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[旧佐賀市][ 地蔵・銅像・石塔]は143件登録されています。
旧佐賀市 地蔵・銅像・石塔
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鍋島直茂公の銅像
大正13年11月、佐賀藩祖鍋島直茂の銅像が上多布施町の宗智寺境内に建立された。 元亀元年(1570)、鍋島直茂が大友の大軍を奇襲した「今山の陣」の雄姿を表した壮大な像であった。鍋島直茂は、龍造寺隆信の戦死後、その武士団を配下に置き島津攻めや文禄・慶長の役で武名を上げ、名実共に肥前の領主となった。その鍋島直茂の霊を祀るために建立されたのが宗智寺である。現在は、この像と台座は今日存在せず、土台の跡だけが残っている。
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三界萬霊
「三界萬霊」とは仏教語で三界は、欲界・色界・無色界をいい、萬霊というのは欲・色・無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさしている。それらを供養することが三界萬霊塔である。 多布施川・開運橋北にあるこの像は、道行くすべての生き物を眺めているようである。
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日子神社の大神宮塔
日子神社境内の北側に2塔設置してある。2塔共に「天照皇大神宮」の銘が刻まれている。 東側の塔は、建立年代は、「元禄」の文字しか読み取れない。年代は、1600年代に建てられ、下の部分に、施主15名の氏名が刻まれているが、土中に埋まり読み取ることが難しい。 西側の塔は、さらに年代が古く、天照皇大神宮の銘がやっと読み取れる程で、施主名も10数名刻まれているが風化して読めない。 県内では、伊勢皇大神宮を信仰する伊勢講が盛んに催されるようになり、講仲間では、資金を積み立て講金を路銀にあて、講仲間の数だけ神札を受け、帰村して配付した。また、路傍の田で新しい稲の品種を見かけたら持ち主から種籾をもらい受け、上方の文化と共に全国に普及していった。 境内にある大神宮塔は、代表で参詣に行った記念塔として建立したものである。 伊勢詣りは別名「おかげ詣り」と呼ばれ、60年毎に爆発的に流行した。これは、当時の封建政治に抑圧された庶民の対抗的な集団行為ともとらえられた。
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お地蔵さん(地蔵尊)
旧新村の地蔵尊の由来は定かではないが、元禄年間(1688〜1704)、中御門天皇の享保12年(1727年)に、この地の先住人達が佐賀の城下町に通じる道端に、家族の無病息災を願って、地蔵尊を建立し、祀ったのが起因と考えられる。 その後、明治12年に当地の住民の善意でお堂が建立され、明治25年2月に弘法太師像が合祀され、その時に天井絵馬が奉納された。 それ以来、佐賀、新四国13番札所として、春秋の彼岸には百数十人の善男善女のお遍路さんの巡礼があり誠に大盛況であった。 その後、お堂の痛みも激しく、天井絵馬も剥げ落ち老朽化したので、昭和42年5月に地区住民の善意により改築がなされた。平成9年3月、佐賀市都市計画道路建設の為、前場所より150m南の旧新村公民館跡地に移転新築され、前回の改築の時に天井絵馬は廃止されていたが、今回は明治の建立に習い、住民の善意の寄進により天井絵馬が復元された。 当地蔵尊は、由来記に述べられているとおり、藩政時代の昔から、村、内外をとわず一般の信者の参拝も多く何時も花や線香の絶えた事がなかった。夏祭り(ぎおん)は、旧暦の6月24日に町内の高等科の生徒(現中学1,2年)主催で権現さんと同じ要領で行われていた。 村内の婦人達や太子講の方々の善意でお遍路さんの御接待が行われていたが、現在は老人会や奉賛会の方々等の協賛で、お彼岸の日に本願院の和尚さんを迎え、家内安全と無病息災を祈願して盛大な法要が行われている。
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お観音さん(馬頭観音)
