検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][ 地蔵・銅像・石塔]は143件登録されています。
旧佐賀市 地蔵・銅像・石塔
-
鳥獣含霊塔
珍しい動物供養塔で文化9年(1812)に建立されたものと、もう一基「大小鳥獣一切滞魄孤魂等衆滅罪之塔(建立年次不詳)」が在る。
-
直茂公銅像園
【由 来】 藩祖鍋島直茂は、晩年に上多布施(多布施四丁目)に隠居所を設け、ここで亡くなったが、その子勝茂の遺命によりここに寺院を創設し、直茂の法号に因みて「日峯山宗智寺」と称した。 直茂の盛徳を追慕した旧藩民有志が、この寺の境内に銅像を建て、大正13年(1924)11月9日に除幕式を挙行した。(『佐賀市史下巻』による)それからここを銅像園と称した。 【思い出】 銅像前の広場で市内小学校の連合運動会も開かれた。銅像の南側には、多布施川の水を引いた 50メートルプールも作られたが、有料であった。神野小学校の児童も体操(今の体育)の時間に 水泳練習に連れて行かれたこともある。旧制佐高(現佐大)の水泳部もここで練習し、全九州中学校水泳大会も開かれたこともある。 このプールは、底がコンクリートでなかったので砂がたまり、蜆貝が棲息するようになり、近くの子どもたちは、カイツブリのようにもぐって蜆貝を盛んにとったものである。 銅像は、太平洋戦争中に供出され、プールは埋めたてられて、寺の周辺は住宅が密集し昔の面影はない。
-
福満寺内六地蔵群
福満寺境内の本堂左手寄りに、六地蔵の群が安置されている。天文(1532~1554)、天正(1573~1591)の頃の、同一支柱の六地蔵と違い、各々の地蔵をそれぞれ1体として、6体を石彫したもので、寛文年間(1661~1672)の作である。 奉納者は、「施主竹田権右ェ門尉政之夫妻」と明記されている。彫りあとは、まことに稚拙粗野であるが、石仏としては、その表情まさに慈悲の温顔をたくわえ、この地方江戸初期石彫の秀作と言えよう。
-
古賀観音堂
【本尊】如意輪観音菩薩 今より150年余り前、佐賀藩政時代に藩主が家臣の武士に賜わったものを、古賀区の武家屋敷であった現在地に小堂宇を建立して安置したのが起源であると伝えられている。 佐賀城東南部に住む武士達は、この観音に帰依するもの多く、即ち心のよりどころを得て、仏徳を喜び、観音講を組織して維持運営に努めた。ところが大正末期の台風で、お堂が倒れたため、御本尊の観音菩薩像を、八田の大応寺に預け数年を経過したが、観音菩薩の熱心な信者の方の夢枕に立たれた観音様が三夜に亘り、元の古賀に帰りたいというおつげがあったということで、それではと地区では昭和6年10月頃より費用を拠出し堂宇を再建し、観音菩薩を大応寺より迎え安置して今日に到っている。今でも地区では宗教法人の組織により運営されていて、地区民の信仰も厚く地区外よりの参詣も多く、広く古賀のお観音さんとして知られている。
-
三夜像
三夜とは、(1)三日月、(2)結婚して三日目の夜、(3)誕生して三日目の産養(うぶやしない)を表す意味がある。地域において三夜の行事をする謂れを考えてみると、(1)神様的存在である月の出を待って無病息災・家内安全・五穀豊穣などをお祈りする意味。 また、結婚三日目の夜をお祝いして親しい人や近所の方を家に呼んで酒宴する意味もある。 なお、子どもが生まれたことを祝って酒宴をすることも理解できる。 本当の意味はわからない。ある一説では、毎月23日に親しい人たちによって、月の出るのを待って酒宴を開き、月が出たところでお開きにするのが慣わしのようである。 でも、23日に月(三日月)が出るでしょうか。日にちを定めないで三日月の出るときにされておられたと思いますが、今日の三夜待ちは、日にちを変えるのが面倒だから23日に開かれているのではないだろうか。
-
五重塔
天台宗恵日山寶琳院にある。この五重塔は軸部と屋根とは別石造りとなっている。造立明らかでなく、軸部の一部を欠失しているのが残念である。
-
六地蔵
