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[旧佐賀市][循誘校区]は138件登録されています。
旧佐賀市 循誘校区
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宝専山仏心寺
仏心寺は元禄5年(1692)に創建された黄檗宗の寺院で、開山は禅厳和尚、開基は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の子長行(覚樹院・餅木鍋島家)とされています。本尊は聖観世音菩薩です。山門の左側には元禄4年(1691)の刻銘がある地蔵菩薩立像があり、右側にも地蔵菩薩立像があります。 禅厳和尚は領内の無縁仏の供養のために毎年七月十六日に大施餓鬼の法要を行っており、領民に志紙袋(喜捨袋)を回すことの許可を佐賀藩から得ていました(『佐賀県近世史料第10編第2巻』)。 享保17年(1732)、蝗(いなご)の大発生により多数の死亡者を出す大飢饉(享保の飢饉)が起き、仏心寺でも数百人もの餓死者の弔いが行われました(『佐賀県近世史料大10編2巻』)。翌18年には、5代藩主鍋島宗茂が「御国家安全」「疫病転除」「餓死菩提」のため、仏心寺において大施餓鬼を実施しました。 宝暦8年(1758)には、6代藩主鍋島宗教が享保の飢饉による餓死者・横死者のために「本州庶民累葬墓誌銘」の入った石碑を建てました。ただ、今ある石碑は明治時代に倒壊したため、その後新たに再建されたもので、詳細な墓誌銘はありませんが「本州庶民餓死累葬之墓」として今も敷地内にあります。
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新馬場通り
佐賀藩祖鍋島直茂を祀る松原神社は安永元年(1772)に創建されました。文化14年(1817)の松原神社の拡張に際して、鳥居に通じる通りを参道として開いたと考えられるこの参道は新馬場通りと名づけられ、昭和の中頃まで大変賑わっていました。新馬場通りには、大正時代には松本屋、荒木屋等たくさんの旅館が立ち並んでいました(「指定旅館書付」大正8年(1919)、鬼丸北川家資料、佐賀県立図書館所蔵)が、なかでも嘉永6年(1853)創業で漆喰壁の土蔵造りと表玄関に威風のある松川屋は、多くの著名人などが宿泊した老舗旅館でした。 この旅館には明治32年(1899)に森鴎外が宿泊しています。鴎外は『小倉日記』の7月3日の記録に「朝小倉を発す。(中略)午(ひる)に近づきて佐賀に至る。新馬場松川屋に投宿し、午餐す。午後市役所に至り、壮丁を検するを見る、此地河水を飲む。夜熱く戸を閉さずして眠る。」と記し、松川屋での宿泊のほか、当時の佐賀の様子も伝えています(『鴎外全集』第21巻)。昭和32年(1957)には、映画「張り込み」の関係者が宿泊しました。平成22年(2010)に松川屋旅館は営業を止めており、現在はさまざまな活用が行われています。 また、新馬場通りの入口、県道30号を挟んだ向かい側に明治21年(1888)に営業を始めた佐賀米穀取引所がありました。現在建物は残っていませんが、当時のものとされるレンガの塀が残っています。新馬場通りには今も井徳屋等の旅館が軒を並べ、大正時代にできた西洋風建築の松尾写真館があり、これらの建物は往時の町並みの景色を残しています。
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大財地蔵さん
大財3丁目信号(大財通り)を西に向かい、左手2本目の路地を入ったところに、2体の地蔵菩薩と2基の石碑が寄せられています。向かって左から2番目の地蔵菩薩坐像は、右側面に「明和五年秋彼岸」とあり、明和5年(1768)の建立です。左側面には「願主宮嶋氏 同施主中 廊善」とあり、台座には「三界萬霊」とあります。三界とは私たちが生まれかわり往来する世界のことであり、欲界(欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神の世界)の三つの世界を表し、万霊とは衆生ありとあらゆる精霊のことで、すべてのものを供養するための塔という意味があります。 また、向かって左端に同じく地蔵菩薩坐像が鎮座し、右側に2基の石碑がありますが、いずれも記銘などはなく、詳細は不明です。 設置された看板には「お願い事を何でもかなえてくださる有難いお地蔵さんです」とあり、大財地区ではよく願い事が叶うお地蔵さんとして親しまれています。