お観音さんは、お地蔵さんのお遍路道にあり、お地蔵さんと向き合ってお祀りされている。本尊は馬頭観音で、創建は記録が無く、定かではないが、お地蔵さんと同じ頃に新村の創始者達が農耕に大事な農耕馬の安全と共に家内安全を祈った。お遍路さんの巡礼が訪れたときは、婦人の方でお遍路さんの接待が行われていたが、今はなくなってしまった。
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お弁財さん
お弁財さんは通称弁ジャーさんの名称で親しまれ、沖田地区の東に祀られている。 創建は特に記録はなく、定かでないが、他のお宮と同じ時期に同じ様な趣旨で祀られたものと思われる。 12月15日に権現さんの村祭りの日の夜に、旧新村の全部の戸主を迎え、弁ジャーさん祭りが祭田の収益金で盛大に行われていたが、祭田が住宅供給公社の建設区域内に在ったことから、売却することになり、祭田の売却後は弁ジャーさん祭はなくなった。 夏祭り(祗園)は旧暦の6月27日に夏祭りの最後を飾り、青年団主催で行われた。当日は芝居の舞台が作られて、浪花節や田舎狂言など2晩続けて行われ、地区内から沢山のお花があった。今は故人になられた先輩の青年団員のお戯けたお花のご披露等、懐かしく思い出される。昔は何も娯楽の無い時代で、今思えば、懐かしく思い出される。
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八戸溝の中央尊
中央さんの信仰は、肥前の盲法師が広めたものといわれ、地神陀羅尼王子経の経典で説くところの荒神が大地の中央にあって、四季の土用をつかさどるという思想に基づくものと言われている。中央さんの石祀は、屋敷神として民家の敷地の乾(いぬい)の方、つまり北西か北東(うしとら)の隅に祀られている。 銘文は、中央社、中央、中央尊などがある.
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八戸溝の馬頭観世音
昭和15年10月1日現在の調査では、八戸溝の世帯数は66戸、人口324人で、ほとんど農家であった。馬は家族の一員で農耕用馬、競走馬などで、大切に飼われていた。馬の安全を祈り、農耕馬の守り神として路傍などに祀られた。また、馬が死ぬと供養のために個人の手によって宅地内に祀られていた。 また、馬頭明王とも言われ、仏が怒りの姿で人々を救い上げるということで、恐ろしい形相の姿が多い。江戸時代中期以降から民間信仰が厚くなったとも言われる。 森氏宅馬頭観世音 (銘文)馬頭觀世音 建立 明治十九年戌七月吉日 建立者 不明
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八戸溝の庚申神塔
石水寺禅寺の山門の南で参道路傍に2塔並んでいる。庚申神とは、「かのえさる」道教と仏教の青面金剛、帝釈天の信仰とが混合したもので、庚申(かのえのさる)の夜、一晩眠らずに神を祀る庚申会(講)があり、この庚申講信者仲間で建てられたものと思われる。銘文だけがやっとわかり、氏名などは風化して読取れないほど年代は古い。 また、講と信仰の結びつきは古く、二十三夜講、二十六夜講(普通、三夜待講、六夜待講)、庚申講、伊勢講、念仏講など盛んに行われた。そして、近世末期から明治、大正にかけて建立した石塔が各地に多く残っている。
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六地蔵
奉彫刻地蔵菩薩6体(総高約1.5m)は、 江頭山長寿庵南入り口に設置されている。 ○湖光妙○禅定尼 萬治二巳亥歳(1659) 十一月廿八日 同じ南入り口には石塔1基(総高約1.0m)もある。 岡丸霊神 延宝三年(1675) 十月十八日 また、北入り口には、奉彫刻地蔵菩薩6体(総高約2.1m)が設置されている。 なお、地蔵菩薩は宝珠・笠・仏体(6体)・中台・竿の5部からなっている。北・南入り口の菩薩6体は、共に笠は平面が六角形で、波形の勾配、仏体は立像で蓮台上に立っている。 しかし、どれも造立銘が判然としない。
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石造地蔵菩薩