天文年間(1532〜1554)に建てられた石造物として貴重な文化財である。六地蔵は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道の各道の衆生を教化する諸尊である。庶民の地蔵信仰は平安時代の末期の頃からであり、民間信仰の象徴的な存在となったのは鎌倉時代の末期である。一石六面(南側)と一石十二面(北側)の2基は九州地方では珍しいものである。南側の六地蔵は高さ1m60cm内外で支柱の中央に「天文弐暦十一月十八日」とあり願主権大僧都弁仁としるされ、大工弥七郎と刻まれている。一石寄せ造りの六地蔵は、礎石と大部支柱をかねた土台石柱と上部棹石の上に、台座と蓮華台をかね略した部分とその上に尊像(6躰)の構成が形式となり、その上に笠石をのせている。北側の十二地蔵は全体が高く台座より笠石まで2m50cm内外であって、礎石をかねた下部の支柱と台座をささえている上部の竿石からなっており、その上に台座と蓮華台がある。今日では誰いうとなく献華、献香が行われており、500年近くの歴史の跡をうったえている。肥前では格調の高いものといわれている。
-
大黒天
大黒天は、インドや中国においては古くから寺院の守護神とされ、また、豊饒を司る神として信仰されていた。わが国では大国主命と習合し、エビスとともに福神の代表的な存在となって信仰されてきた。大黒天には、甲子待ちの主尊として崇敬されているのと、福神信仰に基づくものとがあって、甲子または子の日に、夜遅くまで起きていて精進供養する行事を子待ちまたは甲子待ちといっている。甲子待ちまたは子待ちは主として農村で催されていて、県内の大黒天像の多くは農村地帯に分布している。大黒天頭巾をかぶり、右手に槌を握って右肩のところに捧げ、左手で袋の口を握り、背中に袋を背負って、2個の俵の上に立つ像で、脚が極端に短かくて、胴の下に足先だけがついているような像で、果して立像だろうかと疑念をいだかせる像もあるが、すべてが同形式の大黒天である。お顔を見ると、半月の眉、目尻の下がった細い眼、笑を含んだ口元など、典形的な福神の相である。エビスさんと大黒さんは一対をなす福神として信仰されるが、この両者の出身はそれぞれ異なって、エビスさんはわが国生まれであるのに対し、大黒さんはインドの生まれで、仏教とともにわが国に移住された異邦人である。この両者が一対となって信仰されている点は、現代風に見ると国際結婚の先駆者とでも云うべきでしょう。循誘校区内には、材木2丁目にあり、久保泉西原の大黒天は、路傍にあってとても大きく、威風堂々としている。
-
西宮塔
文字が書かれているエビスさんとして、最も多いのが、この『西宮』塔で、このほか『西の宮』『西ノ宮』があり、そのうち数の少ないのが『西の宮』塔である。エビスを西宮として祀るのは、エビスを祭神とする摂津国の西宮社の社名を用いたものである。エビスの文字塔は、幕末以後の造立で、文字塔そのものの造立年代が比較的に新しいと云うことがわかる。この文字塔は像と比べると、極めて安価に求めることができるという利点がある。この文字塔の出現は、単なる経済的な問題のみであろうか、集団的奉祀へとエビス信仰のあり方が変わった結果であろうか、とにかく、文字塔の出現は、エビス信仰の研究上注目される課題の一つであろうと考えられる。エビス文字塔には、自然石塔や切り石塔が多く、奇麗に整形し磨かれた駒形塔もある。材木1丁目の西宮塔は、造立年の明らかなものの中で古いものといわれ、文字の下方に鯛が一匹丹念に刻まれているのも他に例がなく、注目すべきものである。文字は『西宮』と書いてあるほか『恵比須大明神』 『西宮大明神』『恵美須尊』『蛭子命』『蛭子』等があるが、『夷塔』はなく、『夷』という文字には、異郷から訪れた神と云う意味が含まれていて、エビスに対する古い時代の考え方を伝えており、蛭子には神話の流れを伝えている文字だとも考えることができるようである。
-
馬頭観世音菩薩
