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[三瀬村][ 物語・四方山話]は15件登録されています。
三瀬村 物語・四方山話
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猟師ケ岩の秘話
猟師ヶ岩は、三瀬景勝の一つに数えられている鬼ヶ鼻岩の西北峰にあり、東は唐人舞岳(腹巻山)、西北は井手野山・栗原山に拠って村の東北面に屏列し、頂上はみな佐賀・福岡の県境をなしている。 標高893.4m、周囲約10㎞で、東北を望めば筑前一帯を眼下に尽し、南を遠く望めば有明の海・阿蘇の噴煙を遥かに眺めることができる。 全山岩山が屏風のようにそびえたち、頂上よりも少し下方の西にあたって洞窟があり、その奥行約3.5m、夏季に至るまで氷柱が垂れていることもあるといわれ、奇岩千丈の絶壁は人の肌を寒くし、往古は脊振山に籠った修験者の心魂を鍛練する道場にされたと伝えられている。 陽春には、全山に石楠花や躅花の花が咲き盛り、秋ともなれば、木々の紅葉が全山に色映えて、昔は雄鹿の妻恋う声も風に和したといわれている。 この岩山一帯には次のような伝説が残されている。 猟師ヶ岩山は、もと「機の山」と呼ばれていた。その頃、都からやって来た隆信沙門という道心堅固な憎が、修行のために脊振山に入り、坊所を建てて隆信寺と名付け、そこにこもって念仏三昧の日々を送っていたが、里人の間に不審な噂がたっているのを知った。 それは「機の山の頂に白気が立つと何かの凶変が必ずおこる。この間その白気が立ち登ったので、いまに飢饉か疫病か天変地異などのわざわいがおこるにちがいない。」という里人の心配する声であった。 隆信沙門は、これには何か深いわけがあるにちがいない。真実を猟師ヶ岩(機の山・隆信ヶ岩)の頂上みきわめて里人の不安をなくしてやらなければならないと思い、機の山の南麓に草庵を結んでそこに移り住み、頂上の岩山に発見した洞窟にかよいながら座禅読経を続け、悪魔退散、国土隆盛、衆生皆楽、無病息災を念じた。それ以後、機の山を隆信ヶ嶽とよぶようになった。 沙門はこの修行中、山頂に大きな石碑を発見した。碑面の苔を払って洗い清めてみると、正面に「東居宮」の3文字があり、その下に霊亀二年(七一六)としるされ、側面には「皇44代元正天皇霊亀2年5月 従勅命一品舎人親王建之」と刻まれていた。東居宮というのは瓊々杵尊のことである。 舎人親王は養老4年(720)に「日本紀」三十巻・系図一巻を撰上した人々のなかの一人で、同年知太政官事に任ぜられた方である。 隆信沙門は、歴史にくわしい舎人親王が瓊々杵尊の碑をこの地に建てられたのは、天孫御降臨のとき、もろもろの神々がここに集まって神謀りをされたからではあるまいかと推量しながら洞窟に入り、しばし目をとじて遠い神世の昔をしのんだ。 すると不思議や、天孫瓊々杵尊の降臨されるときの状景が、夢ともみえず現とも思えず幻となって目のあたりに見えてきた。それは、諸々の神々が、神集いに集い、神計りに謀って、荒ぶる神々をことごとく海外に狩り出す手筈をきめられる重大会議の場面であった。 会議が進んでいるとき、神々の中から美女の姿をした一人の妖魔があらわれて「吾は天地の未だ開けぬ昔からこの土地に住んでいる。吾はこの地を絶対に動かない。」と叫んだ。 そこで再び神計りに謀られたところ、他国のことよりも我が国のことが大事であるにはちがいないが、神のみそなわす天が下の蒼生(国民)はみな人の子、自国異国の隔てがあってはなるまい。このような妖魔の出る国には必ず禍いがおこるであろう。妖魔は異国に追放するよりも、この地に埋めて、長く世に出ないようにすることが望ましい。という結論に達して、妖魔はこの筑紫の山の岩窟に埋められることになった。 美女の妖魔はいまわのきわに「この神国も澆李の世(道徳人情のすたれた世、末世)となれば、親は子を殺し、子は親を殺し、臣は君を弑するような乱世となるであろう。そのときは、吾はまた美人と化して世に仇をなしてやる…」と声高く叫びながら埋められていった。 隆信沙門はこのときハッとわれにかえり、 さては、いまのは夢であったのか。それにしても、あまりにもはっきり見えたのは、神仏の何かの啓示ではなかったろうか。神世の昔から悪魔は降伏されてきたが、澆李の世となれば悪魔が美人の姿をして出現し、世に仇をなすという。 これは容易ならぬことであると、さまざまに考えながら、急いで草庵にもどったが、その夜は大熱を発して床についた。 このことがあってから、隆信は万部経文読誦の修行にはいったが、九千部の経文読誦中に美人が現われ、様々の媚態をこらして沙門を誘惑したため、沙門はついに邪念をおこし、修行は不成就に終ってしまったという。 隆信ヶ嶽と呼ばれるようになった機の山は、その後、長暦年間(1037)になって、さらに龍神ヶ嶽と呼ばれるようになった。その由来は「脊振山記」に詳しいが、ここに略述すれば、 「印度国南天竺、徳善大王の第15王子が生まれて7日目に行方不明になられた。大王夫妻は悲嘆にくれておられたが、釈尊18代の祖師、龍樹菩薩のそなえた天通眼によって、王子は扶桑国(日本)の西部、肥前国脊振山に垂迹(神として仮に現われること)しておられることがわかった。大王は非常に喜ばれ、自らも、ともに衆生を教化しようと考えられ、御后ならびに14人の兄王子たちを同伴して、龍樹の神通力をそなえた龍神と龍馬に乗り、刹那の間に肥前国の脊振山に垂迹された。 このとき、大王と御后が神の姿で現われたのが、乙宮山の護法善神と上官の弁才天である。また、この山の東西に陰陽二つの岩があるが、東方の岩は護法善神の乗り給うた龍馬が石に化したものであり、西方の岩は龍神が岩山に化したものである。云々…」 というのである。こうした伝説が一般化して、隆信ヶ嶽を龍神ヶ嶽とかきかえられるようになった。 ところが、こうした伝説も時代が移るにつれて忘れられ、のちには猟師ヶ岩と呼ばれるようになった。 狩猟を生業とする猟師たちが龍神ヶ嶽の洞窟を利用するようになったからである。 脊振連峰一帯には、昔は猪や鹿が多く棲息していた。これらの動物が峰渡りをするときの「けものみち」が、この洞窟の前を通っていた。猟師たちは、この洞窟の中に待機し、けものみちを通って来る猪や鹿を射獲ったのである。 しかし、後にこの猟師ヶ岩の洞窟では、不吉なことが多く、寒中にミミズ・蝦蟇(ひきがえる)・大蛇が現われたり、魔神が出たりするというので、ここで狩猟をするものはなくなったと言われている。 猟師ヶ岩の南麓入口の路傍に石祠が祭られ、神像が安置されているが、祭神の名は、隆信−龍神−猟神と時代とともに変遷してきた。 現在は神像の頭部がなくなったままになっている。この像はしばしば行方不明になったが何時のまにか戻ってきて、もとの座に安置されていたという。何者かが祈願のために借りてゆき、満願成就の後に返却したか、あるいは、盗んではみたが不吉なことがおこるので、恐れをなして、もとの座に戻したかの何れかであろうと言われている。 現在、猟師ヶ岩の南麓入口を「りゅうがみぐち」と言い、隆信沙門の住した草庵のあった地を寺谷と呼んでいる。草庵はのちに梅渓庵と号し、中鶴の梅谷山円光寺の旧庵であった。戦国時代の勇将神代勝利が新次郎とよばれていた頃、北山々内で武術師範をするためにこの梅渓庵に寄寓していたこともある。 猟師ヶ岩山にかかわる伝説は、後で述べる猟師山本軍助の話がある。その外、嵯峨夜桜化猫伝には、鍋島家に仇をなした化け猫が、この機の山(猟師ヶ岩のもとの名)で育ったとされていて、美女と化した妖魔の伝説を素材にとり入れた物語になっており、また、龍神や隆信寺の文字が、戦国時代に北肥の山野で雌雄を争った両将、龍造寺隆信・神代勝利の姓名に配されているのも、偶然のこととは言え、不思議な縁につながっているように思われてならない。
