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[旧佐賀市][若楠校区]は28件登録されています。
旧佐賀市 若楠校区
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若宮八幡神社
―校区内では、一番大きな神社― 若宮神社由来記として、神社境内の案内板には、次のように表示されている。 若宮神社は慶長16年(1611)高木八幡社より分社されております。(八幡社無格神社御由調査書) 八幡社のご神体は、応神天皇が主神で、母の神功皇后(祖母)と仁徳天皇(孫)となっています。孫である仁徳天皇をご祭神としています八幡社の御子を祀る宮、すなわち『若宮社』と言われる由縁であります。 鳥居については、右柱には『千時天明五歳九月吉日、大日本鎮西肥前州佐賀郡高木新村、若宮社一宇○奉献立石○○眞心』とあり、左柱には『安○○○之大明神武○長久民安楽為五穀成就如意満足』と刻られています。 天明5歳「年」(1785)それまでの若宮社は、現在地で鳥居もなく、多分茅葺屋根で、ご神体が吹きさらしの状態ではなかったかと推定されます。 神殿の建設は明治25年(1892)大建築され、本格的な絵馬堂付の堂々たる社殿の完成を見たのです。お宮勧誘から鳥居完成まで170年、ご神殿完成まで107年、私達のご先祖は『天下泰平、無病息災』を願い、300年に渡って、高木新村と言う新しい開拓の地区に住み、貧しく少ない人々の微々たる浄財を集め、長い間建設資金を積み立てて来られたのでしょう。その間に、祭田まで開墾して、お祭りの費用に当てられたものと推定されます。先祖の気持ちが今日まで伝えられてきました。 新しい参道に小さな石祠があります(梨本天神)。これは元陸軍第55連隊の練兵場が出来た時、移転したもので、これには、享保4年(1719)とあります。鳥居より66年も古く、この宮も八幡社の末社として、高木新村天満宮として挙げられています。天満宮は“菅原道真”を祀りしていますが、雷神でもあります。 また、同じ参道に『猿田彦大明神』の碑が建立されていますが、日本神話『天孫降臨』の中で、天照大神の命を受けて、高千穂の峰に天降(あまくだり)りしたさいの先頭に立って道案内をした神様で『道の神様』として今でも人々の厚い信仰を受けています。「猿田彦大神」の碑は全国各地で見受けられます。 平成13年10月吉日 平成13年の若宮八幡神社の建替えとご神体の解明については、永渕博見氏の手記「若宮神社創立のあらまし」から記載している(抜粋) 平成13年本殿が、地区民の努力で立替えが行われ、木造の新しい本殿が出来上がった。 その立替作業中に、旧神殿深く安置されていたご神体の解明作業が行われ、ご神体は粗面の白っぽい 花崗岩で“縦100cm・横50cm・重さ300kg”の自然石に文字を刻んでいるのが判りました。 中央に大文字で『奉勧請若宮大明神』とあります。左側には『當村 堤弥右衛門尉・谷口十左衛門尉』とあり、これはご神体を拓本して専門家に読んでもらいました。 以前、高木瀬町史が編集されるとき、『ご神体』を詳しく調査されずにおりましたので、若宮神社の起源は不明とされていました。
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新村の辻堂と供養塔
「牛島天満宮由緒記」によると、寛政3年(1791)提出された書類に、澤広山潮音寺の掛支配所として、高木新村、『辻堂』の記録があると、高木瀬町史には記載されている。 また、寛政9年(1797)三溝村・大興寺より出された書類には、高木新村「地蔵庵」の記録があることが、高木瀬町史にある。(355~6頁) 約1坪のお堂は、今も手入れされ、堂内には ○當庵開基徳雲院殿大年際雄大居士 享保12歳次丁末(1727) ○當庵開山月苓皎老大和尚 享保4己玄天(1719) と記された位牌が祀られている。(高木瀬町史・359頁) 「地蔵庵」跡は、現在の「きのや駐車場」辺りと推定される。 「辻堂」と「供養塔等の石像物」は、現在も保存されており、付近の住民の方がお参りをされている。 地域住民の永渕によれば、小さい頃、「地蔵庵」は荒れた尼寺と聞いていたが、そこで、秋の23日夜、お祭りがあっていて、父等地区民が参加していた。 現在の辻堂等の石像物は、地蔵庵の関連石像物ではないかと思われる。
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高木八幡下の宮
