に関係する記念碑。地図の場所にあり。
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佐賀江川
今宿を起点とする一級河川佐賀江川は、かつては今宿江湖と呼ばれていた。佐賀平野を流れる川は、原則として北から南へ流れているが、この川はいちじるしく蛇行しながら高低もなく東西に流れている。(改修以後は直線)これは大昔の海岸線(海抜4mの長崎街道)に沿った干潟の澪が成長した結果である。 この川の役割は嘉瀬川から城原川に至るこの川の以北の佐賀平野の排水機能である。従って材木町で明渠や暗渠で多布施川末流の裏十間川とむすびついたり、十間堀川と巨勢でつながったりして、循誘校区内の水路はすべてこの川で排水されている。そのためこの川の排水能力の限度を越えると校区内も洪水に見舞われていた。 もう一つの役割は運河としての役割である。慶長18年(1608)鍋島直茂が佐賀城を築き城下町を経営するに当たって、これに目をつけ、筑後川と城下を結ぶ運河として利用した。築城や城下町形成には膨大な石材や木材が必要となるが、これらの運搬は船に頼る他はなかった。これらの材料は下今宿の船着き場に陸揚げされた。 この運河としての役割は江戸時代、明治、大正と陸上交通の発達するまで、米、薪炭、味噌、しょうゆ等城下町の人々の生活必需品の輸送に欠かせない水路であった。下今宿は城下町最初の宿泊地であったため、商家、問屋が発達した記録が残されている。
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検番と芸者くらべ
明治初期、佐賀市内の貸座敷密集地は上芦町と下今宿であった。明治16年(1883)佐賀県が再置されたが、時の県令(知事)鎌田景弼は「県庁の近くに遊郭があるのはけしからん。風紀が乱れ・・・」と言って廃止してしまった。しかしすぐ復活運動が始まり5年後には復活して以前を上回る繁栄ぶりであった。 佐賀市に初めて芸者検番が店開きしたのは明治30年(1897)、この年佐賀自由(佐賀新聞社)新聞に「佐賀市に芸妓検番の無きはもの足らぬ心地すと さる粋さまも言われき。依って今般検番を設け、京阪その他より幾多の芸妓を集めて営業を始め・・・」という広告を対象としたユニークな企画を実施した。「佐賀県下芸者くらべ」というコンテストである。 2月10日の社告で「本社当節左の趣向にて県下芸者くらべ投票を募集す。(中略)県下のあらゆる芸妓について、美中の美、粋中の粋、花中の花を撰り、世の粋士嫖客に紹介するも亦、本社の一粋ならめ。」と告知した。新聞に刷り込まれた投票用紙で投票する仕組み。大別嬪に純金の大指輪1個、未来の大別嬪にも純金の指輪。三味線や踊り、歌などの各部門で一位になった芸者にも象牙の三味線のバチといった豪華な賞品も用意された。明治らしいおおらかさが感じられるエピソードである。
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行学塾
材木1丁目の本経寺の山門に「行学塾」という木片がかかっていた。塾の経営者は住職の籾井恵学、対象は旧制中学生で塾生は10名前後であった。 英語の教え方は独特で、先ず前回出された宿題のテストから始まった。従って宿題をなまけるとついていけない。また英文法などは「名代動形副前接感」などとお経式で教えられた。 行学塾の名の通り躾面でも厳しく、勉強中は座り机に正座、玄関の履物も「地震や火事の時はだしで飛び出すのか。」と出船型にきちんと並べることが求められた。 また土曜の夜は本堂の御本尊前で坐禅があった。正座して耳と肩は一直線、へそは垂直、ひざはこぶし一つ開け、手はせい下丹田において生卵をそっと抱くように組み、腹式呼吸をできるだけゆっくりし、蚊がきても払うな、というものであった。もちろん15〜6歳の中学生、煩悩の滅却どころか足のしびれと柱時計の音だけが気になっていた。 その他寒い冬の朝でも水をかぶるように言われ、自らも井戸で水かぶりを示してくれた。これを実施したか否かはテスト用紙に○×で報告した。この水かぶりは年齢とともに冷水まさつ、乾布まさつと変わってきたが、たしかに風邪の予防にも役立っているようである。 こうした厳しい一面だけでなく、古湯まで自転車で登ってレクリエーションをしたり、黒髪山登山に連れていったりする面もあった。ここで学んだことは塾生の一生の心の糧となった。 なお、終戦の頃高木町観照院の住職となられたが、戦後生まれの人も観照院の塾で学んだ人がいるので、後年まで塾はあったらしい。