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落人の恋 -三瀬山中の悲劇-
この物語は、西江 靖氏の著になる『火の国物語』の一節を拝借して、なるべく原文に近く転載したものである。( )内は新に挿入した注釈。 旅人の往来も稀な(現在、国道263号線の舗装道路)三瀬峠は、神埼郡の北端福岡県に境する所である。その峻しい坂にかからぬ前、県道(現在、国道)の右に当って(今原)、物凄いばかりの杉の木立と、魔の住むような水の碧い塘とは、注意深い旅人には直ぐに眼につく筈である。尚深く探して行けばその薄暗い木陰に1基の石碑が、文字も分らぬまでに磨滅して、半ば土に埋れているのを看るであろう。 その石碑こそ、この物語の主人公の眠っているところである。 ころは寿永の昔、栄華と傲奢を極めた平氏も、屋島の一戦に無風流な義経に追い立てられて、馬の蹄の立て場を失い、此所を先途と戦った壇の浦に脆くも破れて散り散りに逃れ去った群の一人、某〔名を逸す〕という公達は、人目を避けてこの三瀬山内に漂泊の子となったのである。 栄華の夢果敢なくも破れて、驕奢と権威とを失った若い公達の身には、苦しい現実の圧迫が次第次第に近づいて来るのであった。昨日まで玉簾深きところ、蘭麝の香ゆかしく、花に酔い月に浮かれて、滑らかな膚と柔らかな黒髪より外には、何等の接触をも知らなかった身が、今は逐われて、刺激も色彩もないこの山中に入ったのであるから、堪えられない寂寥と苦痛とがひしひしと迫って来たのは云う迄もあるまい。彼は如何にもしてこの無聊を消そうとした。 時には慣れない徒歩で山路を辿り、樵夫住む部落に行くこともあった。時には若葉のかげに啼く時烏の声を聞きながら、都の華やかな生活を思い出して、冷めたい袖を絞ることもあった。それでも未だ流転の世相を感じて、真如の月を眺むるほど解脱する訳には行かなかったのである。 彼は旺盛な欲求を満足せしめんために、恰も小鳥を狙う若鷹のように部落の女に眼を注ぐのであった。 けれども、都の美女に憧れた眼には、何れも強建すぎて却って醜に見えるものである。とても綾羅の袖長き都人とはくらべものにはならない。しかしながら飢えた者には眼はないのが常である。やがて眼についたのは樵夫の娘、この辺の山中には珍しくも色白の愛くるしい女であった。それで彼は機会ある毎にその女を口説いた。彼の美貌と滑らかな都の言葉には、世を知らぬ初心な乙女心は直ぐに動いた。行末を思うほどの理知は、この娘にはなかったのである。 今でこそ、尾羽打枯らしてはいるが、かつては練絹を身にまとい粉黛(お化粧)あざやかに玉の階を踏んだ公達。顔なら姿なら、その男振の麗わしさは、深山に笑める姫百合の世知らぬ心を時めかすに充分であったに違いない。 ましてや深山路の夏も浅う、卯の花垣根に仄匂う夕月夜。その悪からず思う人から、蜜にも似た愛の言葉をささやかれては、ただもう胸の血潮が波立つばかり、羞じらう色は頬にのぼって、うなだれたその姿の如何ばかり艶であったかは云うまでもあるまい。 こうして彼女は、處女十八の誇りを捨てたのである。 ところが、この近所に一人の若い樵夫があった。日頃から思いをこの娘に寄せていたが、臆して恥じて打ち明くる機会もなく独り片思いに胸を焦すばかりであった。 娘の方でもうすうすはその気振りを知らぬでもなかったが、いまはもうその男の心を汲む裕はなかった。草深い山家育ちの男と、都の水に磨き上げた優男とを較べては、娘の心はどうしても公達の方に傾くのであった。 そうして夕べの椽に、目覚めの床に、都の芳列な色彩享楽の話を聞かされては、武運目出度く再び平氏の世ともならば、玉の輿に乗りてとの儚ない虚栄に憧がれたに違いない。 哀れなのは若い樵夫である。何時までこうしていても仕方がないので、人を介して、やる瀬ない自分の悶える心を訴えたのである。しかしながら、その真心は柳に風と、聞きいれられぬのであった。たびたびの事とて、男の憤りはどんなであったろう。 失意の男はもう一刻もじっとしては居られなくなった。如何にもしてあの公達を殺さねば、女の心を我が物に占むることはできないと、深く決心して謀らんでいた。逝く雲、散る花、それもみな男の心には怨恨の種となったのである。 ある夕、宵闇に紛れ、黒い覆面の人の影は、抜足さし足、公達の家に窺い寄るのであった。毒蛇の牙のような瞋恚(いかり)のために、満身の血は宛然火のよように燃えたって、眠れる公達を起しもやらず、呑んだる刃を抜くよと見るうち、闇にもしるき紫電一閃。急所の痛手に公達はアッとの叫びを現世の名残。あわれ玉の緒は絶え果てて、後には腥風、月影細く、虫の声のみ啾々と聞こえていた。 娘の驚嘆はどんなであったろう。君が一夜の情には、百年の寿命も惜しからじと、睦び合いしも槿花の夢。傷ましくも冷え果てた公達の骸に取縋って、よよとばかりに泣き伏したが、反魂香(焼くと死者の魂を呼び返して煙の中にその姿を現わすという想像上の香)ならぬ現の魂が再び蘇ることはできない。 それからは夜となく昼となく悲嘆の涙にかきくれていたが、やがて心に許せし亡き夫の後を迫わんと、艶やかな緑の黒髪を振り乱して、狂気の如く塘の岸へ駈寄ったが、そのまま身を跳らしてザンブとばかり・・・。 その塘が前に云ったそれなので、直ぐ傍の石碑こそ、果敢なき恋路に最後の頁を彩った公達の亡骸を葬った所だと。今は年古りて訪う人もなく、春風秋雨幾百年。ただ更くる夜の燼辺のまどいに故老の物語のみ伝わっているのである。
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山本軍助利恭の鳥獣供養塔
今原の杉神社一ノ鳥居前、国道263号線の路傍に、山本軍助利恭の鳥獣供養塔が建てられている。この塔の由来については、次のような物語りが伝えられている。 山本軍助利恭は永禄6癸亥年(1563)に三瀬の里に生まれた。成人して鉄砲の達人といわれるようになり、この人が目型の山から射った鉄砲の弾は、陣ノ内村の裏山にある樹木にとまっている鳥でも射落したと言い伝えられている。 軍助は幼少の頃から狩猟を好み、18歳のとき猟神に祈願をこめて、猪千頭を射ち獲ることを祈誓した。 それ以後毎日、山を駈け谷を巡っては猪を撃ち、射獲った猪の頭数が増えて満願の日が近づくのを無上の楽しみとしていた。 軍助の家族は、年老いた母と妻の妙子、それに生まれては死に、また生まれては死んでしまい、ただ一人生育した男の子、の四人暮らしであった。母は歳とともに衰え、いまでは明日の命さえ案ぜられるほどの病床にあった。妻の妙子は、病床の母に対して嫁としての温かい孝養を尽すかたわら、わが子の養育に心をそそぎ、夫、軍助に対しては優しい妻として仕え、毎日狩猟に出かける夫の留守を守って、何の不平も言わずに今日までその務めを果してきた。 家では軍助が猪千頭射ちを立願して以来、なぜか不吉な出来事が多かった。 愛し子が、母に抱かれて眠っているときにも、また寝床に入ってすやすやと眠っているときにも、不意に激しい泣き声をあげて苦しみもがくことがあり、その有様はちょうど弾にあたった猪の断末魔に似ていた。こうして生れた子はおさないうちに次々に亡くなり、現在の男の子がただ一人生育したのである。老母の気力も射ち獲る猪の数が増すごとに、弱っていく姿が目に見えてはっきりした。妻の妙子は口には出さないが、夫、軍助の殺生の因果が母子にまで報いられているように思われて、ただ、悲しみの涙にくれるばかりであった。 