日の出1丁目3番に「高木八幡下の宮」観音堂がある。 ここには「天照大神宮」と「観音像」が祀られており、「天照大神宮」の右側に「八幡大菩薩」、左側に「春日大明神」と刻まれており、これには両方とも「寛政十年正月吉日・施主村中」(1798)の文字が見える。 この社は、高木瀬村社であった「高木八幡神社の下の宮」と言われていることから、江戸時代末期以前すでにこの地域が誕生していることがわかる。 この堂の改築は村内の有志によって昭和29年頃から積み立てが始められ、昭和39年頃に竣工している。 これには八丁畷地区は勿論、東高木からも多くの基金が寄せられている。 現在近くの居住者で毎年11月末の日曜日に、地区の助成を受けて祭りが行われている。
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八丁畷 弘法大師堂
八丁畷公民館敷地内には、弘法大師堂がある。 佐賀県警機動隊の近くにあった大師堂が、国道の拡張工事のために現在地に移転させられた。 ここには、馬頭観世音・弘法大師・薬師如来・不動尊の4体が祀られていて、それぞれ施主が刻まれており、大正11年10月に起工、12年5月落成と記されている。 弘法大師像には大正8年9月吉日と記されていて、発起人・今村忠六、野方チカ、中島イマ、世話人・中島亀吉、副島政市、中島浅市、森田栄八の名がある。 馬頭観世音には佐賀市城内・武田カタ、不動尊には佐賀市城内・武田為助とある。薬師如来には堀尾世(與)一、辻シゲ、村塚チエノ、木原セツ、藤瀬作市、副島クイ、垣内シマの名が見える。 大師堂の移転と共に新築された八丁畷公民館は、昭和48年頃に完成している。
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城井樋大師堂
ご本尊は、昭和45年3月本堂を改築された際に、むさ苦しい屋内に置いておくのは忍びないと、地区住人で熱心な信者であった、古賀五郎夫妻が自己資金で屋外の台座に安置(移)された。 本堂には、お大師さんの掛け軸が掛けてあり、普段は入り口の引き戸は施錠が掛けてある。 本堂前の西方に、幅2m位の見事な巨大な1枚の自然石の上に、外の3体の石像物と共に東向き(道路側を向いて)に整然と並んで安置されている。 大師像は、向かって左(南方)から2番目に安置してあり、台座の自然石の裏面(西側)には、「昭和45年3月建立 玉石垣寄附者 古賀五郎 妻 フサエ」と記されている。 また、ご本尊の前に、身の丈1.3m位ある見事な1対の石燈籠が設置されていて、この石燈籠には、「献灯 昭和63年6月20日 古賀五郎・フサエ」と記されている。 お堂近くにお住まいの古賀氏は、この大師堂に纏わる話を、母から聞かれていて、自分が嫁入りした戦後間もない頃までは、大師堂に春秋の彼岸頃には大勢のお参り、巡礼者があり、地区民あげてお接待に当たっていた。また、年間を通じて、花を手向け、月に1回は、本堂と周辺の清掃を行い、それは大切にしていたが、今はそうした風習も廃れてしまった。 母からは「このお大師さんは、おじいさんが新村からいのうて持ってこられた」「お大師さんには、大抵守ってもらったから大切にせんといかん」と言われていたとのこと。
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若宮弘法大師堂
地域の山崎氏によれば、昔は、春・秋の彼岸の時期は、多くの巡礼者が参拝されていて、母たちは、地区民上げて煮豆等を作り、お接待に当たっていた。現在は、このような地区上げての取り組みは行われていない。 また、お堂は平成13年、若宮公民館が新築されたのと同時期に、自治会で新築されている。 中央の大師像は、高さが1m余りあり、正面に「二世安楽」右側面に「天保6年9月、古賀太右衛門 同人女房」の誌があり、製作時期は江戸時代末期と判断できる。 堂内の石像物の左側奥に、長さ50cmくらいの古い木板片があり、同木板に「弘法大師堂 大正12年4月吉日 改築」と墨書があり、現在は相当薄くなり、読み難いがどうにか判読できる状態である。
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八丁畷お地蔵さん
国立病院のすぐ東側市道の一隅に、小さなお地蔵さんがある。 それには「三界萬霊塔、東高木新村男女中」とあり、かすかに「安永7戊3月吉日」と読み取れる。建立は1778年で、徳川10代将軍・家治の時代で、この頃すでに東高木新村と呼ばれていたことになる。 日の出1丁目の坂本氏の話によれば、「明治22年生まれの父は、私が子どもの頃この地藏さんは、昔、流行病気のあったときに出来たものだ」と言われていたそうである。