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進駐軍宿舎
昭和20年秋、大戦の敗戦により佐賀市にもアメリカ占領軍が進駐してきた。市内の主な公共施設にはアメリカ兵の衛兵が立ち、MPがパトロールしていた。新道の内庫所も接収され、何らかの施設となったのか、朝夕の星条旗の上げ下ろしには路上のアメリカ兵の直立不動の姿も見られた。 材木町の資産家川原氏宅の洋風の別棟も司令官宿舎として接収された。当時庶民の生活は衣食住にも事欠き、水道は水圧が弱く、共同水道でも地面下まで掘り下げないと水があまり出なかった。また電力も不足し電圧を下げたローソク送電、しかも度々停電した。 ただ、司令官宿舎だけは煌々と灯りがともり、門前の電柱の街灯も輝いていた。期末試験が迫ると近所の旧制中学生たちは、教科書や参考書を手に街灯の下に集まっていた。 司令官の就学前の一人息子アーサー君、やんちゃ坊主らしく近隣の台所までちらかしていた。つかまえて話しかけたが、われわれのつたない英語力では名前や年齢を聞き出すのが精いっぱいであった。 司令官夫人は夏になると、やはり接収されていた佐賀中学(現西高)のプールに行くため、ジープに乗って肌をさらしていた。 接収解除後、川原家では床の間だったか押し入れだったかがトイレに改造されていたとこぼしていたということである。
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中牟田倉之助
1837.2.24~1916.3.30(天保8~大正5年) 海軍中将、子爵。佐賀城下蓮池町(旧佐賀市千代町)に生まれる。父は佐賀藩士金丸文雅、母は中牟田氏。後、母方の姓を称す。明治期の帝国海軍の創設確立に貢献。二十歳のとき藩命で長崎海軍伝習所に学ぶ。卒業後帰藩し、海軍方助役となり三重津御船手稽古所の教官として、藩の海軍創設に尽力した。さらに軍艦操練や英学を修む。戊辰戦争の際に海軍先鋒隊が編成されたとき、藩の軍艦孟春丸船将として官軍に従軍。次いで秋田藩の陽春丸船将として奥羽沿岸に転戦し、1869年(明治2)函館の役には朝陽丸艦長として奮戦。朝陽は旧幕艦蟠龍の砲弾のため爆沈し、九死に一生を得た。1870年兵部省に奉職。普(ドイツ)仏戦争の勃発に際し政府は局外中立を宣言し、函館、横浜、長崎に艦隊を配備すると長崎小艦隊指揮に任じられ、海軍中佐に昇進。1871年海軍大佐兼兵学寮兵学権頭に任じられ、次いで海軍少将兵学頭となる。1875年江華島事件が発生した時、西部指揮官を拝命、朝鮮に出動し在留邦人の保護に当たる。さらに海軍省副官兼海軍兵学校長、横須賀造船所長を経て、1878年中将に進み、東海鎮守府長官を務む。1886年横須賀鎮守府司令長官、1892年には海軍大学校長兼海軍参謀部長、翌年に初代海軍軍令部長、翌々年に枢密院顧問官。八十歳で没した。→三重津海軍所→長崎海軍伝習所→孟春丸
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愛宕寺