循誘小学校の南、記念橋付近の路傍に馬頭観世音菩薩の石像仏がある。この馬頭観世音菩薩は観音様の一種で、六観音の一つである。観世音菩薩は、通称観音さんと庶民に親しまれているが、人々のあらゆる災難や恐怖を救ってくれる御利益がある。この功徳が説かれている『観音経』というお経には、どんな災難があっても観音力を一心に念ずれば決して恐れることは無いと説かれている。また、生きる勇気や自信も与えてくれるという。これは除災招福のありがたさのために、観音様は日本のいたるところに見られる。人々の願いに応じて、千手観音、聖観音、十一面観音、馬頭観音などと千変万化に姿を変えられたからである。法華経普門品に説く三十三身すなわち観世音菩薩が三十三身に姿を変えて、観音の信仰者を救済することを説いている。千手観音、聖観音、十一面観音、馬頭観音、このほか不空羂索観音、如意輪観音を総称して六観音と呼び、また、不空羂索観音の代わりに准胝観音を加えて六観音と呼ぶ場合もある。これらすべてを合わせて七観音ということもある。馬頭観世音菩薩は、頭上に馬頭を戴く観音でインドのビシュヌ神の化身が仏教にとりいれられたものといわれる。その激しい性格から、馬頭明王として、観音に珍しい忿怒の表現をして、八大明王の中にもその名があげられている。本来は、転輪聖王の宝馬が世界を縦横無尽にかけめぐるように、一切の魔障を摧破して、人悲の大願を果たす威力ある観音という意にとるべきである。六観音を六道に配して、この尊が畜生道の苦を救う観音であるところから路傍にまで見られるように一般化した。また、馬頭観音の信仰は、馬の安全を祈ること、あるいは旅の安全を祈ることになるのか、別れ路の傍に立つと、この観音が安置してあるのがみられる。特に中部山岳地帯に多い。
-
青面金剛刻像塔
60日に一度めぐってくる庚申の日、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願うのが庚申信仰である。庚申とは、十干十二支の組合せでできる六十干支のうちの一つで、年や月日を数えるのに用いられるものであり、すなわち庚申とは『庚申の日の信仰』ということである。 庚申信仰は、中国の道教信仰に基づくもので、日本では江戸時代に盛んになったが、今はあまり見かけられなくなっている。道教の教えというのは、『人の身中には、みな三尸(さんし)九虫の悪い虫が宿っている。この尸虫が庚申の日には昇天して、天帝にその人の罪科を告げて記録し、生命を縮めようとしている。道を学び不老不死を得ようと思う者は、まず三尸九虫を滅しなければならない。この三尸を制するのは、庚申の夜を眠らずに守り、天帝に罪を訴えることができないようにすることである。罪が、500条に満つると、その人は必ず死ぬ。三度庚申を守れば三尸は振伏し、七度庚申を守れば三尸を長絶する』ということである。 庚申の日は、講の人達は一日中身を慎み、悪いことを見てはいけない、悪いことを聞いてはいけない、悪いことを語ってはいけない、ということで『見ざる、聞かざる、言わざる』の三匹の猿が庚申塔に刻まれて、人々に注意をうながす。もしそれを破ると、口が曲がったり、目がつぶれるなどのたたりがあるといわれている。また庚申の日の夜に夫婦が交わることを固く禁じて、この晩に身ごもるとその子は、盗人になるなどと言われる。このように一晩中眠らずに、飲んだり、食べたり、語り合って過ごすことを『守庚申』(しゅこうしん)、とか『庚申待』(こうしんまち)といった。また庚申信仰が江戸時代に盛んになったのは、実は、庚申の神は一方で農業の神、養蚕の神、馬の守り神、漁業の神とされて、庶民の現世利益の『福の神』であったからであって、その後も庚申は、泥棒除けの神、火防の神など万能の神としてあがめられた。本覚院の『青面金剛』という明王は、中央部に邪鬼を踏む六手の青面金剛立像で、六手の持物は、左に三股叉、矢、宝棒、右に、一輪、弓、羂索、頭髪を逆立て両臑を現わしている。庚申塔が他の神仏と習合する例の中で、最も多いのは道祖神である。これは庚申の申(さる)と道祖神は猿田彦だなどという俗説に由来するものと思われる。このほか大日如来と庚申との習合や、地蔵尊と習合している場合もある。庚申塔は、往々寺院の境内に立つこともあるが、普通には路傍とか、三辻などに、そしてよく塞ノ神と仲よく並んでいることもある。こんな場合は大抵村の入り口などであって、疫病神の侵入を防ぐ役目を分担するものと思われる。そのついでに道標を兼ねていることもある。庚申塔の中には、庚申、猿田彦、青面金剛等と記された文字塔の他に青面金剛の図像を刻像塔としたものもある。