地蔵菩薩の正面下に「三界萬霊」と、横に「明治六巳丑年四月吉日」刻まれている。 地蔵菩薩は童顔で、帽子を嫌い子どもを守る菩薩と言われている。 同じ地蔵が、八戸溝・角目・東新庄に各1基あったとのことで、このことは佐賀城敷地の計画の1つだったという逸話が残っている。 毎年7月24日には、隣組の子どもと母親が古賀氏宅に菓子等を持ち寄り食事をしながら、歌や踊りを楽しむ祭りを行っていたが、現在は休止中である。
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三嶋弁戈天祠
旧観音寺和尚慶舜はかねて三嶋弁財天を信仰していたので寺の境内近くの塘のほとりに石の祠を建て勧請したもの。現在も大門、金立の村祭りには毎年12月中に七五三縄を張り、御供を献して祀りつつある。又この祠のほとりに観音塘があり水利と景観を添えている。
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酒呑地蔵
金立町大門の中程より東へ約100m入った所をさらに畑の小道を登った小高い台地に等身大の石仏が祀られている。これが通称洒呑地蔵といわれ、酒を供え拝めば熱病をさますといわれ、往時は、無病息災の願望がかけられていたものと思われる。今日では時勢の推移につれて拝む人はまばらというが、過日写真撮影に行った時は御供物・御花などきれいに並べてあり観音様の着ているよだれ掛けなど新しく取り替えられ今日まで祈り続けた庶民の心情が偲ばれる。
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熱冷まし地蔵
地蔵菩薩は、観音菩薩とともに、最も庶民に親しまれ信仰されている仏である。 地蔵は、六道(天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄)の衆生を救い、極楽に行ける力を貸してくれると信じられた。また、近世になると民間信仰と結ばれ、火防、盗難除、病気平癒など庶民のあらゆる願いを叶えてくれる仏として祈願されるようになった。 この地蔵は、通称熱冷まし地蔵といわれ、お供物をし、祈願すれば熱病を治すといわれている。往時は、無病息災等の願望がかけられ、近郷の人々の詣出る姿が多く見られたが、今日では時勢の推移につれて拝む人もまばらとなった。しかし、いつも御供物、御花などきれいに並べてあり、今日まで祈り続けた庶民の心情が偲ばれる。
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五丁の地蔵さん
寛保3年(1743)建立で、「いぼ地蔵さん」とも言われている。 昭和5年、光を放つ別の地蔵さんが、横の河川から発見され、この頃からお供えの御水、胸かけを受け、誓願すれば万病に効くと伝えられており、現在も県外からの参拝者が来られている。 昔は、JR伊賀屋駅で下車して、多くの県外の人がお参りに来られて、列をなしていたと言われており、地蔵さんの前には多くの店が出て、地区では旅館作りの話も持ち上がったと言われている。 地区の人々は、米とお賽銭が混在して奉納されるため、仕分が大変だったと伝えられている。 現在も年に3回氏子による祭りが続けられている。
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疣取り地蔵
金立町野田の諸岡氏宅入口付近に疣取り地蔵の六地蔵が祀られている。 地蔵山とも言われて、4畝位の金立町野田地区共有の小高い山林に祭祀されて大切にされていた。 また、他地区の人たちも疣取り地蔵さんと崇めて、お参りされていたようである。 あるとき、誰かがこの六地蔵を持ち出して自分の屋敷内に祀ったところ、疣がたくさん出来たため、慌てて地蔵山に戻してお詫びをしたところ、疣が直ったという謂れもあるそうである。 地蔵山は、戦後諸岡氏が購入して屋敷となっているが、野田地区で小さな御堂を建てて祀られている。碑文や願文もないため、過去のことはわからないが、昔医者がいなかった時代の生活の一端が垣間見えるようである。
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馬頭観音
平尾天満宮前の道端にあったものを、平成19年護岸工事の折、天満宮境内に移設されている。設置された年代は不詳であり、天満宮境内には馬の立像が設置されているが、馬頭観音との関係はないと思われ、絵馬のようなものだろうと、地域の古老は言われている。 平尾は、以前馬を飼育したり、墓地があったり、馬とのかかわりが多かった地区であった。