それにひきかえて、軍助は射ち獲る猪の数が増す毎に喜び、母の念仏の声も、妻のなげきの涙も、耳目にはとどかず、すべては、秋の山路に散り敷く落葉の上を走る猪の足音ととしか聞こえなかった。 こうして射ち獲った猪の数は積もり積もって、慶長17年(1612)11月19日に999頭になった。 あと一頭で立願成就という日をまぢかにむかえた軍助は、心もおどリ、その夜は狩仕度を十分にととのえて床についたが、夜のあけるのが待ち遠しくてならなかった。眠ろうとしても、若い時分から射ち獲った猪の大小や、そのときの苦労・喜びなどが、次から次へと脳裏をかすめて眠られなかったが、いつしかうとうととするうちに一番鶏が鳴いて暁を告げていた。 初瀬の里に忍びよって晩秋の風に、木々の紅葉も散り初めて、北肥の国境に高く聳びゆる猟師ヶ岩嶽も、その峰に続く金山も、雪雲におおわれて、頂にはかすかに白いものをつけていた。 軍助は今日が満願の日になるか、はたまた明日に延びるかと、心をはずませながら夜も明けきらぬうちに寝床をはなれ、鉄砲を肩にして忽々と家を出た。 勇ましく出てゆく軍助の姿を、病床にあって眺めていた母の目には涙が一杯光って、大無量寿経普門品の念仏を唱える声がかすかに聞えていた。 軍助が家を出て、破れた板戸の口から何時になくふリかえって妻の姿を見ると、よる年波と憂世の風にやつれた顔は涙にぬれ、愛し吾子を抱いて見送る姿は、あたかも観世音の再来のように、気高くも優しく美しく見えた。 その情景を見て、流石の達人軍助も何かしら一抹の暗い影が胸に閃く思いがしたが、行ってくるぞと一声残して、我が家をあとにするのであった。 軍助が日頃猪を多く獲ったところは、隆信ヶ岩(猟師ヶ岩)を中心にして北嶺の尾根を越えた深い谷間の要処であった。 今日も第一の目的地は隆信ヶ岩の洞穴。天正9年18歳のとき立願して以来30余年、いよいよ今日こそ最後の一頭、満願成就の吉凶の分れ目と、まだ明けやらぬ晩秋の冷気を身にいっぱいに浴びながら、山神山の曲った坂道を一刻も早く越そうと、一歩一歩を力強くふみしめて登っていく軍助であった。 山神の峠を登りつめたとき、今日に限って何となく息苦しく覚えた。いままで長い歳月の間にこの坂道を幾百度となく越えてきて、一度も疲れを感じたことがなかったのにどうしたことだろう。われながらとる歳には勝てぬかと、五十路の老いの身をなげきながら、峠の小溜りに一休みしていた。 晩秋の天気は変わりやすい。霰交りの冷雨が降りだし、かすかな音をたてて峠道をぬらしはじめた。道にはねかえる霰を軍助が見つめていると、どうしたことであろう、この寒気に一匹のミミズがはい出してきたのである。不思議なこともあるものだと思って見ていると、今度は一匹の大蝦蟇(蛙)がノソリノソリと現われて、はっているミミズを一口にぱくりと喰ってしまった。これまた不思議と見つめていると、今度は五尺以上もある蛇がスルスルと出てきて、たったいまミミズを喰ったばかりの大蝦蟇を巻きしめて呑みにかかった。軍助は眼前の出来事のあまりの不思議さに気を取られて、しばらくぼう然と見つめていた。すると山騒とともに冷雨を交じえた一陣の山嵐が、落葉をまきあげて吹きまくったかと思うと、一頭の大猪が、鼻息も荒々しく尾を巻きたてて突進し、蝦蟇を呑んだ大蛇に襲いかかって、噛み切りながら喰いはじめた。 猪を見てわれにかえった軍助は「よくも大猪が現われたり。これこそ天のわれに与え給えるなり、あな嬉しや満願の千頭目。天の神地の神・日頃信ずる猟の神が、吾に恵みし獲物なり。今日は遠くの目的地まで行かぬうち、現われ出たこそ幸いなり」と、高鳴る胸をおししずめ、かねて用意の種ヶ島に強薬をつめこんで、一撃のもととねらいをつけた。まさに一発、引金をひこうと指をかけたとき、おお恐ろしや、いままで大猪と見えた獲物が白髪の老仙と変り、歯を喰いしばってロからたらたらと血を流し、大口を開いたかと思うと、血のように真赤な一つ目を光らせて、軍助をじろりと睨み返した。 目一つ坊神の形相のもの凄さに、軍助は身も竦み気も転動して、ねらいをつけた鉄砲を投げ捨て、無我夢中になって、今登ってきた坂道を一目散に駈け下って我が家にたどりつき、顔面蒼白。力も抜け、茫然として上り框に腰を落とした。 この有様を見た妻の妙子は、静かに軍助の前に進み出て両手をつかえ、涙をまぶたにたたえながら、たったいま半時ばかり前に母が此の世を去ったことを告げた。そうして、いまわのきわに母が言い遺した山本家の素姓と軍助の無益な殺生を悲しむ前世からの不幸なめぐりあわせについて、母の言葉をそのままに軍助に伝えた。 それは次のような遺言であった。 「軍助は18歳に成長すると、雨の日も風の日も一日とて休むことなく猪討ちのみに精進して、村人から猪討ちの名人、狩人達者よとほめたたえられると、そのたびごとに慢心し、日を重ね年の過ぎゆくにつれて散化する猪の数をふやし、今日で何頭、明日また幾つ獲れるかと、喜び楽しんで殺生を続けてきた。そのことは言わず語ずとも、この母はよくその実情を知りぬいておりました。何と悲しい山本家の因縁であろうか、逆因縁の恐ろしさ、この悲しい運命の糸に引かれて軍助の母となり、親子として日暮らしする悲しさは、たとえようもないものでした。 山本家の素姓を言えば、かたじけなくも大職冠藤原鎌足公より16代の孫、藤原実行朝臣の流れを汲む禁裡守護北面の武士、山本上総守殿、寿永の昔、4歳にならせ給う未だ幼い安徳帝を守護し奉り、平氏の公達ともろともに、須磨や明石あるいは屋島の戦いに、雌雄を決しての戦闘も遂に武運つたなく、追われて西海壇ノ浦の決戦に破れ、上総守殿はこの草深い北嶺の谷間に身を隠されたのです。 その後世を重ねてわが夫軍左衛門利定殿は子に恵まれず、由緒正しい山本家の血統が絶えようとするのを悲しみ、この母と二人で、初瀬の里に鎮座まします薬師如来と、あわせて猪子明神に立願し、如来と大王の功徳によって、私共夫婦に山本家を承け継ぐ男子をお恵み下さるよう三・七・二十一日の祈願をこめました。そのかいあってか月満ちて無事に生まれたのが軍助で、夫利定殿の喜びはこの上なく、生まれた年も生まれた月日も亥の年の亥の日、名も軍助利恭とつけて、その成長を待つうちに、父利定殿は死出の旅におもむかれました。父なきあと玉よ宝よと育ててきた甲斐もなく、前世からの約束事とは言え、立願の神・恵みの神である猪子大王の化身である猪を、18歳のその年から、千頭討ちの立願まで志し、しばしの仮の世に、殺生をもって無上の楽しみとする業につくとは、何と不幸なことであったか、この母にとってはあまりにも悲しい運命の浮世でありました。軍助の日頃獲る猪の命が、一頭づつ消えてその数が重なるたびに、母の命もこの世から遠ざかってゆくような思いでした。 今日の千頭目は、わが生みの子育ての子軍助が、この母の体を矢玉にかけるも同然。猪の千頭討ちは不成就なれど、母が猪の身代わりとなって、この世から永却に消えてゆくことにしましょう。そして御仏のいます浄土から父利定殿とともに、軍助と妻子が幸長くこの世を過ごすよう、また、山本家御先祖様に対しても恥じないで日送りができるように祈りましょう。お先に逝って御仏様とともにお待ちします。と言い通して、夜の明け方、静かにお亡くなりになりました。」と妻は涙とともに母の臨終の有様を語った。 軍助は、わが家の素姓と自分の生い立ちの由来を初めて知り、さては、今朝の千頭討ち不成就の不吉な猪の化神は、わが子を思い、命にかえて殺生をやめさせようとする母の一念が神仏に通じた救いの化神であったのかと、母の尊い母性愛に感動するとともに、わが身の無明を嘆きながら母の死を悲しみ悼んだ。 軍助は長い間殺生を楽しんだ迷いの夢もさめ果てて、とりあえず、親子3人連れ立って、父母の立願した生みの仏、育ての神である薬師如来と猪子大明神にお詫びのために参詣し、以後殺生をやめることを誓った。 そのあと、長谷山観音禅寺に大禅師をたずねて、今朝方の出来事と母の遺言を物語り、禅師の計らいによって、いままで無益の殺生をした鳥獣の供養を営み、鳥・鹿・猪を刻した供養塔を立てて鳥獣の冥福を祈った。慶長17年壬子11月廿日、山本軍助利恭50歳のときであった。
