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[旧佐賀市][循誘校区]は138件登録されています。
旧佐賀市 循誘校区
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劇場橋
佐賀劇場は、与賀町の喜楽座と共に佐賀市民の娯楽の中心施設として長く市民に愛され親しまれた。この建物は、福岡で開催された九州八県連合大博覧会の会場施設を大正5年頃移設整備したものであって、始めは改良座と呼んでいた。昭和元年に佐賀劇場と改められた。時代の推移とともに映画館に娯楽が変わり昭和41年に長い歴史の幕を閉じた。
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一の橋
承応3年(1654)「佐賀城廻之絵図」によると裏十間川の材木町の最北部に架けられた一番目の橋で、佐賀江までの幾多の橋のなかでも大切な橋のようであった。 この橋の近くに、佐賀から久留米まで軌道を敷設する会社の『肥筑軌道』の創立事務所が設けられていた。全線開通に至らず、大正12年(1923)巨勢の高尾から千代田町の崎村まで、約10年近く運転されていた。しかし、昭和9年(1934)8月運転を休止し、やがて廃止された。
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材木橋
貫通道路が着工された昭和7年(1932)に東の紺屋橋と同時に新しく架橋された。橋の親柱は実に堂々としている。
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中の橋
横目橋から100m北にある橋で、明治時代の代表的石橋である。この橋は裏十間川のほぼ中間に位置しているのでこの名が付いたものと思われる。この西は武家屋敷で中の橋小路と呼ばれていた。
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横目橋
材木橋から二つ目の橋で、この裏十間川を東西にはさんで西は武家屋敷のある町で、東は商家の町人町であって、お互いに対立や敬遠の意識が交わった橋である。この橋はじろり橋と呼ばれ、横目は当て字であるようだ。 佐賀市で珍名の橋はひゃあらんさん橋(川副町東南里)、酒楽(しゅらく)橋(本庄町袋)、蒟蒻(こんにゃく)橋(中の館)、かわそう橋(鬼丸)などがあるけれども、じろり橋が特に目立っている。
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了関橋
この橋は、蓮池藩2代藩主鍋島直之公が、佐嘉城に兵学教授のため通っていたが、ここの所に橋がなく随分と遠回りをしなくてはならず、ここに橋を架けられた。橋の名前は、鍋島直之公の戒名に因んで付けられたとのことである。架橋により蓮池往還も賑わったとのことである。 また、了関橋南に鷹匠橋があり、この橋の北側から裏十間川2号分水路で分れ東に流れて、室園橋や安住橋東に進み八田江川に入っている。
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構口橋
この構口橋は、佐嘉の城下町を通る長崎街道の入り口に当たり、通行に際しては、番所を設け取り締まっていた。昔は、現在より少し南に架かっていたといわれる。この橋の西側の町を牛島町と云っていたが現在は東佐賀町に改められている。慶長年間に佐嘉の城下町を作ったので、それに因んで昔の人は、この町のことを慶長町と呼んでいた。
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牛島橋
この橋は、貫通道路建設工事に伴い架けられた。貫通道路は昭和6年12月初旬に材木町までの700米について工事がはじめられた。約5年の年月を要し、昭和11年髙橋まで工事が完成した。
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大正橋
中島蒲鉾店北側の橋で、大財町の道路建設のときに架けられたものであろうか、はっきりしないが明治22年の地図には、道も橋も記載されていない。
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古賀善橋
柳町と高木町の境に架かる橋である。橋の名前はそのままずばりで、古賀銀行を興した古賀善兵衛の手によって架けられたので、その名をとって橋名を善兵衛橋とされた。
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記念橋
大正14年に循誘小学校の50周年記念事業として、小学校の校門から南に通学用の道路として建設されたときに新しくなった。なおこれに因んで記念橋と名付けられた。
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追手橋
柳町と高木町の境、仕出しの兵庫屋側の橋である。紺屋川が南に曲がって行くところの橋でもある。この橋の名がよく出てくるのは、この橋の西南の地に昔『南蛮寺』が広大な敷地を構えて建設された歴史がある。