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木起地蔵
平尾地区河原の東の田の中に、国分寺総門の跡であると伝えられる所がある。昔この所に大きな樟の神木があった。文政11年(1828)8月の大風にこの樟が根元から倒れ、かたわらのお地蔵さんの堂宇に落ちかかろうとした。そこで庄屋蒲原忠右ヱ門が村民と協議し、明朝になってから大和町小川村の木こりに頼んで、この樟の木を伐採しようとした。その夜ふけ丑の刻になって、エイエイと騒がしい人の声がした。村人はこれを怪しんだが、翌朝になってみると樟の大木は元のように立ち直っていた。さては昨夜ヱイエイとかけ声をかけて樟の木を起したのはお地蔵さんであったろうということになって、それからはこのお地蔵さんを木起しの地蔵と呼ぶことになった。その時から参詣の老若男女が非常に多くなって時には代官所から参詣を差止めるようになった程であるという。又お詣りすればいぼがなおるということで一名いぼ地蔵さんとも呼ばれていた。この地蔵さんも今は平尾天満宮の境内に建てられた一宇の堂に安置されている。 庄屋蒲原忠右ヱ門の屋敷は、大塚八郎氏宅の裏の畑の所にあった。今も畑の隅に 屋鋪大明神 慶應二丙寅 願主 蒲 原 忠 平 と誌された石のほこらが残っている
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弘法大師像
修行姿の大師像で台石からの高さは約3m程ある。 台石の前面には、修行大師遍照講と刻まれている。 また、左面には、「夫レ我中四国八十八ヶ所ハ大正七年九月新設シテ一市拾ヶ村二亘ル寶スル者日二日二多ク霊験新ナリ茲二特志者寄進ヲ稟ケテ本尊修行姿弘法大師ヲ安置シ奉ル寔二之吾遍照講ノ記念ナリ矣」大正十二年三月一日 遍路講代表者 村川良禅 と刻まれており、遍照講篤志者の寄進により建立されたことが判る。 なお、建立当時の所在地は現在のウエストうどん店付近であり、昭和30年代に現在地に移設されている。
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石佛さん
平尾天満宮境内に通称、「三日月さん」と呼ばれ、古老の話では、佐賀戦争の戦死者を祀ったものとも言われている、円形の自然石がある。石には南無阿弥陀仏の刻字があり、大乗妙典経塔のようなものと推測されている。 また、平尾天満宮から西に100m位の土手のところにも円形の自然石に刻まれたものがあり、地元では石佛さんといってお参りをしている。 地元の人は、二つの石ともにお花をお供えして祀られており、天満宮境内の石を「日」、土手の上のものを「月」といい、何らかの深い関係があるのではといわれている。
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お地蔵さん(いぼ地蔵)
寄人天満宮西北100m余の所にお地蔵さんが立っておられる。2、3坪の狭い敷地であるが、誰が植えたのか桜の木が2本あった。いぼ地蔵さんと称して、心ある人のお参りがあっていた。 台石に、三界萬霊 施主 小林平右ヱ門 享保十二年十月吉祥日 とあるから、長い間おつむも丸く、ほほえみ立たせ給うたのであろう。享保といえば、4年の台風、9年の干ばつ、大風雨による大損毛、11年の大雨、高潮による大被害と打続く飢きんに幾多の餓死者を出した年代であるから、その霊を弔うため施主が地蔵さんを建てたのであろう。子ども達は、昭和45.6年頃までは盆の16日に、家々から盆提灯をもらい、豆を炊いて村人を招待し祇園祭を行っていて、このお祭りを豆祇園といっていた。この地蔵さんは、今は住宅地の陰に淋しく隠れておられる。
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アラヒト(現人神)さん
別名、のど痛みの神様という。 奉建立 阿羅比登神社 猿田彦神社 十方信者祈願天下泰平五穀成就 維持 昭和九年四月上旬 大工 永渕喜八 願主敬白 アラヒトさんは、いわゆる現人神で、神様がこの世に人となって現れて悩める人を救い給うという信仰である。このアラヒトさんはのど痛みの神様として有名である。 隣りの地蔵さんは「いぼ地蔵さん」ともいわれ、信心すればいぼが直るといって庶民の信仰が厚かった。 奉再建 六道能化 佛地蔵願王大菩薩堂一宇 願似此功徳善及於一切 昭和三年 陽春吉日 お堂の棟木にはこのように書いてあり、四足堂に並んでおられる。