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洞鳴の滝情死悲話
この話は今から約300年前の実話である。洞鳴の滝というのは、岸高から井手野へ向う県道を、東へ500㍍程行ったところにあり、今は民家のかげになっているが、むかしは民家もない渓谷で、道路もずっと高いところを通っていて、現在のような川添いの県道はなかった。滝の落差もいまよりずっと大きく、峡谷の奇岩怪石の間を、白滝のように落ちる水は、岩に砕けて数丈の滝となり、洞岩に轟く水の音は、あたかも竜が洞穴で叫び鳴くかのように聞こえたので、村人はこの滝を「洞鳴の滝」と呼んだ。滝の落ち込む淵はその底の深さも知れず、千古の色をそのままに、碧藍神秘の深淵として知られ、いまでも三瀬景勝の一つとされている。 延宝9年辛酉(天和元年1681)正月21日。その日山内は夕方から大吹雪となり、土師村妙見社の大椋の木に吹きつける雪風は、ごうごうとすさまじい音をたてていたが、夜半になると風はすっかり止んで、雪だけが津々と降り続いていた。 夜が明けてみると近年にない大雪で、あたり一面白皚々の銀世界と化し、裏山の孟宗竹も重々しく雪をかぶって弓のように曲り、枝葉を大地に垂れて、大雪のなかに埋もれそうになっていた。 ここは、神埼奥山内の氏長者ともいわれる藤原村大庄屋 音成六兵衛重任の館である。主人の六兵衛重任は、昨夜の大嵐で寝つかれなかったせいか、明け方になってぐっすり寝こんでしまい、正午近くに目をさまして床をはなれた。館の縁側に出て、野山も谷も一面の準平原と化した大雪に見とれていると、八龍宮の下手の道を、幾つかの黒い人影が館の方へ小走りに近づいてくるのが見えた。その人影は館の門の外までくると、口々におろおろした声で「お館さま。一大事でございます。お知らせにまいりました。」と呼びつづけた。 六兵衛重任は、もしかしたらと思いあたる子細もあったが、ゆっくりと玄関まで出むかえ、「何事でござるかのう皆の衆。この大雪に村うちで何か異なことでもござったのか。」と尋ねた。 先に進み出た名主の平兵衛が、涙を拭きながら、「お館さま、お気の毒なことながら、丁度正午に近いころ、雪も一先ず止んだというので、村の甚助どんが洞鳴の淵にエノハ釣りに出かけたところ、淵の下手の飛石のところに、若い男女の水死体が流れ着いているのを見たといって、あわてふためきながら知らせに帰って来ましたゆえ、私をはじめ皆の者が出向いて検めてみますと、お館の御曹子善忠さまとお仙女ではございませんか。一同びっくりして大急ぎお知らせにまいったようなわけでございます」と、報告した。 六兵衛重任の曹子善忠は当年19歳、眉秀でて一目ぼれするほどの美少年であった。 一方のお仙は、同じ藤原山の内、岸高村の庶民の娘で、芳紀まさに18歳、みめうるわしく、容貌は芙蓉を羞しめ、姿態は楊柳を凌ぎ、風に紊るる柳のような、ふんわりと垂れる黒髪、雨に悩める海棠のようなしおらしさで、まさに匂いこぼるるばかり。田舎には稀な美女で、村人からは北山小町と呼ばれていた。 二人の間には、思春の年頃をむかえるとともにいつしか恋の心が芽生え、行き逢うたびに慕情はつのり、互いに人知れず思いを焦がす身となって、悩ましくやるせない日々を送るようになった。 延宝8年弥生の中頃、岸高五丁の田原には黄金の色した菜種の花が咲き匂い、空には長閑に雲雀がさえずって、人の心も浮きたつような暖かい春の一日であった。 善忠は心のままに、従者も連れずただ一人で土師の館を出て、洞鳴の淵に来て釣糸を垂れながら、時のたつのも忘れていた。お仙はその日、朝から桜の谷に早蕨狩りに出かけていたが、その帰りみち、丁度洞鳴の淵のほとりを通りかかった。 無心に釣糸を見つめていた善忠が、通り過ぎようとする姉さ冠りの乙女を、何げなく振りむくと、夢にも忘れたことのないお仙が、ほのかに赤らめた顔に、花も恥じらう美しさを漂わせながら、足をとめて軽く会釈するのであった。 目は口ほどにものを云うとか。呼ばれるともなく近寄って腰をおろしたお仙。二人は、釣糸を眺めながら、初めて言葉をかわしたが、秘めたる愛のささやきは、恥ずかしさにとぎれがちであった。こうして、此の日、初めて蜜のように甘いひとときを過ごしたのである。 それからというものは一日逢わねば千秋の思いがして、叶わぬ恋と知りながら、しのぶ恋路の逢坂山(今の大佐古)、しのび逢う日を重ねるうちに、二人の胸には永遠に断ち切れぬ思慕の心と温い血潮が通いあって、もはや身分の上下はなく、行末を考えるゆとりもなく、父母のゆるしも待たないで、百歳も千歳も変らぬ契りを結ぶ仲となってしまった。 しかし、当時の武家は、身分の違うものとの恋愛や結婚を厳しく禁じていた。武家の御曹子善忠と庶民の娘お仙は、いかに思いを焦がして恋し合おうとも、動かぬ階級の垣根は越せず、六兵衛重任のゆるしがない限り、所詮この世では叶わぬ恋とあきらめるより外はない悲しい運命にあったのである。 鳴瀬川の流れは淀んで、長閑な春が来たというのに、あわれ道しるべなき恋の山路に踏み迷った二人。谷を蔽う花の色も目にはつかず、松に奏づる楽の音も耳には入らず、ただ、恋する人の声だけが玲瓏として胸の小琴の弦を揺すぶり、姿だけが夢枕にも失せやらぬ幻となって眼にうつるのであった。 移ろい易い春は過ぎて、青葉の陰には、鳴いて血を吐くという時烏の訪れる夏となったが、深い悩みを胸に秘めて、鳴かぬ蛍の身を焦がす二人であった。 とかくするうち夏も暮れ、物かな鴫の羽風に秋は立った。月見ては千々に心を砕き、虫を聞いては涙に袖を絞るうち、雁も鳴いて白露の繁き晩秋となった。秋は物こそ悲しけれと言うが、もの思う身にはまた一入。人の道も名誉も家柄も、すべてを捨ててこの恋を遂げようと心に定めた二人ではあったが、救いを求めて神よ仏よ許させたまえと、心のうちに祈ることも幾度かくりかえしたのである。 やがてその年も暮れ、延宝9年の新しい年を迎えたが、こうした二人の仲が村人の口の端にのぼらぬはずはなく、噂はしだいに広まって、知らぬ仏は親だけではないかと言われるようになった。 心配した伯父の古川五兵衛重治と広瀬六太夫ならびに伯母の妙世の三人は、今のうちに早く何とかとりなしてやらねば世間に対しても顔向けならないと、互いに相談し合って新年のあいさつかたがた土師の館を訪れた。 父の六兵衛重任に会った三人は、善忠とお仙が恋し合う仲になっていることを話し、このままにしておいては世間体もよくないので、お仙を一先ず武家の養女にした上で、一日も早く二人を夫婦にするように切願した。 しかし、六兵衛重任は伯父伯母たちの勧めには耳をもかさず、烈火のように怒って善忠をその場に呼びつけ、 「何としたことぞ、この親不孝者奴が。身分家柄を考えてもみよ。吾が家は遠く菅原道真公より代を重ね、宗祖音成遠江守殿がこの土師村に館を構えられ、肥前の国守からは奥山内の氏長者を許され、現世において佐賀、神埼三山内にて氏長者と申すは、神埼口山内の長者廣滝瀬兵衛往貞殿、佐賀口山内の長者佐保十兵衛家永殿、他の一家は神埼奥山内の吾が音成氏であるぞ。余人もあろうに、庶民の娘と恋仲に陥るとは言語同断。不義はお家の法度。七生までの勘当だ。」と、刀を引きよせ、いまにも切り捨てんばかりの勢いに、伯父伯母ともどもにどうすることもできず、ただ涙を絞って善忠を慰めるばかりであった。 