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三界萬霊の石塔
この石塔は、西氏方の北西角・市道(三叉路交差点)との境界線上に、道路側を向いて建立されている。 西氏の説明によれば、「私が、嫁に来たときには、既にこの石像はこの位置にあり、父母が熱心に祀られていた。昔から、道路側を向いて立てられており、曽祖父の時代(恐らく明治時代以降と思われる)は、石塔の前の道路上に、筵を敷いて近所の子ども達を招いて、煮豆等を振る舞っていた。道幅も狭く、三叉路の交差点でもあったことから、馬車が通る時、よくこの石塔に馬や、馬車が引っ掛けて、数100m南方まで引きずられて行かれる事もよくあった。しかし、この神様は、又もとの位置に戻られ、何の祟りやお咎めもなく、優しい神様だ」と夫が話していた。 今も、月に1回は、この神様に、酒と塩を供えて祀っている。 石塔は、2つに分けて2体として立てられているが、本来は、これを一段に重ねて立てるのが本当の姿であるが、重くて重ねきらないこととや重ねて立てると危険性もあることから2つに分けて立てられている。
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馬頭観音像
多布施川の植木橋より南方約50mで左岸歩道上にこの「馬頭観音」がある。 歩道上であるが、車道と歩道の中間に位置し、南北には樹齢100年を超すような椋木(むくのき)があり、その北側の椋木の南根元に他の樹木に囲まれて設置されている。 観音像の前には、高さ1.3mもある堂々とした石灯籠が2基設置されている。 城井樋地区に長く居住されている古賀氏の話では、戦後間もない頃まで、この付近に居住されていた古賀さんが、この地で主に祀られていたようで、古賀さんは、夏の祇園祭のときに、城井樋地区の子どもたち多数を招き、煮豆等を振る舞っておられ、地域に定着した神様として祀られていた。 また、昔、この多布施川で子どもたちが泳いでいて、具合が悪くなると「馬頭観音さんのたたりばい」と言われていたこともあるらしい。 また、馬頭観音像の前にある石灯籠の高さは1.3mで、それには「献灯 昭和63年6月20日 古賀五郎・フサエ」と記されている。
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下高木・恵比寿像(秀島氏宅)
この恵比寿像は、現国道263号線と、市道・旧高木宿道の一部が並行して交わっている道路沿いにある秀島氏宅の敷地の東北角に、道路側(東方)を向いて安置されている。 秀島氏の父が、昭和39年個人用として現在地に建立されたもので、高さ約50cmと小柄の恵比寿像にもかかわらず、道路に面していることや、恵比寿像の表情が豊かで、ふくよかなこと等から、すっかり地域になじむ存在となり、周辺住人の方や、通行人の方々が静かに合掌・参拝されたり、10円硬貨等をお供えする人もおられるという。 所有者の秀島氏の話によれば、「この恵比寿像は、昭和38年に自宅が火災に逢ったことから、厄払いと運気が立つようにと願い、昭和39年に母が建立したもので、毎朝、恵比寿さんに頭から清水をかけてのお清め、献花等のまつりごとを行っている。」と言われている。
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恵比寿像(牛島氏宅)
恵比寿像は、牛島氏の所有地内の南東角にあり、旧高木宿道の三叉路に東を向いて、木造の祠に安置されている。 恵比寿像の場所は、高木瀬校区に入るが、この恵比寿像の南方道路(東西に走る市道)にも面しており、東西の市道が若楠校区と高木瀬校区との境界道となっている。 市道を挟んでの両地域は見通しも良く、昔から高木宿道沿線地域として深い交流があったことから、下高木地区にも長い歴史の中で親しまれてきた恵比寿像である。 所有者である牛島氏によれば、「この恵比寿像は、昔からあったもので、牛島家の先祖が建立したものである。」また、母の話によれば、「恵比寿様の裏側(座面)に、何か文字が彫ってあったと言っていた。」昔から、この場所に立っていたもので、平成18年9月に、家を移してこの場所を駐車場にしたとき、この恵比寿像を敷地内のほかの場所に移そうとしたが、「ここに根ば張っとんさーけん、動かしてはいかん。周辺の住民の方を守っておられる。」とのことで、移動を断念された。 この恵比寿像は、全体が相当風化していることから、作成年代は相当古いと思われる。