愛宕寺は京都竹内御門跡の末寺で天台宗の寺院です。『佐賀県近世史料第10編第1巻』の「天台宗由緒 西目門中 愛宕寺」によると、柳川御陣(慶長5年(1600年)の柳川への出兵)の際に鍋島勝茂が鍋島生三(道虎)に愛宕社へ祈願させ、勝利を得たため、愛宕社を勧請しました。慶長5年以前から愛宕寺は祈祷所として存在していた可能性もありますが、詳しいところは分かっていません。 愛宕寺となって以降の中興の祖は公雄で、正徳5年(1715)に退院し、3世の慶寛は、寛延3年(1750)に退院しています。慶寛は二御丸護摩堂開基を仰せ付けられ、御本尊の不動尊を持ち越して安置しました。その後、宝琳院(鬼丸)へ移転し、またさらにその後、東福院(背振山)へ転住を仰せ付けられたということです。 愛宕権現は、愛宕山の山岳信仰と修験道が混淆した神仏習合の神であり、イザナミを垂迹とし地蔵菩薩を本地としました。愛宕山白雲寺は勝軍地蔵(将軍地蔵)を本尊としたため、特に戦国時代においての愛宕権現は勝軍地蔵として敬まれ、武将からは戦の神として信仰を集めました。本地仏としての勝軍地蔵は、甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗っている像となっており、愛宕山白雲寺から勧請し、全国の愛宕社で祀られました。当神社でもこの勝軍地蔵が今も祀られています。 境内には、旭の森稲荷社、観音堂(観世音菩薩堂)や地蔵菩薩をまつったお堂、文化8年(1811年)銘の大乗妙典壹萬部塔などがあり、寺院の面影を残しています。
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勢屯
勢屯は「せいだまり」「せいだまる」「せいとん」等と読みます。勢屯とは城郭の中や城下町の出入口である構口や辻などに設けられた広場・たまり場を言います。戦国時代は人馬や武器を揃えて陣容を整える場所であり、江戸時代の参勤交代の際は行列を整えたりする場所としても使用されましたが、主に馬の調練場である馬場の役割を果たしていました。 元文5年(1740)「元文佐賀城廻之図」(公益財団法人鍋島報效会所蔵)には、欄干橋の南に「勢屯」とあり、現在松原3丁目にある深川製磁佐賀店前の交差点一帯に位置していたことが分かります。なお、城下町としての勢屯町は、さらに北に位置しています。 近世城下町にはこのような馬場がいくつか設けられ、城下に在住する武士が乗馬調練などを行うために使用していました。この場所の勢屯は、「文化御城下絵図」(公益財団法人鍋島報效会所蔵)には記されておらず、文化年間の中頃(1810年頃)には勢屯としての機能はなくなっていたようです。 この他にも佐賀城北御門の北側や、西堀端小路辺りにも勢屯がありました。 勢屯から東に向かうと、裏十間川の南側に片田江七小路の一つ、馬責馬場(うませんばば)があります。馬の調練場である馬場(勢屯)があったことから、この名がついたものと考えられます。馬責馬場の名称は地名として、今も使用されています。 なお、通りの北側にある裏十間川沿いの土手は、「土手際小路」と呼ばれていました。
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欄干御茶屋
欄干御茶屋は佐賀藩4代藩主鍋島吉茂が新築した御茶屋で、享保8年(1723)の記録に「四月廿一日、御着懸欄干新御茶屋へ初テ入ラセラル」とあり、このときに初めてその名前が登場します(『佐賀県近世史料第1編第4巻』)。また、享保11年(1726)に起きた火事で佐賀城が焼けた際には、一時的な避難場所として欄干御茶屋へ入り、その後別の屋敷へ移るなどしています。 公益財団法人鍋島報效会所蔵の元文5年(1740)「元文佐賀城廻之図」には、現在の松原神社鳥居の東側周辺の広大な敷地に「欄干茶屋」と名前がありますが、8代藩主鍋島治茂の時代、安永元年(1772)に「欄干御屋敷之儀、解除候様最前被仰出置候ニ付、解除相成候」とあり、この頃更地になったようです(『佐賀県近世史料第1編第5巻』)。 その後、10代藩主鍋島直正が再興し、天保13年(1842)には「是迄願正寺御屯之処、此節欄干御茶屋被相建ニ付」とあり、それまで願正寺が担っていた役割を欄干御茶屋へ移しました(『佐賀県近世史料第1編第11巻』)。欄干御茶屋は、神野御茶屋や水ヶ江御茶屋と同じように藩主の休憩所として、また幕府の使者と面談する迎賓館的役割を果たすために使用されていました。 現在では、裏十間川にかかる欄干橋に「欄干」の名称が残るのみとなっています。