善忠は、たやすく許してもらえるとは思っていなかったが、あまりにも激しい父の怒りに弁解する余地もなく、いまは望みの綱もまったく切れ、この世での恋をあきらめるよりほかはなかった。 善忠は深い決意を胸に秘め、それからの幾日かを悶々として館にひきこもっていたが、正月21日夜の嵐を幸いに、ひそかに館を抜け出し、愛しいお仙のもとへと急ぐのであった。 夜も更けてお千の家に近寄った善忠は、きめていた合図でお仙を屋外に誘い、父の激しい怒りにふれたこと、この世で結ばれる一縷の望みも絶えたことなどを伝え、別れるよりも死を選びたいといういまの苦しい胸のうちを、涙とともに打ちあけた。聞いたお仙も心は同じ、別れて一人何で生きよう生きられよう。二人は浮世のおきての冷めたさに、身も世もあらず嘆き悲しんだが、いまはもう、親も恨まず世間をも憎まず。今生の恋をあきらめて、大慈大悲の御仏の在す安養浄土の世界で、二世三世までも夫婦になろうと誓い合ったのである。 いまは風雪も止んで、たがいに固く抱き合って見上げ見下ろすお仙・善忠の凄艶な顔を、脚速に千切れる雲の間からのぞいた下弦の月が、淡くかすかに照らしていた。今宵まで互いに相慕い相誓った想い出の数々を秘めて、北嶺の谷間に咲いた愛の花は、五濁悪世から清浄歓喜の世界へと、蕾のままにいま散ろうとしている。憑むは尊い浄土での二世の契のみと、今生のはかない恋を悲しみながら、善忠とお仙は静々と思い出の洞鳴の滝へ向うのであった。 それから数刻ののち、滝の上の洞岩に出て相抱いて立った二人は、南無阿弥陀仏の声もろともに、身をおどらせて千古碧藍の深淵に沈んでいった。延宝9年正月廿2日未明、うら若い愛の花は実のらずして散って逝ったのである。 二人の没した水面に円を描いた水泡はまもなく消えて、あとには、峰に吹きわたる雪風と、丈余の滝の轟く音が、最期に唱えた二人の念仏の声を秘めて峡谷にこだまし、諸行無常のひびきをいつまでもつたえていた。 さて、話はもとにもどって、里人のしらせをうけて、曹子善忠とお仙女の情死を知った六兵衛重任は、自分の意志があまりにも頑固一徹で、若いものの心情を理解し得なかったことを深く後悔するとともに、人生の無常をいまさらに感じ、胸がつぶれる思いがして、すぐになすべき術も忘れ、汀渚に寄せる泡とともに消え入るように力も抜けて打ちなげき、悲しみの声は干潟の夜の鶴のようにかすれて腸を断つばかりであった。 しかし、いまとなっては如何に嘆いても逝った二人が帰るものではない。せめて死後にもと、二人の恋を許し、比翼枕に亡骸をならべて、死出の香華を枕辺に、奥山願正寺常楽山延覚寺住僧を導師として、読経の声もおごそかに葬送の儀式をすませるのであった。 そうして、二人の遺体は、音成家累代の墓地に比翼塚を築いて、しめやかに葬ったのである。今も昔の面影をそのままに、相寄り相慕うように立てられた墓碑の下に、二人は安らかに永遠の眠りについている。 山中観音禅寺に納められていた位牌には、 同帰 孝岳善忠信士 洞岩妙仙信女 延宝九年辛酉正月廿二日 施主 音成六兵衛重任 とあったが、墓碑には天和元年辛酉三月廿二日と刻まれている。 注 位碑に同帰とあるのは同時に死んだことを意味し、また、年号が違うのは延宝九年に天和元年と改元されているからで、同じ辛酉年に違いはない。 また、洞鳴山にはお仙女の菩提のために、観世音を祀って冥福を祈った。村人はこれを「お仙観音」と呼んでいる。 為洞岩妙仙女頓証菩提 延宝九辛酉年三月二十三日 本願 音成六兵衛重任 同市左衛門 中野仁右ヱ門 芹田弥右ヱ門 廣瀬六太夫 廣瀬妙正 古川五兵衛重治 高島又右ヱ門 高島徳右ヱ門 中川宗右ヱ門 徳川織右ヱ門 土師村女人講中 七間谷女人講中 落屋敷女人講中 碑面には以上のように刻まれている。
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孫太郎観音
いまから幾百年前の出来事か、つまびらかではないが、三瀬山村今原の杉屋敷に、千古の歳月を経たという杉の大木が立っていた。 この杉に朝日の影がさすときは、北山陣ノ内村まで陰がのび、夕日の影が照るときは、長谷山観音禅寺近くまでその陰がとどいた。この杉の陰のために一帯の田畑は日照りの時間が短かく、作物のできにまで影響したが、この杉は古くから神木として村人に崇拝されてきたので、たやすく切り倒すわけにもいかなかった。 ところが或る日のこと、誰の命によるのか、まだ明けきらぬ暗いうちから、コトン、コトンと大きな音を立てながら、一生懸命に大斧を振りかざし、天に聳びゆるこの大杉を切っている者があった。薄明りをすかしてよく見ると、何時からか初瀬の里に一人ぽっちで住む孫太郎という仙人のような白髪の爺さんであった。 そこへ、同じ白髪の見知らぬ老人がひょっこり現われ、孫太郎爺さんに親しみ深く声をかけた。「おう、誰かと思うたら孫太郎どんかい。えらい早うから気張っとるのう。」 その声を聞いた孫太郎爺さんは切る手を休めて、 「どこのお方か知らんばってー、この杉ばっかりは了見にゃこじい(合点がゆかずに)居りまっする。この2、3日ちゅうもんな(というものは)夜通しのごとして気張って切いおるばってー、夕るしい(夕方)仕事ばやめて家さい戻って、翌朝また来て見ると、前の日に切った木のコケラ(木片)が元に戻って塞がってしもうて、あらためて新らしゅう切らんなんもんぢゃー(切らねばならぬものだから)、何日切ったっちゃー(切ったとて)同じことで、ほとほと困っとる次第ばってー、辛抱が第一と思うて精ば出しとるたんたー(たんたー=敬語)。」と、困っている事情をつぶさに物語った。 そのことがあってから幾日か経った或る夜のこと、孫太郎爺さんが昼間の疲れでぐっすり眠っていると、夢か現か、先日声をかけた白髪の老人が幻のように現われて、静かな口調で、 「孫太郎よ。おれはお前が杉を倒すのに苦労しているのを見るに見かねたので、よい方法を教えに来た。それはほかでもない。お前は毎日精を尽してあの大杉を切ってはいるが、大体お前の使っている斧がなっとらん。あの斧で千年かかって切ってもあの大杉は倒れんぞ。そのわけはなあ、斧に血流しが刻んでない。それゆえいくら切っても、命の基である血が斧を伝って流れ出ないから、切られたコケラが死なずに生きかえって、またもとのコクチ(切り目)に戻りよる。それゆえ倒れん。夜が明けたら斧を持って鍛冶屋に行き、斧の表と裏に川という字型の血流しを刻んでもらってから切ることだ。また、朝仕事を始める前には必ず山の神を崇める気持ちになって火をたくことだ。」 と言い聞かせたかと思うと、老人の姿は煙のように消えていた。孫太郎爺さんは、今のは夢であったのかと思ったが、その夢が不思議にも道理にかなっているように思われたので、夜が明けるのを待ちかねて早速鍛冶屋に行き教えられたとおりに斧の表と裏に血流しを入れてもらい、それを持って仕事場に出かけた。 仕事を始める前に、言われたとおり山の神に祈りながら火をたき、血流しのついた斧で大杉を切りはじめると、切れ味がよくて骨も折れず、仕事はどんどんはかどった。 それからは老人の言ったとおり、切ったコケラは死んだとみえて、もとに戻って切り口を塞ぐこともなく、さすがの大木も遂に倒れるときがきた。爺さんが大きくなった切り口の中にはいり込んで斧を振っていると、大杉は突然、グググーッと大きな音を立てながら根本を離れ、ぐるりと一回りしたかと思うと、ドデンと地響きを立てて倒れた。 大きな地響きに驚いて集まった村人は、天に聳えて立っていた杉の神木が倒れているのを見たが、不思議にも神木は民家を避けて倒れ、根本の切り口に入って斧を振るっていた孫太郎爺さんの姿は、何一つ残さず消えて、どこにも見付けることができなかった。 村人はこの不審なできごとを気味悪く思い、神木のたたりを恐れたが、誰言うとなく「孫太郎爺さんその人が実は神木の化身で、爺さんのやったことは神木自身がこの世の寿命を終るときにやるしぐさであったに違いない。」というようになった。 村人はいままで崇め親しんできた杉の神木を失ったが、そのかわりに神木の化身、孫太郎を神として祠に祀った。人々はこれを孫太郎神あるいは孫太郎観音と呼んだ。 この事以来、斧を製するときは必ず血流しを入れ、山の仕事初めには火をたくようになったという。 その後幾星霜、今から凡そ二百六十余年前に提出された孫太郎神社の由緒には次のように記されている。 場所 三瀬村今原鎮座 長谷山円通観音禅寺抱宮 敷地 一畝 御本帳免 祭神 孫太郎 享保四年己亥九月日 提出 佐嘉御本藩寺社奉行殿 雇神主 吉村掃部家次 同嫡子斉旨章 御番所役人豆田与佐衛門基広 三瀬治部大夫大江房成 嘉村八郎右衛門貞氏 嘉村政右衛門貞成 以上