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新村の辻堂と供養塔
「牛島天満宮由緒記」によると、寛政3年(1791)提出された書類に、澤広山潮音寺の掛支配所として、高木新村、『辻堂』の記録があると、高木瀬町史には記載されている。 また、寛政9年(1797)三溝村・大興寺より出された書類には、高木新村「地蔵庵」の記録があることが、高木瀬町史にある。(355~6頁) 約1坪のお堂は、今も手入れされ、堂内には ○當庵開基徳雲院殿大年際雄大居士 享保12歳次丁末(1727) ○當庵開山月苓皎老大和尚 享保4己玄天(1719) と記された位牌が祀られている。(高木瀬町史・359頁) 「地蔵庵」跡は、現在の「きのや駐車場」辺りと推定される。 「辻堂」と「供養塔等の石像物」は、現在も保存されており、付近の住民の方がお参りをされている。 地域住民の永渕によれば、小さい頃、「地蔵庵」は荒れた尼寺と聞いていたが、そこで、秋の23日夜、お祭りがあっていて、父等地区民が参加していた。 現在の辻堂等の石像物は、地蔵庵の関連石像物ではないかと思われる。
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八丁畷 弘法大師堂
八丁畷公民館敷地内には、弘法大師堂がある。 佐賀県警機動隊の近くにあった大師堂が、国道の拡張工事のために現在地に移転させられた。 ここには、馬頭観世音・弘法大師・薬師如来・不動尊の4体が祀られていて、それぞれ施主が刻まれており、大正11年10月に起工、12年5月落成と記されている。 弘法大師像には大正8年9月吉日と記されていて、発起人・今村忠六、野方チカ、中島イマ、世話人・中島亀吉、副島政市、中島浅市、森田栄八の名がある。 馬頭観世音には佐賀市城内・武田カタ、不動尊には佐賀市城内・武田為助とある。薬師如来には堀尾世(與)一、辻シゲ、村塚チエノ、木原セツ、藤瀬作市、副島クイ、垣内シマの名が見える。 大師堂の移転と共に新築された八丁畷公民館は、昭和48年頃に完成している。
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城井樋大師堂
ご本尊は、昭和45年3月本堂を改築された際に、むさ苦しい屋内に置いておくのは忍びないと、地区住人で熱心な信者であった、古賀五郎夫妻が自己資金で屋外の台座に安置(移)された。 本堂には、お大師さんの掛け軸が掛けてあり、普段は入り口の引き戸は施錠が掛けてある。 本堂前の西方に、幅2m位の見事な巨大な1枚の自然石の上に、外の3体の石像物と共に東向き(道路側を向いて)に整然と並んで安置されている。 大師像は、向かって左(南方)から2番目に安置してあり、台座の自然石の裏面(西側)には、「昭和45年3月建立 玉石垣寄附者 古賀五郎 妻 フサエ」と記されている。 また、ご本尊の前に、身の丈1.3m位ある見事な1対の石燈籠が設置されていて、この石燈籠には、「献灯 昭和63年6月20日 古賀五郎・フサエ」と記されている。 お堂近くにお住まいの古賀氏は、この大師堂に纏わる話を、母から聞かれていて、自分が嫁入りした戦後間もない頃までは、大師堂に春秋の彼岸頃には大勢のお参り、巡礼者があり、地区民あげてお接待に当たっていた。また、年間を通じて、花を手向け、月に1回は、本堂と周辺の清掃を行い、それは大切にしていたが、今はそうした風習も廃れてしまった。 母からは「このお大師さんは、おじいさんが新村からいのうて持ってこられた」「お大師さんには、大抵守ってもらったから大切にせんといかん」と言われていたとのこと。
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若宮弘法大師堂