-
紺屋町の六地蔵さん
地蔵尊は観音菩薩とともに、最も庶民に親しまれ信仰されている菩薩である。県内の地蔵菩薩石像としては、明徳2年(1391)南北朝末期から室町時代前期の応永年間(1394−1428)にまず出現しているが、六体の地蔵を一石に彫顕した六地蔵の造立が室町時代の後期に盛んになった。 地蔵尊は、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻転生する衆生を救済するということから、六つの分身と考え六地蔵としたと云われる。 佐賀県内で一番古い六地蔵さんは、文明16年(1484)に造立された嘉瀬町荻野の路傍にあるもので、路傍にたつ地蔵尊の信仰は、道祖神よりも盛んなように見受けられ、あるいは塞(さえ)の神に習合して路上守護の役目を果たしたかもしれない。 寺院や部落の出口、墓地の入り口に多く見ることができる。このようなものは、近くでは、大財の精金寺、六反田の長楽寺、愛宕神社、清心院等にある。 紺屋町の六地蔵さんは、宝暦13年(1763)の銘がある。この形式のほか、塔身を二段に分け、上に六観音、下に六地蔵を半肉彫りにしたものもあるが、九州地方の一石六面と十二面の様式は、他地方に類を見ないと云われている。
-
二十三夜塔
三夜待ち、六夜待ちともいうのは信仰的な講であったが、今では親睦的な寄合いになっている。本来、神のそばにいて共に夜を明かすことと考えられていたのが、月を待つことに変化していったものといわれている。三夜持ちは、毎月23日の夜、青年組、中老組、老人組に分かれて催す男の人達の講で、女子の二十三夜講は存在していないようである。二十三夜講塔には『二十三夜』と記されたものが最も普遍的であるが、他に『勢至菩薩』『大勢至菩薩』としたもの、『月読命』『月夜見命』『月弓尊』としたものや、更には『月天』と刻まれたのもある。 文字塔のほか、尊像や二十三夜月、あるいは瑞雲等を彫顕した『刻像塔』があるが、刻像塔の大部分が勢至菩薩像である。紺屋町の刻像塔は、文久2年(1862)の建立で、材木町の日天神社にあるのは、安政5年(1858)となっている。また、毎月の月待ち行事の他『お日持ち』があるが、これは毎月でなく年に一度行うところが多く、牛島町でもこの風習があり、この他鍋島町の蛎久では7月15日に、東脊振では、10月14日から15日に寄り合いをして酒をのみ、家々で餅つき料理を作ったりするようである。
-
弁財天
水の神の祖は、罔象女神(みずはめのかみ)であったといわれるが、渡来の祇園の牛頭天王(ごずてんのう)須佐之男命(すさのおのみこと)が習合して(神と仏と折衷して一体となること。)祇園様と呼ばれ、水神となったように、時代によって信仰は多くの神々をつくりだしていった。そして水神も世の中が複雑化していくにつれて、他の神へと転化されていくことも多くなってきた。弁財天もその一人である。弁財天は一般に『弁天様』といって、七福神の紅一点で美女の代名詞になってよく知られている。インドの古代神話で河川を司る水神であったが、仏教とともに日本に伝わった。日本は、多神教の国であり、神にしろ仏にしろ、そしてその他の神もその数は無数である。そしてある一体が時によっては神になったり、仏になったりする。また神か、仏か、いずれに属するのか不明のものもなかにはある。『七福神』など元来は仏教関係で仏様を守護する神がわが国に渡来して以来、中国の道教思想が取り入れられ、さらにわが神道思想と相まって七福神という神様ができあがった。呼び名として『大弁才功徳天』『妙音天』『美声天』などがあるが、土地を沃し、五穀豊穣をもたらす『水神』として農民に尊敬されて、よく水辺とか、川辺に祀られ、水を司る神とされていた。このほか水の流れる音に因んで、音楽の神、弁舌(知恵)の神などの『技芸神』として花街の女性や多くの人々の信仰をあつめた。また、財福の神、名利を望む人に功徳があるとされ、『弁才天』が『弁財天』に改められ、現在では『水神』『農神』より、ついに『財福の神』『福神』へとその性格が変わっていった。弁財天の神使は『蛇』である。蛇が大蛇になり、やがて雲を呼んで竜となるといわれ、竜は『竜神』として雨を降らせるとして各地に『竜王』または『八大竜王』の竜神信仰も農民の間に普及していった。金立山や天山などには弁財天が祀られているが、おそらく農業用水の供給源としての水神信仰が、これらの山には古くからあって、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったと思われる。