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大財聖堂跡
佐賀藩では2代藩主鍋島光茂が元禄4年(1691)に佐賀城二ノ丸聖堂を創立して、藩士の教育にあたりました。その後、3代藩主鍋島綱茂が元禄10年(1697)に鬼丸の観頣荘に聖堂を移転して、名称も鬼丸聖堂と変更しました。 一方、民間の教育施設として、武富市郎右衛門咸亮(廉斎)により大財聖堂が建設されました。 武富廉斎は、寛永14年(1637)、御用商人であった武富家(白山町)の分家、武富四郎右衛門常古の子として、勢屯町近辺に生まれました。幼少から小城の関尚樸(儒学者)に従学し、16歳の時に京都で中村惕斎に学んだ廉斎は、「諫早慶岩(巌)寺之住僧より筑紫筝を学、公家方より琵琶を学上手と成」(「葉隠聞書校補」『佐賀県近世史料第8編1巻』)とあり、筑紫筝や琵琶を学ぶ等文化も嗜んでいました。 家業の呉服商を継いだ後、元禄5年(1692)に私財を投入し大財聖堂を創設、敷地内に講堂の鴛魚斎、私塾の依仁亭を開いて藩士や町民に儒学を講じました(『佐賀県先哲叢話』)。聖堂の完成に際して佐賀藩は、聖堂敷地4反6畝を免税地とし、協力を惜しみませんでした。正徳3年(1713)には自然石の大宝聖林碑を建立しました。この石碑は亀が石碑を背負った「亀趺」という様式で、昭和28年頃に多久市の西渓公園に移設されています。 廉斎は、享保3年(1718)に82歳で亡くなりました。武富廉斎を始めとする一族の墓は称念寺にあります。 その後、武富家の子孫が藩の援助を受けながら存続させますが、城下のはずれで通学に不便なため次第に学生数が減少し、天明年間(1781~1788)には廃校状態にあったようです(『鍋島直正公伝』第一篇)。鬼丸聖堂もまた同様の状況であったため、こうした状況を憂い、8代藩主治茂は天明元年に佐賀城下の中心の松原小路を選んで藩校弘道館を設置しました(『佐賀市史』第2巻)。 大財聖堂跡付近には、昭和15年(1940)皇紀二千六百年記念に建てられた「大財聖堂址」の石碑があり、北側には廉斎の名を偲ぶ「れんさい橋」がありあります。
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本陣跡
呉服町商店街の長崎街道を南に向かい東に折れた角に昔からの石の道しるべが二本あり、それぞれに「こくらみち・ながさきゑ」(小倉道・長崎へ)「右おふくわんゑ」(往還へ)と刻まれています。さらに道なりに東へ向かうと晒橋の手前に佐賀藩本陣跡があります。本陣とは、大名や旗本及び幕府の役人等が使用する宿泊所のことです。従来、佐賀城下では願正寺と称念寺が仮本陣(御茶屋)として利用されていましたが、寛政年間に入ると長崎奉行が佐賀城下に宿泊するケースが増えてきたため、当城下にも本格的な「本陣」を設ける必要がありました。 寛政12年(1800)、呉服町の御用商人野口恵助から私邸の提供を受け、安政年間になると、藩はさらに隣接屋敷を買収したり、献上させたりして本陣として拡張し、御書院・寝所・家老屯・御膳所・祐筆・医師など数多くの部屋を設けて整備しました(『佐賀市史』第二巻)。本陣ができてからは、願正寺・称念寺は脇本陣として使用されました。
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大宝山精金禅寺と定光寺