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二十三夜塔(おさんやさん)
若宮1丁目の中央部、新村川の小橋の側に、自然石の「二十三夜塔」が建っていて、高さは約3m余りあろうと思われる堂々とした塔である。 塔石の上部に仏像が彫られ、その下に『二十三夜』と大書されている。 塔石を載せる台座の石、左側面に建設された年月「明治20年丁玄(1887)7月」「高木新村の建設者10人の名前」が記載されている。 また、台座の石、右側面に「大正10年改築・青年会」と記され、青年会の手による改築記録も残されている。 当地区の東島氏の説明によれば、「父たちは、よく「三夜待」を家庭持ち回りで行い、酒を飲み交わしていた。また、母たちは、月に1回位、この塔の前に筵を敷いて煮豆等を茶菓子にして、「お日(ひ)まち」と称した「おちゃご」をして、女性たちの地域交流の場・骨休めの場となっていた。
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陸軍「第55聯隊記念塔」
昭和29年に結成された「55会」(55聯隊出身の有志の会)の手によって、昭和33年4月建立された記念碑であり、現在も建立当時の姿のままで建立後50年余を経過し、周りの樹木が大きく成長し、生い茂っている。 また、記念塔は長い年月風雨にさらされ、苔生して、石碑正面の「55聯隊の略歴」等の文字は、判読し難い状態となっている。 高木瀬町史(113~116頁)には、建立の経過等が記載されている。 記念塔の台座石正面には「55聯隊の略歴」が刻まれている。 「55聯隊」等陸軍施設の推移を高木瀬町史(96~108頁)から一部抜粋すれば、 明治41年~大正14年5月・・・「陸軍歩兵第55聯隊」配置される。 大正14年5月3日・・・・・・・「陸軍歩兵第48聯隊 第三大隊駐屯」 その後・・・・・・・・・・・・・「陸軍歩兵第48聯隊 第三大隊駐屯」が久留米へ移駐 昭和10年頃・・・・・・・・・・「高射砲第四聯隊」が設置される。(同年10月号の「佐賀 県人会報」に、当時の県知事が喜びの談話を掲載) 高射砲第四聯隊のその後の経過・・不明 昭和18年4月~終戦当時まで・・・・・・「電信第二聯隊」が移駐 ※記念塔は2019年に総合体育館西側駐車場へ移設している。
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練兵場橋 (れんぺいじょうはし)
練兵場の名残として、橋の欄干に「練兵場橋」の名称が残っている。 この場所は、戦前の軍事施設「練兵場」の北西角、民地側との境界地に当たり、この新たな「練兵場橋」が出来るまでは、地域の人たちが通るただの石橋(橋の名称・欄干も無い)が存在していた所である。 昭和48年1月、現在のコンクリート橋が成工され、当時の関係者が練兵場等の軍事施設が存在した歴史、事実を後世の人達が忘れないようにとの配慮から、この橋「練兵場橋」と命名されたものである。 この橋自体には、名称以外に歴史を伝えるものはない。
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蓮堀橋 (れんぼりはし)
練兵場関連の名残として、橋の欄干に「蓮堀橋」の名称が残っている。 この場所付近一帯は、明治時代後期、日本陸軍「第55聯隊」の兵営・練兵場等建設のための埋め立て用地の土砂を採掘したため、一面窪地の堀となり、一帯に蓮が栽培されていたことから、当時この堀を「蓮堀」と呼称していた所である。 終戦後暫くして、その堀はまた埋め戻され、宅地造成がなされて、新たな水路の上に昭和46年4月、このコンクリート橋が成工された。 当時の関係者が兵営建設を経ての練兵場・兵営施設の存在等の歴史、事実を後世の人達に伝え、忘れ去られないようにとの配慮から、この橋の成工を機に命名されたものである。 今は、橋の名称以外に往時の姿は残っていない。
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土取橋 (どとりばし)