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卒塔婆の堰(そとばのせき)
猟師ヶ岩山・脊振山背口ノ山・井手野山・栗原山の連峰から発した水を一つにあつめて流れる鳴瀬川が、洞鳴の瀧を経て岸高南方の田原を通って神有部落に入ったところに、一帯の水田用水をひくために設けられた井堰(いせき)がある。 もとは、この井堰を「卒塔婆の堰」と呼び、堰の南端には卒塔婆が立てられていた。 これは、江戸時代、天明(1781~1788)の頃の物語である。 鳴瀬川は川幅が広く、水量も豊かであったので、この堰も大きく築かれていたが、大雨が降るたびに決壊し、里人はその復旧のための公役(くやく)に明け暮れる有様であった。 とくに卒塔婆が立てられた年には、幾度も大雨洪水に見舞われ、そのたびにこの堰はおし流された。 復旧しては流され、流されてはまた復旧へと、せき止めの作業は何回となく繰り返された。 そのために農民は疲れきっていたが、蔵入米の減収をおそれる藩の代官所からは、井堰決壊のときは即刻復旧せよという厳命が下されていたので、復旧工事の手をゆるめるわけにはゆかなかった。 とくに村役や組頭たちは、上納米の徴収納入の責任をもたされていたので、一日も早く復旧して、干上がろうとする水田に水をおくって、稲作を豊かにしておく必要があった。 ところが打ち続く水害のために堰の決壊は大きく、人夫も疲れていたので作業はなかなかはかどらなかった。 その日も一同は河原に集まって円座を組み、せきとめてもせきとめても流されるこの堰を、何とかして堅固なものに仕上げる方法はないものかと、思案投げ首していたが、よい案も出てこず、干上がろうとする水田を眺めては天を仰ぎ、ただ神仏の加護を祈るより外はなかった。 一同が困り果てて嘆息しているとき、いままで見かけたことのない一人の僧が、念仏の誦文(じゅもん)を高らかに唱えながら、堰の近くを通りかかった。 見ればその僧は盲(※原文のまま)である。 作業の指図にあたっている村役の頭はその盲僧を見て、苦しい時の神頼みのようであるが、幸いにも通りかかったあの僧に、せめて祈祷だけでも頼んで神仏の加護を祈ろうと考え、去って行く盲僧のそばに走りよった。 そうして、堰止め作業に困りはてている事情を話した上、 「ここを通りかかられたのは何かの縁、貴僧の法力によって、この堰止めに効験ある経文をお唱え下さって神仏の御力添えを祈っていただくわけには参りますまいか」 と、ねんごろに頼みこんだ。 自信ありげにうなずいた盲僧は即座に承諾し、村役の案内で一同のいる河原におりてきた。 堰に向って立った盲僧は、しばらく黙想したのち、念珠をつまぐりながら朗々たる声で経文を唱えた。 唱え終っておもむろに礼拝した盲僧は一同の方に向きなおり 「ただいま経文の功徳(くどく)によって神のお告げがあった。そのお告げによれば、この公役人夫のなかに、履物の緒が右縒(よ)りと左縒りになっているのを履いている人がいる。その人をこの堰の人柱として埋むれば、永久に流れない堰止めが成就すること間違いないとのことである。」 と言った。 これを聞いた人夫たちは、もしや自分の履物が、そのお告げに的中しているのではなかろうかと驚き、村役はじめ恐る恐る自分の履物をしらべた。 ところが人夫の中からはそれと名乗り出るものがいないので、村役が一人一人の履物を点検してまわった。 しかし該当するものはなかった。 最後に盲僧の履物をあらためると、なんと、盲僧自身の履物の緒が右縒りと左縒りになっていたのである。 盲目の悲しさ、自分の履物がそれだとは気が付かず、村役に見てもらってはじめてそれを知った盲僧が哀れに見えたが、盲僧は少しもあわてず、神のお告げのとおり、拙僧を人柱にせよと言って、泰然自若、経文を高らかに唱えながら埋められていった。 それからは不思議に作業もはかどり、いままでにない堅固な井堰ができあがったのである。 人々は井堰の完成をよろこび、これはまことに神仏の加護にちがいない。 あの時の盲僧こそ実は神仏の化身であったのであろう。ありがたいことだと、僧体を埋めた処に卒塔婆を立てて、盲僧の冥福と井堰の安泰を祈った。それ以来この堰を「卒塔婆の堰」といい、部落の名前も有難い神の留まり給う処というので神留村と呼ぶようになった。神有村と言うようになったのは明治の御代になってからのことである。 この大堰ができあがったおかげで、ひでりが続いても水量豊かに神留村の水田をうるおし、年々豊作を重ねたという。
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伊保坂の水
三瀬村今原伝照寺裏にある旧道の坂を「伊保坂」という。この坂の路傍に滾々と湧きでる泉がある。この水を飲めば息切れがしないというので、昔、この村を通る飛脚はよくこの水を飲んだ。また、傷ついた小鳥はこの水を浴びて傷をなおしたとも言われ、「伊保坂の水」といえば三瀬3銘水の一つとして知らないものはなかった。 幕末の頃、筑前の飯場に住む七兵衛という飛脚がいたが、七兵衛は往きも戻りも必ずここの水を飲むのを楽しみにしていた。そのためか、年をとっても人に負けない健脚の持主で、仲間の誰よりも多くの文便を運んでいた。ところが、ちょっとした風邪がもとで七兵衛は重い病気になってしまい、長の病床につく身となった。 日が経つとともに病気が重くなる七兵衛は、久しく飲めないでいる伊保坂の水が恋しくてならなかった。何とかしてもう一度飲みたいと思って、隣家の甚吉という若い者に相談すると、甚吉は日頃世話になった重病人の願いをかなえてやろうと思い、足に自信はなかったが、その水を汲んで来てあげようと約束した。 甚吉は早速行ってくるよと家を出たが、平素長途を歩いたことがなかったので、三瀬峠まで来ると疲れてしまい、路傍の石に腰を下して休んでいた。考えてみると、これからこの坂道を三瀬の方へ下って伊保坂という処まで行き、水を汲んでまたこちらへ登って来なければならない。こんなに疲れた足で、はたしてどうなることかと、先が思いやられて心もとなくなってしまった。 しばらく考えていた甚助は一計を案じ、そうだ、この辺の水を汲んで帰り、伊保坂の水だと言えば、重病人の七兵衛さんにわかるはずはない。これは名案だと一人でうなずき、近くの泉をさがして水を汲み、伊保坂までの往復にかかる時間まで勘定に入れて、休み休み帰っていった。 七兵衛の家に帰り着いた甚吉は、病床にある七兵衛に「伊保坂の水を汲んで来たよ」と言いながら、湯呑みに入れてさしだした。これは、これは、遠いところをありがとうと礼をいって、その水を一口飲んだ七兵衛は、大きなため息をついて、あーあ、おれはもうだめだ。伊保坂の水の味が峠の水の味としか思えなくなった。おれはもう、長い間楽しみにして飲んだこの伊保坂の水の味さえも、のみわけることができなくなってしまったわい。と嘆きながらぐったりと力を落し、病気は一そうひどくなったという。 伊保坂の水は今でも湧き出て伝照寺境内、縁結び地蔵尊のほとりへ流れ下っている。
