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[指定文化財][佐賀県][考古資料]は15件登録されています。
指定文化財 佐賀県 考古資料
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石塚一号墳出土遺物 一括 (附)銅製容器一点
重要文化財
石塚古墳群は筑後川河口西岸に位置する佐賀市諸富町の南部、標高3~4mの低平な水田部に立地する。佐賀平野南部では、これまでのところ確認できた唯一の古墳である。古墳は現在までに2基を確認している。このうち1号墳は昭和63年に調査が実施され、横穴式石室から挂甲や金銅製装飾金具等の遺物が多数出土した。1・2号墳とも墳丘の大部分が削られ、石室も一部が残存するのみである。 挂甲は胴甲1領分がほぼ完存し、他に付属品が一部分残存する。銅製飾金具は3点以上が出土している。表面にはタガネにより文様を打ち出している。全体が復元できるもののうち1点は中房が盛り上がり周囲に17弁の蓮華文を配したもので径6.6cm。他の1点は7弁を配して中央に火炎文を表したもので径7.0cm。馬具のうち杏葉は鉄地金銅張のもので7点出土している。 これらの遺物は、同時に出土した須恵器の形式等から6世紀後半~末のものと推定できる。
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十三塚遺跡出土鏡 方格規矩鳥文鏡 1面 夔鳳鏡 1面 附 鉄製刀子 1点
重要文化財
昭和46年(1971)、旧佐賀郡大和町大宇川上で行われた工事で、2体の人骨を埋葬した箱式石棺墓一基が発見された。この箱式石棺墓には、方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)一面と夔鳳鏡(きほうきょう)片一面、鉄製刀子(てつせいとうす)一点が副葬されていた。 方格規矩鳥文鏡は、径15.4㎝の中型鏡である。内区の中心にやや大きめの半球鈕.があり、その周囲を18個の珠文が巡る。その外側には、櫛歯文帯があり、二重の突線で区画された方格の内側には4つの小乳が対角線上に配置されている。方格の各辺中央には、「T」字状文様が見られる。方格の一辺上には、「T」を挟んで乳が2ケ所ずつ計8つの乳が配置される。この乳と方格の間に胴上半部を表現した鳥文が各辺2対、計8つ鋳出される。さらにその外側には、珠文を施した鋸歯文帯、櫛歯文帯と続く。外区は平縁で、波長の長い複波文帯と外向鋸歯文帯が巡る。 夔鳳鏡は、縁と内区の一部が残る鏡片である。復元径は約11.0㎝。平縁で、内区との境には凹線が巡り、その内側には連弧文帯が施される。内区の雲状夔鳳文は、やや不鮮明である。鏡の破面は研磨されてないが、鏡背の角は丸く破鏡として用いられた可能性がある。製作時期は、中国における紀年銘鏡及び共伴する紀年銘出土品から後漢時代中期~後期とみられる。 佐賀平野における古墳時代の同棺複数埋葬例から古墳時代前期から中期前半頃と推定される。古墳時代前半期の埋葬施設に2面の鏡を副葬する例は、佐賀平野では唯一であり、方格規矩鳥文鏡と夔鳳鏡の組合せは国内においても希少である。本遺跡から出土した青銅鏡は、希少価値の高い鏡の組み合わせだけでなく、古墳時代前半期における佐賀平野の首長層の動向を知る上で重要である。
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一本木遺跡出土湖州鏡 一面 (附)鑷子一点,土師器杯一点,土師器皿一点
重要文化財