練兵場の名残として、橋の欄干に「土取橋」の名称が残っているものである。 この場所付近一帯は、明治時代後期、日本陸軍「第55聯隊」の兵営・練兵場等建設のため、埋め立て用地の土砂を採掘したために一面堀となっていた所である。 終戦後暫くして、その堀はまた埋め戻されて、宅地造成がなされ、新たな水路の上に昭和44年4月、このコンクリート橋が成工された。 当時の関係者が兵営建設を経ての練兵場・兵営施設の存在等の歴史、事実を後世の人達に忘れ去られないようにとの配慮から、この橋の成工を機に命名されたものである。 この橋自体には、名称以外に歴史を伝えるものはない。
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「陸軍用地 一」の境界地用石碑
旧日本陸軍の練兵場、陸軍用地と市丸氏所有の農地との境界に立てられていた石碑が残されている。 終戦とともに、軍は解散し境界地に転倒したまま放置されていた同石碑を自宅で保管しているもの。 当時、現場に立てられていた場所は、当時の練兵場北西角で、現在の県営テニスコートの南西角の位置であった。 石造物の大きさは、高さ1m、横幅18cm、縦幅16cmである。
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戦没者の慰霊碑
戦没者の慰霊は、若楠校区が誕生してからも、従来のように高木瀬町で慰霊祭が行われている。高木瀬小学校には忠魂碑がある。 (高木瀬小学校にある忠魂碑の歴史) 大正11年3月建立された忠魂碑は、戦後間もなく、進駐軍に発見されないよう高木瀬小学校の西側に、秘かに埋められていた。 戦後、独立とともに昭和27年再建された。 (高木瀬町史) 昭和28年4月、村内有志者によって再建された忠魂碑では、毎年公民館主催で慰霊祭が行われていたのが、昭和52年から各種団体で実施することになった。 平成10年度の資料によれば、市からの助成一柱340円で、263柱、8万9,420円、高木瀬校区から20万円、若楠校区から10万円、その他祝儀などの予算で遺族全戸に案内、慰霊祭を執行している。 なお、平成10年、忠魂碑の毀損がひどくなり危険な状態になったため、高木瀬・若楠校区内の一般から募金を募り、修復を行った。 平成13年からは、自治会で実施されている。
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旧練兵場及び土取
日露戦争直後、陸軍兵舎、練兵場及びその造成盛土用地として、当時「高木茄」の特産地としても有名な優良農地を含む約40町歩(40ha)のうち、下高木地区が、土取場と共に最も広く強制買収され、民家数戸が村外、県外へ転出した。 また、土取場となった南寄り地域に「大神宮さん」と通称言われた所の石祠4~5祠も近隣民地に移転を余儀なくされ、うち2基は現存する。 ① 「天照皇大神」・・・・・・・・・・・・・小川春恵氏宅の庭に (安政四年巳十月 庄屋利助、村役幸吉) ② 俗称、お三夜さん「月読尊(月夜見命)」・・市丸賢太氏宅の庭に (明治4年末6月吉日、野口為助、永田惣助、野方丈七、久保伊興) 軍、民境地にあった川にかかる橋は、練兵場橋、土取跡にも土取橋(陸運事務所南東)、蓮堀橋に名前が残る。昭和に入り、日支事変の昭和12年までは、5月に軍旗祭といって一般にも兵営練兵場が開放され、入場でき当日は、日峯さん祭りと並ぶ盛会と、佐賀の名物行事だった。 昭和20年8月5日夜、(広島原爆投下の約10時間前)米軍の佐賀空襲で現練兵場橋東、約100mで被弾兵隊数人死亡、橋南約50mにあった軍、土木作業員、飯場が全焼。 昭和20年秋、占領軍駐留は、数年後に撤退したため、県農業試験場(昭和40年代前半、川副町へ移転)となり、毎年10月の農事参観デーは、名物行事となっている。 土取跡の池沼は、南北が蓮堀に、中間の約2町歩が県淡水魚試験場となり、毎年11月の「ホイホシ」(堀干し)は有名。(草魚、ドイツ鯉、雷魚はここより拡散)
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ほんげんぎょう (鬼火たき・伝統行事)