-
一字一石塔
西新庄東善寺境内に一字一石の塔がある。正面には大乗妙典一字一石と刻してあり、裏面には天明八年とある。この年代には恰も諸国大飢饉で、餓死者が道に横たわるという惨状を呈した程であるが、伊東氏はこの地方の豪族として罹災者慰霊のため、また悪疫災難退治の意味で建立されたものである。
-
薬師如来
わが国では仏教伝来後比較的早くから信仰され造像も行われた。鍋島町蛎久公民館にある。
-
講塔
信仰を同じくする者の集団を講と呼び、江戸時代以後伊勢講、英彦山講、観音講、不動講、三夜講などが、観睦的要素、相互扶助的性格を強めて盛んになった。こうして太神宮講は伊勢大神宮を崇敬する人々によって構成された講組織であり、伊勢講とも言われる。伊勢講の人々によって建立されているのが伊勢講塔(大神宮講塔)であって、県内各地に造立されている点から、江戸時代以後伊勢講や伊勢参宮の盛行を知ることが出来る。鍋島町内には各地に大神宮塔がある。
-
経典供養塔
経文を書写したり、読誦したりすることは、塔婆を建立するのと同じく功徳を得る仏教修業であり、それを後世に伝えるために建立されているのが、経典供養塔である。本町内では本村観音寺、東新庄水天宮及び森田東善寺にある。
-
お稲荷さん
稲荷の民間信仰は全国的であり、本来は稲の神様のことであるが、今では災いを除き福を授ける開運の神として普通商家の信仰があつく、また一般でも祀っている所もある。稲荷のお使いを狐とする俗信のためか、お供にも油揚とか生魚とか生卵を供えるようである。 そして油揚に包んだ鮨を稲荷鮨という。
-
文殊台
不動滝の裏手の山に文殊菩薩像が安置され、この台地を『文殊台』という。この像は、直長の子神代茂真-鳥栖村田鍋島の祖の墓標であったというが、ここに移され、知恵を与えて下さる御仏として信仰する人が多い。右手に剣・左手に経典、獅子にまたがるのが本姿。この台地は標高200mで見晴らしがよく、キャンプのテントがよく張られている。 『三人寄れば文殊の知恵』というのは、釈迦如来の脇侍普賢と文殊の三仏のことであるが、三人相談すればいい考えが出るの意。
-
獣類供養塔
川久保の宿をそれて西へ約100mの所に螢橋がある。これを渡って北方約1キロメートルの鈴隈山中腹にある。 享保14年(1729)に建立されたもので、「回向、猪鹿六六〇有余、大小諸畜類之幽魂、業性転滅……享保第十四己酉年、二月二〇有八日」とある。八角形の基礎石の上に建てられた石幢形の塔であって塔身は八角柱である。鍋島吉茂公年譜によると、享保13年(1728)6月18日「為御遊猟川久保御越同日御帰座」、享保14年(1729)4月9日「為御遊猟川久保御越同日御帰城」とあるので、佐嘉藩主がこの川久保方面で狩猟を行っていたことが知られ、この猪鹿供養塔は藩主の命によって建立されたものであろう。
-
大財地蔵さん
大財3丁目信号(大財通り)を西に向かい、左手2本目の路地を入ったところに、2体の地蔵菩薩と2基の石碑が寄せられています。向かって左から2番目の地蔵菩薩坐像は、右側面に「明和五年秋彼岸」とあり、明和5年(1768)の建立です。左側面には「願主宮嶋氏 同施主中 廊善」とあり、台座には「三界萬霊」とあります。三界とは私たちが生まれかわり往来する世界のことであり、欲界(欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神の世界)の三つの世界を表し、万霊とは衆生ありとあらゆる精霊のことで、すべてのものを供養するための塔という意味があります。 また、向かって左端に同じく地蔵菩薩坐像が鎮座し、右側に2基の石碑がありますが、いずれも記銘などはなく、詳細は不明です。 設置された看板には「お願い事を何でもかなえてくださる有難いお地蔵さんです」とあり、大財地区ではよく願い事が叶うお地蔵さんとして親しまれています。