一本木遺跡は、佐賀市大和町東南部の大字尼寺に位置し、弥生時代から鎌倉時代にかけての集落及び墓地が確認された。鎌倉時代の土壙墓から湖州鏡と鑷子、土師器杯、土師器皿などが出土した。 湖州鏡の形態は猪目形の素文鏡で、長径10.5センチメートル、短径9.1センチメートル、厚さ0.4センチメートルである。下部に「湖州石家煉」の銘が陽鋳されているが、この文字は類例と比べて方向が異なっているのが特徴である。青銅製であるが、鏡面は白銀色を呈し、水銀を塗布している可能性が指摘されている。鏡の年代は中国の南宋代、共伴土器の年代は13世紀前半代である。 鑷子は、鉄製で先端を欠損する。残存長7.0センチメートル。 土師器杯は、口径14.5センチメートル、器高3.2センチメートル、底径9.0センチメートル。 土師器皿は、口径8.7センチメートル、器高1.4センチメートル、底径6.8センチメートル、底部は共に回転糸きりで板状圧痕が残る。 これらの遺物は同時に出土した土師器から13世紀前半代のものと考えられ、鎌倉時代の墓制を知る上で貴重な遺物である。
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本村籠遺跡出土遺物 一括 (附)甕棺二基(五個)
重要文化財
本村籠(ほんそんごもり)遺跡は嘉瀬川西岸にあたる佐賀市大和町大字池ノ上の低段丘上に位置する。 遺物として、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)、青銅鉇(やりがんな)および碧玉管玉18個、青銅斧などが出土した。時期はそれぞれ弥生時代中期初、および前期末である。 多鈕細文鏡は面径10.5センチメートル。鏡背の上方に偏って2個の板状鈕をもち、縁は蒲鉾(かまぼこ)状縁である。鏡背の文様は大きくは内、外区に分かれ、共に精緻な細線で埋めつくされている。 青銅製鉇は幅2.1センチメートル、長さ3.4センチメートル。使用による研ぎ減りで長さを減じ、鋒は一方に偏った山形を呈す。 碧玉製管玉は18個あり、長さは4ミリメートルから7ミリメートル、径約3ミリメートルと小形である。 青銅製斧は刃部残欠、残存状態は長方形板状を呈し、幅4.2センチメートル、長さ2.6センチメートルまで残存する。この種の青銅斧としては我国唯一の出土例である。 これらの青銅器はいずれも、我国における出土例がきわめて少ない、特色ある朝鮮系青銅器であり、弥生時代前期末に始まる我国の初期青銅器文化が朝鮮半島文化のつよい影響によるものであることを如実に示す資料として貴重である。
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惣座遺跡出土遺物 一括 (附)弥生土器 一点
重要文化財
惣座遺跡は脊振山系から流下する嘉瀬川が形成する扇状地の扇頂近くに所在し、佐賀市大和町久池井字惣座に位置する。遺跡は縄文時代から平安時代にまたがる複合遺跡である。 出土遺物は、仿製鏡、銅剣・矛の石製鋳型、石錘などがあり、特に土壙墓の1基から銀製指輪および大量のガラス製小玉が一括出土した。 石製鋳型は上下端が割れた破片で、残存長5.2センチメートル・残存幅4.2センチメートル。表裏両面に銅剣型、また側面に銅矛型、計3本分の型が彫り込まれており、石材の再利用が窺える。これから鋳造された製品は剣、矛とも細形形式である。とくに矛は袋部に3条の節帯をもっており、従来、朝鮮半島からの舶載品と考えられていたタイプであるが、我国における青銅器生産の開始が弥生前期前半まで遡ることを明らかにした点で、意義は大きい。 銀製指輪は土壙墓の中央よりやや北側(頭位側)の床面上で、3個重なって発見された。いずれも径2センチメートル前後で、針金状の薄板を曲げて作り、素材はきわめて純度の高い銀を用いている。 ガラス製小玉は総数6,810個ときわめて多量であり、一連にすると9メートルをこえる見事なブルーの連珠となる。
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西山田二本松遺跡二号住居跡出土銅釦 一点
重要文化財