○各地区の実施状況 (下高木地区のほんげんぎょう) 昔から地域の正月の伝統行事として、毎年1月7日の早朝に行われてきた。 場所は、戦前から昭和30年頃までは蓮堀の岸で、その後地区の中央付近の農地(水田)を借りて行われてきた。 前日から子ども達が主体となって、田んぼの中央部に生竹と稲わらを使って、小さな小屋を作り、そこに前日から泊り込む。その夜、子ども達は夜通しで語り、遊んで楽しい一時を過した。 翌朝(1月7日)は、この小屋を燃やし、その残り火で持参した餅を焼いて食べて1年の息災を祈った。 (若宮(旧新村)地区のほんげんぎょう) 昔から地域の正月の伝統行事として、毎年1月7日の早朝に行われてきた。 場所は、子ども達の各自の自宅の表広場等で行われていた。 子ども達が主体となり、子ども達が居住する各自の家の入り口等の安全な場所で、子ども達が前日から準備した生竹、正月飾りの門松やしめ縄等を一緒に燃やして、生竹が燃えて破裂する音を合図に「鬼は外、福は内」と大きな声で叫び、1年の息災を祈った。 そして、生竹等が燃え終わったころ、各人の自宅の餅を持って近くの家を巡り、残り火にあぶって廻った。7軒以上廻ると縁起が良いとか言って廻ったものである。 (八丁畷地区のほんげんぎょう) 昔から地域の正月の伝統行事として、毎年1月7日の早朝に行われてきた。 場所は、若宮(旧新村地区)と同様、子ども達の各自の自宅の表広場等で行われてきた。 内容も大体若宮(旧新村地区)と同様で行われてきたが、以前からの居住者が7戸と少なく、子どもの数も段々と少なくなり、昭和40年代初頭頃から中断している。 ○現在の若楠校区で統合した校区内全員参加の「ほんげんぎょう」 「ほんげんぎょう」は昔から伝わる正月の伝統行事であり、各地区(下高木・八丁畷・新村・城井樋)で行われてきたが、下高木地区を除き少子高齢化等の影響で行事の実施が困難になったため、昭和40年代初頭ころを最後に中断していた。 そこで、平成16年から、それまで綿々と行われてきた下高木地区の「ほんげんぎょう」を手本に、若楠校区で統合し、「青少協」、「子どもクラブ」等の地域団体を挙げた取組みとして実施するようになった。 前日から生竹、葦、わら等で小屋を作り、翌朝点火して燃え上がる炎に、各自家から持ってきた正月飾りの門松、しめ縄、古いお札等も一緒に燃やし、1年の無病息災を祈るものである。 今後子どもたちが受け継いでいく伝統行事として取組まれている。 時期は、毎年1月として、必ずしも1月7日とは限らない。 場所は、若楠小学校のグラウンドで行う。 実施方法は、現在まで続いてきた下高木地区の内容で実施する。
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もぐら打ち
(1)下高木地区に伝承されている「もぐら打ち」 ○昔から、地域の正月の伝統行事として受け継がれ行われてきた「もぐら打ち」は、昭和40年 代初頭頃から少子高齢化等の影響で一時中断していたが、昭和54年、若楠小学校が開校された 翌年から再開され、子ども会役員、父兄同伴で実施されているその伝統行事も「下高木子ども 会」の正月行事として定着し、継続されている。 ○時期:毎年、1月14日(現在は、14日前後の土曜か日曜日) ○内容:子どもを主体として、10名前後の班を編成し、地区内の各戸を廻って、玄関前等の広場 で竹棒の先端に藁を巻きつけた棒を持ち、音楽に合わせて歌を唄い、気合を入れながら地面を 叩き、邪気払いをして、地域の人から喜ばれている。 そのお礼として、各戸からお餅やお菓子・お祝儀等を頂くのも楽しみだ。 頂いたお餅やお祝儀等は「もぐらうち」終了後の食事会等に使われている。 ○もぐら打ちの歌(歌詞) 十四日の もぐら打ち なれなれ 柿の木 千なれ 万なれ 億万ばっかい なれ つう落ち すんな あだばな 咲くな 今年は去年よいか 太して 長して ぶら ぶらっと なれ うちん子の ちぎっときゃ 畑の 真ん中に なれ よそん子の ちぎっときゃ 堀の 真ん中に なれ なれ なれ 柿の木 十四日の もぐら打ち ●その他 ①「もぐら打ち」の棒造り等は、下高木地区の高齢者の方々にご指導を頂いている。 ② 現在の「下高木子ども会」への加入者は、約80人である。 (2)今は途絶えた「八丁畷地区」等の「もぐら打ち」 ●昭和40年代初頭頃まで、正月の1月14日、八丁畷地区でも行われていたが、旧来の在住者が7 戸と少ない上に少子高齢化等の影響で、その後途絶えている。 ●調子付けの歌詞・・・大体、下高木地区と同じであった。
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消防団
行政区は、昭和54年に高木瀬校区から分かれ若楠校区が誕生したが、消防団組織は、若楠校区として独立せず、従来の「高木瀬分団」の第2部と第4部で活躍中である。 消防団は戦時中結成されていた警防団が戦後改編されたもので、昭和39年の町村合併によって、佐賀市消防団「高木瀬分団」となっている。 若楠校区では、下高木・城井樋が第2部に、新村・八丁畷が第4部となっている。 佐賀市内の大きな火災は、昭和24年県庁の大火や中の小路の大火などに当時配備されていた手押しの小型動力ポンプを引いて駆けつけたと聞いている。 地元の火災では、昭和35年の下高木の大火、小川商店隣の火災などに出動している。 また、水防では、「28水」(昭和28年の大水害)で決壊した鍋島の堤防補修に出動、有明干拓堤防の決壊にも要請を受け出動している。