臨済宗南禅寺派の禅宗寺院である精金禅寺は、江戸期には臨済宗水上山一派万寿禅寺を本山とする寺院で、初代藩主鍋島勝茂などとの深い繋がりを持つ寺院でした。 「寺社差出済家宗由緒」(『佐賀県近世史料』第10編第2巻)によると「佐賀郡大宝村、一、御免許敷地弐段六畝拾九歩、山号無シ、精金庵」「当寺開山芳隣和尚、事蹟不詳、中興天如和尚」とあり、元は山号のない庵であったことがわかります。 現在の寺域には、参道入口の左側に享保17年(1732)刻銘の六地蔵菩薩右側に地蔵菩薩座像があり、歴史を感じさせる山門をくぐった左側には正徳元年(1711)刻銘の正観音菩薩像、正徳3年(1713)と正徳5年(1715)刻銘の如意輪観世音菩薩像の他、地蔵菩薩立像等が造立されていいます。 なお、精金禅寺は、同じく大宝村にあった定光寺を統合し、大宝山の山号を使用したものと思われます。 定光寺は精金禅寺の南方にあったとされ、「寺社差出 済家宗由緒」(前掲)によると、「佐賀郡大宝村之内、一、御免許敷地壱段四畝壱歩、大宝山定光寺」「当寺由緒ハ、永暦元年(1160)庚辰正月三日、渋谷金王丸定光、主君義朝落命之砌、討死と称し此所ニ忍ひ下り、伝教大師一刀三礼之薬師尊像を携来、当寺開山全山大和尚ニ語り三七日祈る、此地ニ瑞現ある故、御堂を建立して安置ス、于時応保弐年(1162)壬午八月也」とあり、応保二年の開山とされています。
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遍照山光明寺
遍照山光明寺は浄土真宗(本願寺派)の寺院で、永禄9年(1566)に龍造寺氏の流れを汲む江上宗光が開基し、江戸時代の初期、第5世了誘の代に嘉瀬深町村より移転したと伝わっています(『灯炬』真宗佐賀地区連合編)。本尊は阿弥陀如来です。光明寺に残る記録によると、寛延元年(1748)には北向きに本堂を建立しました。その後、寛政12年(1800)に北側の野口家の屋敷が本陣とされたため、寺の本堂の向きを東側に移しました。平成29年3月に本堂の大修復が行われましたが、本堂から庫裏を結ぶ通路は昔のままの姿を残しています。 なお、第12世住職龍ヶ江良俊は、佐賀の民謡「梅干」の作詞者とも言われています(山口練一作詞説もあります)。料亭楊柳亭(佐賀市松原)の庭には梅干の石碑があり、毎年春の梅の咲く頃に「うめぼし祭り」が行われています。
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野中烏犀圓
登録有形文化財
野中家は、「野中烏犀圓(のなかうさいえん)」の製造販売を家業とする老舗で、初代源兵衛氏が寛政3年(1791)の創業であり、寛政8年(1796)には、生薬「烏犀圓」の製造販売が藩から許されている。 この時に烏犀圓建物が建築されたと伝えられている。冷善楼と呼ばれる座敷と店が古く、それ以外の部分は昭和初期の増築である。座敷に掛けられている「冷善楼名記」には、文政3年の奥書があるので、文政3年(1820)以前に建てられたことを裏付けている。 広く街路に面する漆喰壁、正面中央の大破風、看板を吊るす屋形が江戸期の商家の風情を伝え、長崎街道の歴史的景観形成に寄与している。
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牛島神社の楠 一株
天然記念物
牛島天満宮の楠は、小川の傍に生育していて、推定樹齢1000年、根回り24.5メートルで境内にのび、根が地表上に隆起している。幹は小川の上に横たわっていて根本から5メートルのところの幹回りは7メートルである。根本から7メートルのところから大枝が上にのびて幹枝の態を呈しているが、その大枝の大きさは幹回り4.5メートルである。樹高はおよそ15メートル、枝張りは約23メートルであって樹勢はなお旺盛である。 この楠は佐賀市内における代表的な巨木というだけでなく、かつて大風で倒れたのではないかと推定され、横に倒れた幹や隆起し石をはさんで露出した雄大な根部、1枝が幹枝のように立上って成長している状態など生態的にも価値の高い巨木である。
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不動明王立像 一躯
重要文化財