西山田二本松遺跡は佐賀市大和町大字川上字西山田二本松に所在する。弥生から鎌倉時代にかけての集落跡で、中心となるのは弥生時代後期の住居跡群である。発掘調査で弥生時代中期末~後期後半の2号住居跡から出土したものである。 銅釦(どうこう)は何らかの器物に装着してボタン状の飾りに使用された朝鮮系青銅器である。本品の場合、直径5.1センチメートル、高さ0.85センチメートル、全体の形状は直径3.6センチメートルの半球座に幅0.7~0.8センチメートルの周縁が付き、断面状鉢状を呈している。半球座の項部は径1.0センチメートルの少し凹みのある平坦面となり、緩やかに周縁へ降りる。半球座の裏は空洞で、その中心に孔径0.2センチメートルの小さな鈕が付く。半球座、周縁の表裏面ともに素文である。 遺存状況は周縁が薄いために数ヶ所で小さな欠損がみられ、部分的に表面も別離しているが、全体に比較的良好である。色調は表裏面ともに漆黒色で、半球座裏側の鈕の周囲には赤色顔料が残存している。 銅釦の発見例は他に、佐賀県小城市布施ヶ里遺跡の3点と、熊本県および京都府で各1点と、全国で4遺跡6点しか知られていない。 本例はそのうちの1点であり、朝鮮半島からの青銅器文化の影響を如実に示すとともに、住居跡出土の供伴土器によって銅釦の流入の時期が明らかにできる点で、学術的に価値が高い。
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銅戈 一口
重要文化財
嘉瀬川が佐賀平野部へ下る一帯は広大な扇状地が形成されており、そこには弥生時代の大規模な遺跡が多数分布している。 この銅戈(どうか)も、その遺跡のひとつ「尼寺(にいじ)一本松遺跡」において、大正8年(1919)に個人が自宅の庭園を拡張中に偶然発見されたものである。当時の状況をみると、地表下約60センチメートルのところに、切先を北に向け水平な状態で置かれていたという。 大きな欠損はなく、ほぼ完形であるが、全体的に刃こぼれが著しい。 全長39.3センチメートル、最大幅は約7.5センチメートルで切先の先端部がかなりの広がりをもつとともに、偏平化が著しい。 また、樋(ひ)と脊(むね)は身全体の約2分の1強の長さにもなる。樋には両面とも綾杉文様が比較的明瞭に陽鋳されており、その基部には台形の孔をもつ。胡(こ)はあまり延びず短い。茎(なかご)は小さくて薄く、その両面に五重の弧文を鋳出している。全体の仕上げの研磨は、あまり入念ではない。緑色に銹化しており、銅質はあまり良くない。重量405グラム。 銅戈の形式としては中広形に属し、弥生時代後期の製作と推定される。祭器として埋納されたものであり、当時の祭祀のあり方とその意味を知るうえで重要な資料である。
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増田遺跡甕棺墓出土多鈕細文鏡 一面(附) 甕棺 一基(二箇)
重要文化財
増田遺跡は、佐賀市の北西部に位置し、標高8メートル前後の洪積台地上に立地する。現在までの発掘調査で、弥生時代から室町時代までの複合遺跡であることがわかっている。中でも弥生時代の遺構が中心をなし、すでに500基以上の甕棺墓と58基の木棺墓等が確認されている。弥生時代は大規模な墓地であり、時期的には弥生時代前期末から中期前半を中心とするものである。 多鈕細文鏡が出土した甕棺は、中規模の合せ口棺で、上甕は器高45センチメートル、口径35センチメートル程度、下甕は器高65センチメートル、口径45センチメートル程度の大きさである。鏡は割れた状況で、下甕中央の底面付近で検出した。残存状況は7割程度。3箇所に鈕を有する青銅製の舶載鏡で、直径9センチメートル、縁幅1.2センチメートルで、弥生時代中期初頭の所産である。 増田遺跡周辺では、多鈕細文鏡の外に細型銅剣、銅戈鋳型、さらに朝鮮系無紋土器が多く出土しており、朝鮮半島との係わり合いが深いところである。有明海を介して佐賀平野に、大陸文化がいち早く流入したことを証明する上で重要な地域である。
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鍋島本村南遺跡出土遺物 一括
重要文化財
