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[旧佐賀市][ 地名・とおり名]は98件登録されています。
旧佐賀市 地名・とおり名
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西川内地名の由来
西川路(地)と書かれていたが、神戸の湊川神社より30年も早く梅林庵に楠公を祀ったので、その生地、河内国にちなんで西河内と改められ、その後西川内になる。
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灰塚の起源
永享3年(1431)将軍足利義教の時、防州の大内徳雄(盛見)が筑後に進出し、立花城(柳川)を攻める。城主はこれを幕府に訴えた。徳雄は追われ、肥前に逃れて来たのを少貳資嗣が佐賀城に迎え戦った。徳雄は飯盛城(上飯盛常照院付近)に籠る。少貳資嗣は龍造寺家氏の部下、鹿江遠江守と謀り、西の飯盛城を夜討ちした。その結果、大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て、筑前へ逃れた。その時西与賀高太郎の高太郎丸、小太郎丸の両名が戦って、功名をたてた(西与賀高太郎に両者の屋形跡あり)。この戦いで大内軍は唐菱錦旗を捨てて逃げたので、その旗を観音寺に納め、大内籏山と称えるようになった。 また激戦のあとの死骸、槍、鎧等は集め焼き灰は盛り塚を築き葬ったので、地名を灰塚と称するようになる。 「西肥古蹟詠曰」 十萬精兵待指麾 六州茅土入封時 英雄の末路何堪説 蕭寺空餘大内簱 あわれをば 塚にとどめて 野里なる 寺にも 旗の 名を残しけり
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袋地名考
大字袋は、水ヶ江町慶雲院より流れる水を四囲に井堰を築き袋の如く溜めて、灌漑用水となしたので、その様をみて「袋」といった説と、袋区がもと川副上郷の内八田江が蛇行して袋状をなしていた地形から付けられたとも言う。 袋村は、もともと川副上郷の内であったが、明治22年に本庄村に編入された。 袋に曹洞宗の古刹寒若寺がある。「酒袋山」を山号としている。寺の隣り合わせに、袋天満宮が遷座している。この宮の由緒によると「酒袋」を氏とした、惣兵衛、晋太郎、新七郎が宮住まいで居たことが記してある。酒袋山、酒袋氏いずれも「袋」の文字があり、地名に関することが感じられる。 また、寒若寺に地名起源の物証となる史料が所蔵されている。次に掲げる。 ○開基の位牌 當寺開基 前遠州太守詣阿大禅定門 尊霊 應長元 辛亥 年(1311) 五月三日 北条遠江守 平朝臣 時政公現住 徳雲叟營建立 ○鰐口(刻銘の一部) 慶長十九年 甲○(1614) 十一月吉日 肥前 佐賀 河副 酒袋村 薬師御寶殿 ○半鐘(刻銘の一部) 九州肥前國 佐賀郡河副庄 上江袋村 酒袋山 寒若寺奉掛 享保十九 甲寅 歳(1734) 十二月吉日 [註]享保十九年に「酒袋山 寒若」と後刻。また、「寛文三 癸卯(1663)」を「享保十九 甲寅」と後刻。 半鐘は肥前の鋳物師・植木の鋳造。現在は小城市牛津町の寺院に保存されている。(『肥前の鋳工』中村 勲から) 以上の史料から、「酒袋山」、「酒袋村」、「上江袋村」など刻名が確認され、これから後世になって「袋」だけをとって地名に用いられたことが考察できる。
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元船津
大字末次字八田は文化14年(1817)の郷村帳に末次東分村(中島、西八田、末次本村)と記されている。 八田江は佐賀藩当時の重要水路で船舶の出入が頻繁で八田井樋尻(現在の八田橋附近)にはいつも帆柱が林立していたので、「元船津」(船の碇泊する所)と名付ける。 八田江畔の堤塘には、御船屋跡が八田江改良工事前まで残っていたが現存せず。 八田区南が当時の船着場で、ここを中心に西川副南里の正定寺と鹿子の慶誾寺を結ぶ東西の道路は歴代藩主が両寺の参詣に利用されたので「お殿さんみち」という。
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末次の起源
近衛天皇(第76代)の久寿元年(1154)鎮西八郎爲朝が九州で猛威をふるっているとの知らせにより、鎮西の監視役に5名が派遣されてきた。その内の一人である藤原秀郷の孫季清左衛門尉は佐賀に来て龍造寺村に館を構えた。(一説には藤原季清は、仁平元年(1151)杵島郡黒髪山の大蛇退治で名高い、源爲朝に従って肥前に下向し、のちに小津郷龍造寺村に住んだとある。) 季清の第5子季慶(季喜)は父の職を継いで佐賀において、小津の東郷槇村(今の市内水ヶ江)を賜る。季慶には子が無かったので、高木(高木瀬の内)の城主藤原季綱(季慶の母の兄弟)の次男季家(南二郎)を養子とした。 文治2年(1186)9月27日源頼朝より龍造寺村の地頭職に任ぜられ、京都護衛の任を兼掌したが、この時季家は龍造寺とその氏を改めた。 季慶の弟季次は戦功によって、佐嘉郡小津郷(与賀上郷)の地頭職に補せられ、名を「末次」と改める。 末次から八田間に「杵ケ崎の薮」と呼ばれる所が藤原季次の旧城(館)跡である。