永正年間(1504~1520)のころ龍造寺胤家が居館としていたのを、子の斎亮に譲った。斎亮は仏門に帰依(きえ)し、ここを寺として清心院と称した。江戸時代、佐賀城下の東北隅にあるので鬼門守護の道場として佐賀城の出城の役目をしていた。 清心院は、古義真言宗の寺院で、本尊は不動明王である。仏教では不動明王を大日如来の使者としてとり入れた。如来の命を受けて忿怒の相を表し、密教の修行者を守護して諸種の障害を除き,すべての災魔を滅ぼして修行を成就させる尊像とした。形像は,右手に剣,左手に羂索を持ち,青黒色の全身に火焰を負う姿が一般的である。 この仏像は、大宰少弐がもたらしたものであるとか、胤家が筑前にいた時に当地に移したものであるなどと伝えられている。秘仏であるために、平素拝観することができない。 寺伝によれば行基の作とされているが、その彫像様式からみて、南北朝時代の作ではないかと推定される。 虫喰が諸処にみられ、相当にいたんでいるが、全体的にはよく彫像当初の形態を保存していて、数少ない中世の仏像としてその価値が高い。
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副島種臣の書 二幅
重要文化財
副島種臣は、文政11年(1828)、佐賀藩士の家に生まれ、幕末、明治維新にかけては国事に奔走し、新政府のもとで参議、外務卿、一等侍講、宮中顧問官、枢密院副議長、内務大臣等を歴任した。また、号を蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)といい、詩書にすぐれ、その書は創造力豊かで、極めて格調の高いものとして評価されている。本書は、明治26年 (1893)、種臣65歳の時の揮毫(きごう)である。 これは、願正寺裁松上人の13回忌法会にあたり追悼の詩2首を、用紙を中国に求め、椽大(てんだい)の筆をもって揮毫し贈られたものである。
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上林家文書 一〇五六通
重要文化財
江戸時代の初期以来、宇治において茶の栽培と製茶に従事して、皇室や将軍家を始め、諸大名その他を対象として、手広く茶業を営んだお茶師仲間の中の一団があり、御物仲間と称して特に格式を誇ったといわれる。上林三入(かんばやしさんにゅう)家はその御物仲間8家(のち11家)の中のひとつであって、鍋島勝茂以来、鍋島家とは深い関係のあった家である。この家に伝わった古文書は、佐賀市呉服元町で茶を販売する商店に保存されている。そのほとんどは各方面からよこされた書状であって、勝茂以下鍋島直正に至る鍋島家歴代を始め、熊本の細川三斎・仙台の伊達政宗・沢庵宗彰・千宗易・金森宗和・小堀遠州・柳生宗矩等、多彩な顔ぶれを含み、その数も千数十点に及んでいる。 ただ佐賀におけるだけでなく、日本の茶業史ないし茶道史上、貴重な史料である。
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旧古賀銀行及び旧古賀家 二棟
重要文化財
古賀銀行は、明治18年(1885)1月に佐賀市蓮池町1番地の両替商古賀善平が設立した。明治39年(1906)5月には佐賀市蓮池町76~78番地(現在地)に本店を移転新築した。その後資本金の増資等により、大正8年(1919)末には九州における五大銀行の一つに数えられるまでに成長した。 しかし大正15年(1926)には、大正9年以降の慢性的な不況によって休業に追い込まれ、昭和8年(1933)9月には遂に解散を決議するに至った。 その後、昭和9年6月から昭和29年(1954)まで佐賀商工会議所として、昭和29年から昭和61年(1986)までは佐賀県労働会館、平成4年(1992)7月まで労働団体の本部として使用されてきた。 旧古賀銀行の建物は創建後に数度に亘ってその用途が変わったが、中でも大正2年(1913)の大幅な資本金増資のころに大きく増築され、東西方向に約2倍、南北方向に約1.5倍に拡張され、現在の規模になったと推定される。西面中央には寄棟屋根で石造円柱を有するポーチも付された。その後、佐賀県労働会館、労働組合県本部としての使用に際し、南面入り口2か所の3層の塔状突起部の撤去や内部の改造等が行われた。 この旧古賀銀行は、新しい都市機能の一端を担う銀行建築として、従来の構法である土蔵造りを採用して建設されただけでなく、その建築自身の中に改造の歴史を残している。それは、石造りの帯を巡らした煉瓦タイル張りという形式で建物の表面を飾り、少しでも「近代建築」風であろうとする点において、近代建築が地方へと浸透していく過程を知る上で貴重な歴史遺産といえる。 