地域の山崎氏によれば、昔は、春・秋の彼岸の時期は、多くの巡礼者が参拝されていて、母たちは、地区民上げて煮豆等を作り、お接待に当たっていた。現在は、このような地区上げての取り組みは行われていない。 また、お堂は平成13年、若宮公民館が新築されたのと同時期に、自治会で新築されている。 中央の大師像は、高さが1m余りあり、正面に「二世安楽」右側面に「天保6年9月、古賀太右衛門 同人女房」の誌があり、製作時期は江戸時代末期と判断できる。 堂内の石像物の左側奥に、長さ50cmくらいの古い木板片があり、同木板に「弘法大師堂 大正12年4月吉日 改築」と墨書があり、現在は相当薄くなり、読み難いがどうにか判読できる状態である。
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八丁畷お地蔵さん
国立病院のすぐ東側市道の一隅に、小さなお地蔵さんがある。 それには「三界萬霊塔、東高木新村男女中」とあり、かすかに「安永7戊3月吉日」と読み取れる。建立は1778年で、徳川10代将軍・家治の時代で、この頃すでに東高木新村と呼ばれていたことになる。 日の出1丁目の坂本氏の話によれば、「明治22年生まれの父は、私が子どもの頃この地藏さんは、昔、流行病気のあったときに出来たものだ」と言われていたそうである。
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三界萬霊の石塔
この石塔は、西氏方の北西角・市道(三叉路交差点)との境界線上に、道路側を向いて建立されている。 西氏の説明によれば、「私が、嫁に来たときには、既にこの石像はこの位置にあり、父母が熱心に祀られていた。昔から、道路側を向いて立てられており、曽祖父の時代(恐らく明治時代以降と思われる)は、石塔の前の道路上に、筵を敷いて近所の子ども達を招いて、煮豆等を振る舞っていた。道幅も狭く、三叉路の交差点でもあったことから、馬車が通る時、よくこの石塔に馬や、馬車が引っ掛けて、数100m南方まで引きずられて行かれる事もよくあった。しかし、この神様は、又もとの位置に戻られ、何の祟りやお咎めもなく、優しい神様だ」と夫が話していた。 今も、月に1回は、この神様に、酒と塩を供えて祀っている。 石塔は、2つに分けて2体として立てられているが、本来は、これを一段に重ねて立てるのが本当の姿であるが、重くて重ねきらないこととや重ねて立てると危険性もあることから2つに分けて立てられている。
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馬頭観音像
多布施川の植木橋より南方約50mで左岸歩道上にこの「馬頭観音」がある。 歩道上であるが、車道と歩道の中間に位置し、南北には樹齢100年を超すような椋木(むくのき)があり、その北側の椋木の南根元に他の樹木に囲まれて設置されている。 観音像の前には、高さ1.3mもある堂々とした石灯籠が2基設置されている。 城井樋地区に長く居住されている古賀氏の話では、戦後間もない頃まで、この付近に居住されていた古賀さんが、この地で主に祀られていたようで、古賀さんは、夏の祇園祭のときに、城井樋地区の子どもたち多数を招き、煮豆等を振る舞っておられ、地域に定着した神様として祀られていた。 また、昔、この多布施川で子どもたちが泳いでいて、具合が悪くなると「馬頭観音さんのたたりばい」と言われていたこともあるらしい。 また、馬頭観音像の前にある石灯籠の高さは1.3mで、それには「献灯 昭和63年6月20日 古賀五郎・フサエ」と記されている。
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二十三夜塔(おさんやさん)
若宮1丁目の中央部、新村川の小橋の側に、自然石の「二十三夜塔」が建っていて、高さは約3m余りあろうと思われる堂々とした塔である。 塔石の上部に仏像が彫られ、その下に『二十三夜』と大書されている。 塔石を載せる台座の石、左側面に建設された年月「明治20年丁玄(1887)7月」「高木新村の建設者10人の名前」が記載されている。 また、台座の石、右側面に「大正10年改築・青年会」と記され、青年会の手による改築記録も残されている。 当地区の東島氏の説明によれば、「父たちは、よく「三夜待」を家庭持ち回りで行い、酒を飲み交わしていた。また、母たちは、月に1回位、この塔の前に筵を敷いて煮豆等を茶菓子にして、「お日(ひ)まち」と称した「おちゃご」をして、女性たちの地域交流の場・骨休めの場となっていた。