鍋島本村南遺跡は、弥生時代から近世にかけての時代幅の大きい複合遺跡であり、住宅地造成に伴い、平成元年度に発掘調査が実施された。 石製把頭飾(はとうしょく)は338号土壙から出土した。ほぼ完形で全長5.0センチメートル、十字状の飾り部分は長軸が5.0センチメートル、短軸が3.9センチメートルを測る。先端部は一辺2.2センチメートルの平方形をなし、上面、斜面・両側ともに丁寧な面取りが行われる。各コーナーには細い抉(えぐ)りが施されている。 銅戈鋳型は、弥生時代の345号土壙から出土した。残存長9.5センチメートル、幅7.3~8.3センチメートル、厚さ2.6~2.9センチメートルを測る。戈型は、最大身幅4.7センチメートル、最大脊幅0.9センチメートル、最大樋幅0.7センチメートルを測る。鋒部及び元部を欠損し、ほぼ中央部が残存している。内面は熱を受け黒色に焼けており、実際に鋳造が行われている。 細形銅剣は、弥生時代の2号土壙墓から出土した。鋒部を欠損し、全体の3分の2程度が残存している。残存長19.2センチメートル、最大幅3.9センチメートル、茎長2.3センチメートル、茎幅1.15センチメートルを測る。翼両側及び脊には刳込下部に至るまで、明瞭な鎬(しのぎ)が研ぎ出されている。元部においては、脊には鎬は及ばないが、翼両側には緩い研ぎ出しが行われている。関の片方を欠き、刃部も片方は刃こぼれが著しい。 これら3点の遺物は弥生時代中期前半のものと考えられるが、確実な共伴遺物が出土していないため、正確な年代は推定し得ない。しかし、銅剣は型式上、細形銅剣に属する古式のものであり、銅戈鋳型は現在のところ日本最古のものである可能性が高い。 また、朝鮮半島の無文土器にその祖型が求められる擬朝鮮系無文土器群が、ほぼ同時期の遺物として出土しており、上記3点の出土遺物は、この土器群の存在も含め、国内における青銅器生産の開始時期や青銅器生産集団の系譜など、青銅器生産をめぐる諸問題の研究に一石を投じる貴重な学術資料といえる。
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西原古墳出土石製表飾遺物 一個
重要文化財
西原古墳は脊振山系南麓の低丘陵上に築造された、横穴式石室をもつ全長約60メートルの前方後円墳である。 ここからは「石人・石馬」といわれている石製表飾遺物が出土しており、県内では唯一現存するものである。造営時期は、埴輪などから5世紀後半ごろと推定される。 この石製品は、基部を欠き、中央部には個人の庭石に使われていた際に開けられた二次的な孔が施されている。 残存長77センチメートル、最大幅46センチメートル、最大厚13センチメートルである。中央部には横帯を持ち、上部先端は両角とも欠損している。翳(さしば)・盾(たて)・靫(ゆき)のいずれかをあらわしたものである。 いわゆる石人・石馬は、古墳時代中期から後期にかけて北・中九州を中心に分布するものである。西原古墳のものは、その中でも初期の段階に属するものであり、地理的には最も西側で確認されたものである。
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丸山遺跡三号墳舟形石棺 一合(附)鉄剣二口 鉄矛一口 鉄刀子四口 土師器十点(四個以上)
重要文化財
丸山遺跡は、久保泉町大字川久保に所在し、狭い範囲に密集した竪穴式石室・横穴室石室・竪穴系横口式石室・舟形石棺・小石室といった多様な内部主体を持つ5~6世紀の古墳群に特徴づけられる。 3号墳は径13.8メートル、周溝まで含めると径16.6~16.9メートルの円墳で、墳丘上には葺石(ふきいし)を持つ。内部主体は墳丘中央部に直葬した1基の舟形石棺である。石棺は長方形の墓壙に埋置されていた。石棺内部には3体分の人骨が遺存していたほか、鉄剣2口・鉄刀子2点が副葬され、棺外には鉄矛1口・鉄刀子2点が置かれていた。また、墳丘上及び周溝内からは土師器甕・高杯・小型壷が出土した。これらの出土遺物から5世紀後半の年代が考えれられる。 石棺の石材は身・蓋ともに阿蘇熔結凝灰岩である。蓋は、全長232センチメートル、頭位幅114センチメートル、足位幅100センチメートル、高さ50センチメートルをはかり、いわゆる四柱屋根形をなし両方の妻には円柱状の縄掛突起が造り出されている。棟部には狭い平坦面を設け、屋根は直線的に周縁部に延び、平縁を有さない。