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柳橋
香月酒屋の側の橋である。橋の親柱は大きくがっちりしている。この橋は、大正4年東に新道路が建設された時に架けられた。この橋の東には、かつて循誘小学校の前身であった柳町校舎があったところで、橋の名前は、川端柳の風情によるとされている。
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日天橋
思案橋の南に架かる橋で、この橋を東に直進すれば旧東佐賀駅に至る道である。この旧東佐賀駅は、地元の熱心な誘致運動により、昭和14年9月開駅に至り、諸富方面からの通勤通学の人達で賑わった。 この橋の南には、材木町の『日天社』がある。この日天社は、材木の中から大日如来の仏像が見つかりこれを祀ったことに因んで、そう呼んだ。 地元住民はもとより、多くの人々が、火災防御の神として、日天杜を尊崇していた。藩主も災禍転除祈願のため、地料を免除していた。材木町の町名もこのことに因んで付けられたもので、日天橋も同様である。
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紺屋橋
紺屋川に架けられているこの橋は、材木橋と同じく貫通道路の建設のときに架けられたもので、材木橋と同様親柱は実に堂々としている。この橋の上には貫通道路の交通が激しくなったので、交通安全対策として陸橋が建設されている。
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涼橋
紺屋橋の南に架かる橋で、材木町の中の橋を東に行ったところである。戦後木橋に架け替えたが、老朽したので現在の鉄筋の橋に改修された。 昔は、大きな船が往来していたので川幅も広かった。したがって人々は、夏の夜はこの橋に集まり涼風を楽しんでいたようである。
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潮見橋
涼橋の南にあって、この橋の西には昔懐かしい大衆風呂の銭湯があった。この橋の南突き当たりが裏十間川の分流と紺屋川とが佐賀江川に合流している地点である。また、橋の東には、六地蔵さんの石造物があり、その北側には、二十三夜尊が祀ってありこの両仏像にはいつも花が飾られている。 この川は、今宿から思案橋の方面にいつも船が出入りしていたが、もともとこの河川は感潮河川で、日本一干満の差がある有明海に通じている。現在でもこの橋下で1米以上の差があり、満ち潮では下流からどんどん逆流し、水が押し寄せてくる。このため橋から潮の状況を見ていたのであろう。
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今宿橋
紺屋町と今宿町との境にある橋である。紺屋町の橋東には、昔からの火見櫓が戦後まで建っていた。その後取壊されてしまった。また、その東の東田代町にはお堂があり、その中には大きな石の地蔵さんがある。八戸町の地蔵さんは有名であるが、それと余り変わらないようである。 また、橋の南の今宿町には大衆風呂の銭湯があったが、各家庭に風呂が普及し、時代とともに廃業された。明治時代の今宿町の繁栄振りの一端を、佐賀新聞記事から抜き書きしてみると次のとおりである。 明治18年 佐賀郡西今宿の前田繁太郎は、同所で蒸気器械精米所を開業。 明治21年 材木町の仁戸田栄太ら4人が下今宿町33に共成社の設立を佐賀郡役所に願い出る。 資本金3,000円、米穀等の売買、貯蔵、保管、貨物運送。 明治22年 下今宿町に、小城郡多久村からの石炭船、長崎県諌早から唐芋船、 福岡県から木炭船がそれぞれ入船。 福岡県から下今宿町船場に五島からの石炭船が入る。 明治23年 船の出入り数(2月)今宿は入り船271艚出船281艚下今宿町、与賀町に巡査派出所が 完成し、近く落成式を行う予定。佐賀郡の牛島〜八田村間の河川工事で下今宿町の船問屋 が、海水を止められ営業できないと県庁へ嘆願、23日佐賀市助役と県土木課属が現地を 視察した結果、県は工事期間中、費用100円で仮掘りの設置を決める。 明治25年柳町の煙草業者森永作平の今宿支店は、24年7月から25年6月まで、豊後、鹿児島産の 煙草葉3,500余表を販売。 明治29年大島貞七、牛島平造、吉田清吉の3人は共同で佐賀郡今宿に佐賀石油(資)を設立。
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曙橋
今宿橋の東220米のところにあるが、この橋で有名なのは毎年8月15日に開催される、盆行事のひとつである精霊流しがこの橋付近で催される。このことについては、別の項目( 行事「今宿(あけぼの橋)の精霊流し」)で記述しているので参照していただきたい。 龍谷学園前から今宿町の間は、現在地元の協力により道路の拡幅工事が着々と進んでいる。このため大きな民家が壊されたり、移転や新築が行われている。それに、佐賀江の河川改修に合わせて岸工事も完成に近づきかつての町の姿は、今大きく変わろうとしている。