旧古賀家は、旧古賀銀行の西隣にあり、旧古賀銀行の頭取を務めた古賀善平の住宅であった建物である。主屋は、古賀銀行の開業に先立つ明治17年(1884)に建てられたと伝えられている。 戦後、昭和29年以降は料亭として用いられ、宴会場などへの改築後現在に至った。 旧古賀家は南を正面として屋敷を構え、町家ではなく武家屋敷に似た配置形式をとる。西側に二階建ての土蔵造りの厨房を配し、主屋は敷地のほぼ中央に建ち、東側に17畳半の座敷を配する。主屋は座敷を中心に東西に長く延び、西側に茶室、北側背面に奥座敷、南側正面に玄関を設ける。これを覆う屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、全体の形状はT字型をなし、その前に独立した入母屋造りの玄関棟が付く構成である。 表座敷の床構えは創建時の特色を良く伝え、土蔵造りの厨房と付属の座敷も同時期の建設と見られる。座敷を始め住宅の主要部分は良く残存し、旧古賀家は本格的な屋敷構えで規模格式にも優れ、明治期の上流階級の住宅遺構として貴重な存在であり、旧古賀銀行と合わせ重要な歴史遺産である。
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旧牛島家 一棟
重要文化財
旧牛島家住宅は、佐賀市朝日町3番24号(旧今宿町63番地)に所在した町家建築で、佐賀江川に面した北側を正面として建っていた。通りに接して主屋を建て、続いて釜屋、奥には2棟の土蔵があり、水路を背に配していた。平成5年度に前面道路拡幅の際、佐賀市が主屋と釜屋を譲り受け、実測調査及び痕跡調査を行い解体し、佐賀市柳町に移転・復原され、平成9年10月に佐賀市歴史民俗館の一館として開館した。 旧牛島家住宅の屋敷地は、嘉永7年(1854)「下今宿町竃帳(かまどちょう)」に下今宿町の姥役(おとなやく)を務めた問屋を営む高柳伊助の屋敷として記載される。明治23年(1890)制作の銅板画「佐賀県独案内(ひとりあんない)」にも、煙草仲買商・海陸運漕店を営む高柳伊代助の店として外観が描かれる。明治後期以降は油屋を第二次大戦時まで営んでいたという。 解体された主屋の外郭は「佐賀県独案内」の描く姿と異ならず、屋敷地の規模も7.7間、奥行き18.5間で、「下今宿町竃帳」記載のものと異ならない。以上と建物形式から主屋と土蔵の建立年代は江戸期に遡ることは疑いないが、佐賀市の旧城下町域に残される町家建築と形式技法を比較・編年した結果によると、主屋が建てられたのは18世紀に遡ると推定される。 解体時の調査によると、建築当初の主屋は西側と南側に土間を巡らし、居室部に表の間と中の間を設けた単純な平面構成で、2階は表の間のみに設けられ、中の間・土間部分は上部を吹き抜いている。座敷と目される居室はなく、表の間2階に床柱のみ設けられる。柱を間引かずに整然と建て、南側の閉鎖的かつ広大な土間空間を備える点と、床と床脇からなる定型的な座敷飾りを備えない点が、江戸中期の特色を示している。当初の表構えは土蔵作りではなく、2階に出格子を設け、1階は大戸と蔀戸(しとみど)を建て込んだもので、その姿は「佐賀県独案内」にうかがえる。 主屋には明治中期に至って、南側の土間空間に続き間の座敷が設けられ、明治末期には2階表構えが土蔵造りに改められ、さらに釜屋を建て替え、表構え1階東側にも出格子が設けられ、それぞれの時代にふさわしい姿に整えられてきた。 佐賀旧城下町域に残された町家建築の中では最古のもので、多くの改造を経ているとはいえ、城下町における生活の基盤をなした町家建築の江戸中期の構成を知る遺構として貴重な存在であり、数少ない佐賀の明治期における町家建築の構成を知る資料としても貴重である。
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旧福田家住宅 一棟
重要文化財
