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[旧佐賀市][ 地名・とおり名]は98件登録されています。
旧佐賀市 地名・とおり名
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鍋島の起原
高木瀬町東高木と鍋島町森田を結ぶ線、即ち標高5mの線が縄文中期の平均満潮位の線と考えられる。現在の佐賀市街地の大部分は湿地で、人々はこの等高線より以北に生活していた。次に弥生時代の初期になれば、標高4mの等高線が居住圏の南限だったことが弥生期の貝塚の分布から想像され、これはほぼ現在の国道34号線の付近になる。これで旧佐賀城下町の中心付近が海岸線であったということになる。だからこの頃までわが鍋島町は有明海の底であった訳である。 また佐賀市から北の上佐賀地方には、弥生式土器がしばしば発掘されたことがあり、鍋島町でも昭和15年頃、八戸五竜神社付近から赤褐色の丸底土器石及び土弾が発掘された事があり、鍋島一帯は弥生式聚落の跡であり、農牧を主体とした地域であった事は明らかである。 更にこの地方は古代有明海が湾入して、そこに幾多の島々を形成し、また100年に1㎞ずつ進むといわれる有明海の沖積により、あるいは嘉瀬川が数千年にわたり幾十回のはん檻をくり返すうち、いつしか今のような農業地帯となったのである。 また肥前風土記の佐嘉郡の条には、「昔者、樟の樹一株この村に生いたり。幹枝も秀高く、茎も繋茂れり。朝日の影には、杵島郡の蒲川山を覆い、暮日の影には、養父郡の草横山を覆えり」と書いてある。 なお本町北部方面は往昔渺茫たる海原であり、日本武尊川上梟討伐の折、上陸した地点が蛎殻が特に多かったそうで、それに因んで蛎久と呼ばれその地名が今もなお残っている。 更に本町は佐賀藩公発祥の地であり、又蛎久はむかし肥前国府の所在地であり、政治、経済、文化の中心地として関連国衙、学舎、兵舎、寺院はじめ、民家二千戸以上密集し、殷賑を極めたため、次の様な小路の呼称が今も残っている。 長 瀬 寺小路 蛎 久 寺小路、横小路、鳥栖殿小路 植 木 小路、南小路 津 留 小路 増 田 南小路 北小路 鍋 島 南小路 北小路 木 角 中小路 森 田 小路 東新庄 矢倉、市場、馬渡 西新庄 小路、中ノ坪 江 頭 薙町、荒巻 八戸港 中小路
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新栄・開成校区が鍋島校区から分離された経緯
・昭和44年9月 八戸南部地区の一部が新栄と変更された。 ・昭和46年12月 八戸溝地区の八戸川以東が神園に変更された。 ・昭和48年4月 八戸、坂井、深町地区が新栄校区へ移動し、児童も新栄小学校に転入することになった。 八戸溝地区の鍋島第1団地・医大宿舎は鍋島小学校と新栄小学校の自由選択地区となった。 また、八戸溝地区の児童は新栄小学校へ通学し、自治会は鍋島校区という変則的な形になった。 ・昭和53年3月 八戸溝地区の八戸川以西が八戸溝の新町名に変更になった。 ・平成2年4月 開成小学校が新設された。 新村、江頭、角目の一部地区と八戸溝地区を栴檀橋から環状線道路の線で分割され、 鍋島団地、西佐賀団地、江頭団地の児童は開成小学校へ通学することになった。 また、当時の自治会は、新村、江頭、鍋島団地、西佐賀団地、江頭団地の5自治会となった。 ・平成2年11月 新村地区、医大宿舎周辺地区が開成1~6丁目と地名変更になった。 ・平成5年4月 市立開成公民館が開館した。
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旧川久保宿場通り
神代勝利は中世時代にはこの北部の山地を根拠に勢力を保っていた。藩政時代になると神代家の配分地となりその中心所領となった。他方では佐賀から鳥栖、脊振、小城と交通の要所として栄えた。宿場は旅する者にとってまさに憩いの場であった。駕籠や馬にゆられて行く人、或いは歩いて旅をする者さまざまな旅人が疲労と空腹で宿場にたどりつき宿場の家並みと旅館の看板に心を安ませたことがしのばれる。この宿にも大正時代まで数軒の旅館があったといわれているが今はその面影をみいだすことができないが、諸処に当時の武家門とその遺構は昔日を物語っている。
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檪木