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お茶でもござらぬリンジャーさん
藤原村柳瀬に藤原林左衛門という人がいた。この人はたいへん歯が強く、通称をリンジャーさんと呼ばれていた。 ある日のこと、伝照寺第12代の住職得隣和尚がリンジャーさんの家の前を通りかかると、子供達が2銭ゴマ(獨楽)の鉄のケンが曲ったのを、石でたたいて真直になおそうとしていた。近くで見ていたリンジャーさんが、なおしてやるからこっちにやれと言ってそのケンを受け取り、自分の歯で難無く真直になおして子供に渡した。 これを見た和尚が、お前さんはずいぶん歯が強いのう、と声をかけると、こんなものお茶でもござらぬ、2銭銅貨でも噛み切れますよ。と言って、大きな二銭銅貨を噛み切って見せたという。 また、その頃、三瀬村の宿に三島屋という酒屋(正島酒屋)があったが、ある日、リンジャーさんが一杯飲もうと思ってそこに立ち寄った。酒屋の主人は、リンジャーさんが歯の強い人だと聞いていたので試めして見ようと思い、店先においてある青茶出(青色のどびん)を指差して、その昔青茶出を噛んで食べたら酒一升あげるよと、半ば冗談に賭け話をもちかけた。まさかと思ったが、リンジャーさんは早速承知して、その茶出を割り、ガリガリと噛みくだいて食べだした。最後に蓋の取手の球のところがヒョロヒョロしてどうしても噛めないので、口から出してたたき割り、また口に入れてガリガリ噛んで食べてしまったという。勿論約束通り酒一升はもらったのである。 この話をしてくれた伝照寺の仙崖和尚は、これは実際にあった話だと付け加えた。
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蛇聟入 (その1)
むかしむかし、分限者のお嬢さんのとけえ、毎晩のごと、立派か男の通うてくってじゃん。その男も金持ちじゃったて。そいで、親も娘ばくいてもよかて思うて、おお目に見とったてったん。ところが、その男の来っとば、親が気つけとらしたぎと。おかしなことにゃ、障子も開かんとけぇ、その男はちゃあんと娘の部屋さい入って来とってっじゃん。 そいもんじゃ。親が娘に言わすことにゃ「お前のとけえ通うて来らす男は、障子ば開けぇじ、中さい入って来らすごたっばって、まさか、魔物じゃなかろうない。今夜来らしたときゃ、こっそらあと、男の着物の裾んとけぇ、木綿針に糸ば長うつけて、刺しとって見やい。」て言うて、長がかダルマ糸の付いた木綿針ば娘に持たせときゃったて。 そうしたぎ、その晩も男の来たもんじゃ、娘は親から言われたとおりい、その男の着物の裾に木綿針ば刺しときゃったって。 翌朝、男の帰ったあと、糸ばたどってみらしたぎと、障子の破れ目から出て、裏山のほら穴さい入っとったてぇ。そうして、穴の中で鉄針で刺された太か蛇の呻きよってっじゃん。その呻き声ばジーッと聞きよらしたぎ、「あの娘さんも、もう俺が胤ば宿しとっけん、世間も相手にすんみゃあ。桃の花の酒ば飲むぎと、子はおりっばってぇ」。て言いよったて。そいで、その娘さんが、桃ん花の酒ば飲みやったぎと、蛇の子はおりたてったん。そいけん。女は魔物の子ば産まんごと、むかしから、桃の節句の白酒ば飲むごとなっとってったん。 そいばっきゃ。
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蛇聟入(その2)
娘さんがおんさったって。そいで、毎晩、良か男の遊びや来ってっじゃん。その男は蛇の人間に化けたとじゃったて。 娘さんな、そぎゃんこたあ知らあじ、その男と結婚しんさったって。そして、お腹に子どものでけたって。そいでん毎晩来んさんもんじゃっけん。また来んさったとき「私ゃ、こぎゃんなっとっ。どぎゃんしたらよかろうか。」って、その娘さんが言いんさったて。「そぎゃんなっとんないば、5月5日の節句に、くちなわいちごば食べろ」って、その男の人が言いんさったって。そいで、5月5日にそのくちなわいちごば、娘さんの食べらしたいば、子供の流れたって。 そのいわれで、五月節句には、いちご酒ちゅうて、むかしは飲んだっていう話。 そいまで。
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姥捨山
むかしゃ、姥捨山ちゅうてあったて。米の足らんもんじゃ。年寄の人のおらすぎ食わせられんけぇ姥捨山に捨てんばなんごと、村で決まっとったてったん。そいけんが、誰でん、年寄のおるぎ、どうでんこうでん、姥捨山さい連れて行かんない、どぎゃんしゅうでんなかった。 その村に、年寄のお母しゃんば持った孝行息子のおって、「俺だけは、どうしてでん、捨つっ気になれんばって、村の決まいじゃっけん、しかたなか。お母さん、かんにんしてくいやい」。て言うたて。そいぎ、母親は「もう、おりゃあ、どうでんかんまん。行くとはよかばってん、あぎゃん遠か山さい、あさんが送って来てくりゅうでが、危なかたん」。て言うて、息子に負んぶされて家ば出らしたて。そうして、ずーっと行きよったぎとにゃ、年とったお母さんな、道々、柴の枝ばポキッ、ポギッて折って行きゃったて。山に着いてから、息子が「こいで、どうでん別れんなんばい。かんにんしてくいやい。おりゃあ、こいで帰っけん」。て言うたぎない。 「道々、ずうっと柴の枝ば折ってええた。おいが戻ったいしゅうでじゃなか。あさんが帰っとき迷わんごとおし折っとっけん。ずうっとそこば通って行きやい。そいぎ道ゃ迷わん」。て、お母さんが言わしたてったん。そいぎ息子は、わが身のこたあ忘れて、子のことば心配さすお母さんば、そのまま捨てて帰る気にゃ、どぎゃんしてもなれんもんじゃ。「村の掟てにそむいて済まんばってえ、家さい帰ろい」。ちゅうて、またかるうて(負ふって)、家さい戻いやったて。そうして、床の下に穴ば掘って、そこばりっばい(立派に)して、かくれさせて、飯てん何てん食わせよらしたてったん。 そぎゃんしょつたいば、ある日、殿さんから、「灰で繩をなって献上すれば褒美をとらせる」。ちゅて、お触れの出たて。 百姓たちゃあ、誰でん、灰ばこねて、繩ば作ろうでしたばってん。どぎゃんしても繩にならんと。そいで、その、80幾っのお母しゃんが「そぎゃんことじゃ、繩はできん。そいけん、はじめ繩ばしっかいのうて、そして、そいば、じいっと焼くぎと、灰の繩のでくっ」。て、息子に教えらしたて。そいで息子がそぎゃんしやっぎ、灰の繩のきれえにできたて。そいば庄屋さんに持ってたて、殿さんに献上しゃったぎと、殿さんはそいば見て「これは珍らしい。誰が献上したか。早速召し出せ」。て言わしたて。そいもんじゃ、息子は呼び出されて「こりゃあ、お前、よくぞ灰の繩ができたのう。褒美をとらせるぞ。何でも欲しいものを言え」。て言うて、殿さんから誉められたって。 そいぎと、その息子が「いいえ。こりゃあ、私じゃございまっせん。実は、姥捨山に捨てんならん八十婆ちゃんが、おるばって、山には捨て得じ、法ば破って、匿もうとったりゃ、その婆ちゃんが教えらしたけん、あの繩ば作っことんでけた。私はどうしても母親ば捨つっこたあできん。わが身はどうなってもよか、年寄りば捨てぇじよかごとしていただきたか」。て答えらしたぎと、「ああ、そうであったか。以後、姥捨山は止めることにするぞ」。て、殿さんから許しの出たて。そいからその姥捨山は禁止になったてったん。いまでも井手野にその山と経塚のあったん。 そこまで。