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寺家の起源
第54代仁明天皇(834〜)の御孫常康親王の御子空也上人は九品念佛宗の宗祖である。村上天皇の天暦5年(951)京都平安城内は熱病に襲われて多数の死者が出た。これを見て、空也上人は十一面観音を自作して、茶を煎じてこれを観音さんに供え、患者に与えたら病気は悉く癒えた。これに感激していた平貞盛は、空也上人の弟子となり修行した。貞盛の子孫中尾甚左衛門は一族9名を伴い龍造寺2代の祖藤原季喜公が九州下向の際随行し、佐賀に来て、末次村に居住す。また季喜公は中尾一門の為にここに光明寺を建立し、空也上人自作の十一面観音を本尊として、六波羅蜜寺の末寺と定められる。(光明寺跡は緑ヶ丘の東側。)これが佐賀における同宗の始りという。(寺号を畳山光明寺と言う。) これより寺家と地名を言う。寺家一門は和讃念仏を怠らず、ことに由緒ある茶筅の製作分配をなした。また龍造寺家、鍋島家に仕えて功績があった。
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米蔵古賀村
正保(1644〜1647)・元禄(1688〜1703)年間の絵図には、米蔵古賀村の村名が記されている。 文化14年(1817)の郷村帳によれば上飯盛村に属している。天保年間の絵図によれば、二本柳八角に「三蔵天神」が祀られていた。この地に藩政時代には三つの米蔵が建っていたそうで、現在は田圃になりその面影もないが、時々瓦等が出土するそうである。 「米蔵古賀」という地名はこれより言われたものであろう。
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上飯盛地名の由来
江戸期の村名は「かみいさかえ」「かみいさかり」とも言う。佐賀本藩領。与賀上郷に属す。村高は『天明村々目録』によれば、1.175石余とある。 『天明郷村帳』では、小村に米蔵古賀・夜尺・田中がある。上飯盛一帯は鎌倉期頃の海岸線で、飯盛の字は、飯を盛るという意義で、現在の東与賀の大野・住吉・新村等の干拓の際に、新地方の役所を置き、飯の炊出方をなし、これを盛って公役の人夫に配ったので「飯盛」と呼ぶようになった。 現在の与賀高等小学校跡がその地である。
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正里の地名考
正里は始め新村と呼んでいた。元亀元年(1570)8月19日鍋島直茂が川上村(現大和町)今山における大友八郎軍本陣へ夜襲の際、新村から農民が鍋島勢に加担し大勝利をおさめたので地名を「勝利」と称していたが、何時の頃からか、年貢取立帳等に「正里」と書き損じたのを踏襲したといわれている。現在も正里と称している。 明治22年市制・町村制実施の際に厘外村の一部であった正里を本庄村に編入した。 永享3年(1431)6月24日大内盛見(徳雄)が大軍を率いて佐賀の鹿子の塁を攻めてきたが、少貳満貞、資嗣等力を併せてこれを防ぎ、盛見は鹿子において敗れ、松浦へ敗走し、遂に糸島郡深江において敗死した。 正里(勝利)、灰塚等の地名は、この戦いにおいて起ったと言う。
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本庄町地域の平野の成り立ち
弥生時代中期(約2,000年前頃)の有明海の海岸線は、佐賀市街を東・西に貫通している国道264号(通称・貫通道路)の線とされている。この付近は、海抜4m(当時の暴潮位)で、この頃の人々の居住圏の南限といわれている。それ以降、河川などの営力によって自然陸化の平野が南部に進展し、開墾が始められた。鎌倉時代(1200~1338)には、川副町南里~本庄町上飯盛~嘉瀬町中原を結ぶ線(海抜3m・大潮平均高潮位)が海岸線で、ここまで自然陸化が促進された。この線が、開墾から干拓に移る漸位線に位置付けられ、これから以南(東与賀町)は、人工的干拓によってさらに平野が進展している。 このような平野の進展から見ると、本庄町地域は、弥生時代中期から鎌倉時代にかけて自然陸化により立地した平野と言える。『慶長年中肥前国絵図』(1596~1614)には、本庄、鹿子、末次、袋、里(厘)外、(上)飯盛が表示され、石高が記してある。これから集落の成立を知ることができる。
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唐人町の由来