檪木は川久保と同じ神代藩の配分地で、1646年の正保絵図には『一井ノ木村』とあり、1853年の嘉永石高帳では『檪木村』となっている。当時、田は少なく木ろうが藩の専売品だったから、はぜの植栽が奨励されこの付近にははぜの林が多かった。 檪木村が、上和泉村に編入されたのは、明治12年である。 檪木の『檪』の字は、イチイ・クヌギの漢名である。 イチイの樹は、マキ科の「一位之木」、つまり昔の貴族や神官が束帯姿のとき右手に持つ細長い板片、笏の原材で、階位一位に因む。これを「一位之木村」としないで、「一井ノ木村」としたのは、遠慮してのことだろうが。漢名「檪木」はこれに起因する。 もう一つのクヌギは、樫・栗と同じぶな目。棟木の天神さんの祠の傍にある大木を、土地の人は「イチノキ」と呼んでいるが、これは「イチイガシ」が植物学名で、樫の葉よりも細長く、丸い実が成る。この木は木船や車力・馬車の材として昔は珍重がられた。イチイノキと言わないでイチノキと言うのは、「イ」が脱落したもの。同属のクヌギの漢名「檪」の転用もである。 いずれにしても、植物名をとって集落名としたのは、奥ゆかしい。
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川久保へ350町歩
川久保は、邑主神代家の中心領で秀吉の島津征伐のころ(1587年)には、館をここに定め、知行1万石の領主を迎えた。 神代家は、佐賀藩が確立した1600年には御親類藩として、本藩と最も濃い血縁関係となり、大正の始めまで栄えていた。 最後の邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治38年佐賀県に95町余を寄贈、県営第一模範林となるに先立ち、明治20年頃らしいが、当時の川久保村に山林原野100町歩、実面積350町という広大な私領を下賜(無償払い下げ)した。 川久保は、神代家が筑後から肥前入り以来の縁故地であり、住民と共存共栄して来たので将来の相互発展を期しての払い下げである。これを受けた川久保は、各区から選ばれた区長、地元村会議員で『川久保協議会』を創設し、維持管理並びに運用に当った。明治22年前までは、戸長が統轄した。 植林に手を着けたのも、県営模範林よりも早いと伝えられる。山頂部・脊梁部の痩せ地には雑木・くぬぎ・松を、谷の湿潤な肥え地には杉を、中間に檜を植えた。里に近い丘陵地の下部は竹林、上部は野焼の出来る草刈場(秣場でもあるが、田の肥料採取に欠かせぬ採草地)とした。誰故草(えひめあやめ)も、野焼のできる草刈場に自生していた。野焼での事故後は、杉・檜を植林した。敗戦前後の食糧難時代は手開墾でこっそり藷・陸稲・瓜・蔬菜畑に、谷間は水田化し、半私有地化された。 昭和30年代に、大字共有を認めないとかで、既墾地の既得権を認め、それ以外の山林原野を大まかに区割、地区割してブル開墾、個人に分割払い下げた。脊梁部等開墾不適地は、代表者外何名で個人私有化、大字有の土地を無くした。 この開墾地は、昭和36年度から農業構造改善事業として、蜜柑園となり山麓のオレンジベルトを形成した。 昭和50年の蜜柑生産高3.720トン・園地面積147ha、販売高1億を越し栽培者199名に達し、町の主産業となった。 生産高 売上げ S54 1501t 8910万円 S59 760t 1億1499万円 ところが、全国的な過剰生産による価格の暴落で、減反を強いられ、需要の多様化で品種更新をせざるを得なくなり、一方九州横断自動車道の開さくによる用地買収で園地面積が減少し、かつ栽培者の高令化・後継者の離園で労働力が不足し、管理不充分となり、荒れ地・廃園が目立ち初め、転換期を迎えた。 もうこうなると、神代家が乞い願った地域活性化はおろか、先人の偉業に対する感謝の念は忘れ去られようとしている。 歴史とは、過ぎ去った昔のことを、面白おかしく知ることでなく、現在をどう対処するか、将来をどうあらしめるかを考えることでの先人の遺業を辿ることである。
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久保泉町名の起こり