旧福田家住宅は、明治末期から大正期・昭和初期にかけて、佐賀を代表する実業家として活躍した福田慶四郎の居宅である。大正6年(1917)9月3日に起工し、翌7年10月25日に落成したと、棟札に記されており、戦後の一時期は佐賀県議員会館として利用されたこともある。 北面して建つ入母屋造り二階建ての主屋を中心に、和洋それぞれの様式の応接室や数奇屋造りの茶室などを配し、南側には庭園、東側には土蔵が設けられている。 建物の内部は、細部に至るまで丁寧な造りであり、接客のために多様な空間が用意されている。また、落ち着いたたたずまいの中に、華やかなアクセントがちりばめられ、端正な中に華麗な表情を見せている。 江戸期に完成した伝統的建築技術は、近代には技術と芸術がその頂点を極めたとされる。この旧福田家住宅はこうした特徴をすべて備えた、大正期の近代和風建築である。
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旧三省銀行(付属棟含む)一棟
重要文化財
三省銀行は、明治15年(1882)7月に佐賀藩士柿久栄次を頭取として設立された三省社を、明治18年に正式の銀行に改めたものである。当初は順調な経営であったが、投機師専門の金融機関化し、明治26年(1893)、廃業するに至っている。 その後、この建物を買い取った杵島郡大日村の医師木塚紋太郎が、医院を開業し、昭和4年(1929)には池田医院となり、昭和51年(1976)まで営業を続けた。 建物は、三省社創業時の明治15年に新築されたもので、南面して建つ妻入り切妻造りの主屋の背面に、庭と土蔵などが設けられている。 医院時代が大半であるため、そのための改造が大きかったが、平成10年(1998)の解体修理により、新築時代の形状に復元することができた。内部は、佐賀の伝統的町家の形式である吹き抜けのある中の間を中心にしつつ、業務用建築らしい大らかな空間構成をとり、外部は上方に向かってふくらみを持つ屋根や、大胆な形状の窓など、人目を引く特異な表情を持つ。 このように、明治時代前期の息吹をも感じさせる、他に類例のない、個性豊かな建築物である。
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思案橋荷揚げ場跡
史跡
江戸~明治期の物資運搬は、人力運搬や荷車・人力車による車運搬と共に、舟運が重要な手段で、思案橋界隈が物資の取り扱い場として栄えていたことが文献資料等からもわかる。発見された遺構は、そのことを具体的に裏付けるものであり、商業地として栄えた往時の重要な流通手段となっていた舟運に関連する遺構は、佐賀城下の歴史を知る上で貴重なものである。 また、石垣護岸と雁木(がんぎ)が一体となって状態よく残っており、佐賀城下では初めての発見である。石段の据え方などの構築技術を知る上で貴重であると同時に、長崎街道と紺屋川が交差する特徴的な景観を留める場所で、江戸時代から現代にいたる川幅や土地利用の変遷、それによる景観の移り変わりをたどることができる場所である。
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願正寺 本堂、貴賓室、大広間、大玄関、鐘楼、山門 計6件
登録有形文化財
構造、形式、建築年代、登録基準 次のとおり 本 堂:木造平屋建、瓦葺、建築面積805 ㎡【登録基準(二)】 元禄15(1702)年/明和2(1765)年改修 貴賓室:木造平屋建、瓦葺、建築面積109 ㎡/18 世紀前期【登録基準(二)】 大広間:木造平屋建、瓦葺、建築面積288 ㎡/昭和9(1934)年【登録基準(一)】 大玄関:木造二階建、瓦葺、建築面積180 ㎡/昭和9(1934)年【登録基準(一)】 鐘 楼:木造平屋建、瓦葺、建築面積14 ㎡/明和5(1768)年【登録基準(一)】 山 門:木造、瓦葺、間口4.6m/大正前期【登録基準(二)】 佐賀城跡北に位置する佐賀の中心的浄土真宗寺院。境内中央に西寄りに本堂を建て、東側の中庭を囲うように貴賓室、大広間及び大玄関を配す。本堂の南東に鐘楼を建て、境内南辺に山門を開く。本堂は正面九間、奥行八間半、入母屋造本瓦葺で九州有数の規模と古さを持つ。貴賓室は、切妻造桟瓦葺で簡素ながら上質な藩主御成間と伝わる書院。大広間は、南北に長大な平面を持ち小屋組にキングポストトラスを用い大空間を実現。大玄関は、切妻造桟瓦葺で無柱の大空間が特徴。鐘楼は、入母屋造本瓦葺で佐賀城下の時鐘として用いられたと伝わる。山門は、四脚門で透彫ぼりや鈁金具など随所に浄土真宗寺院らしい華やかな装飾を見せる。 ※写真は本堂、山門、鐘楼