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郵便局の移り変わり
(戦前・陸軍練兵場等の軍事施設が存在していた当時の郵便局) 兵営前郵便局・・・明治41年11月1日~明治43年3月15日の間。 高木瀬郵便局・・・明治43年3月16日、その場所で郵便局名だけが改称さる。 (戦後の郵便局) 高木瀬郵便局・・・昭和40年代後半頃に、佐賀市高木瀬東2丁目 (現在の職員宿舎)に局舎移転。 佐賀北郵便局・・・昭和52年9月1日、現在地・佐賀市高木瀬東2丁目に移転して、郵便局名を改称し、普通局として業務を開始され現在に至っている。
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佐賀県開拓農業協同組合及び池田直県知事揮毫の石碑
1、開拓農業の発足 ○緊急開拓事業は、第二次大戦後の混乱した世相と危機に瀕した国民経済の中で、食料増産と民生安定という、極めて緊急度の高い国家的な要請を背景として、昭和20年暮れに始められた。 ○昭和20年秋「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定され、戦後の開拓事業がスタートし、昭和48年開拓行政に終止符が打たれ、一般農政へと移行されるまで、約30年間国家プロジェクトとして国・県・地方・開拓者及び開拓農協等が一体となって推進された。 ○戦後の開拓事業は、敗戦による様々な混乱の中で、緊急対策として着手された。 2、開拓農協の発足と経緯 ○開拓農民の協同組織・・・最初は、国・県の指示等を受け入れる開拓者側の窓口が必要になった。 最初の時期は、開拓団長による統率が行われた。 ●30~40戸の開拓団長・・・団員を指揮監督しながらまとめる。 ●公募が行われる・・・月報100円、海外の経験者等応募者多数が殺到した。 ●10名ほどを採用。「○○開拓団」とよび、大小の任意組織が作られた。 その後、国の指導で「開拓農業協同組合」に統一された。 これが、開拓者の相互扶助組織となり、対外的には折衝の窓口となった。 ○開拓農協の設立 ●昭和22年12月・・・農協法の施行に伴い、「開拓農協」の設立が急速に進められ、 ●昭和22年末・・・県下で58を数えた。(1単協の平均の規模は、10~20戸) 開拓農協組合も、激しい時代の変遷の中で、開拓組合農家と共に歩んだ ●昭和23年・・・県下57の開拓農協を背景に、「県連合会」が設立された。 ●昭和28年・・・県下の開拓農協・・・85を数える。 *県下の入植戸数は、・・・・・1,800戸 *一組合平均の加入者数・・・・ 21戸 *団結力、連帯意識は抜群、組織の零細性が弱点 ○開拓農協の合併 ●昭和30年・・・国は、開拓農協の整理統合方針を打ち出す。 ●昭和29年~昭和33年の5カ年間(第一期の整理統合) *昭和28年の85農協 → 昭和33年の5カ年間で、51農協に統合 ●合同事務所の設置 昭和35年~昭和40年・・・国の方針で合同事務所の設置が進められ、県下に11の合同事務所が 設置される ●昭和44年の「県開拓農協」の規模・・・組合員数 914、・職員数 25人 ●昭和49年・・・開拓行政の終了と一般農政への移行に伴い、「佐賀県開拓農業協同組合」が県 等の行政及び他の農協の一切の業務を引き継ぎ、一本化され現在に至る。 3、若宮地区への組合移転と石碑建立 昭和52年11月、「佐賀県開拓農業協同組合」は、佐賀市松原町から現在地に事務所移転された。 昭和53年11月、事務所移転を記念に、開拓農業の歴史を永く後世に伝えるため事務所前に、二基の大きな石碑が建立された。 ①佐賀県知事、池田直氏揮毫の「拓魂」(高さ1.45メートルの自然石) ②佐賀県副知事 宮崎善吾氏揮毫の「畜魂碑」(高さ2.25メートルの自然石)
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八丁畷の水利形態