唐人町の起源は、天保13年(1842)7月、御用荒物屋・川崎勘四郎が佐嘉・鍋島藩に提出した、『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』にみることができる。 それによると、勘四郎の先祖で高麗人、李宗歓(りそうかん)が、唐人町の始祖である。 李宗歓は、高麗は吉州、竹浦の川崎(現、朝鮮民主主義人民共和国、吉州ではないかと思われるが定かではない)に生まれたと記されており、当地ではかなり知られた武人かつ文人であり、相当の地位を得ていたようだ。 宗歓一族の墓は、唐人1丁目の浄土宗鏡円寺境内に現存する。
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復興通り
昭和8年にこの付近で大火があり、多くの商店や住宅が焼失した。 その後、人々の努力により復興したので「復興通り」と言うようになった。 昭和初期までは、この界隈は「夕日町」と呼ばれていた。
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唐人町(昭和42年頃)
道路両脇にアーケードが完成した。 七夕飾りが大きく風になびき、梅雨の晴れ間の日差しが強かった事を思い出す。
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中央大通り
佐賀市の中央を南北に走る大通り。 土橋より南が開通したのは昭和40年8月で、この時、成章中学校のブラスバンドと勧興小学校の金管バンドもパレードに参加した。
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すずらん通り
「鈴蘭橋」を奥へ入ると「すずらん通り」で、夕方になると、小料理屋さんからの美味しい香りが通り一帯に広がる。
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楠公通り
楠神社から西へのびる通りで、その名も「楠公(なんこう)通り」と言う。 正面突き当たりに、「楠神社」がある。 子供の頃、勧興小学校の南にあるので「南興(なんこう)通り」と思っていた。
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江頭
文献はないが、地名、屋敷跡その他から考えてみたい。 江頭地区は東から西へ、東土井、新川(川)、荒巻、郷倉屋敷、西、修禅坊、古川(川)、大西屋敷と分布している。 東土井は江頭地区で土地が一番高く、その中央に植木川の下流が流れている。この川は天井川で自然にできた川とは考えられない。多分灌漑用の人造川で、名前も新川である。古川が一番低い地所を流れていて自然にできた川らしく近くに郷倉屋敷、修禅坊、西、大西屋敷、南に伽らんの地名がある。郷倉座敷の鬼門に良神神社(現在移転)その北に、300年以上の樹令と思われる「もち」の大木があるところから、最初は、古川の川辺に水の便を得て村落が発達したものと考えられる。その後、新川、植木川の開発に伴って西部の民家が減り、東土井付近にふえ現在に至ったものと思われる。 南部の大渡、なざまちも西部の伽らんから東へ移動したに違いない。 なお東土井にある道祖神は当地開発の際、守り神としてお祭りしたかも知れない。 また、今山出兵の道路として江頭西のあぁあ十れんを通って北へ進み将軍神社から勝楽寺に達したものと考えられる。
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新村(開成2〜6丁目)
新村といえば、戸数70戸ぐらいの昔の姿が思い出されてくる。佐賀ん町に近い所に位置して南には神野のお茶屋と言って鍋島さんの別邸(現在の神野公園)があり、それがまるで新村の前庭のように思われ、春には桜の花見客のさんざめきが夜を通して聞こえてきていた。 また、東を流れる多布施川、それから取り入れられた新村川が東から西に流れている。 その川の水は、大切な飲用水と農業用水に使用され、年に数回の地区総出の公役によってその美しさが保たれてきていたが、今は、まわりの人口増加により水も汚れつつあるのは残念なことである。 氏子神社として新村の北東に権現神社がある。由来ははっきりしていないが新村氏子一同の祈念する神社である。昔は、よく狐がいたので夕方からは近づかないように、回り道をして通った思い出のある人も多いことと思う。 時の流れとともに変わり、パチンコ店、バッティングセンター、スーパーといろいろな店が並ぶようになり、役場は記念碑が建立されている。 祗園祭は8月初めにあり、小学生の上級生が1日がかりでお宮の掃除や準備に追われ、夕方から高譲提灯を立て、お参りにくる人々に唐豆を煮てもらったのを一人ひとりに豆しゃくしで配ったものである。
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正現稲荷神社の由来