-
延命地蔵
天文20年(1551)、龍造寺隆信は土橋栄益等より佐嘉の城を追われ肥前国から追放された時に柳川城主蒲池鑑盛より筑後国一木村に保護された経緯がある。後に、隆信は鑑盛の嫡男鎮並に娘を嫁がせ、鎮並は大友を離れて隆信と誼を結ぶ等、良好な関係にあった。 天正6年(1578)の日向耳川の戦いで大友が島津に敗北すると、義父龍造寺隆信の筑後国進攻に蒲池鎮並は全面的に協力した。鎮並との不仲であった蒲地鎮広と隆信との間に和議が成立すると、柳川の領有化を志向する隆信と対立するようになり、ついに野心を挟む姿勢をとった。天正8年(1580)、龍造寺隆信は龍造寺政家に総勢1万3千の軍を率いさせ出陣、蒲池鎮並討伐のため柳川に向かわせた。抗戦する鎮並の陣も籠城300余日に及ぶも和を乞うてきた。鎮並は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦を結んだ。 天正9年(1581)、蒲池鎮並は密かに島津に通じた。鎮並は同国の西牟田鎮豊へ使者を送り、島津の老臣伊集院忠棟よりの状を見せ、島津へ一味あるべき勧めた。しかし西牟田はこれに同意せず、家人向井左京亮を伊集院よりの書札を携えて龍造寺に向かわせた。須古城に居た龍造寺隆信は鎮並が島津の影響下に入ることを恐れ、鎮並を討つべしと謀殺を画策した。 5月20日頃、龍造寺は田原伊勢守・秀島源兵衛を使者として柳川へ送り、「昨年冬の和平以後、いまだ禮を受けず。近日佐嘉へ来られたい。然るに須古の新館にて猿楽を興行すべし、其許よりも猿楽の役者共を召し連れて来られたし」と述べた。この次第に対し、鎮並は病気と称して返答しなかった。田原は心賢きものであり、鎮並の母と伯父の蒲池鎮久へと働きかけ、隆信父子は何も別心はないと起請文を以って申し出た。母と鎮久はこれを信用し、鎮並もようやく田原・秀島と対面、承引した。 隔して5月25日、鎮並は伯父左馬大夫を始めとして、親類家人等200余騎、楽役を含め300余で柳川の城を出立した。これを聞いた家臣大木統光は肥前に赴くこと留まるよう諫言するも、蒲池鎮並は「早斯様に出立ちした上、今引き返すことは見苦しき。その上、天運全からば、縦令剣戟刀杖の中たりとも恐るるに足らむや」と馬を早めて寺井江を渡り、夕方には村中城へ着いた。そして龍造寺久家(政家)と対面、昨年冬の和平の禮を述べ、その夜は饗膳となり、鍋島信生(直茂)も同席した。終夜の酒宴が終わると鎮並等は、城北にある本行寺に宿を取り、翌26日は逗留した。須古城の龍造寺隆信は、土肥出雲神信安をして鎮並に酒肴を贈った。鎮並は悦び隆信に禮謝、その酒肴で出雲守を饗した。また、鎮並は出雲守を前に猿楽を踊って見せ、出雲守は明日の運命を思い落涙したという。 そして27日未明、本行寺を出立、須古城を目指し与賀の馬場を通ったとき、龍造寺の伏兵である小河信貫・徳島長房・水町彌太右衛門・秀島源兵衛・石井の一族らが、四方より一斉に鬨を上げて襲い掛かった。蒲池鎮並は歯噛みして伯父左馬大夫へ「口惜しき次第かな、我が柳川にて懸念致した通りであった。これも天運やも知れぬが、偏に御辺の勧めに依りて計略にはまったのであるぞ」と憤激した。左馬大夫はこれに何も答えず、謀られた怒りに血が上り、「我らに二心在らざる事、只今見給うべし」と言い捨て、与賀大明神の鳥居の前まで馬を駆け、「汚き龍造寺が仕業かな。おのれ、七生が間は恨み続けてくれる」と叫んだ。そして矢を二筋三筋放つと家の上に駆け登って散々に矢を射掛け、屋根の上から飛び降り烈火の如く戦い、堤左馬允と渡り合うも遂に討ち取られた。龍造寺勢は多大な被害を出しながらも173人を討ち取った。鎮並は一族家臣が討ち死にする隙に、小家に立ち入って沐浴した後、腹掻き切って息絶えた。この戦いの様子は今でも「川は血で真っ赤に染まり、骸は堀を埋めた」と語り継がれている。(参考:北肥戦誌) 写真は「延命地蔵」(辻の堂信号より北に入り右手) この地域に不思議なことが度重なるので、両軍亡骸を慰めるために建立されたもの。