久保泉・金立・春日を上佐賀上郷といい、富士町を入れて中世は「安富荘」という荘園で、後白河法皇が建立された長講堂御領であった。 但し、川久保の十九丸は私領としての取扱を受けていたようだ。 室町期には、少弐・千葉氏の後を神代氏が支配し、近世には川久保鍋島家として石高1万石で、物成(年貢)4,300石の親類藩となった。 1787年(天明7)の領村目録では、河窪・一井之木・徳永・上泉の一部・神埼町大字竹が神代氏の配分地=知行地で、上泉の一部・西尾崎・下泉が佐賀本藩の蔵入地=直轄地であった。 西尾崎村には本村・白石原・折地・池副が、下泉村には立野・古村・古賀・東上ヶが、徳永村には村徳永・篠木野・光岡・川原が、一井之木には野中が、上泉村には草場・出来島が含まれていた。 金立徳永は薬師丸村で、大小野は来迎寺村に入っていた。 明治11年の郡区町村編成法翌年西尾崎村は下和泉村に、村徳永と檪木村が上和泉村に入り、川久保村を入れて3ヶ村となった。 明治21年の市町村制の翌年、3村は合併し、川久保の久保と上和泉・下和泉の泉とを複合させて久保泉村が誕生、旧村を大字地名とした。 川久保はもと河窪と書き、清い水が豊かに流れる低地の意、泉は美しい地下水の湧き出る所の意で、和泉と書くのは713年(和銅6)の風土記編さんに郡・郷名を二字に改めたことに準じた雅読み文字。 昭和29年佐賀市に吸収合併され、佐賀市久保泉町と改名し、今日に至った。
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八戸溝
八戸溝という地名は、新庄八幡神社の沿革に養和元年(1181)八戸溝と森田の氏神様として建立とあることから、「八戸溝」はそれ以前から地名があったと考えられる。 1817年の藩政時代には新庄郷八戸溝村であり、明治22年(1889)市制町村制移行に伴い、佐賀郡鍋島村の中の5村(鍋島・森田・蛎久・八戸溝・八戸)となった。 昭和15年当時、66戸・324人の集落であったが、昭和40年代の人口の増加に伴い昭和55年には、648戸・2,313人と記録されている。 平成5年に開成校区が発足したことに伴い、八戸溝自治会の一部が開成校区の新しい自治会として分離発足し、残った八戸溝・鍋島第一団地・佐賀医大八戸溝宿舎の3自治会は新栄校区へと編入され、中学校区は鍋島という変則的な区域変更を余儀なくされた。 以来7年間新栄校区で活動してきたが、町区民が開成地区への編入を希望したことや開成小学校の児童数も当初より減少したことで、平成11年4月から開成校区への編入が実現した。 平成21年の八戸溝自治会は、八戸溝一~三丁目、神園五~六丁目で、西は国道208号線(西部環状線)より東側で、北は佐賀銀行鍋島支店北側道路より南側、東は多布施川支流を境に鶴沢鉄工所の西側、南はJR長崎本線の北側に位置している。 世帯数は約700戸で人口約2,000人が居住していて、自治会の主催でコンサートの開催や町区内に存在する石造物を見て歩く会など様々な文化活動を実施して、活発な地域活動を展開している。
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新馬場通り
佐賀藩祖鍋島直茂を祀る松原神社は安永元年(1772)に創建されました。文化14年(1817)の松原神社の拡張に際して、鳥居に通じる通りを参道として開いたと考えられるこの参道は新馬場通りと名づけられ、昭和の中頃まで大変賑わっていました。新馬場通りには、大正時代には松本屋、荒木屋等たくさんの旅館が立ち並んでいました(「指定旅館書付」大正8年(1919)、鬼丸北川家資料、佐賀県立図書館所蔵)が、なかでも嘉永6年(1853)創業で漆喰壁の土蔵造りと表玄関に威風のある松川屋は、多くの著名人などが宿泊した老舗旅館でした。 この旅館には明治32年(1899)に森鴎外が宿泊しています。鴎外は『小倉日記』の7月3日の記録に「朝小倉を発す。(中略)午(ひる)に近づきて佐賀に至る。新馬場松川屋に投宿し、午餐す。午後市役所に至り、壮丁を検するを見る、此地河水を飲む。夜熱く戸を閉さずして眠る。」と記し、松川屋での宿泊のほか、当時の佐賀の様子も伝えています(『鴎外全集』第21巻)。昭和32年(1957)には、映画「張り込み」の関係者が宿泊しました。平成22年(2010)に松川屋旅館は営業を止めており、現在はさまざまな活用が行われています。 また、新馬場通りの入口、県道30号を挟んだ向かい側に明治21年(1888)に営業を始めた佐賀米穀取引所がありました。現在建物は残っていませんが、当時のものとされるレンガの塀が残っています。新馬場通りには今も井徳屋等の旅館が軒を並べ、大正時代にできた西洋風建築の松尾写真館があり、これらの建物は往時の町並みの景色を残しています。