八丁畷は、もともと純農村地帯で、国道263号線(以前は往還と呼ばれていた)の東側に5戸、現国立病院の東側に7戸の専業農家があった。 そのほか国道の両側に非農家と商店があり、南に「あかかべ酒造」、製紙会社(当時、マオラン会社)の工場があり、現在の県警機動隊の所に「グンゼ」があった。 農家の基礎収入は米代金で、米作りには水が絶対必要である。この地でも大井手水利組合が設立され、北山ダムの負担金も一部拠出し、ダムの完成で大きな恩恵を受けている。 この地域は小寺川水系と呼ばれ、石井樋から取水、長瀬を経て上高木、下高木の国道西側の県営水路で館橋に至り、ここから東高木に入って兵営の北側から東側を経て八丁畷に達している。 農地は何時頃整備されたのかは定かでないが、東高木から五本の南に流れる水路があった。 第55連隊の兵営が出来たことで、東西の水路に振り分け取水しており、大体が自然灌水であった。 南に下るに従って少し段差があり、水路の要所要所には堰が設けられ、必要に応じて堰止め取水、自然灌水をしていた。(現在、総合庁舎の南には今も水田があり、その状態を見ることができる。) 当時組織されていた生産組合は、この水路の清掃、補修には多大の労力をかけていた。
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八丁畷と兵営のつながり
八丁畷と兵営のつながり(こぼれ話) 八丁畷は、兵営の南に位置し、兵営とは密接につながりがあった。第一に区域の北半分の農地が兵営の敷地となって、耕作面積が著しく減少したことは間違いない。 また、生活面でも多大の影響を受けていて、朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまで、風向きによっては、大きく聞こえていた。通学路も高木瀬小学校が北にあったので兵営の両側が通学路となっていた。 兵営北東の角は、大きく土盛されており、ここに軍の弾薬庫があったので、常時武装した兵が厳重に警戒していた。東側には裏門があり、ここは金立山麓にあった実弾射撃演習場に通じる道路の出入り口で、射的道といっていた。ここに大きな糞尿の貯め槽があった。兵営から排出される糞尿処理場で、入札によって処分されていたという。兵営の南に衛戍病院があり、戦後は国立病院と生まれかわり、多くの人達に利用されている。 確か軍旗祭の日と思うが、この日は一般に開放され、入場見学することができた。兵隊たちも官給の酒があったようで一日休養されていたようだった。この日の模擬演習で機関銃の射撃音は忘れられない。 兵営前の往還(現在の国道263号線)には、佐賀駅から川上まで電車が通っていて、それは昭和12年にバスに代わるまで利用されていたと町史にある。この往還の西側に兵隊専用の慰安所まであったようである。 昭和16年の中島氏の日記には次のように記載されている。 昭和16年10月20日から2泊3日、兵営に体験入営していたことを記している。 当時、高木瀬にあった青年学校生徒として、10月20日午後から執銃者24人、徒手26人で入営した。隊長訓示のあと、銃剣術の指導があり、夕食後の訓話、翌朝起床ラッパで飛び起き、乾布摩擦のあと宮城遥拝、軍人5か条を奉唱のあと、朝食後銃剣術、防空訓練、午後練兵場で演習のあと夕食後に、夜間演習を体験する。 翌朝も乾布摩擦のあと昼まで銃剣術で鍛えられ、昼食後部隊長の閲兵、分列があり記念写真を撮り散会したと記している。
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城井樋
高木瀬町史によれば、「城井樋」という名称は、佐賀藩時代、現在のところに井樋を設置し、佐賀城へ用水を確保するために城井樋と称するに至ったというと書かれている。 現場には、その井樋が存在するが、規模も小規模で、地形的な位置などを総合検証する限りにおいて、城井樋の由来が高木瀬町史に言う「佐賀城の用水を確保したために城井樋と称するに至ったという」ことに、やや疑問が生ずる点もあり、そうしたことを証明する新たな裏付け資料はない。 地区の古老の話には、「城井樋は、佐賀城の用水確保というよりも、同井樋が比較的多布施川の上流に位置したことから、「上井樋と言った」」と言われていたことを聞いたことがある。
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八丁畷の由来
八丁畷は、「八丁の畷」とも読める。畷とは、耕作地間の「あぜ道」のことを言い、おそらく下高木宿から三溝宿まで八丁の間隔があったことから「八丁畷」と呼ばれたのではないだろうか。 ここ八丁畷地区は、もともと高木瀬村東高木と同じ行政区だったが、第55連隊の兵営が出来たことによって自然に分断される形になっていた。 昭和36年に正式に分離して八丁畷区が誕生した。