身は、全長235センチメートル、頭位幅117センチメートル、足位幅104センチメートル、高さ56センチメートルをはかり、小口部には円柱状の縄掛突起が造り出され、周縁部には縁辺突帯がつく。側面はわずかにすぼまりながら安定した平底へ続く。内部は平面長方形にほぼ垂直に刳り込まれており、長さ181センチメートル、頭位幅74センチメートル、足位幅69センチメートル、深さ39センチメートルをはかる。蓋・身ともに内面は赤色顔料で塗彩されている。 この舟形石棺と同形式の石棺は、熊本県菊池川下流域と福岡県大牟田市周辺に集中して分布している。このことは佐賀平野と筑後南部・肥後北部との関連を示唆するものであって、5世紀後半における北部九州の社会・政治体制を検討するにあたって重要な資料と位置づけることができる。
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丸山遺跡一・二・六・七号墳石室 四基及び出土遺物 一括
重要文化財
久保泉丸山遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期の118基の支石墓をはじめとする墳墓群と、5~6世紀の12基の古墳群が小さな台地上にまとまって存在していた複合遺跡である。遺跡そのものは、佐賀市久保泉町川久保に位置していたが長崎自動車道建設のため、昭和57年(1982)1月~58年(1983)3月にかけて移設工事が実施された。 1・2・6・7号石室は、そっくり切り取って移設されたもので、1・6・7号墳が竪穴(たてあな)式石室、2号墳が横穴式石室である。竪穴式石室で最も規模の大きい1号墳は長さ1.87メートル、幅0.73メートル、高さ0.76メートルである。2号墳石室は全長3.36メートル、玄室の長さ2.05メートル、幅2.02メートルの平面方形で、短い前庭側壁がつく初期横穴式石室である。玄室(げんしつ)の右側壁に沿って板石が立てられ、幅約0.6メートルの屍床(ししょう)が設けられている。出土遺物は1号墳が石室内から鉄剣2口・刀子(とうす)1点、2号墳が石室内から鉄剣3口・鉄矛(ほこ)1点・刀子1点・カン子形鉄器1点・鉄斧(てっぷ)2点・釶(やりがんな)1点・鉄鎌2点・鉄釧(くしろ)・勾玉(まがたま)7点・管玉24点・小玉499点・琴柱(ことじ)形石製品4点・砥石1点、6号墳が石室内から刀子1点を出土している。久保泉丸山遺跡古墳群の石室及び一連の出土遺物は、5~6世紀の佐賀平野の発達した古墳文化を代表する質の高さをもち、また移設された石室は野外博物館的施設として歴史教育の面からも大きな成果をあげている。
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佐賀市花納丸古墳出土遺物 一括(附)花納丸古墳出土遺物の記録 一巻
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保字上分にあった花納丸(かのうまる)古墳の出土品とそれら遺物の記録である。今日に伝わる遺物に変形文鏡1面、三環鈴(さんかんれい)1点、管玉(くだたま)11点があり、5世紀後半代に比定される。 記録では、天保11年(1840)11月に花納丸古墳が、破壊された折に、前記の遺物が石室の3隅から出土し、ほかに長さ45センチメートル位の鉄刀と鉄線をよって金メッキしたような釘が発見されたと伝えている。 変形文鏡は、面径9センチメートルの仿仿製鏡(ぼうせいきょう)である。背面の文様は、円座鈕(えんざちゅう)のまわりの内区に8個の乳(にゅう)を配し、各乳を双脚文(そうきゃくもん)が囲んでいる。その外に割り付けの乱れた複線波文・外向きの陽起鋸歯文(きょしもん)をめぐらし、縁は素文である。三環鈴は青銅製で、径3.8センチメートルの環体の三方に径2.7センチメートルの鈴が直接ついている。小型品に属する三環鈴であり、馬具の一種である胸繋飾(むながいかざり)とも推定される。管玉はいずれも碧玉(へきぎょく)製で、孔は片方から穿(うが)たれている。長さは2.3~3センチメートルである。 記録は二葉からなり、現在は巻子(かんす)に表装されている。1葉は、佐賀藩の儒学者、草場佩川(はいせん)(1787~1867)が書いた記録・考証と画家、歌人、古川松根(まつね)(1813~1871)の模写図を入れた版摺(はんず)りで、遺物が出土した翌年冬の刊行である。他の1葉は、佩川の草稿の写しである。記録の公表には国学者、南里有隣(1811~1864)も加わっている。これらは藩政時代の貴重な考古学的資料である。