○座禅石(正現嶽の森社の西側にあり) 時あたかも戦国争乱の世、群雄割拠して勢力を争い、皇室の御衰微を顧みる者なきとき、京都の人勝務聖人という憂国の士、僧侶の身を以って尊王論を鼓吹し広く全国を行脚して、これが徹底に努めたが上人が肥前に来るや足をこの山に留め、大岩の上に一身を挺して懸命に目的達成の祈願をこめて座禅をくんで修行した。ところが地位ない身で自分の一心の叶はないのを歎いて七生報国を念じて身を有明海に投じて自決した。 隅々佐賀36万石鍋島直茂公に御曹子がなく当社を始め各神社に御祈願中であったが、彼の上人の水定と共に鍋島勝茂公が御誕生になったので、嶽の森稲荷の申し子とて藩主の信仰厚くなり鍋島家では当神社を奥の院として、奉祀し下宮としてその出生地鍋島村新庄に将軍稲荷にを勧請して厚く祀ったとのこと。
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朝日茶屋及人形茶屋
字金立に今も残る二つの茶屋の名前、これは彼の正現稲荷神社の御隆昌であった頃参詣人の通行の要所に当り、一つは朝日(東向)に向う朝日茶屋として栄え、一つは稲荷人形等を売る因縁深い茶屋として栄えていたとの事だが、社運の衰微と共に廃れたもので屋号だけは今も尚残っている。
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八丁畷と兵営のつながり
八丁畷と兵営のつながり(こぼれ話) 八丁畷は、兵営の南に位置し、兵営とは密接につながりがあった。第一に区域の北半分の農地が兵営の敷地となって、耕作面積が著しく減少したことは間違いない。 また、生活面でも多大の影響を受けていて、朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまで、風向きによっては、大きく聞こえていた。通学路も高木瀬小学校が北にあったので兵営の両側が通学路となっていた。 兵営北東の角は、大きく土盛されており、ここに軍の弾薬庫があったので、常時武装した兵が厳重に警戒していた。東側には裏門があり、ここは金立山麓にあった実弾射撃演習場に通じる道路の出入り口で、射的道といっていた。ここに大きな糞尿の貯め槽があった。兵営から排出される糞尿処理場で、入札によって処分されていたという。兵営の南に衛戍病院があり、戦後は国立病院と生まれかわり、多くの人達に利用されている。 確か軍旗祭の日と思うが、この日は一般に開放され、入場見学することができた。兵隊たちも官給の酒があったようで一日休養されていたようだった。この日の模擬演習で機関銃の射撃音は忘れられない。 兵営前の往還(現在の国道263号線)には、佐賀駅から川上まで電車が通っていて、それは昭和12年にバスに代わるまで利用されていたと町史にある。この往還の西側に兵隊専用の慰安所まであったようである。 昭和16年の中島氏の日記には次のように記載されている。 昭和16年10月20日から2泊3日、兵営に体験入営していたことを記している。 当時、高木瀬にあった青年学校生徒として、10月20日午後から執銃者24人、徒手26人で入営した。隊長訓示のあと、銃剣術の指導があり、夕食後の訓話、翌朝起床ラッパで飛び起き、乾布摩擦のあと宮城遥拝、軍人5か条を奉唱のあと、朝食後銃剣術、防空訓練、午後練兵場で演習のあと夕食後に、夜間演習を体験する。 翌朝も乾布摩擦のあと昼まで銃剣術で鍛えられ、昼食後部隊長の閲兵、分列があり記念写真を撮り散会したと記している。
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城井樋
高木瀬町史によれば、「城井樋」という名称は、佐賀藩時代、現在のところに井樋を設置し、佐賀城へ用水を確保するために城井樋と称するに至ったというと書かれている。 現場には、その井樋が存在するが、規模も小規模で、地形的な位置などを総合検証する限りにおいて、城井樋の由来が高木瀬町史に言う「佐賀城の用水を確保したために城井樋と称するに至ったという」ことに、やや疑問が生ずる点もあり、そうしたことを証明する新たな裏付け資料はない。 地区の古老の話には、「城井樋は、佐賀城の用水確保というよりも、同井樋が比較的多布施川の上流に位置したことから、「上井樋と言った」」と言われていたことを聞いたことがある。
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八丁畷の由来
八丁畷は、「八丁の畷」とも読める。畷とは、耕作地間の「あぜ道」のことを言い、おそらく下高木宿から三溝宿まで八丁の間隔があったことから「八丁畷」と呼ばれたのではないだろうか。 ここ八丁畷地区は、もともと高木瀬村東高木と同じ行政区だったが、第55連隊の兵営が出来たことによって自然に分断される形になっていた。 昭和36年に正式に分離して八丁畷区が誕生した。
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北川副の形成