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蛙の親不孝
むかしのう。ビッキーがおって、親が「山さい行け」って言うぎ、川さい行く。「川さい行け」って言うぎ、山さい行く。何でも親の言うてぇ反対ばっかいすってっじゃん。 そいで、親ビッキーが死ぬまぎわになって思わすことにゃ、俺が死んだときゃ、山に埋けて貰りゃあたかばって、この子は反対のことばっかいすっけん、山に埋けろて言うぎと、川に埋くんにちぎゃあなかて。そいけん思うことと反対に「俺が死ぬぎと、川端に埋けてくいやい」。て言うて死なしたって。 そうしたぎと、子ビッキーは、俺ゃ、親の生きとらしたときゃ、反対ばっかいしょったけえ、せめて死なしたときなっと、親ん言うことばきかんばて思うて、親蛙の言うた通りい、川端に埋けらしたてったい。 そいで、雨の降るたんびに、親のきゃあ流りゃあすんみゃあかて思うて、世話でたまらんもんじゃ、今でも雨の降っぎい 「ギャツ・ギャツ・ギャツ」って鳴きやってったい。お前たちも、親んいうこと聞かんぎと、ビッキーのごと、ごっとい泣かんばならんばい。 そいまで。
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蛙の道中
むかしから、井の中の蛙ていう言葉のあるばって、肥前のビッキーも筑前のビッキーも、めっちゃあその、世間には出たこたあなかったて。そいもんじゃ、久しぶいで今日は天気のよかもんじゃ。筑前のビッキーが、俺あ、今日は肥前さい、肥前見物に行こうて思うて、筑前の方から三瀬峠さい、ぼちぼち登って来よったと。そして、肥前のビッキーも、久しぶりもんじゃ、今日は筑前見物に行くかと思え立って、肥前の方から三瀬峠さい下から登って来よった。そいぎと、ちょうどその、ふのゆう三瀬峠の絶頂で、両方から出合うたてったん。 そいぎと、筑前のビッキーがいうことにゃあ、「よーい。肥前どん。あさんどこさい行きよっかい」 て。「おりゃあ、今日は日のよかけんが、いっちょう、筑前見物ば思え立ったたい」て言うて、お互いにあいさつして、「もう、ここは三瀬峠の絶頂じゃっけんか、もう、肥前も筑前もじきたい。もう一足たい。」ていうて、おたがいに立ちあがって「まあ、こっからちょっと眺めて見ゅうだん」ていうて眺めらしたと。そうしたぎ、ビッキーの目ん玉は頭のうしろについとるもんじゃ、わあが来た方の見ゆっと。そいで、筑前のビッキーの言っことにゃあ、「肥前も筑前も同じことやっかい」。そして、肥前のビッキーも「ほんにぃ。あさんの言うごったい。ほんなごてえ。筑前も肥前と同じこったい」。「そんないば、もう、こいから先さい行こうよいたぁ、別れて戻った方がましばい」。ていうて両方とも戻ったてったい。 そいばっきゃ。
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和尚と小僧
お寺の和尚さんの、ほんに甘酒好きじゃったて。そいで、甘酒ば大釜一杯作っとらしたぎと、小僧に飲ますったぁ惜しかもんじゃ、いつのはじゃあなっとん、小僧の知らんごと、飲んでくりゅうと思うて、すきばうがごうとったて。 そうしたぎ、ある日のこと、和尚さんが「やい、小僧。今日はない。門徒のとこから供養の使ぁのあったばい。そいけん、お経あげぎゃあ、あさんの、ちょっと行たてこんかい」て言うて、使ぁに出して、小僧のおらんうち、大丼ば持ってきて、甘酒ば一杯盛って、何処か、かごんで飲もうと思うて、思案のあげく、「雪隱ないば、滅多に誰でん来んばい」てひといごというて、和尚が雪隱にかごうで、甘酒ば飲みよったちゅう。 小僧が戻って来たぎと、和尚さんの居っちゃなかもんじゃ。和尚さんの甘酒作っとらすとば、こないだ見たけん、大抵ぇもう甘酒えなっとろう。幸いのこと。和尚がいま居らんけん。今のうち飲んでくりゅうと思うて、小僧もまた、大丼持ってきて、甘酒ば一杯ちいで、「雪隱ないば、和尚も滅多来んばい」と思うて、雪隱のところぇ行たて、戸ば開けたて。そうしたぎ。和尚さんの大丼かかえて、雪隱にかごうで、おいでじゃったもんじゃ。もう絶対絶命で、どかんしゅうもなかったけん。「和尚さん。甘酒のおかわり」ちゅて、大丼ば差しだしたて。 世の中にゃ、「隠すより現わるるもんななか」て言うちゃっけんが、そぎゃん隠いて飲んだい、すんもんじゃなかて。 そいばっきゃ。
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山姥と蕎麦の茎
むかし、この村に利口な兄と薄ノロで馬鹿正直な弟がおったてったん。 ある日、両親が山さいでかけた留守に、ヤマンバ(山姥)がひょっこい家に入ってきて「父ちゃん母ちゃんは、おらんとな。何かうまかもんば食わせんかい」て言うたて。 利口な兄が「何も食うもんはなか」て言うたぎと、 ヤマンバは 「そんなら、お前たちば食おうだい」て言うて、近よってきて、つかまゆうでしたて。 兄弟はびっくいして、裏山さい、いちもくさんに逃げて、柿の木ぃよじ登ったて。 そいぎと、ヤマンバは柿の木の下まで追うてきてから、兄弟ばにらみあげて 「お前たちゃ、どぎゃんして柿の木い登ったかい」てどなったて。 利口な兄は、柿の木のてっぺんから見おろしながら、 「おどまあ、足のうらに油ばぬって登ったたん」て、すらごと言うたて。 ヤマンバは「そうかい、そうかい」て言うて、兄弟の家にいたて、足に油ばべったいぬってきて、柿の木に登ろうてしたて。そいばって、油つけとんもんじゃ足のツルツルすべって登られんてっじゃん。 そいば見よった薄ノロの弟が 「鉈で柿の木ぃ傷ばつけて登らんな」て、いらんことば言うたて。 そい聞いたヤマンバは、早速、鉈ばもってきて、柿の木い傷ばつけながら、てっぺんめがけて登いはじめたて。 兄は、だんだん登いつめてくるヤマンバば見て、こりゃあ、大ごてえなったと心配して、目ばつぶいながら 「天道さん、お天道さん。かねの鎖ばおろしてくんさい」 て、口ん中で唱えて、お祈りしたて。 そいぎ、不思議なことにゃぁ、空の上から、ジャラ・ジャラ・ジャラッて大きな音のして、かねの鎖のおりてきたてっじゃん。兄弟は、そのかねの鎖に飛び移って、空の上さい登いはじめたて。 もう一息でつかまえらるって思うて、ヨダレたらしとったヤマンバは、空高ぅ逃げていく兄弟ば見て、くやしゅうしてたまらんもんじゃ、目ばむくいじゃぁて、 「おーい。お前たちゃぁ、どぎゃんしてその鎖に登ったきゃぁ」 て、大声でどなったて。 そいぎと、薄ノロの弟が 「お天道さんに、鎖綱ばおろしてくんさいて頼んだたい」て言うたて。 ヤマンバは 「何て言うて頼んだかい」て聞いたて。 そいぎ、弟はまた、「お天道さん、お天道さん。鎖綱ばおろしてくんさい。て言うて、兄ちゃんが頼んだたい」て、得意になって教えてしもうたて。 ヤマンバは、弟の教えたとおりぃ「お天道さん、お天道さん。鎖網ばおろしてくんさい」て祈ったて。 そうしたいば、幸いなことに、くさり綱はくさり綱でもかねの鎖鋼じゃなしい、わらの腐り綱のズルズルズルッて、おりてきたてっじゃん。 ヤマンバは、しめたって思うて、うろたえてその綱に飛び移ったて。そいぎ、そのとたんに、綱はブツンて切れてしもうて、ヤマンバは柿の木のてっぺんから、真っさかしいなって地べたに落っちゃえたて。そうして、そこにあった大石で頭ばしたたか打って、血ばふきぢゃぁて死んだて。 二人の兄弟は、そいで助かったぼって。そこに生えとった蕎麦の茎が、ヤマンバの血で真っ赤ゃ染まったて。 蕎麦の茎や、もともとは青かったばってん、そんときからいまんごと赤うなったてったん。 そいばっきゃ。