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関行丸古墳出土遺物 一括
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保に所在する関行丸(せきぎょうまる)古墳から出土した遺物である。関行丸古墳は、西南向きの全長55メートルの前方後円墳である。 関行丸古墳の内部主体は短い羨道(せんどう)をもつ横穴式石室で、後円丘の前半に位置し北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、石室の奥側半分に板状の仕切石で3つの屍床(ししょう)を造り、各屍床から合計4体の人骨と副葬品が、また、石室の前半部と羨道部からも遺物が出土した。 第1屍床からは熟年~老年男性とともに方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)(径10.1センチメートル)、歩揺(ほよう)と魚形をとりつけた金銅製半筒形装飾具(長14.9センチメートル)1双1具などが出土した。奥壁に接した第2屍床からは若年1体(もう1体か)と、珠文鏡(径7.3センチメートル)、金銅製冠片・貝輪・刀子(とうす)・尖頭(せんとう)工具が、また第3屍床からは熟年~老年人骨と20歳くらいの男性人骨、変形文鏡(径7.6センチメートル)、珠文鏡(径8.8センチメートル)・勾玉(まがたま)・棗玉(なつめだま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉・貝輪・刀子・鏃(やじり)・鞘尻(さやじり)状金具が出土した。石室前半の床面からは鏃のほか鉸具(かこ)・鋲留(びょうどめ)金具などの馬具類が、羨道閉塞(せんどうへいそく)の詰石(つめいし)近くから三環鈴(さんかんれい)などが出土した。三環鈴は、外形11センチメートルの大形のものである。中に入る鈴子もそれにふさわしく径2センチメートル前後の丸石である。 関行丸古墳は未盗掘墳であり、石室構造の特徴や鏡・金銅製品・貝輪・三環鈴などの出土遺物からみて紀元500年前後に築造・追葬されたもので、古墳文化を研究する上で価値の高い資料である。
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牟田寄遺跡出土銅印
重要文化財
牟田寄遺跡は、佐賀市兵庫町にあり、標高3メートル前後を測る低平な沖積平野に立地する。当遺跡は、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代と多岐にわたる時代の遺構・遺物が確認されている。なかでも中心となるのは弥生時代後期で、特殊な柱穴構造を呈した掘立柱建物群等の遺構や、土器・木器などのおびただしい量の出土遺物などから、当該期に大規模な集落が展開していたことが明らかになっている。 また、大規模な谷地形(流路)があることがわかり、この部分の埋土中からは、貝層とともに各時代の土器、石器、自然遺物を多量に出土した。 これらの出土遺物に混じって、銅印が検出された。総高4.3センチメートル、印台高0.45~0.6センチメートル、印面方3.4センチメートル、重さ105グラムで、文字の解釈は確定していない。この銅印の所属する時期は、同一層位から出土した土器から判断すると9世紀から10世紀のものと推定される。 年代と印形態がほぼ合致すると考えられ、古代銅印の発達史を知る上でも貴重な資料である。