筑紫次郎と呼ばれ、九州一の暴れ川の異名を持つ筑後川は、九重・阿蘇の両火山に、その源を発している。 延長123kmに及ぶ筑後川は、流域の山地を浸食して、大量の土砂を運んで、有明海にそそぐ。 5.7mという日本一の干満の差を持つ有明海の潮流作用と相まって、沿岸に土砂・遊泥が堆積され、数千年の長い歳月を経て筑紫平野が形成されてきた。 干潟の成長量は、河口に近い川副地区で年間7cm、東与賀地区で4.5cm、白石平野で1.5〜2cmにも及ぶ。 この成長量から逆算すると、縄文文化の中期(5,000年前)頃は、神埼町横武、高木瀬町東高木、金立町下九郎、鍋島町森田、三日月町四条の線が、海岸線に当たるとされている。 弥生文化時代の初め、約2,300年前から自然陸地化の開墾が始められたようで、鎌倉時代になって、土地の所有権が認められるようになった。 特に、元軍が来襲した弘安の役(1281)の後は、その論功行賞による領地の配分や食糧確保に迫られ、いよいよ人工による開拓が進められた。 鍋島直正公伝によると、天明3年(1783)行政整理によって、六府方の組織ができ、その中に佐嘉湾海(有明海)の干拓を行う搦(からみ)方が設けられ、干拓が行われるようになった。 約2,000年前の居住圏の南限は、旧国道34号線の牛津〜佐賀〜詫田の線になっている。 西暦1300年頃は、おおむね海抜3mの川副町米納津・南里・本庄町上飯盛の線となっており、1600年(戦国時代の末期)頃は、海抜2.3〜2.4mの犬井道・小々森・広江の線までが、南限となっているものと思われる。 ちなみに、江上町にある標柱は3.6mであるが、文献によれば、大治5年(1130)に、川副荘園からとれた米が献上されていることから、それより前に、北川副町の集落が形成されたと考えられる。
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光法村(郷制以降)
(角町村、阿高村、新村を含めて呼ぶこともある。) 寺井津に至る街道に面して、幕府の巡見使の巡回路であった。寛政元年(1789)の巡見録には、石高682石余、人口290人、家数50軒余と記されている。
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山津村(郷制以降)
(増田村、深町村、犬尾村を含んでいる。) 小字の山津村は、長安寺を中心とする集落で、明治7年の佐賀戦争の激戦地であり、新川改修から用排水の重要な地であり、明治になって、大字光法に編入された。犬尾村の寛政元年(1789)の巡見録には、石高777石余、人数340人と記されている。龍造寺と小田両家の激戦地であり、佐賀戦争の戦場ともなった。かなり大規模の農業が営まれていた。村の中心に光教寺がある。明治になって、大字光法に編入された。またここには村長もされた村医の今井正太氏がおられた。
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増田村(郷制以降)
(宿を含む。) 石高257石余、人口120人、家数20軒余とあり、地成(反当たり年貢米)9斗2升、佐賀本藩の直轄領であるが、佐賀郡代・川副代官の支配を受けていた。明治になって、光法村に編入された。
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江上村(郷制以降)
村別概況によると、江上の地名の由来は、神埼郡城原城主江上家種が、福満寺の近くに居住していたためといわれ、館という地名も残っている。 本藩領に属し、石高682石、人数290人、家数50軒余で、伝教大師の開基と言われる福満寺の領内として栄えた。村役場や産業組合事業所が設けられた村の中心である。
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江上町(郷制以降)
蓮池往還の宿場町で、寺井津街道との合流点で、早くから栄えた宿場町であった。巡見録によると、人口250人、家数50軒であった。 川副郷の上納米を収める米倉が6か所にあり、その一つが江上町にあったと記されている。大正時代まで、佐賀江沿いにあった、深川という地主の小作米倉庫が、それではないかと考えられる。 また龍造寺と小田両家の争いの場であり、佐賀戦争の戦場ともなった。旧家には銃弾の跡や、銃弾で穴のあいた水がめが残っていた。また庄屋を務め、村長も務めた旧地主の轟木家がある。
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木原村(郷制以降)
木原、古賀、武藤、安住などの集落がある。 木原は、蓮池城主小田氏と龍造寺氏のたびたびの戦いの古戦場としての記録があり、化猫騒動の時、化猫を退治した千布本右衛門の屋敷もある。日枝神社、阿弥陀寺、宗専寺がある。武藤には、十八羅漢の石仏がある岩松軒(がんしょうけん)禅寺がある。また村長をした中島弥太郎宅がある。