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八の坪橋
古代条里制の名残りの名称で、1町(約190米方格)を基準として作られた土地の区画割りで一町方格の地割が縦横にそれぞれ6町、計36町並んだ一区画を里と呼び、里の中の36町には1坪から36坪までの地番をつけた。八の坪はその8番目に当たるところであった。このような同名の橋が北川副町光法から角町にいく道の中ほどにもある。また各地に一の坪、初の坪、帳の坪等という地名が残っている。
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中林橋
大財の仏心寺を東に突き当たったところの橋で、生長の家西にあたる。この橋は昔大財の日産自動車から東の大財公園にいたる道がなかった頃、かつて愛敬島の国相寺前から東の精金寺前を通り大財通りを横切り、仏心寺の南からこの橋にいたり、火葬場に至っていた旧道であった。木橋で橋幅も2.3米程度であったが、近年改築し見違えるようになった。
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天神橋
願正寺の東南に天神橋がある。この橋から南に入る小さな路地があり、この路地を昔は、『新堀端』と呼んでいた。 かつて関ヶ原の戦いに西軍に組みしていた鍋島藩は、伏見城を攻め下して、伊勢の阿濃津城を攻撃中西軍の敗戦を知り、進退に窮してしまった。このとき、徳川家康公の側近で顧問の地位にあった小城の元佶長老と、西本願寺の准如上人がとりなしにつとめたので、鍋島藩の危機存亡を脱することができたのである。この恩に報いるため小城に『三岳寺』を、西本願寺のために『願正寺』を建立した。 この願正寺に創建後寺領を与え、また、これまでの真宗寺を西本願寺派の願正寺に所属するようお触れを出した折り、それに従わなかった他派の人々がいて、首謀者が捕らわれ鎮静し、やがて捕らわれていた首謀者も許されたが、その罪を償う意味で、この『新堀』を掘らされたものである。願正寺では、鍋島家のためよく勤めた。例えば寛永2年千栗の堤防が決壊したとき、願正寺は国内の門徒を集め、天建寺前の360間を修復した。費用もまた門徒で賄ったので、これを御馳走土井といった。
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高木橋
大財町通りの『井手酒屋』北から循誘小学校前に流れている。
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高木中橋
循誘小学校の校門前に架かる橋でこの橋の南には、『循誘橋』や『記念橋』があり、循誘小学校が創立50周年を記念して、この通学道路ができたと云われている。
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地蔵橋
高木中橋の東に位置する橋である。
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高木橋
地蔵橋の東に位置しこの橋の東方で、南北に分かれ北は牛島天満宮に至り、南は東佐賀町に至る。樟脳小屋橋や桜団地入り口の桜橋、そして循誘公民館西から牛島町北を経て長専寺の横、構口橋北から大溝都市下水路に至っている。
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牛島天満宮の太鼓橋
天満宮西の鳥居側に天満橋があるがこの橋は、願正寺の東で呉服町水路から分かれた循誘川に架かっている。この天満橋の南に高木橋があり、北には十間堀川の清心橋がある。 牛島天満宮の太鼓橋は、宝暦8年与賀神社、堀江神社、八坂神社に次ぐ古い橋である。この橋については別の眼鏡橋で詳しく掲載しているので参照していただきたい。
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芦町橋
芦町橋は芦町水路に架けられているが、この橋を通っている川副佐賀停車場線(大財通り)は近年交通量も著しく増加して、漸次道路拡張工事が継続されているがまだまだである。 この交通混雑を解消するために、大財通りの拡幅工事は勿論のこと、兵庫町に佐賀市東部環状線を新設して、南部バイパスと北部バイパスの両道路を結ぶ新道路工事が進んでいる。 また、これに合わせて元江里口酒屋から東の兵庫町に向かって同じく新道路建設が進んでいて、大財六丁目の東(社会保険病院南付近)で前記東部環状線と交差するようになっている。
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循誘橋
循誘小学校の50周年記念事業として、小学校の校門から馬責馬場東まで通学が便利になるために、道路が新設されたが、そのとき『記念橋』と同様大正14年(1925)に建設された。また、50周年記念事業の記念品として生徒に橋の文鎮が配られた。
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北御堂橋
元江里口酒屋四角から50米位東に『北御堂橋』の新しい橋が完成している。この橋の南に元の『御堂橋』がある。